「同志社と看護学教育」
岡山 寧子(おかやま やすこ)
同志社女子大学看護部長
同志社女子大学看護学部教授
出典:下記(p.72-91)
『良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ起リ来ラン事ヲ』
Doshisha Spirit Week 講演集 2015
2017年3月15日
同志社大学キリスト教文化センター 発行
=====講演記録より、以下に抜粋、要約。
○「看護」という言葉=看る(みて)+ 護る(まもる)
=人類がこの世に誕生した時からあるもの
○看護専門職の登場=ナイチンゲールの看護教育
「看護は、患者の生命力の消耗を最小限にすること」
ナイチンゲール著『看護覚え書』
19世紀中頃、F.ナイチンゲールは、看護学校を設立
(いまのセント・トーマス病院、ロンドンの国会議事堂のテムズ川を
はさんで向かい側)
卒業生たちが世界各地で看護教育、看護の実践。
日本でも明治の初めに『看護覚え書』(当時は『看護の栞』)が紹介される。
1886年、京都看護婦学校で、ナイチンゲールに直接指導を受けたL.リチャーズに
よる看護教育が開始。
ナイチンゲールの看護思想は、看護の原点、つまり、医療の発展の中で、
なにを看護の対象にするか、「病気」を見るのではなく、「人」を見る。
○この新島襄の医療への志を継いだのが、(新渡戸博士の友人)佐伯理一郎医師。
『京都看護婦学校五十年史』(佐伯理一郎 著 1936年)
同志社主導の病院、学校は、新島没後、佐伯医師が管理者となる。
産科医でもあった佐伯医師は、産婆学校も設立。
佐伯医師の息子たちも医師になり、学校の運営に携わる。
両校は「佐伯の学校」と呼ばれ、戦後まで続く。
現在、同志社女子大学の看護学部において、京都看護婦学校の志が
引き継がれている。
=====以上で、抜粋終わり。
新渡戸博士は、アメリカ留学時、新島襄と出会っています。
新島先生は、新渡戸に同志社の教員になるよう誘いますが、
ついに実現しませんでした。
けれども、同志社の教育には協力し続けました。
また、佐伯理一郎医師とは、長年親交がありました。
新渡戸博士が亡くなる年に、新渡戸は同志社での講演のため京都に出向き、
また、新渡戸がカナダへ出発する二日前に佐伯は東京に訪ねてきています。
これが、45年間続いた親交の最後になるのです。
新渡戸が、生涯最後となる船旅へ出発した三日後、佐伯は長文の電報を
送っています。
その中にあった聖書の言葉の一節は、
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のような翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない」
(イザヤ書四十章三十一節より)
『新渡戸稲造ものがたり』p.210より
長年の二人の友情、そして、最後の力を振り絞って旅立つ友人に対する
佐伯医師の心情が伝わってくるようです。
学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
2017/05/23
2017/05/21
『津田仙と新島襄』津田道夫様のご講演
2017年5月18日(木)14:00〜16:00
東京新島研究会 5月例会
『津田仙と新島襄』
発表者 津田 道夫 様(津田仙様ご子孫)
同志社大学東京キャンパス(中央区京橋)にて
このたび、津田道夫様にご案内いただき、
ご発表を拝聴する機会に恵まれました。
また、当日は、津田仙氏と関わりのあった方々のご子孫、
研究者の方々とお目にかかることができました。
新渡戸博士ご夫妻は、津田仙、次女の津田梅子先生と、
深い関わりがありました。
新渡戸博士は、津田梅子が創立した津田塾大学、
また、新島襄が創立した同志社大学を支援しました。
東京新島研究会 5月例会
『津田仙と新島襄』
発表者 津田 道夫 様(津田仙様ご子孫)
同志社大学東京キャンパス(中央区京橋)にて
このたび、津田道夫様にご案内いただき、
ご発表を拝聴する機会に恵まれました。
また、当日は、津田仙氏と関わりのあった方々のご子孫、
研究者の方々とお目にかかることができました。
新渡戸博士ご夫妻は、津田仙、次女の津田梅子先生と、
深い関わりがありました。
新渡戸博士は、津田梅子が創立した津田塾大学、
また、新島襄が創立した同志社大学を支援しました。
2017/05/04
金門学園(サンフランシスコ)を訪問
2017年5月3日(水)
サンフランシスコの日本人街にある「金門学園」
(Golden Gate Institute)を訪ねました。
この学園は、日系人の子どもたちのために設立されました。
当時、日本人はアメリカの学校に通うことができなかったからです。
1911年1月18日、この地(2031 Bush Street)の建物を借りて
校舎にすることになり、
翌月、新渡戸博士は、鎌田政令(かまたまさよし)を
校長に推薦しました。
4月15日に開校式がおこなわれ、17日から授業が正式に
始まります。
生徒は、12人の幼稚園児、12人の幼児、そのほか21人。
学園の入り口近くの壁に当時の写真が掲げられています。
日付は、設立の年、1911年の11月。
1960(昭和35)年9月25日、
サンフランシスコの日本人街にある「金門学園」
(Golden Gate Institute)を訪ねました。
この学園は、日系人の子どもたちのために設立されました。
当時、日本人はアメリカの学校に通うことができなかったからです。
1911年1月18日、この地(2031 Bush Street)の建物を借りて
校舎にすることになり、
翌月、新渡戸博士は、鎌田政令(かまたまさよし)を
校長に推薦しました。
4月15日に開校式がおこなわれ、17日から授業が正式に
始まります。
生徒は、12人の幼稚園児、12人の幼児、そのほか21人。
学園の入り口近くの壁に当時の写真が掲げられています。
日付は、設立の年、1911年の11月。
新渡戸博士とメアリー夫人の姿も |
この学園には、現在の天皇(当時は皇太子)皇后両陛下も訪れています。
前日、日航特別機でホノルルから到着された両陛下は、
午前9時15分、200人の生徒たちが出迎え、ブッシュ街には1000人の
人々であふれました。
「どうか日本語と日本文化をしっかり勉強してください。
そして、米国の立派な市民となれるよう望みます」
というお言葉を陛下は残されています。
授業参観後、9時55分に出発されました。
(同学園の掲示資料より)
東京女子大学の園遊会
2017年4月29日(土曜日・祝日)
東京女子大学で毎春おこなわれている園遊会に伺いました。
当日は、とてもよいお天気に恵まれ、
「日本一美しい」(と紹介の中にありました!)キャンパスツアーにも
参加しました。
正面玄関を入って正面の本館の2,3階が、新渡戸記念室です。
現在、創立100周年(2018年)の展示がおこなわれています。
東京女子大学で毎春おこなわれている園遊会に伺いました。
当日は、とてもよいお天気に恵まれ、
「日本一美しい」(と紹介の中にありました!)キャンパスツアーにも
参加しました。
現在、創立100周年(2018年)の展示がおこなわれています。
キャンパスでは、湊晶子先生(元学長、現在は広島女学院大学学長)と
前庭でお目にかかりました。
久しぶりの嬉しい再会でした。
今回、同窓生の野崎順子様にお誘いいただきました。
おかげさまで、東京女子大学の歴史やキャンパスについて
新たに学ぶことができ、楽しい一日でした。
ありがとうございました。
2017/01/26
東京帝国大学図書館の復興
2017年1月25日
1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こった時、
新渡戸博士は、国際連盟事務次長として在任中で、
スイスのジュネーブにいらっしゃいました。
当時、海外にいた人々は、この悲惨なニュースの
詳細がなかなかわからず不安な日々を過ごしましたが、
新渡戸博士もそんなお一人でした。
以下、『團琢磨伝 下』p.155〜 抜粋
東京帝国大学は、教室の一部と、附属図書館をすべて
失い、蔵書80万冊以上が跡形もなくなりました。
直ちに図書館復興委員会が組織され、数名の教授を
欧米各国に派遣して、大学や学界、名士らに協力を呼びかけました。
ニューヨークでは、ロックフェラー第二世が四百万円の寄付を
決心し、その資金の保管管理に著名な銀行家を要求したことから、
團琢磨が着任しました。
鉄骨鉄筋、地下地上八階の立派な図書館が完成しました。
(抜粋おわり)
上記の話から、ジュネーブの国際連合アーカイブに保存されている
東京帝国大学図書館復興に関する書類を思い出しました。
新渡戸博士は母校でもあり、また、教授を務めた同大学の復興に
大変関心を寄せて、欧米にある数多くの大学などに協力依頼の手紙を
書き送っています。
同図書館は「一つの図書館に過ぎず、ここは、日本の知の集積地」と、
その救済に遠くスイスで尽力しました。
同アーカイブには、復興後の図書館の絵などが含まれた報告書が
残されています。
1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こった時、
新渡戸博士は、国際連盟事務次長として在任中で、
スイスのジュネーブにいらっしゃいました。
当時、海外にいた人々は、この悲惨なニュースの
詳細がなかなかわからず不安な日々を過ごしましたが、
新渡戸博士もそんなお一人でした。
以下、『團琢磨伝 下』p.155〜 抜粋
東京帝国大学は、教室の一部と、附属図書館をすべて
失い、蔵書80万冊以上が跡形もなくなりました。
直ちに図書館復興委員会が組織され、数名の教授を
欧米各国に派遣して、大学や学界、名士らに協力を呼びかけました。
ニューヨークでは、ロックフェラー第二世が四百万円の寄付を
決心し、その資金の保管管理に著名な銀行家を要求したことから、
團琢磨が着任しました。
鉄骨鉄筋、地下地上八階の立派な図書館が完成しました。
(抜粋おわり)
上記の話から、ジュネーブの国際連合アーカイブに保存されている
東京帝国大学図書館復興に関する書類を思い出しました。
新渡戸博士は母校でもあり、また、教授を務めた同大学の復興に
大変関心を寄せて、欧米にある数多くの大学などに協力依頼の手紙を
書き送っています。
同図書館は「一つの図書館に過ぎず、ここは、日本の知の集積地」と、
その救済に遠くスイスで尽力しました。
同アーカイブには、復興後の図書館の絵などが含まれた報告書が
残されています。
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