2021年6月25日(土曜日)
軽井沢の旧軽井沢近く、新渡戸通り沿いにある新渡戸別荘跡地。
長年、空き地になっていましたが、近年、トラスコ中山株式会社様の保養地に
なったと聞いていましたので、行ってみました。
新渡戸通りから新しくできた建物を見ると、そこには、新渡戸博士の記念碑が
設置されています。
軽井沢らしい趣のある界隈で、苔むした低い石垣、通り沿いの木々はそのまま。
10年前の様子は、こちら。
学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
2021年6月25日(土曜日)
軽井沢の旧軽井沢近く、新渡戸通り沿いにある新渡戸別荘跡地。
長年、空き地になっていましたが、近年、トラスコ中山株式会社様の保養地に
なったと聞いていましたので、行ってみました。
新渡戸通りから新しくできた建物を見ると、そこには、新渡戸博士の記念碑が
設置されています。
軽井沢らしい趣のある界隈で、苔むした低い石垣、通り沿いの木々はそのまま。
10年前の様子は、こちら。
2021年6月21日
ノンフィクション作家で「昭和史を語り継ぐ会」を主宰されている
保阪正康氏の近刊を拝読しました。
戦後の一時期、首相を務めた石橋湛山は、新渡戸稲造の母校・札幌農学校
(いまの北海道大学)の第一期生・大島正健先生から影響を受けました。
山梨の第一中学校(いまの県立甲府第一高等学校)在学中、
校長先生として赴任してきたのが大島先生。
札幌農学校の流れは、 大島校長から石橋湛山にも受け継がれたのではないか。
山梨には、石橋湛山による書「Boys, be ambitious!」が残っています。
石橋湛山と大島正健についての過去の記事は、こちら。
著者は、『石橋湛山の65日』の中で、現在のコロナ禍を生きる私たちの状況を、
「民主主義の体制が崩壊して、自由が制限された社会で生きていることを
想像しただけでも息が詰まる。こういう時代が来ないように、日々、
現在のコロナ禍の社会から何がしかの教訓を学ばなければならないと、私は思う」。
と述べ、関東大震災後の石橋首相の記事を引用している。↓
(ここからは『石橋湛山の65日』p.295~ 引用)
『東洋経済新報』(大正12年10月1日号)の社説
「此経験を科学化せよ」
とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまう
と指摘した上で、次のように書くのである。
「我輩の見る所に依れば、今の我国民は、全体として、
斯かる場合に甚だ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(ひっきょう=結局)、
日本国民は、わっと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いて善く考え、
共同して静かに秩序を立て、地味の仕事をすることには不適任である。(中略)
我国は、今回の災害に依り、あらゆる方面に人為の更に大に改良すべきものを発見する。
と同時に此災害は、随分苦き経験であったが、併し之を善用すれば、所謂、
禍を転じて福となすの道は多いのである」
この経験を「科学化(データの整理や予防策など)」して将来に残さなければ
ならない、とも強調している。さらに「亡びゆく国民なら知らぬこと、いやしくも
伸びる力を持つ国民が、これくらいの災害で意気阻喪しては貯まるものではない」
とも断言している。
・・・(中略)
国家がコロナ禍に対応し、個人が人生観を懸けてコロナ禍と向き合っている時、
石橋の思想や言論がもっとも価値があり、頼りがいがあると私は考えている。
本書でも繰り返しているが、石橋は首相としての在任がわずか六十五日である。
近代日本史の上では最短に近い。しかし私は、「最短の在任、最大の業績」と
思っている。
・・・(中略)
石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性を
教えた。首相が何を目指し、どのような方向に、この国を率いていくのか、
そのことを国民は知る権利がある。それは首相を目指す政治家が日頃から信念を
発信する姿勢を持たなければならないということだ。
石橋を範とせよ、と強調しておきたいのである。
(巻末の石橋湛山略年譜より主に鎌倉関連を抜粋)
明治17(1884)年、東京都生まれ
明治34(1901)年、大島生健が山梨県立第一中学校の校長として赴任
明治35,36年、旧制第一高等学校の受験に不合格
<筆者注:新渡戸は、のちに同校校長を務める。
岩波茂雄は、明治34~37年、旧制一高に在学>
明治37(1904)年、早稲田大学文学部哲学科に入学
大正8(1919)年、鎌倉町海岸通りに転居
大正11(1922)年、鎌倉町大町蔵屋敷705番地に転居
<筆者注:現在の御成町20番地。御成小学校とその付近>
大正12(1923)年、関東大震災により居宅被災
鎌倉臨時復興委員会委員を委嘱
大正13(1924)年、湘南倶楽部(信用購買利用組合)の設立に参画し、
常務理事に選任。
鎌倉町長会議員選挙において第三位で当選。
昭和3(1928)年、任期満了で辞任。
昭和16(1941)年、東洋経済新社の代表取締社長に就任
昭和21(1946)年、衆議院選挙で落選、第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任
昭和22(1947)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
公職追放令、新宿区下落合4-1712に転居
昭和26(1951)年、公職追放解除
昭和27(1952)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
昭和29(1954)年、第一次鳩山内閣で通商産業大臣
昭和31(1956)年、石橋湛山内閣成立
昭和32(1957)年、石橋湛山内閣総辞職
昭和33(1958)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
昭和36(1961)年、日中米ソ平和同盟案を発表
昭和48(1973)年、自宅にて死去。88歳
(引用終わり)
このほか、『石橋湛山の65日』には、興味深い、政治の舞台裏も描かれています。
著者の保阪氏も繰り返し述べていますが、もし石橋首相が病に倒れることなく
続投していたら・・・。
いまにつながる政治体制、さらには、国民の政治に対する姿勢までもが
違っていたのではないだろうか。そんなことも考えさせられました。