・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2015/07/27

スイスだより「波蘭(ポーランド)の国宝」

2015年7月24日(金)晴れ Rapperswil(ラッパーズヴィル)スイス

新渡戸稲造博士は、著書『東西相触れて』の中で、
「波蘭(ポーランド)の国宝」というエッセイを書いています。

「端西(スイス)のチューリッヒ湖水の傍にラッパーズヴィルという
小部落がある。・・・この町より一段高い所に六百年以前に築かれた
旧城がある。・・・この城をある有志家が買い求めて波蘭の史蹟を
保存する博物館とした。この館に収むるものは、・・・故国のために
悲惨なる運命を荷なった人々の衣服、書翰(書簡)、武器、肖像、
著述そのほか何ものにもよらず、所詮波蘭の国事に殉死した志士に
関するものをここに収めたのである。・・・これを衛るべき場所が
本国には得られぬ故、中立国なる端西(スイス)にして始めて
この保存を委ねらるるのである。
我輩も再三これを見舞うて、その都度不覚の涙を流した。」

新渡戸稲造全集 第一巻 p.243-245「「波蘭(ポーランド)の国宝」


チューリッヒ滞在中、新渡戸博士が何度も足を運んだこの博物館を
訪ねました。
チューリッヒから、電車で約40分。車窓からチューリッヒ湖の美しい
眺めを楽しみながら、ラッパーズヴィルへ。
新渡戸博士が訪問した当時と変わらず、博物館はこのお城の中に
あります。




この博物館はポーランドの歴史とともにいろいろな変遷を経て、
今日にいたっています。

お城の入口


博物館の入口

館の説明文によると、入口に掲げてある紋章の三つの掲示板は、
当時からのオリジナルのようです。
新渡戸博士も目にしたことでしょう。


1927年の博物館内の展示

現在の博物館は、1954年に開館。
1989年、民主化によってポーランドが共和国となった後、
博物館はポーランドのほかの博物館や図書館などとともに運営される
ようになり、1990年、現在の展示になりました。




ポーランドの偉人として、キュリー夫人の紹介コーナーがありました。
新渡戸博士が訪れた当時、新渡戸博士は、まさにキュリー夫人らと共に、
国際知的協力委員会(のちのユネスコ)を発足したころです。


実際に使用していたキュリー夫人の実験道具
スイスとポーランドの友好関係のシンボルですが、
スイスの友人たちにとっては、このポーランド博物館だけが、
特別なものではないようです。
スイスは、ほかの国からもさまざまなものや移民を受け入れて
きている国なのです。
受け入れる中立国としてのスイス、故国の貴重な品々を国外で保存
しなければならない事情があった国々。
それぞれの立場や心情を察すると、
新渡戸博士のみならず、感慨深い思いがあります。




2015/07/07

速報! テレビ番組のお知らせ

新渡戸稲造博士の特別番組第三弾「台湾編」の放映日が
決まりました! 

「新渡戸稲造の台湾 〜スーツを着たサムライ2015〜」
 岩手めんこいテレビ制作

8月7日  (金) 午後7時〜   岩手めんこいテレビ  (岩手県内)
8月22日(土)午後2時〜 BSフジ

出演:城戸裕次(きどゆうじ)

 

2015/06/27

大島正満博士 没後50年 記念講演会

2015年6月26日(金)15:00〜17:00
海老名市交流館(厚木駅下車)

1 開会の辞

2 演題「動物学者としての大島正満と札幌農学校」
  大島 智夫 氏 (大島正満 八男/横浜市立大学名誉教授)

3 演題「大島正満の想い出」
  大島 久子 氏 (大島正満 五男の妻/音楽教育者)

4 演題「大島正満=台湾における動物学研究の先駆者」
  郭金泉(かくきんせん)氏 (台湾国立海洋大学 教授)

5 ピアノ演奏 大島 妙子 氏(大島正泰・久子 長女)

6 閉会の辞

(司会 大島富士子 氏)


大島正満博士は、大島正健博士(札幌農学校第一期生)のご長男。
台湾での功績を顕彰したいと、郭金泉教授が、ある日、台湾から
大島正満博士のご家族を探して訪ねて来られ、今回の記念講演会が
実現したと伺いました。

大島正満博士の生涯について、大島智夫氏のご講演、
博士の晩年15年間を一緒に暮らされた大島久子様からは
日常生活のエピソード、
郭教授からは、大島博士の学術的な研究や経歴についての
ご紹介がありました。

大島正満没後50年 記念冊子
「キリスト信徒としての動物学者 大島正満の生涯」
 大島 智夫 著
 発行:2015年6月26日(非売品)
 

新渡戸稲造博士は、終生、大島正健博士と親しくされ、
晩年には、札幌で共に洗礼を受けたハリス神父の墓参りに
でかけています。(1928年6月2日 東京の青山墓地)

その際の写真2枚は、『新渡戸稲造ものがたり』p.190に
掲載。


参考
『随筆 不定芽』大島正満 著 昭和九年 刀江書院
p.13〜21「新渡戸博士の書」


2015/06/21

台友会セミナー

2015年6月20日(土)

台湾留学経験者の親睦団体「台友会」を主宰されていらっしゃる
長谷部茂様のご案内により、定例交流会(セミナー)に
参加させていただきました。

拓殖大学(文京キャンパス) A 館 3階 第3会議室にて
(新しいA館の中に保存されている、レトロな趣きの教室)






開会あいさつ 長谷部 茂 氏

講演1
郷土教育から見る台湾人アイデンティティの形成
林初梅 先生
(大阪大学大学院言語文化研究科・外国語学部准教授)

講演2
台湾に新渡戸稲造の足跡を訪ねて
ー ドキュメンタリー制作のための取材旅行を終えて ー
工藤 哲人 氏
(岩手めんこいテレビ 番組プロデューサー)



「台湾で将軍になり軍神になった零戦パイロット」
梶本 光義 氏
(公益財団法人 呉海軍基地顕彰保存会 代表理事)

論文「明治・大正期における拓殖大学
   草創期の台湾語教育について」
長谷部 茂 氏

長谷部様をはじめ、関係者のみなさま、ありがとうございました。
大変興味深い、そして、楽しいセミナーでした。




2015/06/11

第3回新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会記念フォーラム

第3回新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会記念フォーラム
「作文・論文コンクール授賞式および記念講演
がおこなわれます。
会長の秋山孝二様よりご案内をくださいましたので、
紹介させていただきます。

2015年6月27日(土)
開場 13時
授賞式/講演 13時30分〜16時
会場 わくわくホリデーホール(札幌市民ホール)
   第1、第2会議室

作文・論文コンクール授賞式・講評
審査委員長 三島徳三 氏(北大名誉教授、名寄市立大学副学長)

記念講演「新渡戸稲造 世界に示した紳士道」
藤井 茂 氏 新渡戸基金事務局長、新渡戸稲造研究家、著述家

主催:一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会
ホームページは、こちら


『坂西志保さん』

2015年6月 国際文化会館

坂西志保さんについて、国際文化会館(東京都港区六本木)
の関係から興味を抱いて調べていたところ、
坂西志保さんご自身がお書きになった「私の遺言」
(追悼集『坂西志保さん』に掲載)の中で、
新渡戸博士とのエピソードがありました。
以下、引用して紹介します。

 ・・・そこで提案されたのは、短期間の海外留学ということ
 であった。相談を受けた新渡戸稲造先生は、それもよい
 だろうといわれたということであったが、私はそのことを
 全然知らなかった。本人は平然としているが家族のものは
 何時までもほったらかしにしておくにもいかず、先生のところへ
 駆けつけたのは窮余の一策ということだったのであろう。
  豪放らい落な先生は、一度小石川の自宅に呼んでくださった
 ことがある。学校から頼まれてお説教することになっていた
 のだそうであるが、そんな気配は少しも見せず、北海道の風物や
 初期の開拓民の心構えを、アメリカのそれらと比較し、興味深く
 語られた。同席された夫人は「新渡戸は、私よりもアメリカびいき
 なんですよ」とつけ加えられた。
  私はお説教を聞かされずに釈放された。これはまだアメリカが
 第一次欧州大戦に参加しない前のことで、先生は、ウィルソンの
 新しい民主主義の解釈とアメリカの国際的使命についての考え方に
 大きな期待をかけていられるようであった。しかし、大戦も終わり、
 ウィルソンも失意の人として世を去り、一九二〇年代の初頭に、
 アメリカが日本人排斥の方向に歩み出した時、先生はアメリカを
 許さなかったのである。
 (『坂西志保さん』p.51〜「私の遺言」鈍行列車の旅 p.63-64)


この時期、新渡戸博士は東京女子大学の初代学長。
文面からすると、おそらく家族かまわりの人間が、坂西さんの処遇に
ついて新渡戸学長に相談したことがうかがえます。
坂西さんのその後のアメリカ滞在とその功績、帰国してからの活動を
考えると、渡米前のこの時期に新渡戸博士と面会していることは
非常に興味深いことだと思います。

新渡戸学長はこの後まもなく後藤新平伯と外遊し、国際連盟事務次長に
就任することになります。

坂西さんは結局、「大学在籍(東京女子大学)四年を一年半で打ち切り、
資格をとるため、文部省の中等教員検定試験を受けてこれもパス」した後、
関東学院で英語を教え、一九二一年、アメリカに留学。学業終了後も
アメリカに残り、米国議会図書館などで要職を歴任されました。
そして、一九四二年、日米開戦により、帰国。
滞米は、二十余年に及びました。
帰国後も、翻訳/執筆のほか、ご実績と人脈から多くの仕事をされ、
一九七六(昭和51)年、大磯のご自宅で亡くなりました。79歳。

この「私の遺言」は、雑誌「暮らしの手帖」に1世紀97号(一九六八年秋)
から2世紀5号(一九七〇年春)まで掲載されたもの。
ご自身による伝記のように書かれていますが、途中、くも膜下出血で中断、
回復後に再開することなくご逝去されたそうです。

『坂西志保さん』
昭和五十二年十一月一日
『坂西志保さん』編集世話人会 代表 松本重治
発行 国際文化会館



2015/06/09

新渡戸博士が一高の生徒たちに教えた詩

新渡戸博士と親交のあった渋沢栄一氏の四男 渋沢秀雄氏が
旧制第一高等学校の生徒だった時、校長が新渡戸博士でした。
渋沢秀雄氏は、ご著書の中で次のような思い出を書いています。

(以下、渋沢氏の著書より引用 ↓ )


私は物静かな先生がよくロングフェローの詩を
愛誦された聲を今でも思い出す。

"Some day must be dark and dreary."

同時に何といふこともなく
「眞理が忍び足で世に現れた」
といふ中世紀の時代相が脳に浮かんでくる。

渋沢秀雄『通学日記』東宝書店 昭和16年
「新渡戸校長」p.19-20 より

(引用おわり)

作者のヘンリー・ロングフェロー(1807〜1882)は、
アメリカで広く愛された、著名な詩人でした。
裕福な家庭の娘を妻にし、多くの子どもにも恵まれましたが、
不慮の事故で最愛の妻を失うなど、その人生には
深い悲しみもありました。

多くの詩作品を残していますが、新渡戸校長がよく生徒たちに
愛誦されたという、この詩の全文は以下の通りです。
今年も梅雨の季節を迎えたので、新渡戸博士が愛した詩
「The Rainy Day」を紹介します。

The Rainy Day

The day is cold, and dark, and dreary;
It rains, and the wind is never weary;
The vine still clings to the mouldering wall,
But at every gust the dead leaves fall,
And the day is dark and dreary.

My life is cold, and dark, and dreary;
It rains, and the wind is never weary;
My thoughts still cling to the mouldering Past,
But the hopes of youth fall thick in the blast,
And the days are dark and dreary.

Be still, sad heart! and cease repining;
Behind the clouds is the sun still shining;
Thy fate is the common fate of all,
Into each life some rain must fall,
Some days must be dark and dreary.

Henry Wadsworth Longfellow
http://www.hwlongfellow.org


"Some day must be dark and dreary."

「(人生には)暗く、荒涼を感じる日があるもの」

人生には、喜びも悲しみもあるということを、
時には、深い悲しみを経験することがあることを
「雲の裏側では、それでも太陽が光り輝いていることを」
新渡戸校長は生徒たちに伝え、
励まそうとされたのかもしれません。

2015/05/24

『新渡戸稲造ものがたり』重版

おかげさまで、伝記『新渡戸稲造ものがたり』が重版に
なりました(3刷)。
今年度から新しくなった小学校の国語の教科書で紹介され、
また、今年は、
第48回岩手読書感想文コンクール課題図書に選定されています。
新渡戸博士の出身地、岩手県の子どもたちに広く新渡戸博士の
生涯が紹介できる機会になるよう期待しています。

重版に際し、関係者の方々にご協力いただきました。
ありがとうございました。
心より御礼を申し上げます。

【2012年 新渡戸稲造博士 生誕150年 記念出版】

ジュニアノンフィクションシリーズ
『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、
 昭和をかけぬける』

発行 銀の鈴社 (神奈川県鎌倉市)

日本図書館協会 選定
全国学校図書館協議会 選定
学校図書館図書整備協会 選定
国連が定める「2012国際協同組合年(IYC)」認定図書


2015/05/19

新聞記事「今こそ」新渡戸稲造

2015年5月18日(月)朝日新聞(朝刊)文化・文芸 掲載記事

「今こそ」新渡戸稲造

百年前に「自己啓発本」を書いた元祖教養人。
もう一つの「教養」が、そこに。

かく語りき
「唯書物を読んだ、美術の批評が出来ると云ふだけが
 教育ではない。意志の力を養はなければならぬ」
(『読書と人生』から)

2015/05/09

テレビ「THE歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜武士道」

2015年5月8日  テレビ番組 視聴メモ
TBS-BS
THE歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜武士道

新渡戸博士の代表的な著書『武士道』を中心テーマに
生涯と功績を紹介したテレビ番組。
ゆかりの地での取材映像や写真、またインタビューを交え、
大変わかりやすい番組でした。

ゲスト 鹿島 茂 氏 フランス文学者/評論家




原敬(はらたかし)同郷の国際派政治家

2015年5月7日 テレビ番組 視聴メモ

NHK「英雄たちの選択」’平民宰相’ 原敬 知られざる素顔

井上寿一(学習院院長)
川田 稔(歴史学者)
三浦瑠麗(国際政治学者)
一ノ瀬俊也(歴史学者)

原敬 はらたかし(1856年〜1921年)盛岡出身
雅号は、「一山」
戊辰戦争で破れ、賊軍出身として上京した原敬は、
外交のプロとして政治家に。

原が影響を受けた二人の人物

1・中江兆民からフランス啓蒙思想を学ぶ
 モンテスキュー、ボルテールなどが教材

明治18年 パリ公使館勤務
読書メモ
『パンセ』『フリードリッヒ2世回想録』『国際法の理論と実践』

2・陸奥宗光との出会い

明治28年、陸奥外相のもと、外務次官に就任。
ところが、陸奥は病死。原は外務省を辞めて、立憲政友会に参加し
政治家の道へ。内務大臣就任。

明治41年、52歳、大臣を辞任して、180日間の世界一周船旅へ。
太平洋横断してアメリカへ、さらにヨーロッパ視察へ
(トランクが盛岡の記念館に残されている)

そこで見た民主主義の国、20世紀初頭のアメリカ。

「将来この国が世界に対し、いかなるものとなるか
 常に注目しておく必要がある。」
 (『原敬日記』明治41年10月8日)

産業や大学を見学し、アメリカの将来の躍進を確信した。

1914(大正3)年、第一次世界大戦 開戦
ヨーロッパ衰退の始まり

1918(大正7)年、第一次世界大戦終結
パリ講和会議で、アメリカ大統領ウィルソンによる国際協調

原は、内閣総理大臣に就任 初の政党内閣の誕生

課題:シベリア出兵問題
山県有朋(やまがたありとも)は派兵拡大を黙認
日本の兵力7万人以上に拡大していた派兵を原は半減へ
「レーニン率いる革命軍といかに対するか」
増兵(派兵継続=国際協調に反する)か、
全面撤兵(財政破綻を回避)か。
いつ、どのように撤退するか。
(軍部は存在理由が危ぶまれ始めた=出兵、しかし、
 なにか取得しないと撤兵できない)
(世論にも配慮が必要。「米騒動」)

原は、アメリカとの関係を重視していた=日本の運命に関わる
アメリカは一方的な撤兵=原もその機会を利用して撤兵を決める
(山県を説得して、政治主導の撤兵へ)
1920(大正9)年9月13日、山県有朋の古希庵(現在は栃木県に移築)
で、山県と会談。原は、イギリスの立憲君主制をめざし、
内閣が軍部をコントロールすることを計画し、山県に同意を求めた。
(大日本憲法では、天皇が陸海軍を直属としている)
=「平民宰相(原)が元老(山県)を動かした」

「軍事についても 政府が政治上全責任を負う方針に改めるべきです」
 (『原敬日記』大正9年9月10日)

・皇太子の外遊実現
原は、「これからの元首は広く世界を知っていなければならない」と
皇太子の外遊を実現させた。
1921(大正10)年9月3日、皇太子(のちの昭和天皇)が外遊から帰国。
各国で王室や元首らにお会いになり、戦後のヨーロッパを視察。
帰国後、「世界平和の切要なるを感じた」と原に述べられた。
若き皇太子に原の理念が刻まれた。

・鉄道網の拡大 経済の発展

1921(大正10)年11月4日夜、東京駅にて平民宰相 原 敬 暗殺 65歳

「原の外交政策は常に融和的だった」(英タイムズ紙 11月5日)
「彼を失ったこと日本国民にとって大きな痛手である」(同)

約10年後、昭和六年、軍の暴走で満州事変が勃発

///視聴メモ 終わり

新渡戸博士は、同郷の政治家、原敬と親交がありました。
原は稲造の養父だった太田時敏と親しく、養父が亡くなった際、
その死亡記事には、友人として原敬の名前が掲載されています。

『新渡戸稲造ものがたり』から、以下を引用します。

  原敬と稲造は、自分たちの故郷である東北地方をどのように
 開発していくべきかについて、意見を交換することがありました。
 原敬、渋沢栄一、益田孝、高橋是清、大橋新太郎たちと共に
 一九一四年の凶作に見舞われた東北地方のために、一九一四
 (大正三)年十一月、東北振興会を開いて、具体的な話し合いを
 おこないました。
  原は、その後、総理大臣に就任しました。原と稲造は、
 民主主義について共通の考えをもっていました。原は、
 政治の舞台で民主政治の基本である政党政治の確立をめざし、
 稲造は、雑誌「実業之日本」などに記事を書いて、自分の考える
 民主主義を人々に広めました。
 『新渡戸稲造ものがたり』
  「原敬とともに 東北の振興と民主主義の普及」p.148-149
 
新渡戸博士は、かつての学友ウィルソン大統領が、
第一次世界大戦後に提案した世界で初めての国際平和機関、
国際連盟の事務次長に就任(スイス ジュネーブ)。
スイス在住中に、原敬暗殺の悲報を聞きました。

「・・・有力な人物がまた倒れた。誰が彼に代わることができよう。
 このところおよそ最も強力な人物であった」
と、その死を深く悲しみました。



2015/04/26

拓殖大学 後藤新平・新渡戸稲造記念講堂

2015年4月25日(土)11時〜
拓殖大学 文京キャンパス 
図書館・教室棟一階「後藤新平・新渡戸稲造記念講堂」

拓殖大学ルネサンス
文京キャンパス整備事業完成記念式典・祝賀会
にお招きいただきました。
このたびの完成に心よりお祝いを申し上げます。



この整備事業は、平成17年からおこなわれ、
このたび最終ステージが完了し、「図書館・教育棟(E館)」が
竣工。今年度から、商学部と政経学部は文京キャンパスで
4年間の一貫教育がおこなわれることになりました。

正門から入ると右に本部棟(A館)

今回竣工した図書館・教育棟(E館)
記念式典に先がけて、見学会に参加させていただきました。
落ち着いた色彩の図書館。最新の素晴らしい施設です。

図書館

図書館




俄然やる気が出そうな大きな「志」の書。

望月暁云「志」(寄贈 吉村洋治) 
教室

テラス(10時〜17時)

後藤新平・新渡戸稲造記念講堂は、新しい図書館・教室棟の中にあります。
入口には、お二人の胸像があります。
台湾の許文龍氏からの寄贈です。

後藤新平・新渡戸稲造記念講堂前の胸像

左が後藤新平学長、右が新渡戸稲造学監
式典の後は、9階の展望ラウンジで祝賀会も催されました。
このたびは本当におめでとうございました。
拓殖大学のホームページは、こちら


2015/04/20

拓殖大学 恩賜記念講堂(恩賜記念館)

拓殖大学 八王子キャンパス
かつて文京キャンパスにあった恩賜記念講堂(記念館)は、現在、
八王子キャンパスにあります。


左 当時の恩賜記念講堂 右 本館(現在のA館)

案内板には、次のように説明があります。

「恩賜記念館
 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、
 大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、
 平成12年に恩賜記念館として復元したものです。
 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する
 歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。
 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念
 講堂のものです。」
桂太郎像(恩賜記念講堂当時のもの)

館銘板(恩賜記念講堂当時のもの)
記念講堂では、かつて、新渡戸稲造第二代学監も講義をおこないました。

当時の記念講堂内部 中央に新渡戸学監 左に後藤学長
現在の記念館内部


記念館内部には、資料室があり、拓殖大学の歴史について、揮毫、偕楽帖
などの展示があります。

揮毫 上(後藤新平)下(新渡戸稲造)
◆後藤新平学長の揮毫(上)

欲窮千里目

次の漢詩からの引用(五音絶句)

登鸛鵲楼(とうかんじゃくろう)  王 之渙(おう しかん)

白日依山尽
黄河入海流
欲窮千里目
更上一層楼

欲窮千里目 せんりのめを きわめんと ほっして
更上一層楼 さらにのぼる いっそうのろう

=遠くを見渡すために、さらに高いところへ登る


◆新渡戸稲造の揮毫

The Last of the Road for which the First is made.

出典は、ブラウニングの詩。
新渡戸博士ご本人は、この詩について次のように書いています。

・・・
かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に 
the last of life for which the first was made とあるが、
僕は日ごろこの句の津々(しんしん)たる興味に感嘆する。意訳すれば、
「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」

・・・「一年二回の花盛り」 『自警録』 1929 (実業之日本) より  





偕楽帖(桂家 寄贈)



2015/04/19

拓殖大学グローバルファシリテーター育成塾 開講式

2015年4月17日(金)11:00〜
拓殖大学 八王子国際キャンパス A 館5階 A524教室

平成27年度 拓殖大学グローバルファシリテーター育成塾
〜新渡戸稲造に学ぶフローバル人材〜

第1期(前期)の開講式に伺いました。
八王子の校舎に伺うのは初めてです。
高尾駅から専用バスで10分ほど、広々とした緑豊かなキャンパスです。

開講式(司会:石川一喜 国際学部准教授)
挨拶    甲斐信好 国際開発研究所長
塾生紹介  赤石和則 国際開発教育センター長
基調講演  渡辺利夫 総長

今年度の育成塾は、選考を経た18名の学生さんたちが揃いました。
石川先生が、今日の開講式に先がけて「宿題」を出していました。
このコースに望むことを表わす漢字一字を選んでくることが宿題でした。
初日にその一字について、各自が発表して、楽しみながら自己紹介も。
初めての顔合わせの日でしたが、すぐにコミュニケーションが始まりました。

育成塾の「塾」には、理念があることを示してるいること。
日本の労働運動の父でもある新渡戸博士は、理念を基に行動することの
大切さを伝えた、元祖ファシリテーターでもある。

この育成塾で大切にすることは、
1 主体的に関わる
2 出会いをつくる
3 違っているものをもつ人から引き出す/学び合う

などのお話を伺いました。

続いて、渡辺総長の講演では、
グローバルということ(globe, global)
異文化理解/ツールとしての言語の大切さ
international = inter+national
(nationalistでなければ、internationalistにはなれない)

などのお話がありました。



最後にお弁当をいただきながらのランチタイムも
ご一緒させていただきました。
学生さんたちの前向きな姿勢が印象的でした。

最後に、小著『新渡戸稲造ものがたり』(拓殖大学オリジナル表紙版)が、
大学より一人一人に配布されました。
読んでいただけたら嬉しいです。

私も共に学ぶ機会になり、また、直接学生さんたちと
お話させていただき、ありがとうございました。
諸先生に御礼を申し上げます。


2015/04/17

タマシン・アレンさんと岩手

2015年3月30日(月)

今日は、太田愛人様と目黒安子様が、鎌倉のオフィスを
お訪ねくださいました。

太田愛人様は、新渡戸博士についても大変詳しく、これまでも
多くをご執筆されています。
新渡戸博士の一高での教え子、野村胡堂(岩手出身、
『銭形平次』作者、松田 瓊子の父)の研究家でもあります。
太田様は多くのご著書もあり、ご出身の岩手の人脈についてのお話は
いつも興味深く、勉強になります。
また、新渡戸博士の養女コト様らが設立した「愛の家」(東京都豊島区)
理事長でもいらっしゃいます。「愛の家」については、こちら

目黒安子様は、『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』
(2012年 教文館)のご著者です。
アレン先生が設立したアレン短期大学の学長をされました。

ご著書『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』より、
アレンさんと新渡戸博士の親交について、その一部を紹介します。

 ミス・アレンが岩手県を知ったのは新渡戸稲造との夕食の席
 だった。岩手県出身の新渡戸博士が流暢な英語で話す岩手農村の
 惨状は忘れられない印象をミス・アレンに与えた。
(同書 p.34)

 賀川(豊彦)は貧窮した人を救済するには「協同組合」を
 立ち上げなければならないと新渡戸稲造の協力を得る。
 産業組合のすこやかな運営だけが東北農村の貧しさを救い
 農村発展させる。新渡戸はこれに同意し帰国後、
 盛岡産業組合中央会岩手支会長と岩手県産業組合青年連盟総裁に
 就任したが、カナダで急逝する。新渡戸の「支え合う精神」に
 ついて語られることは少ない。一九三三年十一月十八日、
 新渡戸稲造の追悼式が盛岡で行われた。ミス・アレンは
 盛岡公会堂の壇上で葬送の曲をピアノで演奏し、その急逝を
 悼んだ。
 (同書 p.38)

その後、アレンさんはアメリカに帰国し、シカゴ大学大学院で学んだ後、
再び来日され、盛岡、そして、久慈へと移住し、久慈幼稚園を設立。
(ヴォーリス事務所の建築)
太平洋戦争が始まるとアメリカに強制送還されます。
戦争中も日本人収容所で働くなど日本人を支え続けました。
戦後、再来日すると、アレン短期大学など次々に学校の設立に関わりました。
勲五等瑞宝章などを受章されました。1976年、八十五歳で没。

今年(2015年)は、アレン先生の初来日100年にあたります。
目黒安子様は、このご著書を英訳出版されました。

' Build up, Build up, Prepare the Road!
 The life of Miss Thomasine Allen'
 Yasuko Meguro  2015 Kyo Bun Kwan

太田愛人様、目黒安子様のお話は、尽きることがないほどで、
私にとっても学び多き、光栄な日になりました。
ありがとうございました。






2015/04/16

台湾 国立台湾大学(旧台北帝国大学)

2015年3月19日(木曜日) 台湾大学キャンパスへ


国立台湾大学(旧台北帝国大学)正門



正門から大学構内へ ヤシの並木が印象的

大学図書館で、データベース検索しました。
日本の統治時代に発行されていた「台湾日日新報」
キーワード検索
「新渡戸」 すべて   735件
『新渡戸』 タイトル  341件
「新渡戸」 作者     97件

新聞に「新渡戸」が作者として登場しているのが100件近く。
これはかなりの数に登ります。
なぜでしょうか。
たとえば、「糖業改良意見」というタイトルで連載記事が
12回にわたって掲載されています。
1901年11月19日(一)〜12月3日(十二) 
また、1911年に赤十字台北病院でおこなわれた講演録も掲載
されたようです。

ちなみに、
「後藤」のキーワード検索は、58件。思いのほか少ないように
思いました。

記事については引き続き調査。

現在の国立台湾大学の前身は、日本の統治時代だった1928年に
設立された台北帝国大学。
帝国大学として、第七番目に開校。現在の大阪大学や名古屋大学よりも
前のことでした。

キャンパスは、帝国大学時代の建物も残り、いまも大切に使われて
います。

2015/04/08

台湾 李登輝 元総統を訪ねて

2015年3月18日(水)李登輝 元総統の事務所へ

このたびの台湾訪問を機に、李登輝 元総統に、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』を寄贈させていただきました。
李登輝氏は、日本でも多くの著書があります。
新渡戸博士からも大きな影響を受けていらっしゃることは、
ご著書の中などでも紹介されています。
ご著書『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージとは』では、
日本人の思想について、書かれています。

この日はちょうど、日本から岡山学芸館高等学校の生徒さんたちが
李登輝氏のご講演を聴くために来訪されました。
同校の参与 森美智子様はじめ、高校生39名(1〜3年生の希望者)の
みなさまと一緒に聴講させていただきました。

演題は、「日本と台湾のこれまでの歴史と私が受けた教育」

日本の若者たちのために、熱意あるお話をされました。
日本が台湾を統治していた(台湾が日本の一部であった)時代に
生まれ育った李登輝氏は、日本の教育から多くの知識を得て、
人格を形成されました。
新渡戸博士も大変な読書家で知られていますが、
「児童百科事典」(小学館)や800冊の岩波文庫を読破されるなど、
李登輝氏も若いころから本当に多くの本を読まれていることに
驚かされました。



生徒さんから、「グローバルな人材になるためには、
どうしたらいいでしょうか」という質問を受けると、すぐに、
「とにかく勉強する。聞いたこと、書いてあることではなく
自分で実際に本物を見ることが大切」とお答えになっていました。

私にとっても学び多いお話を聞かせていただきました。
このたびの貴重な機会をご提供くださいました関係者の皆様に
感謝申し上げます。

学校法人 森教育学園 岡山学芸館高校は、平成25年12月、
許文龍氏が制作された「新渡戸稲造博士の胸像」を、
同氏より寄贈されました。
同校では、新渡戸博士のご著書『武士道』を必読書に指定されて
いるそうです。国際教育にも大変熱心な学校です。

同校のホームページは、こちら


台湾 日本人学校を訪問

2015年3月16日(月)13時 台湾の日本人学校

台北市内や近郊に住む日本人の子どもたちが多く通っている
日本人学校(Taipei Japanese School)を訪ねました。
台北の中心からMRT(電車)淡水信義線で15分程度、
「芝山(Zinshan)」駅から歩いて20分ほどのところです。
通りを隔てた隣には、アメリカン・スクールがあります。


表札は、李登輝元総統の筆を元にしたもの。
守衛の方に、面会の約束があることを伝え、校内に入れていただきました。




応接室で、校長先生と教頭先生にお目にかかりました。
この日本人学校には、台北在住の日本人の子どものうち約80%が
通っているそうです。
(残りの約20%は、現地校やアメリカン・スクールに登校。)

小学生と中学生の9学年、820名もの生徒が在校しています。
在校期間は、平均して3年から5,6年間。
保護者の転勤による転入があるそうです。

日本の文部科学省から派遣されている教職員は現在27名、
3年周期で異動します。
台湾で現地採用されている職員は、28名。




校長先生、教頭先生のお話によりますと、
子どもたちは、文部科学省で定められている教育課程に加え、
英語、中国語を学びます。
台湾については、「台湾を学ぶ」という総合学習の中で学ぶことに
なっているそうです。
小学校6年生で、八田輿一博士について学び、
修学旅行で八田記念公園を訪れます。

2013年5月24日には、李登輝元総統が、同校にて講演をされました。
後藤新平伯についてなどを話されたようです。
この時の揮毫を元に正門の表札が作成されました。





『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、昭和を
かけぬける』を同校に寄贈させていただきました。
日本の先人たちが台湾でどのような功績を残されたのか、
台湾にご縁のある日本の子どもたちが、その一端を知り、また、
先人の生き方から、「真の国際人」について考えるきっかけにして
いただければ、と願っています。

同書は、図書室に置いてくださるそうです。
お役に立てていただければ幸いです。

台北日本人学校 図書室

ちょうど春休み中で、子どもたちの姿を見ることはできませんでしたが、
教頭先生が、図書室など校内をご案内くださいました。




春休み期間中にもかかわらず、お迎えくださりありがとうございました。
亀山佳久校長先生、居原田晃教頭先生、
両先生にあらためて御礼を申し上げます。

2015/04/03

台湾 磯永吉と末永仁 二人の日本人農業技師

2015年3月14日(土) 国立台湾大学 農業試験場「磯 永吉 小屋」

台湾のお米は、大変おいしいのですが、
そのお米「蓬萊米(ほうらいまい)」について、
台湾大学の農業試験場内にある「磯 永吉(いそ えいきち) 小屋」
で紹介されています。





それまでの在来米を改良し、日本人の好みに合った「蓬萊米」
の栽培を可能にしたのが、磯 永吉博士(1886年〜1972年)と、
末永 仁(すえなが めぐむ)博士(1885年〜1939年)です。

二期作が可能な台湾で、良質なお米が取れるようになり、
内地(日本の本土)向けの生産が増えて、台湾の経済発展に
つながりました。

磯博士は、北海道帝国大学(旧札幌農学校、現在の北海道大学)の
農学博士。新渡戸稲造博士の後輩にあたります。

「磯 永吉 小屋」には、蓬萊米の父、磯 永吉博士と
蓬萊米の母、末永 仁博士の銅像とともに、
当時の実験器具や資料などが展示され、二人の功績が顕彰されています。










このお二人の胸像を制作されたのは、許文龍氏です。
収集した写真を元に、自ら粘土で制作し、鋳型を起こして、
銅像に仕上げたそうです。
その思いについて、許文龍氏は、次のように述べています。
(館内の展示資料より)

〈 磯 永吉、末永 仁、両人の胸像を造るに想うこと

台湾における稲作の発展において、磯永吉博士は「蓬萊米の父」、
末永仁農事試験場長は「蓬萊米の母」と尊敬をもってこう呼ばれています。

昔、まだ貧しい時代には食卓で蓬萊米を口にすることは本当に贅沢なこと
でした。私たちは、今の幸せの根源を忘れず、お米を口にするたびに
その恩徳に感謝すべきではないでしょうか。

以前、私はシンガポールに住んでいたことがありますが、
シンガポールでは、その土地に功績を残した英国人を讃え、
その名を通りの名前として残し、あるいは、銅像を建てて
後世にその功績を伝えています。インドにおいてでさえも
英国人の銅像をきちんと残しています。私は、その土地に功績のあった
人々に対し、国籍を問わず敬意をもってその功績を讃え、記念すべきだと
思っています。(以下、略) 許文龍 2012.4.19 〉

許文龍氏は、日本の統治時代の台南に生まれ、日本の教育を受けて
育ちました。
許氏は、常に公平な視点で日本の統治について評価されています。
また、台湾を代表する実業家であり、病院や博物館を設立するなど
積極的に社会貢献をおこなっていらっしゃいます。

許文龍氏訪問についての記事は、こちらへ。

台湾ビールにも、蓬萊米が原料として使われています。

すっきりおいしい台湾ビール
現在の国立台湾大学は、
1928(昭和3)年、日本の第七番目の帝国大学として、設立されました。
現在の大阪大学や名古屋大学よりも前のことです。
1945年、日本の敗戦により、日本の統治時代が終わると、
中華民国政府によって、国立台湾大学となり、現在にいたっています。