・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2020/01/14

ハヴァフォード大学の新渡戸奨学基金

2020年1月14日

以前、ハヴァフォード大学に「新渡戸」の名前を冠した
日本人留学生のための奨学金制度があると聞いたことがあり、
調べてみたことがありました。

「Haverford College Bulletins, 1969-70」
(この印刷物は、Internet Archiveで閲覧することができます)

上記のp.183に、Inazo Nitobe Scholarship Fund(新渡戸奨学基金)として、
次のような説明が掲載されています。

Established in November, 1955, under the will of Anna H. Chace, 
the income to be used and applied for the education at Haverford College 
of a Japanese student who shall be a resident of Japan and 
the time of his appointment to such scholarship and for his traveling expenses 
from and to Japan and his living expenses during the period he shall hold such scholarship.

実際にその基金を提供したAnna H. Chaceという人物について、
Rhode Island Historical Societyによる説明では、
Chace Family Papers Of Philadelphia and Rhode Islandとして、
次のように記されています。

Historical note:

            Jonathan Chace (1829-1917) was born into a prominent Quaker family in Valley Falls, R.I. His father was textile manufacturer Harvey Chace (b.1797), and his mother was Hannah Wood Chace (1800-1833). Harvey Chace was a nephew of famous abolitionist Elizabeth Buffum Chace and had himself been active in the Underground Railroad. Jonathan settled in Pennsylvania, where he established a dry goods business, and met and married Jane C. Moon (1831-1914). They had two daughters: Anna H. Chace (1856-1945) and Elizabeth M. Chace (1868-1955). Neither of the daughters ever married.
            Jonathan eventually returned to Rhode Island, and served as U.S. Representative from 1881 to 1885. He was elected U.S. Senator in 1885, and resigned in 1889. In 1910, he and his family moved from their residence in Central Falls to 190 Hope Street on the east side of Providence.
            Both the daughters, Anna and Elizabeth, led active interesting lives, and seem to have generally acted together, with Anna perhaps the more frequent traveler while Elizabeth tended to stay in Rhode Island. According to their obituaries, they were both active in the international peace movement, and traveled frequently to Geneva as observers at League of Nations sessions. They both also remained devout Quakers.

2019/12/28

上皇陛下とハヴァフォード大学

2019年12月

この秋、上皇陛下のご学友のお一人、ロバート・東ケ崎氏が
亡くなりました。
東ケ崎氏は、上皇陛下と共に、ヴァイニング夫人の教えを受けた生徒の
一人です。
ヴァイニング夫人は、新渡戸稲造博士ご夫妻と同様、クエーカーです。

上皇陛下は、皇太子時代に、アメリカ、および、クエーカーの思想に
触れていることになります。
ハヴァフォード大学は、クエーカーの学校の一つで、
クエーカーに関する資料館もあります。

数年前に、同大学を訪問した時の紹介は、こちらへ。


1953年、上皇陛下(当時は皇太子19歳)は、ハヴァフォード大学の学生だった
東ケ崎氏を同大学のキャンパスにお訪ねになり、ヴァイニング夫人とも再会しています。

再会の写真(左から、ヴァイニング夫人、陛下、東ケ崎氏)、および、
出典のウェブページ(ハヴァフォード大学ブログ)は、こちら

また、新渡戸博士ご夫妻のご養子(孝夫)は、同大学で学んでおり、
新渡戸博士もかつてここを訪ねています。

なお、ローバート・東ケ崎氏のお父様は、東ケ崎潔氏。
1961(昭和36)年、アジアで初めてロータリークラブの国際大会が
開催された時、昭和天皇と皇后陛下(上皇陛下のご両親)は、初日に
出席され、昭和天皇は、お言葉を述べています。
続く1967年、東ケ崎潔氏は、全世界のロータリークラブの会長(アジア人で初めて)
に就任したほか、ジャパンタイムズの社長、国際基督教大学の初代理事長などを
歴任されています。

2016/06/13

「新渡戸君の結婚問題」

2016年6月12日(日)

『財界回顧』池田成彬 述 世界の日本社 昭和二十四年七月二十五日

第二章 慶応大学とハーヴァード大学
p.35〜36より

・・・ハーヴァードの教育の革新だというのは、
グリーク(ギリシャ語)、ラテンというものは御承知のように
西洋では、大變(大変)なもので、それをやらなければ学生として
問題にならんといわれておったのを、私に対し特に免除したというので、
新聞はエリオット総長の英断をほめて書き立てたものでした。
序でに(ついでに)セイヒン・イケダという日本の学生の名が方々の
新聞に出たもんだから、私の所へ知らない人から手紙が来て、
えらくセンセーショナルなものになりました。
その時に新渡戸稲造君がフィラデルフィヤでそこの馬車鐵道會社社長の
娘さんを奥さんに貰いました。その當時日本人というと軽蔑されておった
時ですから、これもビッグ・ニュース。私の學校のことが載った直後に
又新渡戸君の結婚問題がフロント・ページにでかでかと出たものです。

以上、同書から引用。( )は筆者加筆。


2014/01/14

「アジア太平洋共同体の可能性」入江昭先生のご講演

2013年度 国際交流基金賞を受賞されました、
入江昭先生(ハーバード大学名誉教授)の記念講演会が、
2013年10月28日、国際文化会館(東京・六本木)で開催され、
聴講させていただきました。

演題「アジア太平洋共同体の可能性」

このたび、NHKラジオ第2で、その講演が公開されました。
(再放送は、2014年1月18日午前6時〜)

講演の中で、入江先生は、「国家中心ではなく、人と人とのつながりを
重視すること」の重要さを強調されていました。
また、「国家単位の歴史ではみえないものがある」として、近年、
新しい歴史の見方があること、また、ご自身も『新世界史』(全6巻)の
刊行に関わっていらっしゃることも明らかにされました。

入江先生は、戦前にも、欧米中心ではない対話関係の構築が、アジア太平洋地域で
開戦直前までおこなわれていたことにも触れました。
これは、新渡戸稲造博士が日本代表を務めていた、太平洋問題調査会の活動を
指しています。

「徹底的にハイブリッド化(雑種化)することはいことだと思う」と
おっしゃっていたのが印象的でした。
(ハイブリッド=hybrid、元々の意味は、2つ以上の異質のものが組み合わさって
 一つを成すこと)
つまり、雑種文化としてみると、アジア太平洋地域は進んでいて、いち早く、
めぐりあいによって雑種化し、知的なつながりがありました。

「歴史の事実は一つ」なのだから、たとえば、中国と日本が同じ教科書を
使うことで、一般の人たちが、歴史を共有するという機運が高まれば、と
結んでいらっしゃいました。

入江先生の受賞および記念講演会については、こちら(国際交流基金のサイト)。

入江昭先生について、ご著書『歴史を学ぶということ』(講談社現代新書 2005年)から
ご紹介します。
ーーーーーーーーーーーー
入江昭先生は、1934年、東京の護国寺近くでお生まれになり、10歳で終戦。
成蹊高校をご卒業後、グルー基金によって、
アメリカの私立大学の名門ハヴァフォード大学に留学されました。
優秀な成績でご卒業、ハーヴァード大学の大学院に奨学生として入学。
以後、歴史学者としての道を歩みます。
1960年、前田光子様とご結婚。
(お父様は、新渡戸博士の教え子 前田多門氏のご長男、前田陽一氏。
 祖父 前田多門、父 前田陽一、叔母 神谷美恵子、各氏については、こちら。)

入江先生は、その後、シカゴ大学(約20年間)などで教鞭をとられました。
ご専門は、米国外交史、国際外交史。
ーーーーーーーーーーーーー
この本には、歴史学者としての国際的なご経験やお考えが書かれており、
大変勉強になりました。
ちなみに、新渡戸稲造博士の養子の孝夫氏も同大学に留学しています。
ハヴァフォード大学については、こちら。(2013年夏に訪問)

夫人の入江光子様は、永井荷風の作品を英訳されています。

入江様ご夫妻とご親交のある高木規矩郎氏が、今回の受賞についてなど、
ご自身のブログに書いていらっしゃいます。
(高木様と私は、鎌倉ペンクラブでご一緒させていただいています)

ブログ「鎌倉の世界登録遺産を考える」の「入江昭先生のこと」は、こちら


2013/07/16

パイン・ストリートの家

2013年7月14日 フィラデルフィア


スプルース・ストリートの家

2013年7月14日 フィラデルフィア

1891年(明治24)年1月1日、若き日本人留学生だった28歳の新渡戸稲造は、
アメリカ人のメアリー・エルキントンと、フィラデルフィアで結婚しました。
当時、二人が出した招待状によると、式のあと、スプルース・ストリート
(Spruce Street)の家に近親者を招いています。


その家は、番地もそのままに、残っていました。
ワシントン・スクエアに近い静かな住宅街です。
タウンハウスになっていますので、表面は大きくありませんが、後ろ側に
延びた造りになっています。

アーチストリートの飲水槽

2013年7月14日 フィラデルフィア

メアリーが所属していたアーチストリート(Arch Street)のミーティングハウス
のすぐ前の歩道で、興味深いものをみつけました。
石で作られた水槽か噴水のようです。
ちょうど通りかかった観光案内の人が説明していた話を聞いてみたところ、
かつて、馬車などが交通手段として使われていたので、その馬のための
飲水槽だったということでした。

左がミーティングハウスの塀、右に飲水槽

「PHILADELPHIA FOUNTAIN SOCIETY. INSTITUTED A.D. 1865」(裏面では1869)
 と彫ってありますので、もしその時に設けられたものなら、
1857年生まれのメアリーが幼少のころからあったことになります。

車道(馬の側)から見た飲水槽

すぐに思い出したのが、1915(大正4)年、新渡戸夫妻が発起人となって
始まった「日本人道会」です。

〈 ・・・欧米式の動物愛護精神を日本に広めるという大きな役割がありました。
 子どもたちや警察官に対する動物愛護の教育、牛や馬のための飲水槽
 (水飲み場)の修理や設置、動物愛護週間(牛馬を愛する日)を定めるなど、
 さまざまな活動をしました。〉
 『新渡戸稲造ものがたり』p.147

もしかしたら、幼いときから通っていたミーティングハウスの前にある
この飲水槽のことを覚えていて、日本での飲水槽設置につながったのかも
しれません。


この写真は、ミーティングハウスの中に掲示されていた古い写真の中の一枚。
アーチストリートに馬車が行きかい、塀の向こうには、ミーティングハウスの
建物が見えます。ちょうどこの左手のほうに、この飲水槽があります。
この馬たちもそこで水を飲んだのでしょうか。

結婚式がおこなわれたミーティング・ハウス

2013年7月14日 フィラデルフィア

アーチストリートのミーティング・ハウスで、日曜礼拝に出席、内部を見学させて
いただきました。
1891(明治24)年1月1日、新渡戸稲造とメアリー・エルキントンは、ここで
結婚しました。建物は、当時のまま、今日でも使われています。



ハウスの中には、ウィリアム・ペンの働きをあらわした人形劇、
その時代の物などの展示品などもあります。


2013/07/15

当時のフィラデルフィア

2013年7月13日 フィラデルフィア

〈 ペンシルヴェニア州(Pensylvania)フィラデルフィア(Philadelphia)は、
 イギリス人クエーカー、ウィリアム・ペン(William Penn)が建設した地で、
 もともと「ペンの森」という意味です。フィラデルフィアは、「兄弟愛」と
 いう意味で、宗教の違いで争うことのない、自由な町を作ろうという理想を
 もって築かれ、フレンド派の町としてよく知られています。〉
 『新渡戸稲造ものがたり』p.65〜66より

フィラデルフィアの街の中心に建つ市庁舎の最上部には、ウィリアム・ペンの像が
街を見下ろしています。


新渡戸博士は、札幌農学校の教授時代に、『ウィリアム・ペン伝』(1893年)、
『建国美談』(1894年)を書いています。

新渡戸博士が留学し、結婚した当時のフィラデルフィアについて調べるために、
フィラデルフィア・フリー・ライブラリーに行きました。
ここで、当時の地図で住所表記の確認、当時の街の写真を閲覧しました。

ジョンズホプキンズ大学留学時代に、フィラデルフィアを訪れていたのは、
1884年〜1887年のころです。そして、ドイツ留学を終えて、フィラデルフィアで
結婚したのが、1891年1月1日です。

地図のセクションで相談すると、大きなアトラスの地図を二つ出してくれました。
1885年版と1908年版です。そして、係の人が一緒に目的の住所を探してくれました。
現在の地図と見比べてみても、住所表記の変更はないようです。

アトラスの地図『フィラデルフィア』1885年


1890年代のフィラデルフィア('Still Philadelphia'より)

当時の写真を見ると、新渡戸博士の過ごしたころのフィラデルフィアが
まだまだ発展途上の街だったことがよくわかります。




2013/07/14

スワースモア大学

2013年7月12日 スワースモア(Swarthmore)

昨日に続き、朝早く電車で郊外へ。
今日は一日、スワースモア大学(Swarthmore College)で過ごす予定です。
昨日訪問したハヴァフォード大学、ブリン・モア大学、そして、スワースモア大学は、
協定校で、学生たちは、在籍している大学以外の二大学でも単位を取得する
ことができます。
スワースモア大学の「フレンズ・ヒストリカル・ライブラリー
(Friends Historical Library)」は、クエーカーに関する世界一のコレクションを
誇っているようです。
新渡戸夫人の実家エルキントン家も、多くの資料を寄贈しています。
どんな資料を閲覧させていただけるのか、楽しみです。

スワースモア大学正門

フレンズ・ヒストリカル・ライブラリー
Nitobe、Elkintonの名前がついているフォルダーボックスがたくさんあります。


多くの写真、私信、記録・・・
内村鑑三からメアリー夫人へのはがき、オークベイビーチホテルや
軽井沢の別荘のレターヘッドで書かれた手紙など。

新渡戸博士が、1891年に札幌から義弟ジョセフに書いた手紙もありました。

〈 細長い封筒に入った彼らの直筆の文字は、何度も太平洋を越えていきました。
 メアリーの弟ジョセフに稲造が書いた一通は、三メートル近い長さに
 及ぶものもあったそうです。〉
 『新渡戸稲造ものがたり』p.85より
(同書p.159に、来日したジョセフの写真掲載)

和紙の巻紙に、毛筆で英文を延々と書いています。

そして、そのジョセフの妻、サラ(Sarah P. Elkinton)が書いた一冊の厚いノート。
メアリーから送られてきた手紙を書き写した記録です。
当時は、手書きで記録を残すことが、一族の伝統であった、との説明でした。



そのほか、一日ではとても目を通せないほどの豊富な資料を閲覧させて
いただきました。ありがとうございました。





2013/07/13

ブリン・モア大学

2013年7月11日 ブリン・モア(Bryn Mawr)

この日は、朝早くフィラデルフィアのホテルを出発し、
オーバーブルック、ハヴァフォード、そして、最終目的地の
ブリン・モアに向かいます。
ハヴァフォード大学で、「たった2マイルよ」と聞いたので、
歩き始めましたが、夕方とはいえ炎天下の中、一時間近くもかかって
しまいました。
やっと着いたブリン・モア大学のキャンパスの美しさに目を見張りました。


まるで、中世のイギリスに迷いこんだような感じです。
なだらかな芝生の谷の向こうにお城のような校舎がそびえたっています。

この大学では、新渡戸博士の友人だった津田梅子(津田塾大学の創設者)や
教え子だった河井道(恵泉女学園の創設者)が学びました。
大学図書館で、津田梅子氏の在学当時の写真を見せていただきました。

ブリン・モアの駅から帰途に着きました。
この日は朝から多忙な一日でしたが、親切な方々に出会い、充実した時間を
過ごすことができたことに感謝しながら、フィラデルフィアに戻りました。



ハヴァフォード大学

2013年7月11日 ハヴァフォード(Haverford)

オーバーブルックで、フレンズ・セントラル・スクールと
フィラデルフィア日本語授業補習校事務所を訪問した後、
ハヴァフォード大学(Haverford College)を訪ねました。
新渡戸稲造、夫人の実家エルキントン家、クエーカーに関する資料は、
主にハヴァフォード大学と、スワースモア大学に保管されています。


ハヴァフォード大学は、1833年創立の伝統ある私立名門大学。
徹底した少人数教育をおこなう名門リベラル・アーツ大学です。
こじんまりとした美しいキャンパスです。
新渡戸博士の養子・孝夫(よしお、稲造の姉・喜佐の次男)は、
この大学を卒業しています。

Magill Library

Quaker & Special  Collections in Magill Library

ここでは、貴重な資料を閲覧・撮影させていただきました。
新渡戸博士の著書の初版本もいくつかあり、初めて、手にとって見ることが
できた本もあります。

'Reminiscences of Childhood' 表紙


'Reminiscences of Childhood' 見返し

'Editorial Jottings' 表紙
'Editorial Jottings' 見返し

新渡戸稲造、メアリー・エルキントンの結婚式の記録も閲覧。
式の様子、出席者名一覧が書かれていました。
出席者の中には、日本人の名前と思われる三名の名前がありました。

閉館まで滞在、このあと、ブリン・モア大学へ向かいます。

フィラデルフィア日本語補習授業校

2013年7月11日 オーバーブルック

フィラデルフィア日本語補習授業校は、フレンズ・セントラル・スクールの
本館(旧モリス邸)で、週末に日本人の子どもたちのための授業と、
日本語の補習をおこなっています。
今年の4月に着任された徳光茂校長先生のお迎えで、車で5分ほどのところに
ある事務所に連れて行っていただきました。
事務所には、今年の春まで教員をされていた、二美代バッタ(Fumiyo Batta)様も
お越しくださり、お二人にお話をうかがうことができました。


徳光校長先生は、北海道のご出身、海外の日本人学校の校長先生に就任された最初の
勤務地が台湾だったそうで、偶然にも新渡戸博士とゆかりの地にご縁があります。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』を同校に寄贈させていただきました。
新渡戸博士と深い関係のある旧モリス邸で学ぶ日本の子どもたちに、
ぜひ、その生涯を知ってもらえたらと願っています。


愛校歌

同校の愛校歌「よき友をもちて」は、聖路加国際病院の日野原重明先生の作詞・作曲で、
バッタ様と日野原先生のご縁から、寄贈いただいたものだそうです。

新渡戸博士は、生前、鎌倉の別荘を聖路加にお譲りになり、現在は、聖路加看護大学
セミナーハウスになっています。
「新渡戸稲造→旧モリス邸→日本語補習校→日野原先生→聖路加→鎌倉の新渡戸別荘」
と、ぐるっとつながった感じがします。


バッタ様は、海外在住が長く、また、声楽家(ソプラノ)でもあります。
日本のゆかたを夏服として、素敵に着こなしていらっしゃいました。
軽やかな装いを、記念撮影。

引き続き、お二人と昼食をご一緒させていただいた後、思いがけず、
ハバフォード大学まで車で送っていただきました。
徳光校長先生、バッタ様、ありがとうございました。
貴重な出会いに感謝しています。

フレンズ・セントラル・スクール

2013年7月11日 オーバーブルック(Overbrook)

フィラデルフィアから電車で郊外に向かいます。
楽しみにしていた、フレンズ・セントラル・スクール(Friends' Central School)
訪問です。

オーバーブルック駅




この学校には、旧モリス家が残され、本館として利用されています。
モリス夫妻は、日本人留学生たちを頻繁に招き、新渡戸博士も
将来の妻となるメアリーとここで出会っています。
新島襄、野口英世、津田梅子、内村鑑三らも集った邸宅です。

旧モリス邸正面玄関(現フレンズ・セントラル・スクール本部)
ここでは、歴史の教師Mr.Joel Dankoffと、学校本部のMr.Dwight Dunstenの
お二人が案内をしてくださいました。
Joelの話では、この建物はもともと1862年(新渡戸博士生誕の年!)に
建てられましたが、1892年にほとんど建て直されるほどの大規模な改築が
おこなわれたそうです。
なるほど、1862年に建てられた建物は、写真でよく見ると造りが違います。
そして、当時の建物の内部の写真が現存していないので、
いまとなっては、様子がわからない、とのことでした。

残念ながら、若き稲造青年とメアリーが出会った建物ではありませんが、
雰囲気のある美しい建物です。

旧モリス家 正面玄関(内側から撮影)
玄関のステンドグラスには、もともとの建物が建てられた年「18(左)62(右)」が
入っています。


旧モリス邸 階段の踊り場にあるティファニー製ステンドグラス

一般の家に、ステンドグラス、それもティファニー社のものがあるのは、大変
めずらしいことで、一時は、世界一の会社といわれたペンシルヴァニア鉄道を
経営していたモリス家の裕福さを象徴しているとのことでした。

フレンズ・セントラル・スクールがこの地に移転してきたのは、1925年とのこと。
現在、3歳から18歳まで800名ほどの在校生のうち、
クエーカーの比率は、生徒の5%、教職員の15%程度なのだそうです。

Joel(左)とDwight(右)
親切に案内してくださったお二人。
写真のご提供もいただきました。ありがとうございました。
この部屋は、Joelのクラスルーム。週末は、日本語補習校で使用されています。
日本語の図書がたくさんありました(写真後部)。

このあと、日本語補習校の徳光校長先生が、お迎えに来てくださり、
補習校の事務所に移動です。