2021月3月 30日
例年になく早く満開を迎えた東京の桜が、いまは盛んに散っていきます。
後藤新平伯は、昭和4年4月13日に亡くなりました。
手元の資料の中に、昭和四年に雑誌「朝日」に掲載された、
「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る
の記事があります。その記事の冒頭には、
「惜しみなく散る桜とともに」逝ったとあります。享年74歳。
後藤の逝去を受けて、新渡戸が語った話によると、
後藤新平が新渡戸稲造に台湾での仕事を要請したのは、
「当時の農商務大臣であった曽根さんを通じて・・・」とありますが、
「いまだに私にわからないのは、あの遠いアメリカにいた私をどうしてわざわざ
呼んだかである。これだけはいまだにわからないのである」としています。
本多静六博士の自伝によれば、本多が推薦したとあります。詳しくはこちらへ。
新渡戸は、本多の推薦があったことを、ご存知だったのでしょうか。
いまとなっては、確かめようがありません。
この記事によると、後藤新平の思い出話は、尽きることがなかったようです。
新渡戸によると、後藤伯は、「よく眠り、よく食った人」のようです。
最後の二人の会食は、貴族院の食堂でした。同じ料理を注文して「実にうまそうに
食べた」後、後藤さんは、いつの間にか追加注文して、二人前の料理をペロリと
平らげて平気だったそうです。
「あの時の後藤さんの顔が、いまでもはっきりと眼の前にちらつく。親しみのある、
あのくすぐったそうな、温情のある、あの顔が」
4月13日 麻布桜田町にて 大澤 栄一
雑誌「朝日」第1号第6号(昭和4年6月)博文館