・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2013/05/02

唐人お吉と新渡戸稲造博士 お吉地蔵

2013年4月20日 下田の「お吉地蔵」

古奈温泉「東府や」さん、下田の宝福寺さんを訪問後、新渡戸博士がお吉さんを
慰めるために、お吉さんが身を投げたお吉ヶ淵に建立した「お吉地蔵」を訪ねました。

昭和8年、新渡戸博士が建立した「お吉地蔵」
新渡戸稲造博士は、カナダで亡くなる年、1933(昭和8)7月16日、下田を訪れ、
日米関係のために尽くしたお吉さんを偲んでいます。
その時、地蔵を石屋に注文し、お吉ヶ淵に建てるよう頼みました。
その地蔵尊の背面には、自身の最愛の母の命日にあたる「七月十七日」と刻むように
依頼したとされていますが、いまでは、摩滅して確認することができません。

「お吉地蔵」の背面
新渡戸博士は、結局、自ら建てたこの地蔵を見ることはありませんでした。
帰京後、カナダのバンフでおこなわれた第五回太平洋問題調査会の会議に
日本団を率いて出席。その後、カナダのヴィクトリアで静養していましたが、
ヴィクトリアの病院に入院、手術後、
同年10月15日(日本時間16日)、その生涯を閉じたのです。

今回訪問しました、下田の宝福寺さんについては、こちら
古奈温泉「東府や」さんについては、こちらをご覧ください。




唐人お吉と新渡戸稲造博士 宝福寺(下田)

2013年4月20日(土) 下田 宝福寺(下田開港時の仮奉行所)

アメリカ初代総領事ハリスのもとで奉仕することを命じられ、
恋人とも引き離されたお吉(斎藤きち)さんでしたが、大金の契約金を得たこともあり、
下田の人々から嫉妬と偏見の目で見られてしまいます。

斎藤きち(17歳のころ)
幕末の動乱に巻き込まれ、その後、1882(明治15)年、下田で小料理屋
「安直楼」(建物は現存)を開きましたが、数年で店をたたみました。
(お吉さんの没後、寿司屋として三代108年続き、現在は下田市歴史建造物)

史蹟 安直楼
1890(明治23)年3月25日(過去帳の記録では27日)の豪雨の夜、
お吉さんは下田川(稲生沢川)の上流で投身し、はかない生涯を閉じました。
どこも引き取りを拒んでいたところ、宝福寺住職の竹岡大乗師が快く引き受け、
お墓に葬りました。

宝福寺 入り口


宝福寺さんには、お吉さんのお墓と記念館があります。
記念館には、前田青邨画伯(1885年〜1977年、鎌倉にて没)が描いた「お吉の生涯」、
お吉の着物などが展示されています。

前田青邨画伯「お吉の生涯」の中の一枚

1933(昭和8)年7月、新渡戸稲造博士は、下田を訪れ、当時旅館だった
平野屋さんに宿泊し、次のように書き残しています。



さかりをふ
見る人多し
散る花の
あとを訪(と)うこそ
情なりけれ

稲造

宝福寺さんの竹岡宏子様から貴重なお話を伺いました。
ありがとうございました。

宝福寺ホームページは、こちら




2013/05/01

唐人お吉と新渡戸稲造博士 東府や

2013年4月20日(土)早朝、東京の自宅から伊豆下田へ向かいました。

新渡戸稲造博士は、亡くなる年、1933(昭和8)年の夏、太平洋問題調査会の
バンフ会議(カナダ)に日本代表として出席するために、
健康の不安をかかえながら、最後の旅に出ます。

その直前、多忙の中、7月にわざわざ下田を訪れています。
「唐人お吉」と呼ばれた日本人女性「お吉さん(斎藤きち)」を偲ぶためでした。

多忙なこの時期に、新渡戸博士はなぜ下田まで足を延ばしたのでしょうか、
それがずっと気になっていました。

途中、まず訪れたのは、伊豆古奈温泉「東府や(とうふや)」さんの中にある、
「唐人お吉館」です。


東府や「唐人お吉館」内の展示(一階)
「唐人お吉館」内に展示されている新渡戸博士の詠んだ歌
かつて、アメリカ総領事館初代領事タウンゼント・ハリスに仕え、
その後、不幸な人生を歩んだお吉さんに新渡戸博士は深く同情していたのです。

唐くさ(からくさ)(から竹)の
浮き名の下に枯れはてし
君が心は大和撫子

新渡戸稲造

お吉さんは、47歳の時に、伊豆最古の温泉、古奈温泉にて療養します。
心身ともに癒されたお吉さんを、東府やは、駕篭で下田まで送り届けます。
その時、天城越えで使った駕篭が、「唐人お吉館」二階に展示されています。


ここ古奈温泉は、徳川家康の側室「お万の方」が滞在したところです。
それまで子宝に恵まれませんでしたが、二人の子を授かりました。
(徳川頼宣・・・紀州徳川家の祖、および、徳川頼房・・・水戸徳川家の祖)

そのことから、古奈温泉は子宝の湯として広く知られています。