・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2013/12/25

同友クラブ「サロン講座/話題の本 ー著者に聞くシリーズ」

2013年12月24日(火曜日)
同友クラブ「サロン講座/話題の本 −著者に聞くシリーズ」
『新渡戸稲造ものがたり』       著者 柴崎 由紀

このたび、経済同友会の会員組織「同友クラブ」(パレスビル)にて
お話する機会をいただきました。
お天気に恵まれたクリスマスイブのこの日、緊張して会場に向かいました。

15時に予定通り始まり、下記のような内容で70分ほどお話しさせて
いただきました。

1 新渡戸稲造博士の生涯 2012年 生誕150年/2013年 没後80年  

  「ちょんまげに洋服を着せたような男」------------------------------
  世界初の国際平和機構「国際連盟」(いまの国連の前身)事務次長として、
  ユネスコの土台づくりなど、世界の平和と協調に大きく貢献、世界の人々
  の尊敬を集めた。国内では、多くの学校に関わり、人々を啓蒙したほか、
  男女協同参画(女子教育の重要性)、協同組合(助け合い精神)、生涯学習
  (学び続けることの大切さ)を広め、私たちの社会に、いまなお大きな
  影響を及ぼしている。
  
2 伝記『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、昭和を
  かけぬける- 』の出版 / 展覧会(鎌倉・銀座)

3 伝記の効用「一人の人物の生涯を通じて学ぶこと」
  日本の子どもたちへの思い

4 小さな旅へ「新渡戸博士の足跡を訪ねて」(ゆかりの地を写真でご案内)

最後に、国内外の写真を20枚ほどご覧いただき、質疑応答がありました。

このような機会をいただきました、加藤丈夫様(国立公文書館 館長)、
同友会の皆様、配布資料などをご準備くださいました事務局の方々に
心より御礼申し上げます。

ありがとうございました。






2013/12/16

藤田正一著 『日本のオールターナティブ』

このたび、北大の元副学長、藤田正一先生の新著、
『日本のオールターナティブ ---クラーク博士が種を蒔き、
 北大の前身・札幌農学校で育まれた清き精神---』(銀の鈴社刊)が
刊行されることになりました。

『日本のオールターナティブ 
 ---クラーク博士が種を蒔き、
  北大の前身・札幌農学校で育まれた清き精神---』
 
藤田 正一 著

 A5判、並製、360ページ / 本体価格2,400円+税
    2013年12月25日 発行

日本の進む道はこれで良いのか、他に道は無いのか。
日本の進むべきもう一つの道への道標がここにあった。

「明治の初年、当時の日本の北辺の地、人口2千人足らずの街、札幌に
アメリカ流の自由と民主主義を基調とした教育を行う学校、札幌農学校が設立された。
一方、首都東京には東京帝国大学が国の国家主義政策のもとに設立された
主流となったのは国家主義教育であった。が、オールターナティブ(もう一つの選択肢)
として札幌農学校の教育が圧力を受けながらも札幌の地に存続し続けた。
そこに植え付けられたピューリタン精神の理想主義は、伝統的な武士道精神と融和して
一つの精神となり、以降、この農学校精神が近代日本の国のあり方や人の生き方に、
常に、清きオールターナティブを提案し続けた。」(本文より)


表紙(北大のポプラ並木/撮影 藤田正一)





2013/12/15

講演「初代校長 新渡戸稲造先生の生涯から学ぶ」

2013年12月14日(金)13時30分〜
新渡戸文化中学・高等学校 講堂にて

「初代校長 新渡戸稲造先生の生涯から学ぶ」

新渡戸文化学園の生徒さんの前で、お話させていただきました。
学園長の森本晴生先生にご紹介いただいた後、自己紹介や伝記のお話、
途中で、「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」撮影した国内外の
写真もご覧いただきました。
貴重な機会をいただきました、新渡戸文化中学・高等学校の佐藤善一
校長先生、佐藤均教頭先生に、心より御礼を申し上げます。




概要
1 自己紹介
2 一人の人物の一生を学んでわかること
3 新渡戸稲造先生の足跡を訪ねて
  (写真による小さな旅)
4 新渡戸先生が教えてくれること

初代校長 新渡戸先生胸像(新渡戸文化学園)

とても緊張しましたが、よい経験になりました。
たとえ一人の生徒さんにとってでも、なにかヒントになる部分があったなら、
うれしいのですが・・・。
本日は、ありがとうございました。 

創立者 森本厚吉先生像
新渡戸文化学園(東京文化学園)は、女子経済専門学校として、
新渡戸博士の教え子、森本厚吉先生によって創立。
1928(昭和3)年4月、新渡戸博士は、初代校長になりました。
現在では、小学校から短期大学までの学園になっています。
新渡戸文化学園のホームページは、こちら




2013/12/01

「柳田國男の世界(二)ー日本人の心を探す旅ー」成城学園

2013年11月2,3日(文化祭)5〜30日(日曜/祝日 休館)
民俗学研究所創設40周年記念特別展
「柳田國男の世界(二)ー日本人の心を探す旅ー」
民俗学研究所展示ホール(成城大学4号館3階)
主催:成城大学民俗学研究所

昨年の11月におこなわれました「柳田國男(一)」では、
新渡戸稲造博士と柳田國男博士の関係なども紹介されていました。
今年度の展示では、主に後半生の功績などが展示されていました。


民俗学研究所 展示ホール
柳田國男先生 ブロンズ彫像(西常雄 作)

新渡戸博士と柳田博士の関わりについては、今年度の『新渡戸稲造の世界』
(新渡戸基金)に寄稿させていただきました「成城学園と新渡戸稲造博士」の中で
次のように紹介しました。

「 三 柳田國男先生と新渡戸博士

 日本民俗学の創始者といわれている柳田國男先生(一八七五年〜一九六二年)は、
日本の農政学の先駆者だった新渡戸博士の影響を強く受けています。
一九一〇(明治四十三)年、東京小日向の新渡戸稲造邸で、
新渡戸博士とともに「郷土会」を発足させます。
貧困に苦しむ農民の救済と自立という共通の問題意識をもった二人が中心となり、
日本の農村のありかたや地方の保護について広く話し合う場でした。
ほぼ毎月一回、さまざまな顔ぶれが集まり、新渡戸博士は、よきホスト役を務めました。
ゲストスピーカーを招いて新しい話を聞けるように取り計らったり、
少しばかりの会費を徴収してごちそうをふるまったりしたようです。

 一九二〇(大正十)年から一九二二(大正十二)年、
柳田先生は、欧米を視察し、新渡戸博士の推薦によって、
国際連盟委任統治委員に就任してジュネーブに滞在しました。
当時、国際連盟事務次長としてジュネーブに赴任中の新渡戸博士から、
大学での聴講やヨーロッパ各地への旅行、文献購入を促され、
柳田先生は後年の活動の基礎を築きました。
また、二人は、ジュネーブで、エスペラント(特定の民族が有利または不利にならない
ように考えられた世界共通語)の普及にも共に力を尽します。
柳田先生は、後年、日本エスペラント学会の理事に就任しています。


柳田先生のご長男の為正氏は、開校当時、新宿にあった成城小学校に入学。
その後、学園が現在の成城の地に移転した際、
ご一家は、父兄に分譲された土地を求めて、成城に移り住みました。
のちに、「日本の民俗学」確立の拠点となった柳田邸は、建て直されていますが、
現在も成城大学正門近くにあります。
最晩年まで研究の情熱を持ち続けた柳田國男先生は、
一九六二(昭和三十七)年八月八日、数え年八十八歳、成城で生涯を閉じました。
遺言により、成城大学に委託されていた蔵書はそのまま寄贈され、
「柳田文庫」が誕生しました。


 二〇一二(平成二十四)年十一月、成城大学民俗学研究所では、
柳田國男先生没後五十年、「柳田文庫」誕生五十年を記念して、
民俗学研究所特別展「柳田國男の世界」が開催されました。
柳田先生が成城に居を移され民俗学の創始へと向かう前半生を取り上げ、
新渡戸稲造博士との出会いや関わりなどについての展示もおこなわれました。
今年度は、民俗学研究所創設四十年特別展が開催され、
残りの後半生が紹介される予定です。」(おわり)

上記の記事については、成城大学民俗学研究所にご協力いただきました。
ありがとうございました。
成城大学民俗学研究所のホームページは、こちら


2013/11/23

『新渡戸稲造博士と安井てつ先生の出会い』

2013年11月22日(金) 東京 学士会館

東京女子大学同窓会 山田純子会長講演会
『新渡戸稲造博士と安井てつ先生の出会い』
ー東京女子大学卒業生が語るおふたりの精神ー

主催:武士道講演会
後援:北海道大学東京同窓会、東京女子大学同窓会、(社)札幌農学同窓会東京支部
協賛:エルム27会東京

講演会
1 開会 18時 司会 武士道購読会      三原晃一 氏
  主催者挨拶    武士道購読会主宰    齊藤昇三 氏
  講師紹介     東京女子大学前学長   湊 晶子 氏

2 ご講演

3 懇親会   司会 武士道購読会      桜庭慎吾 氏
  ご挨拶      東京女子大学前学長   湊 晶子 氏
           東京女子大学名誉教授  鳥山英雄 氏
  乾杯       北大東京同窓会副理事長
           国立保健医療科学院院長 松谷有希雄 氏
4 歓談
  スピーチ     恵泉女学園短期大学元学長 
           今井館教友会理事長   大山綱夫 氏
           東京女子大学同窓会理事 小尾充子 氏
           新渡戸稲造と遠友夜学校
           を考える会(札幌)   三上節子 氏
           同           中川厚雄 氏
           東京女子大学同窓会元理事
           日本翻訳家協会常務理事 叶谷渥子 氏

5 両校の校歌・寮歌斉唱



このたび、新渡戸先生と関わりの深い両大学の同窓会合同の催しに、
出席させていただくことができました。

東京女子大学同窓会会長の山田純子様より、新渡戸先生と安井先生の出会いに
ついてのご講演がありました。
お二人の生涯の共通点・相違点、信仰、職業・活動歴、そして、
1900年、パリでの出会い(新渡戸37歳、安井30歳)、
1918年、東京にて東京女子大学創立時の出会い(新渡戸55歳、安井48歳)。
さらに、東京女子大学の卒業生が語るお二人の人物像の分析など、
大変興味深いご講演内容でした。

その後の懇親会では、両大学同窓会の方々のご挨拶と乾杯、スピーチが
続き、「新渡戸稲造と遠友夜学校を考える会」の活動報告がありました。
札幌の遠友夜学校跡は、現在、その土地利用の方法について活動が始まって
います。(会長 秋山孝二 氏)

最後に、両大学の校歌・寮歌が披露されました。
東京女子大学の校歌は、同大学の同窓生の方々(女性)によって、
まるで賛美歌のような美しい歌声。
続いて、北大の「都ぞ弥生」(明治45年寮歌)を、北大の同窓生
の皆様(男性)が肩を組んで勇ましく歌いました。

「都ぞ弥生」を歌う北大組/聞き入る東女大組

対照的な二大学の校歌・寮歌を思いがけず楽しませていただきました。
ただ一人の傍観者となった私ですが、「新渡戸先生がここにいらしたら、
さぞ感慨深いことでしょう」と思いました。

このたびの講演会・懇親会に出席させていただきまして、ありがとう
ございました。関係者の皆様に御礼申し上げます。



2013/11/22

新渡戸博士のテレビ番組が「優秀賞」を受賞!

番組制作に協力させていただきました、新渡戸博士の特集番組が、
東北映像フェアでの受賞に続き、
全国地域映像団体協議会でも優秀賞を受賞!
めんこいテレビのみなさま、ご一緒に出演させていただきました
草原様、大森様に、あらためてお祝いを申し上げます。

尚、この番組は、先月、銀座教文館でおこなわれました、
没後80年展「新渡戸稲造を知っていますか」の会場でも放映させていただき、
来場者アンケートの結果でも、大変好評だった番組です。

2013年11月21日付け 「MSN産経ニュース」サイトより引用 ↓

めんこいテレビの特番が優秀賞 岩手
岩手めんこいテレビは昨年12月23日に放送した特番「スーツを着たサムライ
〜新渡戸稲造『武士道』伝説」が、全国地域映像団体協議会の今年度グランプリで
優秀賞に輝いた。
番組部門(放送番組)での受賞で、優秀賞は準グランプリにあたる。
番組は新渡戸の生誕150年を記念し、新渡戸の足跡を振り返る内容。
同局の番組審議会でも「緻密に取材している」「新渡戸を知る入門番組として
最適だ」など評価が高かった。今年6月には、第1回東北映像フェア2013の
番組部門で大賞を受賞している。
企画、脚本、プロデューサーを務めた工藤哲人(てつと)さん(35)は
「武士道を心の支柱に国際社会で活躍した新渡戸の魅力が少しでも伝わったと
思うとうれしい」と話した。
来年夏の新渡戸関連第2作製作に向け準備を進めているという。
///

MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/smp/region/news/131121/iwt13112102020000-s.htm

全国地域映像団体協議会(全映協)のサイトは、こちら
前回の東北映像フェアの受賞については、こちら

2013/11/07

少年よ大志を抱け!クラーク博士と教え子たちの北海道物語

NHK 歴史秘話ヒストリア(2013年10月30日放送)
「少年よ大志を抱け!クラーク博士と教え子たちの北海道物語」

【番組の内容(抜粋)】


クラーク博士は、1926年、マサチューセッツ州の裕福な医師の家に生まれる。
エリート校である、アマースト大学へ進学。その後、26歳で教授に抜擢され、
化学、植物学、動物学を教えた。
1867年(40歳)、マサチューセッツ農科大学を設立して学長に就任。
牛を育て、酪農に力を注ぐ。酪農は、このころ欧米でも最先端の分野だった。

1876年、日本から使者がやってきて「日本で酪農を教えていただきたい」と頼まれる。
当時の日本は戊辰戦争後で、多くの若者が傷つき、復興には、若者を教育することが
必要だった。しかし、学長が2年間留守にすることはできないと反対の声があがる。
クラークは、日本の置かれた状況に同情した。南北戦争で多くの教え子を
失った経験から(戦死者はアメリカ全土で62万人)、ぜひ未来ある若者たちに農業を
教えたいと考えたからである。
クラークは、「私は日本に行く。2年分の仕事を1年で終わらせて戻ってきます」
と宣言。愛する妻子を残し、日本の復興のために、遠く日本へ渡った。

1876(明治9)年、横浜に到着。24人の第一期生が札幌農学校に入学。
クラークは、「将来の日本を支える立派な技術者にしてみせる」と誓った。

当時、札幌農学校の入学生は、元武士の次男や三男。戊辰戦争の敗戦組が
ほとんど。農民と同じ仕事をすることに抵抗を感じていた子どももいた。
中には、連日のように酒を飲んで荒れる生徒もいて、授業もままならなかった。
開校から一ヵ月で5人が退学処分。多くの規則が作られた。

さらに、
アメリカの牧草を育てることに対し、酪農の経験のない農家の賛同を得られない。

クラークは生徒を集めると、大好きなワインを投げ捨て、禁酒を宣言したので、
生徒たちにも酒を禁止した。
クラークは、「Be gentleman!」だけを規則とした。

生徒たちは、「イエスを信ずるものの誓約書」に署名。

クラークの体当たりの熱血指導
野外学習で、めずらしい苔を発見すると、クラークは、自ら四つん這いになり、
「自分の背に乗って、苔を取れ」と主張し、日本人生徒たちを驚かせた。
次第に、教師と生徒という立場を越えて、強い絆で結ばれるようになった。
「教師と生徒との距離が近いこと」がクラークの魅力。

クラークが構想したモデルバーン(現在も北大構内に残る)は、
北海道全域で建設された。

現在の札幌市時計台は、もともと札幌農学校の「演武場」。
1877(明治10)年、クラーク博士の帰国が近づいたころ、西南戦争が始まる。
生徒たちのために、演武場を作り、自ら身を守る術を学ばせたかったのである。
南北戦争で、多くの学生たちを戦場で死なせてしまった後悔があったからだった。

別れの日。生徒たちは父を失うような思いだった。
馬上のクラークは、
「Boys, be ambitious, like this old man」
少年を大志を抱け、この老人(クラーク)のごとく。
と言い残して去っていった。教え子たちに残した最後のメッセージである。
(ここで、藤田先生が登場されていました)

アメリカに帰国後も文通を続け、教え子たちの教師であり続けた。

1885(明治18)年、58歳。体調をくずしていたクラークを新島襄が訪問。
(新島襄は、クラークの最初の日本人学生)
新島は、「先生は日本を深く愛していた」と書き残している。

翌年、クラークは亡くなった。(59歳)
「日本で生徒たちと過ごした日々が、私の人生において最良の時間だった」と
クラークは書き残している。札幌農学校ではその日の授業を取りやめ、
演武場で、教え子たちは、次々にクラークに感謝の言葉を述べた。
生徒たちは、「毎晩先生のところを訪ね、人生のさまざまなことを語った」
などと回想している。

その後、北海道の酪農は大きく発展した。
「少年よ、大志を抱け」のメッセージもいまに続いている。
(終わり)

新渡戸稲造は、札幌農学校第二期生。
クラークの指導は直接受けていませんが、クラークの後継者として来日した
アメリカ人教師たちによって、英語で教育を受けました。
「教師と生徒との距離が近いこと」。新渡戸博士は、これを札幌農学校で経験し、
その後、欧米の留学で実感し、その恩恵を受けたからこそ、自らの教育姿勢と
なっていったのではないでしょうか。





マサチューセッツ大学創立150年記念シンポジウム

このほど、藤田正一先生(北海道大学 元副学長、同名誉教授)が、
マサチューセッツ大学の創立150年記念シンポジウムで基調講演をおこない、
帰国されました。

マサチューセッツ大学The University of Massachusetts)

1863年創立のマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agriculture College)は、
現在のマサチューセッツ大学アマースト校の前身で、
第三代学長を務めたのが、ウィリアム・クラーク博士です。

クラーク博士は、マサチューセッツ農科大学の学長の時、日本政府からの要請を受け、

札幌に約8ヵ月滞在し、札幌農学校(現在の北海道大学)の基礎を築きました。
クラーク博士から直接指導を受けた札幌農学校第一期生(新渡戸博士と同郷の先輩、
佐藤昌介ら)そして、クラークのアメリカ人の教え子たちから教育を受けた、
第二期生(内村鑑三、宮部金吾、新渡戸稲造ら)以降の学生たちに、
その教育精神が受け継がれていきました。

マサチューセッツ大学のホームページは、こちらへ。(英語)

創立150年記念サイトは、こちら。(英語)

以下、藤田先生からの報告文をご本人の許可を得て掲載します。



演題は「Dr. W. S. Clark: Influence of His Educational Philosophy on Japanese Education
(クラーク博士の教育精神が日本の教育に及ぼした影響)」。
クラーク博士が日本を去った後、クラーク博士の精神がどのように札幌農学校に
受け入れられ、継承され、新渡戸稲造や内村鑑三を生み、
戦後、彼らの教え子たちが制定した教育基本法に影響を与えたかについて述べた。
これらはマサチュセッツ大学の人々にとって,初めて聞く話で、
非常に興味深かったようで、「論文に纏めてくれ」と言う申し出が何人からかあった。


2013/10/31

没後80年記念展 終了のお知らせと御礼

2013年10月31日(木)
銀座教文館で10月10日から開催されてきました展覧会、
没後80年記念展「新渡戸稲造を知っていますか ---世界が尊敬した真の国際人」
が、本日終了しました。
主催の教文館様、また、ご後援いただきました皆様に御礼を申し上げます。
また、ご来場者の皆様、時には台風の影響がある中、遠路、お忙しい中、
熱心にご覧いただき、アンケートやクイズにも大勢の方々が、ご協力して
くださいました。

教文館1Fエントランスでの紹介展示
展示とクイズ&アンケート専用「ポスト」
没後80年記念出版『新渡戸稲造事典』など関連書籍

また、待望の『新渡戸稲造事典』(教文館)が今月はじめに刊行になり、
会期中に、出版記念講演会/祝賀会も開催されました。
講演会は定員を大幅に増やすほどの盛況ぶりでした。
講演会のようすは、こちら
祝賀会のようすは、こちら


没後80年の記念すべき年に、東京で、という多くの皆様の思いが結集した
展覧会になりました。企画に関わらせていただき、ありがとうございました。




新渡戸先生も連日お疲れさまでした!笑




第15回後藤新平・新渡戸稲造記念「拓殖大学 高校生・留学生作文コンクール」表彰式

2013年10月27日(日)10:30〜 
第15回後藤新平・新渡戸稲造記念
「拓殖大学 高校生・留学生作文コンクール」表彰式
拓殖大学 文京キャンパス C館201教室

同コンクールの表彰式にお招きいただき、出席させていただきました。

心配していた台風もそ直撃を免れ、青空の広がる秋晴れの日を迎えました。


拓殖大学 正門


すでに受賞された生徒さんたちが着席されていました。


主催者挨拶
渡辺利夫様(拓殖大学 総長)
阿南惟正様(拓殖大学後援会 会長)

表彰状授与
渡辺利夫様(拓殖大学 総長)
松田陽三様(読売新聞東京本社 執行役員 広告局長)

講評
山田政通様(拓殖大学 副学長、高校生・留学生作文コンクール審査委員長)

渡辺総長のお話「人間は文章を書くことによって成長する」

「言葉と文章がなければ思考は成り立たず、思想は生まれません。
 言葉の使い方がいい加減であれば、それは思考がいい加減、
 言葉が曖昧だということは、その言葉を使っている人間の考えは曖昧だ
 ということなのです。
 自分の思考と思想をただす唯一の道は、言葉と文章を錬磨することです。
 言葉と文章をただすこと、これこそが、人間の成長の基本です。」
 (表彰式プログラムから抜粋)

生涯を通じて継続するべき、とても大切なことを教えていただきました。

受賞されたみなさんのスピーチも素晴らしく、身が引き締まる思いがしました。貴重な機会をありがとうございました。


表彰式の後の記念撮影



記念パーティー





今年度のコンクール応募総数は、昨年の約1200から1800に増加。

過去最多の1600も大きく上回ったそうです。

このたびの作文コンクールに先立って、伝記『新渡戸稲造ものがたり』の

拓殖大学オリジナル版を刊行させていただきました。
中身は既刊と同じですが、表紙は拓殖大学オリジナル、サイズを縮版、
上製を並製(ソフトカバー)に変更し、高校生・大学生にも手に取りやすい本に
なりました(非売品)。コンクールについての帯をカバーの上に巻いています。




表紙の肖像写真は、拓殖大学様所蔵のもので、

前袖(表表紙を折ったところ)に、渡辺利夫総長様のお言葉、
後ろ袖(裏表紙を折ったところ)に、大学案内が入っています。
関係者の皆様、本当にありがとうございました。


『新渡戸稲造事典』出版記念祝賀会

2013年10月22日(火)18:00〜20:00 
『新渡戸稲造事典』出版記念祝賀会
教文館9F ウェンライトホール

佐藤全弘先生のご講演、サイン会の後、同じ会場で、
『新渡戸稲造事典』(教文館発行)の出版記年会がおこなわれました。
このたびの祝賀会の発起人は、秋山孝二様、内川頴一郎様、湊晶子様、森本晴生様の
四人の方々です。



開会のごあいさつ
秋山孝二様(公益財団法人秋山記念生命科学振興財団 理事長)

乾杯のごあいさつ
内川頴一郎様(財団法人新渡戸基金 理事長)

ご祝辞
湊 晶子様(東京女子大学 前学長)
草原克豪様(拓殖大学 名誉教授)
大津光男様(普連土学園 財務理事)

花束贈呈
藤井花穂様(藤井茂様ご令嬢)より、佐藤全弘様へ
中野美帆様(佐藤全弘様ご令孫)より、藤井茂様へ

新渡戸稲造博士ご遺族・加藤武子様(新渡戸稲造ご令孫)からのメッセージ
(柴崎由紀 代読)

著者お二人のスピーチ
佐藤全弘様(大阪市立大学 名誉教授)
藤井茂様(新渡戸基金 事務局長)

おわりのごあいさつ
森本晴生様(新渡戸文化学園 学園長)



多くの関係者の皆様がご参集され、なごやかな会になりました。
皆様のお気遣いをいただき、慣れない進行役を務めさせていただきました。

小著、伝記『新渡戸稲造ものがたり』は、
佐藤全弘様の長年のご研究と著作、藤井茂様の励ましとご協力があり、
出版することができました。
あらためて、お二人に感謝とお祝いを申し上げます。



講演会「ユーモアの人、悲しみの人、新渡戸稲造」

2013年10月22日(火)15:00〜16:30
新渡戸稲造没後80年『新渡戸稲造事典』刊行記念講演会
「ユーモアの人、悲しみの人、新渡戸稲造」
講師:佐藤全弘(さとう まさひろ)大阪市立大学名誉教授
会場:教文館9F ウェンライトホール

没後80年記念展
「新渡戸稲造を知っていますか ---世界が尊敬した真の国際人---」が
おこなわれている教文館の9階ホールで、佐藤全弘先生の講演会がおこなわれました。

定員100名のところ、申込があとを断たず、定員を120名に増やしましたが、
「立ち見でもいいから」という希望者がいらっしゃるほどでした。

佐藤先生は、新渡戸研究の第一人者で、「新渡戸稲造全集」(教文館)の編集委員の
お一人でもあります。
このたび、待望の『新渡戸稲造事典』(佐藤全弘・藤井茂 共著/ 教文館発行)を
出版されました。その記念となる講演会。
佐藤先生のお話はこれまで盛岡や花巻では拝聴しましたが、今回は東京でお話を
伺える貴重な機会になりました。


講演後、サイン会にて


開成学園「『武士道』の授業」

2013年10月21日(月)15:00〜 開成学園(開成中学・高等学校)東京・西日暮里

この日、盛岡から上京された藤井茂様(新渡戸基金事務局長)と
開成学園の橋本弘正先生を訪ねました。
私は数年前に、私学教育の研究授業の視察に同校を訪ね、橋本先生のご講演も
聴きましたので、それ以来の訪問です。

橋本先生は、新渡戸稲造博士の代表的な著書である『武士道』を、同校の生徒たちに
教える教育を導入された方です。
当時の在校生の保護者のお一人で、英文学者の大森恵子様が橋本先生の依頼を受けて
翻訳され、教材としました。
その後、この教材は、新書『高校生が読んでいる武士道』(角川書店)として、
出版されています。
『武士道』は、新渡戸博士が37歳の時、アメリカで英語で出版されました。
さまざまな引用もされていて、一見難解な内容ですので、この解説書は
大変役に立ちます。
残念ながら、現在、同校では「『武士道』の授業」はもうおこなわれていませんが、
当時の子どもたちの感想文は、胸を打ちます。

大森様のご子息が開成高校を卒業されたのは、平成8年。
その後、しばらく続いた橋本先生の「『武士道』の授業」を受けた生徒たちは、
いま社会の中核となる年代になってきました。
橋本先生はその教え子たちの活躍を大変楽しみにされているそうです。

開成学園の校内を見学した後、校史資料室で杉野様、小宮様にお目にかかりました。
資料室には、卒業生の成績表なども保管されています。
開成学園創立140周年記念「ペンと剣の旗の下」の同窓生一覧には、著名な方々の
お名前が並んでいます。
新渡戸博士と関わりのあった、狩野亨吉、柳田國男らの名前もあります。

その後、みなさんとご一緒に、国立公文書館を訪問し、加藤丈夫館長を訪ねました。
加藤館長は、開成の卒業生で、学園長や理事長も歴任されています。
館長室からは、皇居や丸の内のオフィスビルが一望でき、素晴らしい景観です。
貴賓室で、大変貴重な公文書も見せていただきました。

とても充実した時間を過ごすことができました。
橋本先生をはじめ、開成学園の皆様に心より御礼申し上げます。

左から橋本先生、藤井様



田中舘愛橘博士 南部藩出身のもう一人の偉人

2013年10月20日(日)13:00〜 国際文化会館(東京・六本木)401室
田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)研究会

田中舘愛橘博士の令曾孫、松浦明会長と新渡戸基金の藤井茂事務局長の
対談を聴かせていただきました。
松浦様は、田中舘博士と約14年間、生活を共にされています。
日本航空協会ホームページに掲載されている松浦様の記事は、こちら

田中舘愛橘博士(1856年〜1952年)は、現在の岩手県二戸市の出身で、
世界的に活躍した地球物理学者。
東京帝国大学教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。
地震研究の先駆者であり、日本の航空学の祖、日本式ローマ字の考案者としても
知られています。

田中舘愛橘研究会会誌 2013年8月第3号 没後60年記念号
田中舘博士は、南部盛岡藩の藩校で学んだ後、
新渡戸博士も学んだ東京の共慣義塾に入学しています。

今回の対談では、藤井氏が、田中舘博士と新渡戸博士の関わりを中心に紹介
してくださいました。
同郷の田中舘と新渡戸は、子どものころ、郷里を離れた東京で出会っています。

「私は新渡戸博士とは同郷でありまして、子どものときから同窓であります。
 明治七年ごろであります。英語学校という所に通いまして・・・
 国訛りのずーずーで、気がねなくものを言う・・・お互い晩年に至るまで
 二人顔を合わせますとずーずー丸出しでしゃべった」
 (『実業之日本』昭和九年十一月号)上記、田中舘愛橘研究会会報誌p234より

新渡戸博士は、9歳になるころ、親元を離れて上京していますが、言葉に訛りが
あることで少なからず肩身の狭い思いをしていたようすを後年書いています。
同郷の友人たちとのずーずー弁での会話はさぞ心許すひとときだったことでしょう。

その後、別の道を歩んだ二人でしたが、およそ30年ぶりに再会。
新渡戸博士は、田中舘博士らが始めた「ローマ字ひろめ会」で講演をしたり、
新渡戸が一高(旧制第一高等学校)の校長時代、その校庭で、
田中舘博士(東京大学理学部教授)らは、グライダーの試験飛行をおこなっています。

新渡戸博士は、「国内で有名になるだけで満足せず、広く世界を見て、なにごとも
判断しなければならない」といつも説いていました。彼は、
世界の医学界で知られていた北里柴三郎、
物理学では、世界的に高名な田中舘愛橘を、高く評価していたのです。

1927(昭和2)年2月、南部同郷会は、「新渡戸博士歓迎・田中舘博士送別」の会を
開いています。新渡戸は、国際連盟事務次長の任期を終えて帰国、一方、田中舘は、
これからジュネーブに出発して、国際連盟の知的協力委員会(新渡戸が、キュリー
夫人やアインシュタインらをメンバーに発足、現在のユネスコの前身)の委員に
就任しました。

二人は、新渡戸博士が亡くなる1933年の春、最後の再会をしたと思われる記録が
残っています。藤井氏は、「この二人の巨人は、まさに心友(心の友)であった」
と話されました。

この日の会では、お茶の先生でいらっしゃる松浦夫人がお弟子さんと共に、
一人一人にお茶を立ててくださいました。台風の余波で雨模様だったこの日、
お茶碗も持参され、朝4時からお菓子職人が作った特注の和菓子も大変おいしく
心温まるひとときでした。

松浦様ご夫妻、藤井様、そして研究会の皆様に心より御礼申し上げます。
 




2013/10/16

没後80年展 好評開催中


10月12日(土)〜14日(祝・月)の連休も多くの方々がご来場くださいました。
ありがとうございます。

会場にて新渡戸博士がお迎えしています。



新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)
今年は、新渡戸稲造博士没後80年
命日は、10月15日(日本時間16日)訪問先のカナダで永眠

没後80年記念展
「新渡戸稲造を知っていますか」
2013年10月10日(木)〜31日(日)
10時〜20時(日曜のみ、13時〜)
会期中無休、入場無料 教文館主催
銀座 教文館3階 ギャラリーステラ

東京にある新渡戸博士ゆかりの学校様の所蔵品なども展示しています。
特集番組の放映やクイズもあります。
ぜひ、お立ち寄りくださいますようご案内申し上げます。


伝記『新渡戸稲造ものがたり』もたくさん並べていただきました。
関係者のみなさま、ありがとうございます。




講演会「友愛会・総同盟と新渡戸稲造」

2013年10月15日(火)14:00〜16:00
友愛労働歴史館(東京 芝公園)にて
講演会「友愛会・総同盟と新渡戸稲造」がおこなわれました。

講師は、芳賀清明氏(労働運動史研究者)

この地は、かつて、旧ユニテリアン教会・惟一館があった場所です。

1912(大正元)年8月、惟一館においてユニテリアンの鈴木文治(すずきぶんじ)ら
により友愛会(のちの総同盟・同盟、現在の連合)が創立され、ここは、
日本労働運動発祥の地となりました。

1914(大正3)年、新渡戸博士は、友愛会機関誌「友愛新報」に初寄稿するなど、
友愛会・総同盟のゆかりの人となっています。

1930(昭和3)年、新渡戸は、安倍磯雄、賀川豊彦、鈴木文治、吉野作造とともに
日本労働会館建設後援会を組織し、その建設を支えました。

友愛会の綱領を読むと、新渡戸博士が生涯を通じてめざした、
修養の大切さ、助け合いの精神を感じ取ることができます。

日本労働会館建設後援会のメンバー

友愛労働歴史館内の新渡戸博士コーナー