・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2013/09/26

第10回 新渡戸・南原賞授賞式

2013年9月24日(火)学士会館にて
18:00〜 授賞式、19:00〜 祝賀会 

今年度の新渡戸・南原賞授賞式にお招きいただき、出席させていただきました。
この賞は、公益財団法人秋山記念生命科学振興財団がおこなっている
褒賞事業の一つです。
新渡戸稲造博士と南原繁博士(新渡戸の教え子の一人で、東京大学初代総長)の
精神に学び、これを継承して次世代の育成を図るために、
平成16年、新渡戸・南原基金が設立され、財団が継承しています。
平和活動と教育実践に取り組む次世代に対する支援の充実をめざす事業です。
公益財団法人秋山記念生命科学振興財団(札幌)のホームページは、こちら

今年度の受賞者は、下記のお二人です。

角谷 晋次氏(学校法人 盛岡キリスト教学園 理事長、盛岡仙北町教会 牧師)
坪内 南氏(一般財団法人 教育支援グローバル基金 理事・事務局長)

お二人の継続した取り組みに感動し、学ぶことができました。
当日の様子は、こちら。(秋山記念生命科学振興財団のホームページ)



このような機会をいただきまして、ありがとうございました。

2013/09/18

『世界史における日本』 G.B.サンソム


『世界史における日本』 G.B.サンソム (大窪愿二 訳) 岩波新書80  1951年

原文タイトルは、Japan in world history
G.B.サンソム(George Bailey Sansom )

日本語版の序文は、矢内原忠雄氏(日本太平洋問題調査会理事調査委員長)
1951年9月1日に書いています。
「サンソムは、戦前東京のイギリス大使館員として日本滞在三十年に及ぶ著名の
外交官であり、戦時中は、ワシントン駐在公使、戦後は極東委員会イギリス代表の
要職にあった。
・・・1947年以後は、太平洋問題調査会国際調査委員長の任についておられる。」

矢内原氏は、サンソム氏のことを、
「外交官としてのみならず、日本文化史研究の最高権威の一人である」と
讃えています。

この本は、サンソム氏が1950年12月7日から五回にわたり、主催の東京大学で
おこなった連続公開講演の記録です。
その当時の東京大学総長は、南原繁。矢内原忠雄、南原繁は、ともに、
新渡戸博士の教え子でもあります。
(矢内原忠雄氏は、新渡戸が東大で担当していた植民地政策講義の後継者で、
 『武士道』の日本語訳者)
 

第五回「日本の将来にふれて」で、サンソム氏は、次のように述べています。
「私はこの寛容ということにこそ、人と人とのあいだにおけるように国民と
 国民のあいだに理解が成り立つ唯一の希望があると考えます。そして、
 理解のうちにこそ融合の唯一の希望があるのであります。」
 (『世界史における日本』p.113)

新渡戸稲造博士は、亡くなる数ヶ月前の第五回太平洋問題調査会の会議
(カナダ・バンフ)で、次のような内容の演説をしています。

〈「寛容(相手を理解して受け入れること)は、あらゆる進歩と人類福祉の
 根底深くにあるものである。文明はその大部分の成長を、この精神に
 負っている」〉 (『新渡戸稲造ものがたり』p.210)

2013/09/10

『ライシャワー自伝』東京女子大学と日本聾話学校

2013年9月10日(火) 伝記『ライシャワー自伝』

駐日大使を務めたエドウィン・O・ライシャワー氏(Edwin O. Reischauer)の
父は、アメリカ人宣教師で、新渡戸稲造や安井てつと共に、
東京女子大学を設立しました。

エドウィン・O・ライシャワーたち三人の子どもたちは、
いわゆるBIJ(Born in Japan=日本生まれ)。
エドウィンの伝記「My Life Between Japan and America(『ライシャワー自伝』)」
には、次のように書かれています。


『ライシャワー自伝』
エドウィン・O・ライシャワー 著 徳岡孝夫 訳 文藝春秋 1987年


〈 キリスト教徒で現在は五千円札の顔になっている新渡戸稲造、女子教育家の
 安井てつらの協力を得て、父は一九一八年に東京女子大学の創立に成功した。
 英語名をTokyo Woman's Christian Collegeというこの学校は、今日では学問的にも
 社会的にも日本の一流大学になったが、父はいつも非常な満足をもってその創設を
 語ったものである。
 母のほうは一貫して婦人矯風運動と貧しい人のためのセツルメント活動に熱心
 だったが、最大の業績は聾者を口話法(口の形で音を読み取る)で教える
 日本最初の学校を作ったことだろう。〉
 『ライシャワー自伝』p.43-44

エドウィンの父オーガスト・カール・ライシャワーについて、伝記『新渡戸稲造
ものがたり』には、次のように書きました。(p.154 注)

〈 A・K・ライシャワー August Karl Reischauer 1879年〜1971年
 東京女子大学の設立に大きく関わり、常務理事として財政を担当。夫人とともに
 日本聾話学校を(聴力に困難がある子のための学校)を設立。次男のE・O・
 ライシャワーは、のちに駐日大使。〉

ライシャワー家は、軽井沢でよく夏を過ごしていたことが知られています。
当時の外国人たちの多くも、そして新渡戸夫妻もまた軽井沢に別荘をもっていた
ので、軽井沢で両家の交流もあったかもしれません。
新渡戸夫妻の軽井沢の別荘については、こちら

『ライシャワー自伝』の中では、軽井沢で交流した中に、新渡戸博士の教え子
(第一高等学校)三谷隆信氏の姉で女子学院院長の三谷民子、軽井沢でテニスを
したカナダ人E・ハーバート・ノーマンが登場しています。

エドウィンは、後年、三谷隆信氏を侍従長として知ることになります。

三谷は、新渡戸の書生だった友人の田島道治(初代宮内庁長官)とともに
戦後の宮内庁改革に尽力することになるのです。