・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2011/10/28

『実業之日本』

渋沢史料館では、「渋沢栄一と『実業之日本』」企画展が開催中。
(2011年10月1日〜11月27日 主催:渋沢史料館 協力:株式会社実業之日本社)

『実業之日本』は、明治創業の出版社で、その雑誌には、新渡戸稲造博士も多くの
記事を寄稿し、編集顧問でもありました。



展示資料の中に、『実業之日本』第14巻 第5号の実物があり、自由に閲覧できるように
なっています。
その中で、稲造博士は、「居なくては困る人」という記事を書いています。
英語の「miss」という語について、いろいろな例をあげて説明しています。
missとは、動詞で、日本語にすると、「いなくて淋しい」というような意味です。
I miss you.は、「あなたがいなくて淋しいです」と訳すことができますが、
その文脈において、日本語に適切に訳すことが難しい語でもあります。

この号の巻末に、興味深いページをみつけました。

「名士面会希望投票発表」(『実業之日本』第14巻 第5号 p.71より抜粋)

会って話してみたい名士を三名、読者に投票してもらうという企画で、
その結果発表です。

投票数は、はがきが758通、封書が123通、合計881通。

第一位 大隈重信
第二位 新渡戸稲造
第三位 増田義一(『実業之日本』社長)
第四位 渋沢栄一
(以下省略)

新渡戸稲造博士に投票した人の中には、「私は、三人もの人にお会いしたい
とは思いません。ただ一人、新渡戸博士にだけ、お会いしてみたい」という
コメントを書いた人がありました。

2011/10/27

渋沢栄一氏との関係

太平洋問題調査会でともに尽力した渋沢栄一氏についての資料を閲覧するため、
東京・飛鳥山にある渋沢史料館を訪問しました。




大正9年4月、社団法人国際聯盟協会が日本で創立。
渋沢栄一氏がその会長となったので、当時、スイス・ジュネーブにあった国際聯盟
事務次長であった新渡戸稲造博士と関わることになりました。

世界の平和と親善を目的としたこの協会については、渋沢栄一氏の最も期待する
ところであり、新渡戸博士とつねに情報を交換し、その目的に向かって尽力しました。
(史料館図録「栄一をめぐる有名人の手紙」1984年より抜粋)

渋沢氏の日々の動きについては、当館所蔵の『渋沢栄一伝記資料』に日誌が掲載され、
渋沢氏が頻繁に国際聯盟協会の会合にでかけていたことがわかります。

また、渋沢氏の事業の一つだった青森県三本木渋沢農場の地は、かつて、稲造博士の祖父、
新渡戸傳が開拓したところでした。(いまは現存していません)

渋沢史料館(渋沢栄一記念財団)ホームページ
http://www.shibusawa.or.jp/index.html

2011/10/16

多磨霊園に眠る稲造博士ゆかりの人々

多磨霊園には、新渡戸稲造博士と関係の深い方々も眠っています。
稲造博士のお許しを得て(墓前でお知らせして)、長年の友人であった内村鑑三氏の
お墓にお参りしました。


そのほか、門下であった有島武郎(作家)、南原繁(政治学者、東大総長)、
矢内原忠雄(経済学者、東大総長)などのお墓も、ここ多磨霊園にあります。

稲造博士の命日

1933年(昭和8年)10月15日は、新渡戸稲造博士が、カナダで亡くなった日です。
(日本時間、10月16日)

稲造博士が、万里子(メリー)夫人らと眠る多磨墓地へお参りにでかけました。
10月15日(土)朝の東京は、朝から雲行きがあやしく、雨まじりの風が
ときおり吹き荒れていました。



東京女子大学同窓会などから、たくさんのお花が供えてありました。



お墓の近くには、新渡戸博士の銅像があります。


雨に濡れて、輝いて見えます。なにを思索されているのでしょうか。
昭和12年に許可を得て、新渡戸博士記念事業実行委員会(代表・田島道治)が
建てた記念碑です。
墓地の中を通るバスからも見ることができます。

午前10時、墓地に着くころには、雨が上がりました。

2011/10/04

東京外国語学校


念願の上京を果たした稲造博士(当時は、叔父・太田時敏の養子)は、元南部藩主による
共慣義塾に入学、そして、1875年(明治8年)、東京外国語学校の入学試験に合格しました。
東京外国語学校は、現在の東京外国語大学の前身で、現在の千代田区一ツ橋二丁目に
ありました。

皇居のお堀からもすぐ近く、まだ、12,3歳だった稲造少年は、ここで、どのような日々を
送ったのでしょうか。

この場所は、現在、如水会館(一橋大学)、学術センター、共立大学講堂などに
なっています。
高層ビルが立ち並び、舗装した広い道路には、多くの車が行き交っています。

学術センターの敷地に、碑が立っています。
当時を偲ぶことのできる唯一の目印となっています。