・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2014/08/27

「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」


この夏、久しぶりに軽井沢を訪れました。
現在の天皇皇后両陛下も、たびたび訪問されている、
軽井沢町立植物園や軽井沢草花館(両陛下とご親交があった故 石川功一氏の私設美術館)
を訪ねました。
植物園では、皇居より下賜されたキスゲが軽やかな花を咲かせていました。





軽井沢は、新渡戸博士にとっても大切な地であり、別荘地跡近くには、
「新渡戸通り」が現在もあり、また、新渡戸博士が後藤新平伯らとともに、
一般の人々の生涯教育のために創設した「軽井沢夏期学校」は、
現在も存続しています。
ブログでの関連記事は、こちらへ。

ちょうど時期を同じくして、文藝春秋誌で、両陛下と軽井沢についての
記事が掲載になりましたので、一部紹介します。

文藝春秋 2014年9月特別号
特別読物「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」
奥野修司 著

以下、同誌 p.115、116より抜粋

「象徴天皇」という言葉を読み解いていくと、GHQに押し付けられたのではなく、
国際的リベラリストで昭和天皇の信頼が篤く、クエーカー(キリスト教の
一派で絶対的平和主義で知られる)でもあった新渡戸稲造にたどり着く。

現憲法に大きな影響を与えたマッカーサーの秘書官ボナ・フェラーズは
新渡戸と同じクエーカーであり、当然新渡戸の本は読んだいたはずである。
ちなみに、天皇の人格形成に影響を与えたといわれるバイニングも
クエーカーである。
(筆者注:ボナ・フェラーズについては、こちらを。)

新渡戸は軽井沢に別荘を構え、いまも新渡戸通りにその名を残す。

新しく定められた象徴天皇を支えたのは、戦後、宮内庁長官になった
田島道治であり、侍従長になった三谷隆信だが、実は二人とも
新渡戸稲造の門下生である。
田島は、新渡戸家の近くに別荘を持っていて、皇居と同じように、
戦時中は軽井沢に疎開していた。
前出の前田多門とは親交があった。
(筆者注:新渡戸博士と前田家との関わりについては、こちらを。

戦後の皇室を支えた人物には、前田多門の他に安倍能成(学習院院長)、
田中耕太郎(最高裁判官)の名がしばしば登場するが、
大正七年(一九一八)、新渡戸が後藤新平と軽井沢夏期大学を開設したとき、
その運営にあたったのが、前田多門と鶴見祐輔らであった。

・・・こうして見ると、戦後の皇室には新渡戸人脈とクエーカー人脈が
深く張り巡らされ、軽井沢がひそかな舞台となっていたことがわかる。

・・・両陛下のリベラルな発想は、こうした人脈と無縁ではないだろう。
平成六年六月、ホワイトハウスで行われた歓迎式典で天皇が、
「新渡戸稲造博士は、自分の若き日の夢を『太平洋の橋』になることとして
 海を渡り、貴国の地に参りました」とわざわざ述べられたことからも
新渡戸の影響がうかがえる。

・・・五反田にある正田邸が解体されることが決まった平成十四年に、
皇后はこんな歌を詠まれた。

  かの町の野にもとめ見し夕すげの
  月の色して咲きゐたりしが
  (筆者注:この御歌の歌碑については、こちら。)

皇后が少女時代に過ごした軽井沢の別荘周辺には、ユウスゲが咲き乱れて

いたのだろうか。・・・ご実家である正田邸がなくなり、ユウスゲの花が
咲く軽井沢をあらためて思い出されたのだろう。

軽井沢で、植物園園長の佐藤邦雄から「開発がすすみ、あまり見られなく

なりました」と聞くと、皇居で育てたユウスゲから種を採取して、六年間、
毎年、軽井沢に届けた。

以下、略。



2014/08/25

山梨平和ミュージアム 石橋湛山記念館

2014年8月23日(土)

山梨県の「山梨平和ミュージアム 石橋湛山記念館」を訪問しました。



石橋湛山(いしばし たんざん)(1884年〜1973年)は、
平和・民権・自由主義を貫いた言論人であり、
また、一時、内閣総理大臣を務めた政治家でもあります。
石橋湛山は、東京で生まれ、生後まもなく父の転居にともない山梨に移り、
以後、上京する19歳まで、幼少期から青年期を山梨で過ごしました。

成長期の湛山に大きな影響を与えた人物の一人が、
大島正健(おおしま まさたけ)(1859年〜1938年)先生。
甲府中学(現在の甲府一高)の校長で、新渡戸稲造博士の札幌農学校時代の学友、
生涯の友の一人です。著書に『クラーク博士とその弟子たち』(教文館)など。
大島正健は、クラーク博士から直接教えを受けた第一期生、新渡戸は第二期生。

新渡戸の生涯の友、石橋湛山の恩師、大島正健


石橋湛山は、大島校長について、
「大島校長に会うことにより、クラーク博士の話を聞き、
 なるほど真の教師とはかくあるものかと感動した」
と回想しています。
(展示シートNo.4 「石橋湛山の生涯と思想」『湛山回想』参照)

石橋湛山の揮毫「Boys, be ambitious!」(甲府一高所蔵)

また、余談になりますが、新渡戸博士は、講演のため、甲府を訪れた際、
宝石(山梨の名産品の一つ)をあれこれ買い求め、お金がなくなり、友人の
大島校長に助けを求め、メアリー夫人にも「もう宝石はたくさんです!」と
あきれられたというエピソードが残っています。

2014/08/16

テレビ番組の紹介

『ジュネーヴの星~大友啓史が迫る新渡戸稲造の精神~』
 2014年8月23日(土)12:00~12:55
 BS フジ
 今年は日本とスイスの国交樹立150周年。
 両国の交流の歴史において一際輝きを放つ人物が岩手県盛岡市出身の偉人・新渡戸稲造。
 1920年代に国際連盟事務次長として国際平和の実現に向けて奔走し
 「ジュネーヴの星」と称えられた。
 新渡戸の活躍から80年あまり。
 映画「るろうに剣心」の大友啓史監督がスイス・ジュネーヴに降り立った。
 大友監督も盛岡市出身で、同郷の新渡戸に影響を受け
 「武士道」をバイブルに作品をつくってきたという。
 新渡戸の心の軌跡を追いかけ、
 日本をこよなく愛した画家バルテュスの妻でユネスコ平和のアーティスト、
 節子・クロソフスカ・ド・ローラや、
 旧新渡戸邸のあるフランク・ミュラー本社などを訪ねた。