・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2013/02/20

テレビ番組「スーツを着たサムライ」追加放送


【 テレビ番組 】
スーツを着たサムライ 〜新渡戸稲造「武士道」伝説〜
(岩手めんこいテレビ 制作)


下記のように、追加放送が決まりました。

福島テレビ
2013年03月03日(日)25:10‐26:05(夜中1時10分〜)


ぜひご覧くださいますようご案内申し上げます。

2013/02/02

成城学園と新渡戸稲造博士 その1

母校・成城学園同窓会のホームページで、
著書『新渡戸稲造ものがたり』を紹介していただきました。
掲載ページは、こちら
関係者のみなさま、ありがとうございます。

成城学園と新渡戸稲造博士は、少なからずご縁があります。
以下、現在までにわかった関わりについて簡単に紹介いたします。


1 成城学園創立者 澤柳政太郎先生と新渡戸博士

澤柳政太郎先生(1865年〜1927年)は、文部官僚、教育者として、
大正自由主義教育運動の中心的な役割を果たしました。

1909(明治42)年、新渡戸博士の「実業之日本」編集顧問就任に際して、
澤柳先生は、次のように書いています。
〈その精神の純潔なる、その思想の穏健豊富なる、口を衝いて出づるものは、
金玉の論、適切の教訓でないものはなかろう(略)。
同君が熱心に尽力されるならば、「実業之日本」が新渡戸博士を得たのは、
天下の名士を網羅してその名前を賛助者として掲ぐるよりも満足すべきであると思う。
予は将来「実業之日本」は新渡戸流の思想を鼓吹する雑誌とならんことを希望する、
これやがて我国の青年に対する健全なる指導者たるを以て任ずるに外ならぬ〉。
(「実業之日本」明治42年1月15日号より抜粋)

1917(大正6)年、澤柳先生は、「本当の教育」をめざして、
私立成城小学校を設立。大正自由教育の中心として全国から注目され、
学園として成長していきます。
さらに、澤柳先生は、第一次世界大戦後の欧米教育を視察後、
のちに新渡戸博士が理事長を務める「太平洋問題調査会(IPR)」
日本支部の理事にも就任しています。


2 小林宗作先生のリトミックと新渡戸博士のご令孫

新渡戸博士がスイスのジュネーブで国際連盟事務次長として活躍していたころ、
スイス、ドイツ、アメリカでは、エミール・ジャック=ダルクローズ(Émile Jaques-Dalcrozeのリトミックrythmique=運動によって音楽を学び経験するという
音楽教育の方法)が高く評価されていました。
成城学園幼稚園創設時の主任だった小林宗作先生(1893年〜1962年)は、
1922(大正11)年7月、ジュネーブで新渡戸博士に勧められ、
初めてリトミックに出会います。
小林先生は、一年間、ジャック=ダルクローズに直接学んだ後に帰国。
1925(大正14)年、澤柳校長を説得して、成城学園幼稚園を創設し、
リトミックを幼児教育に導入して、従来の型にとらわれず、
自由・個性を重視した保育をおこないました。
新渡戸博士は、「音楽教育でなすべきことは、演奏技術や技巧の訓練ではなく、
心情の育成である」という教育観をもち、小林先生は、成城学園で「心で音を聴く」
という感性の教育を実践され、日本におけるリトミックの基礎を築きました。

小林先生は、黒柳徹子さんの「窓際のトットちゃん」の先生(トモエ学園校長)
です。

新渡戸博士には、成城学園に通われた二人のお孫さんがいらっしゃいます。
故 新渡戸誠さん(10文甲)と加藤武子さん(6百合)のごきょうだいです。
ジュネーブ郊外の邸宅で新渡戸博士夫妻と同居されていた二人は、夫妻の薦めで、
リトミックの教室に通われたそうです。
ジュネーブから帰国後、二人は成城学園に入ります。
その入学に際しては、新渡戸博士が直接学園にでかけて話をされたのであろう、
と加藤武子さんは回想しています。

3 柳田国男先生と新渡戸博士

日本民俗学の創始者 柳田国男先生(1875年〜1962年)は、
成城学園との関わりが深く、成城大学正門近くに住みました。
成城学園には、「日本民俗学の祖」柳田国男先生の柳田文庫、
民俗学研究所があります。

柳田先生は、日本の農政学の先駆者だった新渡戸博士の影響を強く受けています。
1903(明治43)年、東京・小日向の新渡戸稲造邸で、
新渡戸博士とともに「郷土会」を催します。
貧困に苦しむ農民の救済と自立という共通の問題意識をもった二人が中心となり、
日本の農村のありかたや地方の保護について広く話し合う場でした。

1920(大正10)年から1922(大正12)年、
柳田先生は、欧米を視察し、新渡戸博士の推薦によって、国際連盟委任統治委員に
就任してジュネーブに滞在しました。
柳田先生は、当時、国際連盟事務次長としてジュネーブに赴任中の新渡戸博士から、
大学での聴講やヨーロッパ各地への旅行、文献購入を促され、
後年の活動の基礎を築きました。
また、二人は、ジュネーブで、エスペラント(特定の民族が有利または不利にならない
ように考えられた世界共通語)の普及にも力を尽します。
柳田先生は、後年、日本エスペラント学会の理事に就任しています。

柳田先生のご長男、為正氏も成城学園の卒業生です。
お茶の水大学教授(生物学)。