学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
2022/10/20
衆議院予算委員会にて『武士道』
2022年10月18日 午前 衆議院予算委員会
同委員会のテレビ生放送中に、新渡戸稲造博士の『武士道」が言及されたことに気づいた方が、
教えてくれました。
その後、新聞各社のオンラインで報道されていましたので、一部を転載します。
ちょうど今年、生誕160年、
先日の10/15(16)が命日だった新渡戸先生、最近、よく引用されます・・・。
↓
産経新聞 THE SANKEI NEWS 2022年10月18日
日銀総裁、辞任否定 立民・階氏「国民生活苦しめている」
日本銀行の黒田東彦総裁は18日の衆院予算委員会で、
円安や物価高の責任をとって辞任すべきだとの野党からの指摘に
「辞任するつもりはない」と述べた。
「『異次元金融緩和』はデフレを解消し、雇用を増加させる効果があった」とも語った。
立憲民主党の階猛氏は新渡戸稲造の著書「武士道」を引き合いに
「(黒田氏が)円安による物価高で国民生活を苦しめている。
日本人として、武士の魂があるなら普通は潔く辞める」と批判した。
朝日新聞デジタル 2022年10月18日
黒田総裁「やめるつもりはない」 国会で金融緩和の評価めぐり応酬
立憲民主党の階猛氏は、長年目標が達成できておらず、緩和が円安を加速させ、
為替介入でで円安に歯止めをかけようとしている政府と食い違っていると指摘。
「言っていることが全部外れていて、経営者だったら失格。
普通の常識のある人だったら、新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるんだったら、
恥ずかしくて辞めている。
金融政策をを正常化したり、柔軟化したりするためにも今すぐ退くべきだ」と迫った。
2022/10/01
安部元首相の国葬にて
2022年9月27日 安部元首相「国葬」
9月8日、奈良市で選挙演説中に銃撃され、亡くなった安部元首相の国葬で、
岸田総理は、挨拶の中で新渡戸稲造博士の言葉を、最後に引用しています。 ↓
「勇とは義(ただ)しき事を成す事なり」 という新渡戸稲造の言葉を、
あなたはいちど防衛大学校の卒業式で使っています。 Courage is doing what is
right. 安部さん。あなたこそ、勇気の人でありました。
(翌日、新聞発表された挨拶文より)
2018/10/10
小泉八雲の文学とその背景
カルチャーラジオ 文学の世界
NHKラジオ第2毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時
文化講演会「小泉八雲の文学とその背景」
小泉八雲記念館館長、島根県立大学短期大学部名誉教授…小泉凡
NHKラジオ第2毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時
文化講演会「小泉八雲の文学とその背景」
小泉八雲記念館館長、島根県立大学短期大学部名誉教授…小泉凡
小泉八雲さんのひ孫さん・小泉凡さんのお話が放送されている中、
第11回では、ボナ・フェラーズが取り上げられています。
『新渡戸稲造ものがたり』p.222~
新渡戸稲造博士の「精神的子孫(spiritual descendants)より
日本は敗戦し、連合国の占領下になりました。連合国最高司令官
総司令部の最高司令官マッカーサーとともに、軍事秘書官ボナー・
F・フェラーズが来日しました。フェラーズはカーライルを学び、
稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神をよく理解して
いるクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の一色ゆり
(旧姓・渡辺)の友人でもありました。(引用終わり)
フェラーズは、河井道と一色ゆりの二人からの意見も参考にして、
報告書を作成し、天皇陛下を裁くのではなく、
日本国民の天皇陛下への尊敬心を、むしろ日本統治にいかすことを
提案したのです。
フェラーズは、戦前から、小泉八雲の著書を読み、日本人の精神性を
理解していました。そして、小泉家とも親交がありました。
小泉凡さんの「ボン」という名前は、ボナー・フェラーズの名前から
付けられています。
凡さんは、この回の最後に、
「人との出会い、書物との出会いが、歴史を作るときがある」
と述べています。
NHKラジオのホームページ(聞き逃しが聴けます)は、こちら。
2018/06/20
『ハーバード白熱日本史教室』の「武士道」
2018年6月
『ハーバード白熱日本史教室』北川 智子 著 新潮新書
同書で説明されている(著者がハーバード大学の授業で
学生たちに講義した)「武士道」は、下記のような内容です。
同書のp.62より抜粋
武士道は「創造された日本らしさの象徴」
武士道という言葉が世界中に広まるのは、1900年、
新渡戸稲造が『Bushido: The Soul of Japan』を出版して以来のことで、
それほど昔もことではないのです。
・・・広い意味でサムライまたは武士は古くから存在し、彼らが
したためた書物は多数存在していました。
しかし、ここで重要なのは、彼らが共通してあがめる、
いわばバイブル的な武士道があったわけではない、ということです。
武士道という言葉が長く使われていたわけではなく、サムライが、
武士道を貫くために生きていたわけでもない、という点です。
つまり、新渡戸稲造が日本人の倫理を語る概念として作った
「武士道」が、20世紀初頭に世界に向けて発信され、
それがあたかも以前から存在していたものであるかのように
受け入れられてしまったのです。
(中略)
つまり、新渡戸の武士道は、歴史史料を引用した歴史事実ではなく、
時代が新渡戸に想像させた新しいコンセプトだったのです。
そして、この史実とかけ離れた、強すぎる武士道は一人歩きを
はじめます。
『ハーバード白熱日本史教室』北川 智子 著 新潮新書
同書で説明されている(著者がハーバード大学の授業で
学生たちに講義した)「武士道」は、下記のような内容です。
同書のp.62より抜粋
武士道は「創造された日本らしさの象徴」
武士道という言葉が世界中に広まるのは、1900年、
新渡戸稲造が『Bushido: The Soul of Japan』を出版して以来のことで、
それほど昔もことではないのです。
・・・広い意味でサムライまたは武士は古くから存在し、彼らが
したためた書物は多数存在していました。
しかし、ここで重要なのは、彼らが共通してあがめる、
いわばバイブル的な武士道があったわけではない、ということです。
武士道という言葉が長く使われていたわけではなく、サムライが、
武士道を貫くために生きていたわけでもない、という点です。
つまり、新渡戸稲造が日本人の倫理を語る概念として作った
「武士道」が、20世紀初頭に世界に向けて発信され、
それがあたかも以前から存在していたものであるかのように
受け入れられてしまったのです。
(中略)
つまり、新渡戸の武士道は、歴史史料を引用した歴史事実ではなく、
時代が新渡戸に想像させた新しいコンセプトだったのです。
そして、この史実とかけ離れた、強すぎる武士道は一人歩きを
はじめます。
2018/05/31
『海の武士道』'The Bushido over the Sea'
2018年5月
『海の武士道』 惠 隆之介 著 産経新聞社 平成20年12月
p.11より
元英国海軍中尉サムエル・フォール卿
「太平洋戦争中の1942年3月2日、ジャワ海で、英国海軍将兵400人以上が
漂流中に、偶然この海域を通りがかった日本海軍の駆逐艦に発見された。
その直前、英海軍将兵たちは約24時間近く漂流していたため、
生存の限界に達していた。軍医はすでに自決用の劇薬を全員に配布し
終えており、仲間のうち数人はそれを服用しようとしてフォール卿から
制止されていた。
自決をためらうフォール少尉は、眼前に突然現れた日本海軍の駆逐艦を
見た時、『日本人は野蛮』という先入観から、いよいよ機銃掃射を受けて
最期を迎えると覚悟した。
ところがその駆逐艦『雷』(1680トン)は、直ちに救助活動に入り、
終日を費やして漂流中の英国海軍将兵全員を救助した」。
///
艦長は、工藤俊作である。
同書によると、工藤が学んだ海軍兵学校の校長だった鈴木貫太郎の教育方針は、
「武士道」であったという。生徒の歴史の知識が不足していると感じた
鈴木校長は、文学士の教授に頼んで、講義をしてもらった。
艦長となった工藤もまた「鉄拳制裁(こらしめるために殴ること)」を
禁止し、民主的なリーダーシップを発揮して乗員たちに慕われた。
上記、フォール卿は、日本海軍による友情あふれる救助活動に対し、
次のように語ったそうである。
「日本の武士道とは、勝者は驕ることなく敗者を労り、その健闘を称える
ことだと思います」。
「鈴木貫太郎とたか夫人」は、こちらへ。
『海の武士道』 惠 隆之介 著 産経新聞社 平成20年12月
p.11より
元英国海軍中尉サムエル・フォール卿
「太平洋戦争中の1942年3月2日、ジャワ海で、英国海軍将兵400人以上が
漂流中に、偶然この海域を通りがかった日本海軍の駆逐艦に発見された。
その直前、英海軍将兵たちは約24時間近く漂流していたため、
生存の限界に達していた。軍医はすでに自決用の劇薬を全員に配布し
終えており、仲間のうち数人はそれを服用しようとしてフォール卿から
制止されていた。
自決をためらうフォール少尉は、眼前に突然現れた日本海軍の駆逐艦を
見た時、『日本人は野蛮』という先入観から、いよいよ機銃掃射を受けて
最期を迎えると覚悟した。
ところがその駆逐艦『雷』(1680トン)は、直ちに救助活動に入り、
終日を費やして漂流中の英国海軍将兵全員を救助した」。
///
艦長は、工藤俊作である。
同書によると、工藤が学んだ海軍兵学校の校長だった鈴木貫太郎の教育方針は、
「武士道」であったという。生徒の歴史の知識が不足していると感じた
鈴木校長は、文学士の教授に頼んで、講義をしてもらった。
艦長となった工藤もまた「鉄拳制裁(こらしめるために殴ること)」を
禁止し、民主的なリーダーシップを発揮して乗員たちに慕われた。
上記、フォール卿は、日本海軍による友情あふれる救助活動に対し、
次のように語ったそうである。
「日本の武士道とは、勝者は驕ることなく敗者を労り、その健闘を称える
ことだと思います」。
「鈴木貫太郎とたか夫人」は、こちらへ。
2018/04/04
鈴木貫太郎と妻タカ夫人
『武士道』のその後
(『新渡戸稲造ものがたり』p.225より下記を引用)
第二次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト
大統領が亡くなると、鈴木貫太郎首相は、アメリカと戦争中にも
かかわらず、偉大な指導者を失ったアメリカ国民に対し、
日本を代表してすぐにお悔やみの電報を送り、
その全文がアメリカの新聞に載りました。
ドイツの作家で、当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは、
「ドイツでは、みんなが万歳、万歳と叫んでいるのに、
日本はお悔やみの言葉を送ってきた。
やはり、日本はサムライの国だ」
と語ったと言われています。敵の国に対するこのような態度に
よって、「武士道」の精神が国境を越えて、世界の人々に
感動を与えました。
(『新渡戸稲造ものがたり』第十三章 没後 稲造が遺したもの)
(引用終わり)
終戦時の難しい時期に首相を務めた鈴木貫太郎の妻たか夫人の父は、
新渡戸稲造と札幌農学校で同期生の足立元太郎です。
・鈴木たか
1883(明治16)年、札幌生まれ。戸籍名は「たか」。
(鈴木貫太郎は、「孝子」などと記述している場合がある)
父、足立元太郎は、札幌農学校卒業、農商務省横浜生糸研究所技師。
東京女子高等師範(いまのお茶の水女子大学)で幼児保育を学び、
同附属幼稚園の教師。
明治38年から大正4年までの10年間、裕仁(昭和天皇 4歳〜)、
秩父宮(3歳〜)の養育係。
1915(大正4)年、海軍次官鈴木貫太郎と結婚。
たか夫人が、幼稚園の教師だった時の教え子の祖父に菊池大麓(だいろく)
がいました。
菊池は、学習院院長、東京帝国大学総長、文部大臣、
枢密顧問官などを歴任、皇室と強いつながりがあり、その推薦で、
たかは、皇室の養育係となりました。
子どもの頃の昭和天皇と一緒に遊び、昭和天皇の誕生日には、
毎年呼ばれました。
1978(昭和53)年十二月、昭和天皇は、須崎御用邸での記者会見で、
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくしました。・・・」
と話されています。
鈴木貫太郎は、太平洋戦争の始まる前の1936(昭和11)年2月に起きた
二・二六事件で襲撃され、最後の一撃を制止させたのが、
たか夫人です。(当時、鈴木貫太郎は侍従長)
(この事件の前夜、鈴木貫太郎夫妻や斎藤實夫妻らは、アメリカのグルー大使に
招かれ、外出していました)
事件が起こったのは、その翌日の早朝のことでした。
鈴木貫太郎がピストルで何発か撃たれて倒れ、「トドメ、トドメ」の声が上がると、
銃剣とピストルを突きつけられていた夫人が、
「とどめはどうかやめていただきたい」
と叫び、入ってきた指揮官の安藤輝三(歩兵第三連隊の将校)が、
「トドメは残酷だからやめろ」
と命じました。かつて、秩父宮の直接の部下だった安藤は、
皇子たちの養育係だった、たか夫人の存在を知っていたようです。
指揮官は、たか夫人に、
「奥さんのことは、かねてお話に聞いておりました。
まことにお気の毒なことをいたしました。
・・・ひまが(時間が)ありませんからこれで引き揚げます」
と言い残して、立ち去りました。
出血多量の重症を救った医師の一人、塩田広重東大教授を呼んだと
されているのが、町村金五(宮内大臣秘書官)。
町村の父、町村金弥もまた、足立元太郎(たか夫人の父)と札幌農学校で
同期でした。
鈴木首相夫妻は、二人とも昭和天皇に近い存在で、陛下から信頼されて
いました。
1945(昭和20)年、首相に任命された鈴木は、辞退すると、天皇陛下から
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時にあたってもう他に人は
いない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
と直接言われたことから、高齢(77歳)にもかかわらず
引き受けました。たか夫人は、夫の覚悟を知ります。
たか夫人は、嫁入りの時、日本刀を持参、
そして、戦後、鈴木首相の故郷の関町に隠居して、地域の農業振興を
支援しました。たか自身も酪農の知識があったようです。
札幌農学校で学んだ父、そして出身地北海道の影響でしょうか・・・。
鈴木の父、由哲の教えは、
「人間は怒るものではないよ、怒るのは、自分の根性がたりないからだ。
怒ってすることは、成功しない」。
母、きよの教えは、
「絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。
これが親に対するなによりの孝行である」。
鈴木の教訓は、
『正直に 腹を立てずに たゆまず励め』
鈴木没後も、たか夫人は度々この教訓を書き残しました。
二・二六事件で命を狙われ、終戦に反対する勢力に家を焼かれた
鈴木夫妻が、それでも自らの境遇を受け入れ、祖国や天皇陛下への
忠誠心を常に強く持ち続けた生涯を思うと、
両親の教えと、この教訓が重く響きます。
参考資料:『妻と家族のみが知る宰相』保阪正康 毎日新聞社
『昭和天皇の親代わり 鈴木貫太郎とたか夫人』若林滋 中西出版
カルチャーラジオ NHKラジオ アーカイブス
「声でつづる昭和人物史 鈴木貫太郎の妻たか夫人」
鈴木貫太郎記念館 訪問日 2018年1月7日(写真撮影)
(『新渡戸稲造ものがたり』p.225より下記を引用)
第二次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト
大統領が亡くなると、鈴木貫太郎首相は、アメリカと戦争中にも
かかわらず、偉大な指導者を失ったアメリカ国民に対し、
日本を代表してすぐにお悔やみの電報を送り、
その全文がアメリカの新聞に載りました。
ドイツの作家で、当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは、
「ドイツでは、みんなが万歳、万歳と叫んでいるのに、
日本はお悔やみの言葉を送ってきた。
やはり、日本はサムライの国だ」
と語ったと言われています。敵の国に対するこのような態度に
よって、「武士道」の精神が国境を越えて、世界の人々に
感動を与えました。
(『新渡戸稲造ものがたり』第十三章 没後 稲造が遺したもの)
(引用終わり)
終戦時の難しい時期に首相を務めた鈴木貫太郎の妻たか夫人の父は、
新渡戸稲造と札幌農学校で同期生の足立元太郎です。
・鈴木たか
1883(明治16)年、札幌生まれ。戸籍名は「たか」。
(鈴木貫太郎は、「孝子」などと記述している場合がある)
父、足立元太郎は、札幌農学校卒業、農商務省横浜生糸研究所技師。
東京女子高等師範(いまのお茶の水女子大学)で幼児保育を学び、
同附属幼稚園の教師。
明治38年から大正4年までの10年間、裕仁(昭和天皇 4歳〜)、
秩父宮(3歳〜)の養育係。
1915(大正4)年、海軍次官鈴木貫太郎と結婚。
たか夫人が、幼稚園の教師だった時の教え子の祖父に菊池大麓(だいろく)
がいました。
菊池は、学習院院長、東京帝国大学総長、文部大臣、
枢密顧問官などを歴任、皇室と強いつながりがあり、その推薦で、
たかは、皇室の養育係となりました。
子どもの頃の昭和天皇と一緒に遊び、昭和天皇の誕生日には、
毎年呼ばれました。
1978(昭和53)年十二月、昭和天皇は、須崎御用邸での記者会見で、
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくしました。・・・」
と話されています。
鈴木貫太郎は、太平洋戦争の始まる前の1936(昭和11)年2月に起きた
二・二六事件で襲撃され、最後の一撃を制止させたのが、
たか夫人です。(当時、鈴木貫太郎は侍従長)
(この事件の前夜、鈴木貫太郎夫妻や斎藤實夫妻らは、アメリカのグルー大使に
招かれ、外出していました)
事件が起こったのは、その翌日の早朝のことでした。
鈴木貫太郎がピストルで何発か撃たれて倒れ、「トドメ、トドメ」の声が上がると、
銃剣とピストルを突きつけられていた夫人が、
「とどめはどうかやめていただきたい」
と叫び、入ってきた指揮官の安藤輝三(歩兵第三連隊の将校)が、
「トドメは残酷だからやめろ」
と命じました。かつて、秩父宮の直接の部下だった安藤は、
皇子たちの養育係だった、たか夫人の存在を知っていたようです。
指揮官は、たか夫人に、
「奥さんのことは、かねてお話に聞いておりました。
まことにお気の毒なことをいたしました。
・・・ひまが(時間が)ありませんからこれで引き揚げます」
と言い残して、立ち去りました。
出血多量の重症を救った医師の一人、塩田広重東大教授を呼んだと
されているのが、町村金五(宮内大臣秘書官)。
町村の父、町村金弥もまた、足立元太郎(たか夫人の父)と札幌農学校で
同期でした。
鈴木首相夫妻は、二人とも昭和天皇に近い存在で、陛下から信頼されて
いました。
1945(昭和20)年、首相に任命された鈴木は、辞退すると、天皇陛下から
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時にあたってもう他に人は
いない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
と直接言われたことから、高齢(77歳)にもかかわらず
引き受けました。たか夫人は、夫の覚悟を知ります。
たか夫人は、嫁入りの時、日本刀を持参、
そして、戦後、鈴木首相の故郷の関町に隠居して、地域の農業振興を
支援しました。たか自身も酪農の知識があったようです。
札幌農学校で学んだ父、そして出身地北海道の影響でしょうか・・・。
鈴木貫太郎記念館の入り口にある「為萬世開太平」 |
鈴木貫太郎 肖像画 |
記念館の内部 |
鈴木貫太郎記念館 入り口付近 |
鈴木の父、由哲の教えは、
「人間は怒るものではないよ、怒るのは、自分の根性がたりないからだ。
怒ってすることは、成功しない」。
母、きよの教えは、
「絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。
これが親に対するなによりの孝行である」。
鈴木の教訓は、
『正直に 腹を立てずに たゆまず励め』
鈴木没後も、たか夫人は度々この教訓を書き残しました。
二・二六事件で命を狙われ、終戦に反対する勢力に家を焼かれた
鈴木夫妻が、それでも自らの境遇を受け入れ、祖国や天皇陛下への
忠誠心を常に強く持ち続けた生涯を思うと、
両親の教えと、この教訓が重く響きます。
参考資料:『妻と家族のみが知る宰相』保阪正康 毎日新聞社
『昭和天皇の親代わり 鈴木貫太郎とたか夫人』若林滋 中西出版
カルチャーラジオ NHKラジオ アーカイブス
「声でつづる昭和人物史 鈴木貫太郎の妻たか夫人」
鈴木貫太郎記念館 訪問日 2018年1月7日(写真撮影)
2018/01/19
新しいテレビ番組
2018年1月18日
盛岡の新渡戸基金さんからお知らせがありました。
以前、テレビ番組制作に協力しました「岩手めんこいテレビ」さんが
新渡戸シリーズの新番組を放映するようです。
東京でも視聴できるといいのですが・・・
↓
盛岡の新渡戸基金さんからお知らせがありました。
以前、テレビ番組制作に協力しました「岩手めんこいテレビ」さんが
新渡戸シリーズの新番組を放映するようです。
東京でも視聴できるといいのですが・・・
↓
1月21日(日)午後1時から
岩手めんこいテレビ
「新渡戸稲造の青春~ドイツ留学と武士道~」
2016/07/20
テレビ番組「フィンランドで見つけたBUSHIDO」
2016年7月
岩手めんこいテレビさんが、開局25周年記念番組として、
「フィンランドで見つけたBUSHIDO 〜新渡戸稲造と平和の島〜」を
制作されました。
約100年前、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造博士が解決に導いた
国境問題。その時の「新渡戸裁定」は、成功事例として、現在も
語られています。
◆放送日
2016年7月30日(土)14:00〜14:55 めんこいテレビ
2016年8月20日(土)14:00〜14:55 BSフジ
岩手めんこいテレビさんが、開局25周年記念番組として、
「フィンランドで見つけたBUSHIDO 〜新渡戸稲造と平和の島〜」を
制作されました。
約100年前、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造博士が解決に導いた
国境問題。その時の「新渡戸裁定」は、成功事例として、現在も
語られています。
◆放送日
2016年7月30日(土)14:00〜14:55 めんこいテレビ
2016年8月20日(土)14:00〜14:55 BSフジ
2016/05/01
益子 ナンドール ギャラリー
2016年4月30日(土曜日)
栃木県益子(ましこ)の「ワグナー・ナンドール アートギャラリー」を
再訪しました。
ここは、故ワグナー・ナンドール氏の自宅兼アトリエでした。
現在は、奥様の千代様がお住みになり、春と秋に一カ月ずつ
公開されています。
お庭やギャラリーが美しく、大変興味深く、大好きな場所の一つです。
ワグナー氏は、ハンガリー出身の彫刻家。
その数奇な生涯は、下村徹氏のご著書『ドナウの叫び
ワグナー・ナンドール物語』で詳しく描かれています。
同書によると、ワグナー氏は幼い時、祖父(オーストリア・
ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の侍従武官長)から
「ブシドー(武士道)」について教えられ、
新渡戸博士の著書『武士道』を紹介されています。
代表作「哲学の庭」は、ワグナー氏の宗教観、思想観が表現されています。
新渡戸博士の「諸宗教の根底にあるもの」にも通じる世界観と思います。
Wagner Nandor(和久奈 南都留)1922年〜1997年(1975年、日本に帰化)
ワグナー・ナンドール記念財団のホームページは、こちら。
栃木県益子(ましこ)の「ワグナー・ナンドール アートギャラリー」を
再訪しました。
ここは、故ワグナー・ナンドール氏の自宅兼アトリエでした。
現在は、奥様の千代様がお住みになり、春と秋に一カ月ずつ
公開されています。
お庭やギャラリーが美しく、大変興味深く、大好きな場所の一つです。
ワグナー氏は、ハンガリー出身の彫刻家。
その数奇な生涯は、下村徹氏のご著書『ドナウの叫び
ワグナー・ナンドール物語』で詳しく描かれています。
同書によると、ワグナー氏は幼い時、祖父(オーストリア・
ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の侍従武官長)から
「ブシドー(武士道)」について教えられ、
新渡戸博士の著書『武士道』を紹介されています。
代表作「哲学の庭」は、ワグナー氏の宗教観、思想観が表現されています。
新渡戸博士の「諸宗教の根底にあるもの」にも通じる世界観と思います。
Wagner Nandor(和久奈 南都留)1922年〜1997年(1975年、日本に帰化)
ワグナー・ナンドール記念財団のホームページは、こちら。
2015/12/30
NHKラジオ「いま生きる 武士道」
2015年10月〜12月
NHK ラジオ第2放送「こころをよむ」
「いま生きる 武士道 その精神と歴史」
笠谷 和比古
日曜日 午前6:45〜7:25 (再放送 翌日曜日 午後1:20〜2:00)
「武士道」という言葉は、よく見かけることがありますが、
筆者または話者が、なにを差しているのかわかりにくいことが多いと
思います。
私はすぐに新渡戸博士の著書『武士道』を思い浮かべますが、
『葉隠』を考える人、漠然と「日本人に昔から引き継がれている精神」
と捉える人・・・
今回の笠谷先生の講義では、さまざまな角度から「武士道」を考えることが
できました。
また、今日的な意義を示されていて大変勉強になりました。
2016年1月は、NHK Eテレ「100分de名著」に、
再び、内村鑑三の著書が登場です。こちらも楽しみ!
NHK ラジオ第2放送「こころをよむ」
「いま生きる 武士道 その精神と歴史」
笠谷 和比古
日曜日 午前6:45〜7:25 (再放送 翌日曜日 午後1:20〜2:00)
「武士道」という言葉は、よく見かけることがありますが、
筆者または話者が、なにを差しているのかわかりにくいことが多いと
思います。
私はすぐに新渡戸博士の著書『武士道』を思い浮かべますが、
『葉隠』を考える人、漠然と「日本人に昔から引き継がれている精神」
と捉える人・・・
今回の笠谷先生の講義では、さまざまな角度から「武士道」を考えることが
できました。
また、今日的な意義を示されていて大変勉強になりました。
2016年1月は、NHK Eテレ「100分de名著」に、
再び、内村鑑三の著書が登場です。こちらも楽しみ!
武士の娘「杉本鉞子」(すぎもとえつこ)
2015年12月29日 10:00〜11:49
BS1 スペシャル「武士の娘 鉞子とフローレンス
〜奇跡のベストセラーを生んだ日米の絆〜」
以前、ある方から、
「新渡戸稲造や武士道を研究しているのなら、ぜひこの人のことも・・・」
と紹介していただいたのが、杉本鉞子(えつこ)という人物です。
長岡出身の杉本鉞子さん(1873年〜1950年)は、元武士の娘でしたが、
アメリカ在住の日本人と結婚するために、渡米しました。
1925年、英語で「A Daughter of the Samurai(『武士の娘』」を書き、
当時、欧米で注目されました。
新渡戸稲造が、英語で『武士道』を出版(1900年)したちょうど25年後、
新渡戸博士が国際連盟の事務次長としてスイスのジュネーブに滞在して
いたころです。
杉本鉞子さんが、渡米後からずっとお世話になったのが、
新渡戸のアメリカ留学時代の学友(ジョンズホプキンズ大学)で、
アメリカの大統領になったウッドロー・ウイルソンの一族の方々です。
特に、ウィルソン一族のフローレンスさんとは生涯の友になり、
この本『武士の娘』の刊行には、彼女の大きな尽力がありました。
杉本鉞子さんは、コロンビア大学で講師も務めましたが、
日本では、新渡戸博士ご夫妻と深いご縁もある普連土学園でも
教えたそうです。
BS1 スペシャル「武士の娘 鉞子とフローレンス
〜奇跡のベストセラーを生んだ日米の絆〜」
以前、ある方から、
「新渡戸稲造や武士道を研究しているのなら、ぜひこの人のことも・・・」
と紹介していただいたのが、杉本鉞子(えつこ)という人物です。
長岡出身の杉本鉞子さん(1873年〜1950年)は、元武士の娘でしたが、
アメリカ在住の日本人と結婚するために、渡米しました。
1925年、英語で「A Daughter of the Samurai(『武士の娘』」を書き、
当時、欧米で注目されました。
新渡戸稲造が、英語で『武士道』を出版(1900年)したちょうど25年後、
新渡戸博士が国際連盟の事務次長としてスイスのジュネーブに滞在して
いたころです。
杉本鉞子さんが、渡米後からずっとお世話になったのが、
新渡戸のアメリカ留学時代の学友(ジョンズホプキンズ大学)で、
アメリカの大統領になったウッドロー・ウイルソンの一族の方々です。
特に、ウィルソン一族のフローレンスさんとは生涯の友になり、
この本『武士の娘』の刊行には、彼女の大きな尽力がありました。
杉本鉞子さんは、コロンビア大学で講師も務めましたが、
日本では、新渡戸博士ご夫妻と深いご縁もある普連土学園でも
教えたそうです。
2015/05/09
テレビ「THE歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜武士道」
2015年5月8日 テレビ番組 視聴メモ
TBS-BS
THE歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜武士道
新渡戸博士の代表的な著書『武士道』を中心テーマに
生涯と功績を紹介したテレビ番組。
ゆかりの地での取材映像や写真、またインタビューを交え、
大変わかりやすい番組でした。
ゲスト 鹿島 茂 氏 フランス文学者/評論家
TBS-BS
THE歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜武士道
新渡戸博士の代表的な著書『武士道』を中心テーマに
生涯と功績を紹介したテレビ番組。
ゆかりの地での取材映像や写真、またインタビューを交え、
大変わかりやすい番組でした。
ゲスト 鹿島 茂 氏 フランス文学者/評論家
2015/02/13
『武士道』をめぐる書評エピソード
1899年、新渡戸稲造博士は、アメリカで『Bushido(武士道)』を
英語で出版しました。
のちに多言語で翻訳出版され、世界中で今日でも販売されている
世界的なロングセラーです。
この書籍については、その後、新渡戸博士の弟子、矢内原忠雄博士の
日本語訳が岩波書店から出版され、その後も数々の訳書や解説書の
刊行が続いています。当時も多くの書評が発表になりました。
太田愛人様が、ご著書『『武士道』を読む 新渡戸稲造と「敗者」の精神史』
の中で、新渡戸博士自身の最も意にかなった書評として、
台湾でのエピソードを書かれていますので、その一部を抜粋し紹介します。
「床間の武士道」という批判(同書 p.168)
(当時、台湾総督府の土木事業責任者に長尾半平(1865年〜1935年)氏がいた。
クリスチャンの長尾は、これを機会に新渡戸との交際が始まる。
長尾が台湾に在任中、植村正久が台湾伝道のため訪れたので、
長尾は、後藤、新渡戸に植村を紹介するため席を準備した。)
その座談は、民政長官後藤新平、同夫人の招待で長官邸でおこなわれた。
新渡戸稲造
「自分は日本の『武士道』を書いたが、之に対して、英文と邦文の批評が
たくさんあった。けれどもその中で植村先生の批評こそ、最も自分の意を
得たものである」。(中略)
「その中にこんな事が書いてありました。
西洋人のところへ客に行くと、ここはあなたの寝室、ここは居室、
ここは台所と皆家中の座敷を示して自由にお使いなさいという。
ところが、日本人のところに行くと、床間以外に客に来られては
困る。それと同様に新渡戸君の武士道は床間付きの部屋を外国人に
紹介したものだ」。
植村正久
「どうです。日本の台所も書いては」。
後藤新平
「一体、表より裏のいいのは羽織よりないですね」。
といって、一座大笑におちた。
(『植村正久と其の時代』第一巻)
富士見町教会の月報『路之光』に掲載
英語で出版しました。
のちに多言語で翻訳出版され、世界中で今日でも販売されている
世界的なロングセラーです。
この書籍については、その後、新渡戸博士の弟子、矢内原忠雄博士の
日本語訳が岩波書店から出版され、その後も数々の訳書や解説書の
刊行が続いています。当時も多くの書評が発表になりました。
太田愛人様が、ご著書『『武士道』を読む 新渡戸稲造と「敗者」の精神史』
の中で、新渡戸博士自身の最も意にかなった書評として、
台湾でのエピソードを書かれていますので、その一部を抜粋し紹介します。
「床間の武士道」という批判(同書 p.168)
(当時、台湾総督府の土木事業責任者に長尾半平(1865年〜1935年)氏がいた。
クリスチャンの長尾は、これを機会に新渡戸との交際が始まる。
長尾が台湾に在任中、植村正久が台湾伝道のため訪れたので、
長尾は、後藤、新渡戸に植村を紹介するため席を準備した。)
その座談は、民政長官後藤新平、同夫人の招待で長官邸でおこなわれた。
新渡戸稲造
「自分は日本の『武士道』を書いたが、之に対して、英文と邦文の批評が
たくさんあった。けれどもその中で植村先生の批評こそ、最も自分の意を
得たものである」。(中略)
「その中にこんな事が書いてありました。
西洋人のところへ客に行くと、ここはあなたの寝室、ここは居室、
ここは台所と皆家中の座敷を示して自由にお使いなさいという。
ところが、日本人のところに行くと、床間以外に客に来られては
困る。それと同様に新渡戸君の武士道は床間付きの部屋を外国人に
紹介したものだ」。
植村正久
「どうです。日本の台所も書いては」。
後藤新平
「一体、表より裏のいいのは羽織よりないですね」。
といって、一座大笑におちた。
(『植村正久と其の時代』第一巻)
富士見町教会の月報『路之光』に掲載
2014/12/20
番組再放送のお知らせ
以前に番組制作に協力させていただきました、
岩手めんこいテレビ様の二番組の再放送が決まり、
ご案内をいただきましたので、紹介いたします。
スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~
岩手めんこいテレビ様の二番組の再放送が決まり、
ご案内をいただきましたので、紹介いたします。
スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~
岩手めんこいテレビ 1月2日(木)午前6:00~
ジュネーヴの星
石川テレビ(石川県)12月22日(月)深夜0:45~
テレビ西日本(福岡県)12月24日(水)深夜2:45~
テレビ大分(大分県)12月25日(木)午後5:00~
鹿児島テレビ(鹿児島県)12月27日(土)深夜1:35~
めんこいテレビ(岩手県)12月28日(日)午後4:45~
2014/11/10
第6回武士道講読会講演会
2014年11月7日(金)18時〜
学士会館(東京・神保町)
第6回武士道講読会講演会
鈴木範久先生講演会「内村鑑三研究60年」
昨年に続き、今年も学士会館での武士道講読会の講演会に
出席させていただきました。
今回の講演者は、内村鑑三研究の第一人者でいらっしゃる、
鈴木範久先生(立教大学名誉教授)です。
鈴木先生は、NHK Eテレ「内村鑑三」にもご出演され、
同番組は、録画して何回か視聴させていただきましたので、
この日、直接お話を伺える機会を大変楽しみに伺いました。
内村鑑三は、新渡戸稲造と幼少の頃からの友人で、東京から共に
札幌農学校(現在の北海道大学)に入学、終生の友人でした。
鈴木先生のご講演は、長年の内村研究のお話、内村全集のこと、
内村の思想、新渡戸と内村の信仰の比較など、興味深いお話でした。
特に、よく語られている新渡戸と内村の信仰の違いについて、
鈴木先生は、「最近、大きな違いではないのではと考え始めている」
とおっしゃっていたのが印象的でした。
活発な質疑応答の後、懇親会が続きました。
今回も、新渡戸稲造博士と深いご縁のある、
北海道大学と東京女子大学の両学の同窓生の方々が
親しく交流されていた様子が感動的でした。
ご挨拶は、山田純子様(東京女子大学同窓会会長)と
大山綱夫様(北星学園理事長)。
乾杯は、松谷有希雄様(国立保健医療科学院院長)。
その後、東京女子大学の現役の学生さんたちに、武士道会から
本の贈呈式もおこなわれました。
北海道大学の卒業生で、東京女子大学名誉教授の鳥山英雄先生から
図書が贈られました。
まさに両学の架け橋にふさわしい鳥山先生による贈呈式でした。
スピーチでは
、
田中美保子先生(東京女子大学准教授)から、
「北海道帝国大学が初めて女子学生を受け入れた際、その10名のうち
5名が東京女子大学出身の学生だった」というエピソード。
堀田国元様(財団法人 機能水研究振興財団理事長)は、
「知られざる新渡戸稲造人脈:ディスカバー 岡見京」のご研究の
発表がありました。
岡見京 医師は、新渡戸博士の友人 岡見千吉郎の妻で、
海外で医学を学んで女医になった日本で最初の女医。
また新たな新渡戸人脈を知ることになりました。
興味深いお話と資料をご提供いただきました堀田様に感謝申し上げます。
三上節子様(新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会)は、
札幌からのご参加で、札幌で計画中の新渡戸稲造記念館の建設や
作文・論文コンクールのご紹介がありました。
詳細は、新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会のホームページへ。
司会は、武士道講読会の桜庭慎吾様でした。
今回も多くの方々にお声をかけていただき、ありがとうございました。
北海道大学武士道講読会の皆様に心より御礼を申し上げます。
学士会館(東京・神保町)
第6回武士道講読会講演会
鈴木範久先生講演会「内村鑑三研究60年」
昨年に続き、今年も学士会館での武士道講読会の講演会に
出席させていただきました。
今回の講演者は、内村鑑三研究の第一人者でいらっしゃる、
鈴木範久先生(立教大学名誉教授)です。
鈴木先生は、NHK Eテレ「内村鑑三」にもご出演され、
同番組は、録画して何回か視聴させていただきましたので、
この日、直接お話を伺える機会を大変楽しみに伺いました。
内村鑑三は、新渡戸稲造と幼少の頃からの友人で、東京から共に
札幌農学校(現在の北海道大学)に入学、終生の友人でした。
鈴木先生のご講演は、長年の内村研究のお話、内村全集のこと、
内村の思想、新渡戸と内村の信仰の比較など、興味深いお話でした。
特に、よく語られている新渡戸と内村の信仰の違いについて、
鈴木先生は、「最近、大きな違いではないのではと考え始めている」
とおっしゃっていたのが印象的でした。
活発な質疑応答の後、懇親会が続きました。
今回も、新渡戸稲造博士と深いご縁のある、
北海道大学と東京女子大学の両学の同窓生の方々が
親しく交流されていた様子が感動的でした。
ご挨拶は、山田純子様(東京女子大学同窓会会長)と
大山綱夫様(北星学園理事長)。
乾杯は、松谷有希雄様(国立保健医療科学院院長)。
その後、東京女子大学の現役の学生さんたちに、武士道会から
本の贈呈式もおこなわれました。
北海道大学の卒業生で、東京女子大学名誉教授の鳥山英雄先生から
図書が贈られました。
まさに両学の架け橋にふさわしい鳥山先生による贈呈式でした。
スピーチでは
、
田中美保子先生(東京女子大学准教授)から、
「北海道帝国大学が初めて女子学生を受け入れた際、その10名のうち
5名が東京女子大学出身の学生だった」というエピソード。
堀田国元様(財団法人 機能水研究振興財団理事長)は、
「知られざる新渡戸稲造人脈:ディスカバー 岡見京」のご研究の
発表がありました。
岡見京 医師は、新渡戸博士の友人 岡見千吉郎の妻で、
海外で医学を学んで女医になった日本で最初の女医。
また新たな新渡戸人脈を知ることになりました。
興味深いお話と資料をご提供いただきました堀田様に感謝申し上げます。
三上節子様(新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会)は、
札幌からのご参加で、札幌で計画中の新渡戸稲造記念館の建設や
作文・論文コンクールのご紹介がありました。
詳細は、新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会のホームページへ。
司会は、武士道講読会の桜庭慎吾様でした。
今回も多くの方々にお声をかけていただき、ありがとうございました。
北海道大学武士道講読会の皆様に心より御礼を申し上げます。
2014/07/05
新渡戸国際塾 「武士道」と日本人
2014年6月28日(土)国際文化会館(東京都港区)
第7期 新渡戸国際塾 公開講演
「武士道」と日本人
山本 博文 東京大学史料編纂所 教授
1 新渡戸稲造『武士道』の構成
2 新渡戸稲造『武士道』の特徴
外国人が見た日本人の特質
大災害と日本人
山本先生は、16世紀以来、日本を訪れた外国人が記録に残した
日本人の特質についての記述を紹介。
また、2011年の東日本大震災に対処した日本人の忍耐力などには、
海外から賞賛の声があがったが、
安政東海大地震の際にも、同様に日本人の気質に触れた記録があったことも
紹介されました。
〈山本先生のレジュメより〉
「日本人と名誉心」
・新渡戸稲造氏の『武士道』で、日本人の美徳とされたものは、
名誉心と忍耐心
・新渡戸氏は、これを「武士道」の徳が全国民に及んだもの、と考えた
・しかし、日本に初めて来たヨーロッパ人フランシスコ・ザビエル以来、
日本人の名誉心と忍耐心は、日本人の国民的気質と認識する者が多い。
・新渡戸氏の『武士道』は江戸時代の武士の姿を説くものではなく、
氏が理想とした日本人像だったのではないか。
〈山本先生のレジュメ 終わり〉
(「士農工商」それぞれの役割を果たすこと。
インドのカースト制のような身分の上下をあらわすものではない。)
(島国でもある日本には、古代からの一体感があったのではないか。
→ 一国の中で、恥ずべき行動はできない。)
会場の国際文化会館(IHJ)は、新渡戸博士とのご縁も深い場所です。
詳しくは、同館の「歴史」ページ、こちらへ。
国際文化会館のホームページは、こちら。
第7期 新渡戸国際塾 公開講演
「武士道」と日本人
山本 博文 東京大学史料編纂所 教授
1 新渡戸稲造『武士道』の構成
2 新渡戸稲造『武士道』の特徴
外国人が見た日本人の特質
大災害と日本人
山本先生は、16世紀以来、日本を訪れた外国人が記録に残した
日本人の特質についての記述を紹介。
また、2011年の東日本大震災に対処した日本人の忍耐力などには、
海外から賞賛の声があがったが、
安政東海大地震の際にも、同様に日本人の気質に触れた記録があったことも
紹介されました。
〈山本先生のレジュメより〉
「日本人と名誉心」
・新渡戸稲造氏の『武士道』で、日本人の美徳とされたものは、
名誉心と忍耐心
・新渡戸氏は、これを「武士道」の徳が全国民に及んだもの、と考えた
・しかし、日本に初めて来たヨーロッパ人フランシスコ・ザビエル以来、
日本人の名誉心と忍耐心は、日本人の国民的気質と認識する者が多い。
・新渡戸氏の『武士道』は江戸時代の武士の姿を説くものではなく、
氏が理想とした日本人像だったのではないか。
〈山本先生のレジュメ 終わり〉
(「士農工商」それぞれの役割を果たすこと。
インドのカースト制のような身分の上下をあらわすものではない。)
(島国でもある日本には、古代からの一体感があったのではないか。
→ 一国の中で、恥ずべき行動はできない。)
会場の国際文化会館(IHJ)は、新渡戸博士とのご縁も深い場所です。
詳しくは、同館の「歴史」ページ、こちらへ。
国際文化会館のホームページは、こちら。
2014/06/12
『武士道』の翻訳者 飯島正久様を訪ねて
2014年6月1日(日)八ヶ岳南麓にて
飯島正久様のお宅を訪問して、お話を伺いました。
飯島様は、1921(大正10)年のお生まれ。
長年、キリスト教の伝道者として活動されていらっしゃいました。
1975(昭和50)年、八ヶ岳南麓大泉町に転居され、週末に、
横浜の港キリスト教会(単立)に通われていましたが、現在では、大泉町で
聖書研究と著作活動に専念されています。
飯島様は、『武士道』(新渡戸稲造・著)を日本語に翻訳され、
教会の会報誌「家庭の聖書月刊誌・牧歌」に連載(1990年3月号〜1992年6月号)。
その内容を、キリスト教関係者以外の一般読者にもわかりやすいよう手を入れて
一冊の本としてまとめて、出版されました。
(月刊「牧歌」の発行は、500回を数え、400〜500人の読者がいらしたそうです)
『武士道 【日本人の魂】』
新渡戸稲造・著 飯島正久・訳/解説
築地書館 1998年10月1日
このたび、ご縁をいただき、飯島様のお嫁さんにあたる飯島恵美子様のご厚意で、
訪問の機会に恵まれました。
飯島様は、北海道の帯広在住時、弁護士だった父親の勧めで、札幌に移り、
遠友夜学校(新渡戸稲造夫妻が創立)で、およそ1年半ほど学ばれたそうです。
キリスト教の伝道者になった理由は、
慶応大学経済学部卒業後、商社丸紅に就職が決まっていたそうですが、
太平洋戦争の学徒出陣で、多くの学友を失い、
(フィリピンへの輸送船が撃沈され、268名中、たまたま帰省許可が出ていた
自分ともう一人の2名のみが難を逃れた)
とても普通に会社勤めをする気持ちになれなかったからです。
飯島様は、内村鑑三門下の山本泰次郎氏を恩師とされ、尊敬していらっしゃいました。
また、ご自身の伯母様から、新渡戸博士直筆サイン入りの英語の『武士道』を
贈られています。
以下、飯島様の本の「訳者まえがき」の冒頭を引用します。
「私の手元に百七十ページ余りの小さな英語の本がある。一九一五年(大正四年)に
日本で発行された古い本だか、私にとっては、大切な蔵書の一つである。
著者は新渡戸稲造といい、題名は、BUSHIDO(武士道)、なお副題として
THE SOUL OF JAPAN(日本の魂)とある。この本の扉には、新渡戸稲造の
雄渾な英文のサインがあり、一九九〇年一月二日にこの世を去った私の伯母、
飯島さと(旧姓上野)にあてて、「from her school uncle 一九一六年 東京」とある。
新渡戸稲造にかわいがっていただいた若き日の伯母が愛蔵し、後にその伯母から
直接私に贈られたものである。」
(『武士道 【日本人の魂】』p.1より)
飯島様の伯母さと様は、津田塾大学を卒業され、のちには、同校の教師もされていた
そうです。「from her school uncle」という新渡戸博士の表現に、津田塾と博士の関係が
よく表れています。
「アンクル・ニトベ(Uncle Nitobe)女子英学塾(津田塾大学)
一九〇〇(明治三十三)年、稲造がアメリカで『武士道』を出版した年の夏、
津田梅子は、東京に女子英学塾(津田塾大学)を設立しました。
もともと女子教育に深い関心があった稲造は、アナ・C・ハーツホーンたちと
ともに女子英学塾の理事になりました。稲造は、女子英学塾の学生のために、
武士道や日米関係などについての講演を長年にわたりおこないました。
分厚い眼鏡の奥で、やさしくいたずらっぽくほほえむ稲造を、学生たちは、
親しみをこめて「Uncle Nitobe(新渡戸おじさん)」と呼びました。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.113より)
直筆サイン入りのご著書をいただいていることからは、伯母様が、新渡戸博士に
大変かわいがられていらしたと想像できます。
飯島様の『武士道 【日本人の魂】』は、翻訳のみならず、随所に飯島様の
解説が入り、とても理解しやすい内容になっています。
また、飯島様は、ご出版まもなく、新渡戸博士のお孫様(加藤武子様と思われます)
にお目にかかる機会があり、
「一番(原文に)忠実に訳していただいて」と喜んでいただいた、
と話されていました。
このたび、飯島正久様と恵美子様には、貴重なお話を伺うことができ、
後ろ髪を引かれる思いで、お宅を後にしました。
晴天の八ヶ岳が美しく、青空の青色、新緑の緑がまぶしく輝いていました。
飯島様、ご紹介いただきました山本様ご夫妻に感謝申し上げます。
飯島正久様のお宅を訪問して、お話を伺いました。
飯島様は、1921(大正10)年のお生まれ。
長年、キリスト教の伝道者として活動されていらっしゃいました。
1975(昭和50)年、八ヶ岳南麓大泉町に転居され、週末に、
横浜の港キリスト教会(単立)に通われていましたが、現在では、大泉町で
聖書研究と著作活動に専念されています。
飯島様は、『武士道』(新渡戸稲造・著)を日本語に翻訳され、
教会の会報誌「家庭の聖書月刊誌・牧歌」に連載(1990年3月号〜1992年6月号)。
その内容を、キリスト教関係者以外の一般読者にもわかりやすいよう手を入れて
一冊の本としてまとめて、出版されました。
(月刊「牧歌」の発行は、500回を数え、400〜500人の読者がいらしたそうです)
『武士道 【日本人の魂】』
新渡戸稲造・著 飯島正久・訳/解説
築地書館 1998年10月1日
このたび、ご縁をいただき、飯島様のお嫁さんにあたる飯島恵美子様のご厚意で、
訪問の機会に恵まれました。
飯島様は、北海道の帯広在住時、弁護士だった父親の勧めで、札幌に移り、
遠友夜学校(新渡戸稲造夫妻が創立)で、およそ1年半ほど学ばれたそうです。
キリスト教の伝道者になった理由は、
慶応大学経済学部卒業後、商社丸紅に就職が決まっていたそうですが、
太平洋戦争の学徒出陣で、多くの学友を失い、
(フィリピンへの輸送船が撃沈され、268名中、たまたま帰省許可が出ていた
自分ともう一人の2名のみが難を逃れた)
とても普通に会社勤めをする気持ちになれなかったからです。
![]() |
飯島正久 様 |
飯島様は、内村鑑三門下の山本泰次郎氏を恩師とされ、尊敬していらっしゃいました。
また、ご自身の伯母様から、新渡戸博士直筆サイン入りの英語の『武士道』を
贈られています。
以下、飯島様の本の「訳者まえがき」の冒頭を引用します。
「私の手元に百七十ページ余りの小さな英語の本がある。一九一五年(大正四年)に
日本で発行された古い本だか、私にとっては、大切な蔵書の一つである。
著者は新渡戸稲造といい、題名は、BUSHIDO(武士道)、なお副題として
THE SOUL OF JAPAN(日本の魂)とある。この本の扉には、新渡戸稲造の
雄渾な英文のサインがあり、一九九〇年一月二日にこの世を去った私の伯母、
飯島さと(旧姓上野)にあてて、「from her school uncle 一九一六年 東京」とある。
新渡戸稲造にかわいがっていただいた若き日の伯母が愛蔵し、後にその伯母から
直接私に贈られたものである。」
(『武士道 【日本人の魂】』p.1より)
飯島様の伯母さと様は、津田塾大学を卒業され、のちには、同校の教師もされていた
そうです。「from her school uncle」という新渡戸博士の表現に、津田塾と博士の関係が
よく表れています。
「アンクル・ニトベ(Uncle Nitobe)女子英学塾(津田塾大学)
一九〇〇(明治三十三)年、稲造がアメリカで『武士道』を出版した年の夏、
津田梅子は、東京に女子英学塾(津田塾大学)を設立しました。
もともと女子教育に深い関心があった稲造は、アナ・C・ハーツホーンたちと
ともに女子英学塾の理事になりました。稲造は、女子英学塾の学生のために、
武士道や日米関係などについての講演を長年にわたりおこないました。
分厚い眼鏡の奥で、やさしくいたずらっぽくほほえむ稲造を、学生たちは、
親しみをこめて「Uncle Nitobe(新渡戸おじさん)」と呼びました。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.113より)
直筆サイン入りのご著書をいただいていることからは、伯母様が、新渡戸博士に
大変かわいがられていらしたと想像できます。
飯島様の『武士道 【日本人の魂】』は、翻訳のみならず、随所に飯島様の
解説が入り、とても理解しやすい内容になっています。
また、飯島様は、ご出版まもなく、新渡戸博士のお孫様(加藤武子様と思われます)
にお目にかかる機会があり、
「一番(原文に)忠実に訳していただいて」と喜んでいただいた、
と話されていました。
このたび、飯島正久様と恵美子様には、貴重なお話を伺うことができ、
後ろ髪を引かれる思いで、お宅を後にしました。
晴天の八ヶ岳が美しく、青空の青色、新緑の緑がまぶしく輝いていました。
飯島様、ご紹介いただきました山本様ご夫妻に感謝申し上げます。
左から 飯島恵美子様 飯島正久様 筆者 |
ラベル:
おすすめ,
遠友夜学校,
関わりのある学校/大学,
教え子たち,
札幌,
札幌農学校,
新渡戸著書,
伝記『新渡戸稲造ものがたり』,
武士道,
北海道大学
2014/05/11
『日本人の知らない武士道』
『日本人の知らない武士道』
アレキサンダー・ベネット 著
2013年7月 文春新書
1970年ニュージーランド生まれの武道家によって
「武士道」について書かれた本です。
実際の武道の実践、また、『甲陽軍鑑』『葉隠』『武道初心集』『兵法家伝書』などを
読み取りつつ、日本人の精神性について語られていて、とても勉強になる内容でした。
・印象に残った「残心」=武士道の真髄
・「常に死を問うことで、武士道はその生を問うている」(p.145)
著者は、新渡戸稲造博士の『武士道』についても、言及。
〈 維新の文明開化からわずか三十数年。なぜ日本はこんなに軍事大国になれたのか?
西洋人は各方面から日本人を研究し、武士道の精神性に注目した。やがて、
「武士道の精神が、日本人のDNAに刻まれている」と解釈されるようになる。〉
(p.23 序章より)
そのきっかけになったのが、新渡戸の『武士道』だったと著者は書いています。
〈 新渡戸は、・・・日本の美点や西欧と共通する道徳観があることをアピールする
ために『武士道』を書いた。そのため、日本が過去から受け継いできた道徳・倫理を
近代日本に適合するかたちに再解釈した。〉
(p.25 序章より)
アレキサンダー・ベネット 著
2013年7月 文春新書
1970年ニュージーランド生まれの武道家によって
「武士道」について書かれた本です。
実際の武道の実践、また、『甲陽軍鑑』『葉隠』『武道初心集』『兵法家伝書』などを
読み取りつつ、日本人の精神性について語られていて、とても勉強になる内容でした。
・印象に残った「残心」=武士道の真髄
・「常に死を問うことで、武士道はその生を問うている」(p.145)
著者は、新渡戸稲造博士の『武士道』についても、言及。
〈 維新の文明開化からわずか三十数年。なぜ日本はこんなに軍事大国になれたのか?
西洋人は各方面から日本人を研究し、武士道の精神性に注目した。やがて、
「武士道の精神が、日本人のDNAに刻まれている」と解釈されるようになる。〉
(p.23 序章より)
そのきっかけになったのが、新渡戸の『武士道』だったと著者は書いています。
〈 新渡戸は、・・・日本の美点や西欧と共通する道徳観があることをアピールする
ために『武士道』を書いた。そのため、日本が過去から受け継いできた道徳・倫理を
近代日本に適合するかたちに再解釈した。〉
(p.25 序章より)
2013/11/22
新渡戸博士のテレビ番組が「優秀賞」を受賞!
番組制作に協力させていただきました、新渡戸博士の特集番組が、
東北映像フェアでの受賞に続き、
全国地域映像団体協議会でも優秀賞を受賞!
めんこいテレビのみなさま、ご一緒に出演させていただきました
草原様、大森様に、あらためてお祝いを申し上げます。
尚、この番組は、先月、銀座教文館でおこなわれました、
没後80年展「新渡戸稲造を知っていますか」の会場でも放映させていただき、
来場者アンケートの結果でも、大変好評だった番組です。
2013年11月21日付け 「MSN産経ニュース」サイトより引用 ↓
めんこいテレビの特番が優秀賞 岩手
岩手めんこいテレビは昨年12月23日に放送した特番「スーツを着たサムライ
〜新渡戸稲造『武士道』伝説」が、全国地域映像団体協議会の今年度グランプリで
優秀賞に輝いた。
番組部門(放送番組)での受賞で、優秀賞は準グランプリにあたる。
番組は新渡戸の生誕150年を記念し、新渡戸の足跡を振り返る内容。
同局の番組審議会でも「緻密に取材している」「新渡戸を知る入門番組として
最適だ」など評価が高かった。今年6月には、第1回東北映像フェア2013の
番組部門で大賞を受賞している。
企画、脚本、プロデューサーを務めた工藤哲人(てつと)さん(35)は
「武士道を心の支柱に国際社会で活躍した新渡戸の魅力が少しでも伝わったと
思うとうれしい」と話した。
来年夏の新渡戸関連第2作製作に向け準備を進めているという。
///
MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/smp/region/news/131121/iwt13112102020000-s.htm
全国地域映像団体協議会(全映協)のサイトは、こちら。
前回の東北映像フェアの受賞については、こちら。
東北映像フェアでの受賞に続き、
全国地域映像団体協議会でも優秀賞を受賞!
めんこいテレビのみなさま、ご一緒に出演させていただきました
草原様、大森様に、あらためてお祝いを申し上げます。
尚、この番組は、先月、銀座教文館でおこなわれました、
没後80年展「新渡戸稲造を知っていますか」の会場でも放映させていただき、
来場者アンケートの結果でも、大変好評だった番組です。
2013年11月21日付け 「MSN産経ニュース」サイトより引用 ↓
めんこいテレビの特番が優秀賞 岩手
岩手めんこいテレビは昨年12月23日に放送した特番「スーツを着たサムライ
〜新渡戸稲造『武士道』伝説」が、全国地域映像団体協議会の今年度グランプリで
優秀賞に輝いた。
番組部門(放送番組)での受賞で、優秀賞は準グランプリにあたる。
番組は新渡戸の生誕150年を記念し、新渡戸の足跡を振り返る内容。
同局の番組審議会でも「緻密に取材している」「新渡戸を知る入門番組として
最適だ」など評価が高かった。今年6月には、第1回東北映像フェア2013の
番組部門で大賞を受賞している。
企画、脚本、プロデューサーを務めた工藤哲人(てつと)さん(35)は
「武士道を心の支柱に国際社会で活躍した新渡戸の魅力が少しでも伝わったと
思うとうれしい」と話した。
来年夏の新渡戸関連第2作製作に向け準備を進めているという。
///
MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/smp/region/news/131121/iwt13112102020000-s.htm
全国地域映像団体協議会(全映協)のサイトは、こちら。
前回の東北映像フェアの受賞については、こちら。
2013/10/31
開成学園「『武士道』の授業」
2013年10月21日(月)15:00〜 開成学園(開成中学・高等学校)東京・西日暮里
この日、盛岡から上京された藤井茂様(新渡戸基金事務局長)と
開成学園の橋本弘正先生を訪ねました。
私は数年前に、私学教育の研究授業の視察に同校を訪ね、橋本先生のご講演も
聴きましたので、それ以来の訪問です。
橋本先生は、新渡戸稲造博士の代表的な著書である『武士道』を、同校の生徒たちに
教える教育を導入された方です。
当時の在校生の保護者のお一人で、英文学者の大森恵子様が橋本先生の依頼を受けて
翻訳され、教材としました。
その後、この教材は、新書『高校生が読んでいる武士道』(角川書店)として、
出版されています。
『武士道』は、新渡戸博士が37歳の時、アメリカで英語で出版されました。
さまざまな引用もされていて、一見難解な内容ですので、この解説書は
大変役に立ちます。
残念ながら、現在、同校では「『武士道』の授業」はもうおこなわれていませんが、
当時の子どもたちの感想文は、胸を打ちます。
大森様のご子息が開成高校を卒業されたのは、平成8年。
その後、しばらく続いた橋本先生の「『武士道』の授業」を受けた生徒たちは、
いま社会の中核となる年代になってきました。
橋本先生はその教え子たちの活躍を大変楽しみにされているそうです。
開成学園の校内を見学した後、校史資料室で杉野様、小宮様にお目にかかりました。
資料室には、卒業生の成績表なども保管されています。
開成学園創立140周年記念「ペンと剣の旗の下」の同窓生一覧には、著名な方々の
お名前が並んでいます。
新渡戸博士と関わりのあった、狩野亨吉、柳田國男らの名前もあります。
その後、みなさんとご一緒に、国立公文書館を訪問し、加藤丈夫館長を訪ねました。
加藤館長は、開成の卒業生で、学園長や理事長も歴任されています。
館長室からは、皇居や丸の内のオフィスビルが一望でき、素晴らしい景観です。
貴賓室で、大変貴重な公文書も見せていただきました。
とても充実した時間を過ごすことができました。
橋本先生をはじめ、開成学園の皆様に心より御礼申し上げます。
この日、盛岡から上京された藤井茂様(新渡戸基金事務局長)と
開成学園の橋本弘正先生を訪ねました。
私は数年前に、私学教育の研究授業の視察に同校を訪ね、橋本先生のご講演も
聴きましたので、それ以来の訪問です。
橋本先生は、新渡戸稲造博士の代表的な著書である『武士道』を、同校の生徒たちに
教える教育を導入された方です。
当時の在校生の保護者のお一人で、英文学者の大森恵子様が橋本先生の依頼を受けて
翻訳され、教材としました。
その後、この教材は、新書『高校生が読んでいる武士道』(角川書店)として、
出版されています。
『武士道』は、新渡戸博士が37歳の時、アメリカで英語で出版されました。
さまざまな引用もされていて、一見難解な内容ですので、この解説書は
大変役に立ちます。
残念ながら、現在、同校では「『武士道』の授業」はもうおこなわれていませんが、
当時の子どもたちの感想文は、胸を打ちます。
大森様のご子息が開成高校を卒業されたのは、平成8年。
その後、しばらく続いた橋本先生の「『武士道』の授業」を受けた生徒たちは、
いま社会の中核となる年代になってきました。
橋本先生はその教え子たちの活躍を大変楽しみにされているそうです。
開成学園の校内を見学した後、校史資料室で杉野様、小宮様にお目にかかりました。
資料室には、卒業生の成績表なども保管されています。
開成学園創立140周年記念「ペンと剣の旗の下」の同窓生一覧には、著名な方々の
お名前が並んでいます。
新渡戸博士と関わりのあった、狩野亨吉、柳田國男らの名前もあります。
その後、みなさんとご一緒に、国立公文書館を訪問し、加藤丈夫館長を訪ねました。
加藤館長は、開成の卒業生で、学園長や理事長も歴任されています。
館長室からは、皇居や丸の内のオフィスビルが一望でき、素晴らしい景観です。
貴賓室で、大変貴重な公文書も見せていただきました。
とても充実した時間を過ごすことができました。
橋本先生をはじめ、開成学園の皆様に心より御礼申し上げます。
左から橋本先生、藤井様 |
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