・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2016/10/31

作文コンクール表彰式

2016年10月30日(日曜日)

第18回 後藤新平・新渡戸稲造 記念
拓殖大学 高校生・留学生 作文コンクール
表彰式

拓殖大学 文京キャンパス(東京都文京区)
後藤新平・新渡戸稲造記念講堂
10:30 〜

今年もさらに応募数が増え、総応募数1538作品の中から、
高校生の部(後藤新平賞)入賞は42、留学生の部(新渡戸稲造賞)19作品
と伺いました。
受賞者のみなさま、おめでとうございました。
学生のみなさまの作品、スピーチは、感動的でいつも勉強になります。
今年も授賞式、記念パーティーにお招きいただき、ありがとうございました。

2016/10/28

「続 あの人の直筆」

2016年10月25日(火曜日)
国立国会図書館(東京都・千代田区)東京本館 新館展示室
平成28年度 企画展示
「続 あの人の直筆」

フロアレクチャーに参加しました。
講師は、季武(すえたけ)嘉也 氏
(創価大学文学部教授 国立国会図書館客員調査員)

「文化財の行方」「文字について」「江戸時代の鑑定」のお話のあと、
実際の直筆文書を解説いただきながら、見学しました。
新渡戸稲造博士は、【第三部 近現代】の教育家として、
直筆文書一点が展示紹介されていました。

そのほかに、近現代の人々としては、
後藤新平、石橋湛山、賀川豊彦、新島襄、柳田國男、夏目漱石、
朝倉文夫の各氏など、新渡戸博士ゆかりの方々の直筆も展示。

新渡戸稲造
展示資料番号 69
新渡戸稲造書簡 昭和2(1927)年7月16日 
請求記号 鶴見祐輔関係文書(書簡の部)514-4

「鶴見祐輔あて」と紹介されていますが、実際には、
東京帝国大学教授時代の教え子である鶴見祐輔が刊行した
『北米遊説記』を読んだ感想を、出版社「大日本雄弁会講談社」の便箋に
書いた書評と思われる。
日付は、昭和2(1927)年7月16日、消印は同日、軽井沢。

内容は、
「・・・一般社会は海外の奉仕の如何なるものかを知らぬ。
 外国働きをする者は、単に才能や手腕に長ずるだけでは事たらぬ。
 心中、確信と犠牲と奉仕の念の強きを欠くべからざる条件とする」
(以上、一部抜粋)

1927年は、国際連盟事務次長を退任して帰国した翌年。
海外での自身の働きについての思いも重なる内容である。
また、「鶴見の後継者となるべき人物の出現に期待」している。

展覧会は、11月12日(土曜日)まで。展示替えもありますが、新渡戸博士の
直筆は会期中ずっと展示の予定。



2016/10/18

ご命日

2016年10月16日(日曜日)
多磨霊園(東京都)

新渡戸稲造博士のご命日にあたる10月15日(日本時間16日)。
今年は週末に重なりました。

今年も、ゆかりの学校/同窓会からのお花がたくさん供えられていました。

2016/10/10

『20世紀における女性の平和運動』

2016年10月 読書メモ

『日本女子大学叢書1 
 20世紀における女性の平和運動
 ーーー婦人国際平和自由連盟と日本の女性』
中嶌 邦 ・ 杉森 長子 編
2006年5月 ドメス出版

「婦人平和協会」という平和の文字を全面に掲げて
最も早く始まった女性団体の活動を中心にとりあげた論文集。
協会成立へ大きな影響を与えた成瀬仁蔵および新渡戸稲造と
その夫人メアリーの動向、協会の結成と活動の展開など。
(千代田区立図書館のHPより)

1910年代、新渡戸稲造博士および成瀬仁蔵先生(日本女子大学
創設者)やそのまわりの人脈から始まった日本における女性の平和運動が
アメリカや世界の動きに呼応するように発展、新渡戸博士の
教え子たち(上代タノ先生や河井道先生)によって、継承されて
いったこと、そして、新渡戸博士が、国際連盟事務次長を務めた
国際連盟とともに、国際組織の一つとして活動してきたことなど、
女性平和活動の活発な展開が興味深い。

目次
第一部
女性の平和運動への触発 成瀬仁蔵の平和思想と活動 / 中嶌/邦‖著
婦人平和協会へ向けて 新渡戸稲造夫妻と成瀬仁蔵 / 小塩/和人‖著
婦人平和協会の結成と活動の展開 / 杉森/長子‖著
婦人平和協会と第二次世界大戦 / 杉森/長子‖著
日本における婦人国際平和自由連盟の国際総会開催 / 蟻川/芳子‖著
WILPFと国連 / 秋林/こずえ‖著

第二部 年表より

1919(大正8)年1月
国際問題研究会発足(新渡戸稲造邸)
目賀田逸子(目賀田種太郎夫人、勝海舟三女)、
新渡戸萬里子(新渡戸稲造夫人)、
津田梅子(新渡戸博士の友人、津田塾大学創設者)らの呼びかけにより、
井上秀子、上代タノ、羽仁もと子(自由学園創設者)、
塚本はま子など数十人参加。

1920(大正9)年1月
国際連盟発足

1921(大正10)年7月10日〜14日
第三回国際会議(ウィーン、参加21カ国222人)
日本から新渡戸萬里子らが参加。
第一次世界大戦で敵味方だった諸国の婦人たちが、
平和のための努力を誓い合う

1923(大正23)年6月
国際会長ジェーン・アダムス来日

1924(大正24)年5月17日
第4回国内総会(門野重九郎邸)
講演「ジュネーブ湖畔に開く世界市民の集まり」
新渡戸萬里子

1926(大正15)年5月8日
第6回国内総会
講演「太平洋問題について」
鶴見祐輔

同年7月8日〜15日
第五回国際会議(ダブリン、参加20カ国151人参加)
日本支部代表として上代タノが出席、初めて支部報告をおこなう
「平和へのつぎの段階」
上代タノ

1927(昭和2)年5月21日
第7回国内総会(ドイツ大使館)
講演「平和を将来する人々」
河井道

1928(昭和3)年5月18日
第8回国内総会(大阪ビルディング講堂)
講演「世界の平和と婦人」
新渡戸稲造

1930(昭和5)年6月6日
第10回国内総会
第二代理事長 河井道

1931(昭和6)年
懸賞論文発表「拓け国際協力への進路を」
日米児童画交換開始
満州問題メッセージカード2500枚配布
世界軍縮誓願者署名運動など

(以上、新渡戸博士関連を抜粋、1932年以降は省略)

新渡戸稲造博士の教え子の一人、河井道先生(恵泉女学園創設者)は、
理想とする女子教育の柱に「国際」を掲げていらっしゃいました。
「少女たちが、外国のことを知るようになれば、戦争はなくなると
考えていました。」(『新渡戸稲造ものがたり』より)

やがて母親になる少女たちが、海外のことにも目を向け、平和の尊さを
知ることで、そして、その思いが世界中の女性たちからも芽生え、
響き合い、一つになれば、戦争の悲劇はいつかなくなるのではないでしょうか。
そんな共通の思いを強く感じられる先人たちの活動を知る機会になりました。

2016/10/04

『明治大正昭和の人々』佐佐木信綱

『明治大正昭和の人々』佐佐木 信綱 著
 図書出版株式会社/新樹社 昭和36年1月30日 発行

この本には、佐佐木信綱先生が関わった実に多くの著名人について
紹介されています。

以下、読書メモ

p.80 新渡戸稲造

明治42年の春の竹柏会では、新渡戸博士にご講演を依頼。
新渡戸博士は、「ファウスト物語について」という題で話され、
「敷島の道に心得のない私が、こういう会で出ますことは、忠臣蔵の芝居に
 弁慶でも出るように、あまりに釣り合いのわるいことで・・・」と
おもしろく前置きをされ、話を進められた、と書かれています。

しかし、博士は、敷島の道を心得られないのではなく、学生の会合とか
結婚式などには、たびたび、訓誡(くんかい=物事の善悪、是非を教え諭すこと)
の古歌を引用された。

注・竹柏会(ちくはくかい)=歌誌「心の花」を発行する短歌結社(佐佐木信綱主宰)

(中略)

三村起一氏の結婚披露宴(上野の精養軒)では、
(佐佐木先生は)媒酌人 新渡戸博士の前の席に座られた。


注・三村起一(1887年〜1972年)は、一高から東京帝国大学法科卒の実業家。
  住友鋼業初代社長、日経連、経団連の理事なども歴任。

(中略)

軽井沢にいたある夏の夕べ、霧の深い山荘に、博士を訪ねたことがある。
喜んでお迎えくださり、歌語りに時を過ごし、さて帰ろうとして玄関に出た
ところへ、夫人が帰って来られた。
博士は、自分を、歌の道に何十年をささげた人であるというふうに夫人に
紹介され、夫人の答えを訳して聞かせてくださった。
それは、短い言葉であったが、意味の深い言葉であった。

///
新渡戸稲造先生についての部分のみ、抜粋(一部書き直し)。注などは筆者。



佐藤昌介先生ゆかりの地とお声

2016年10月1日(土曜日)午後

市民のための「新渡戸教室」の終了後、
市内の佐藤昌介先生ゆかりの地にご案内いただきました。

市民のための「新渡戸教室」 花巻新渡戸記念館

2016年10月1日(土曜日)
10時30分〜
花巻市立 花巻新渡戸記念館

市民のための「新渡戸教室」
「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」 柴崎 由紀

朝一番の新幹線で、東京駅から新花巻駅に向かいました。
東京は小雨の降るお天気でしたが、東北に近づくにつれて
空が高くなり、すっきりした青空の広がる新花巻駅に到着。
この日は、国体の初日。46年ぶりの岩手県での開催です。
天皇皇后両陛下も、すでに花巻にご滞在中です。

新渡戸稲造博士のご先祖の地 花巻の花巻新渡戸記念館にお招きいただき、
下記のような内容のお話を準備しました。

1 はじめに(自己紹介)

     伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

        ・ルーズベルト大統領からの贈物「時計」(花巻新渡戸記念館で展示)
   と 鎌倉の河野家についてご紹介

2 小さな旅へご案内
     「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」
  アメリカ・イギリス(ロンドン)・スイス(ジュネーブ)・カナダ
  ~ 非公開資料と取材裏話 ~

  ・約50枚の写真をご覧いただきながら、小さな旅へご案内

3 一人の人物の生涯を通じて学ぶこと
  日本の子どもたち/若者たちへの思い

4    新渡戸稲造夫妻と山室軍平・山室機恵子(花巻出身)夫妻

5 質疑応答(Q&A)

この日は、宗徧流のお茶の先生がたが、お茶席をご用意くださり、
来館者さんたちは、お菓子とお茶も楽しみました。

晴天の休日、そして、国体開会式の日にもかかわらず、お参加いただきました
市民の方々、嶽間澤 茂 館長様、菊池喜一 副館長様をはじめ、ご関係者の皆様に
心より御礼を申し上げます。

2016/09/07

シンポジウム「新渡戸稲造の精神をどう活かすか」

2016年9月4日(日曜日)

地域博物館シンポジウム
新渡戸稲造の精神をどう活かすか
〜新渡戸記念館の現状と未来への挑戦〜

東京文化財研究所セミナー室(東京都台東区)

開会 日髙 真吾 国立民族学博物館文化資源研究センター准教授
主催者 あいさつ
来賓  あいさつ 安倍昭恵 首相夫人
         コシノジュンコ ファッションデザイナー

第一部 基調講演
1 新渡戸稲造と文化の力 〈キャンセル〉 青柳正規 前文化庁長官 
2 新渡戸記念館を活かした歴史まちづくりについて考える
             三井所清典 芝浦工業大学名誉教授

第二部 パネルディスカッション
新渡戸記念館の価値をどう地域の未来に活かすか
コーディネーター 半田昌之 公益財団法人日本博物館協会専務理事
パネリスト    世界の中の新渡戸記念館
         前田耕作 アフガニスタン文化研究所 所長
         生田勉 建築としての価値
         笠覚曉 金沢工業大学教授
         地域博物館としての価値
         矢島國雄 明治大学教授
         外国人の視点から見た価値
         マンリオ・カデロ サンマリノ共和国特命全権大使
         十和田市民の視点から見た新渡戸記念館問題
         保土沢道是 新渡戸記念館を守る会
         新渡戸記念館の所蔵資料の特長
         角田美恵子 新渡戸記念館ボランティア(学芸員)
(敬称略)

会場にて、
パネル展示「新渡戸稲造が残した小さな博物館「新渡戸記念館」の魅力 
〜資料・建物・地域〜


建築物として、地域博物館として、また、所蔵資料の継承と活用について、
それぞれのご専門、視点からの広範で多角的なご発表で、大変勉強になりました。

今後、新渡戸稲造博士の志に沿う方向で、保存・活用されるよう願っています。
会場で、また懇親会では、さまざまなお話を伺う貴重な機会になりました。
ありがとうございました。


2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/08/06

神谷美恵子さんのこと

2016年8月

読書メモ

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』
大谷 美和子 著 くもん出版 2012年12月

神谷美恵子氏(1914年〜1979年)は、皇后美智子様を精神的に
お支えした方として知られています。(旧姓は、前田)
新渡戸稲造博士の教え子の一人、前田多門氏のご長女です。

ご両親(前田多門・房子)のご縁をとりもったのも新渡戸博士です。
お母様は、普連土学園のご出身。

新渡戸博士が、国際連盟の事務次長としてジュネーブに在住していた
1923年、父・前田多門氏が国際労働機関(ILO)の日本代表として
ジュネーブに赴任。
幼かった子どもたちを連れて、ジュネーブにやってきました。
美恵子氏は、両親が慕う新渡戸博士にかわいがられ、
『武士道』のフランス語版をプレゼントされています。

伝記『新渡戸稲造ものがたり』では、
文字数(全体の文量)を少なくするために、やむを得ず、
神谷美恵子氏についての記述も、当初の原稿から削らなければ
なりませんでした。
けれども、『新渡戸稲造ものがたり』を読んでくださった知人の中に
神谷美恵子氏の教え子や、大きな影響を受けた方がいらっしゃること
がわかり、嬉しい驚きでした。

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』は、
神谷美恵子氏の生涯がわかりやすくまとめられた一冊。
神谷美恵子氏が、結婚前にペンドル・ヒル(アメリカ・ペンシルベニア州)
で過ごしたことを知りました。
ペンドル・ヒルは、クエーカーの人々が学ぶ学寮。
ここで、彼女は世界中からやってきた人々から感化を受け、
将来の自分の歩む道を模索した時期を過ごしたようです。
彼女もまた、クエーカーの信仰に影響を受けた一人といえるかもしれません。

彼女の代表的な著書『生きがいについて』を
あらためてじっくりと読んでみたいと思っています。

2016/08/03

クラーク博士の関連文書が札幌市文化財に。

2016年8月3日(水曜日)

本日の岩手日報に次のようなニュースが掲載されています。

クラーク文書 文化財に 新渡戸署名の「契約」も 札幌市指定

札幌市は、北海道大の前身・札幌農学校の初代教頭クラーク
(1826〜86年)が起草し、盛岡市出身の新渡戸稲造や、内村鑑三らが
署名した「イエスを信じる者の契約」や聖書など、クラークゆかりの
キリスト教関連文書7点を、市の文化財にこのほど指定した。
札幌市によるクラーク関連の文化財指定は初めて。
市によると、いずれも札幌市中央区の札幌独立キリスト教会が
所有する。


2016/07/25

拓殖大学に「台湾研究センター」開設

2016年7月23日(土曜日)

このたび、拓殖大学様に「台湾研究センター」が開設になり、
その記念シンポジウムにお招きいただきました。

拓殖大学 文京キャンパス
後藤新平・新渡戸稲造記念講堂にて
主催:拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター

大変興味深い内容のご講演でした。
特に、羅福全氏のご生涯には、感慨深いものがありました。
日本の統治時代の台湾に生まれ、日本の教育を受け、その後、
アメリカで学び、国連で活躍されました。
現在は、何年間も帰ることができなかった台湾に戻り、ご夫妻で
幸せな日々を送っていらっしゃいます。
この日は、夫人もご一緒に会場に元気にお見えになりました。

第一部
記念講演「台湾と日本のはざまに生きて」 
羅福全 (元 台北駐日経済文化代表処 代表)

第二部
基調講演

鶯歌庄文書研究の意義―同風会に関する文書から見る日本統治期台湾の基層社会
玉置充子(拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター専任研究員)

Ⅱ.
日本統治時代に日本商人がもたらした台湾社会近代化の諸相
陳柔縉(コラムニスト)

今後の同センターのご発展を祈念いたします。

このたびは、貴重な機会をありがとうございました。

2016/07/20

1900年のパリ万博

2016年7月16日 有田(佐賀県)

九州滞在中のこの日、初めて有田にご案内いただきました。
有田焼きで有名なこの地を訪問するのを大変楽しみにしていました。

深川製磁様の忠次館で、思いがけず、1900年パリ万博に出品し金賞を受賞した
大花瓶を拝見することができました。

忠次館の内部 右奥にパリ万博で受賞した大花瓶

深川製磁様発行の資料(左が受賞作品の大花瓶)

新渡戸稲造博士は、このパリ万博で審査員をされました。
1900年1月、アメリカにて、英語による『武士道』を出版、
同年4月、パリで審査員。
夏ごろまでヨーロッパに滞在し、ジャンヌ・ダルクの史跡なども
巡っています。

◆1900年第五回パリ万博◆ 
1900年4月15日〜10月12日
入場者数:5086万1,000人(国会図書館ホームページより)


今年(2016年)は、有田焼き創業400年。
長い伝統を現代に引き継いでいます。

レンガの壁が美しい忠次館

忠次館 入口

◆深川製磁◆
1894(明治27)年、深川忠次氏により設立。
「世界一のやきもの作り」をめざしました。
1900(明治33)年、パリ万博に出品した2メートルにも及ぶ、対の大花瓶
「染錦金襴手丸紋鳳凰文様」は、高い工芸性と洗練されたデザインが評価され
金賞 Medaille D'or (gold medal) を受賞しています。
同社は、その伝統を現在も受け継ぎ、皇室のご注文品も制作しています。

このたびは、明治時代から使用されている工房も特別に見学
させていただきました。


貴重な木造建築、そして、人から人へと伝承され続けている技術など、
伝統の素晴らしさを実感しました。
また、資料室にて、歴代の貴重な作品を拝見させていただきました(非公開)。
素晴らしい機会を本当にありがとうございました。



テレビ番組「フィンランドで見つけたBUSHIDO」

2016年7月

岩手めんこいテレビさんが、開局25周年記念番組として、
「フィンランドで見つけたBUSHIDO 〜新渡戸稲造と平和の島〜」を
制作されました。

約100年前、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造博士が解決に導いた
国境問題。その時の「新渡戸裁定」は、成功事例として、現在も
語られています。

◆放送日
2016年7月30日(土)14:00〜14:55 めんこいテレビ
2016年8月20日(土)14:00〜14:55 BSフジ

2016/06/13

新渡戸博士の農業思想

2016年6月 読書メモ


『現在に生きる日本の農業思想 安藤昌益から新渡戸稲造まで』
2016年1月30日 ミネルヴァ書房


第一章 グローバル化のなかの農業思想
    内村鑑三と新渡戸稲造     並松 信久

第二章 二宮尊徳思想の現代的意義
    幕末期の農村復興に学ぶ    並松 信久

(第三章 中国における尊徳研究の動向と可能性)
    
第四章 安藤昌益の人と思想
    直耕・互性・自然       三浦 忠司

「新渡戸君の結婚問題」

2016年6月12日(日)

『財界回顧』池田成彬 述 世界の日本社 昭和二十四年七月二十五日

第二章 慶応大学とハーヴァード大学
p.35〜36より

・・・ハーヴァードの教育の革新だというのは、
グリーク(ギリシャ語)、ラテンというものは御承知のように
西洋では、大變(大変)なもので、それをやらなければ学生として
問題にならんといわれておったのを、私に対し特に免除したというので、
新聞はエリオット総長の英断をほめて書き立てたものでした。
序でに(ついでに)セイヒン・イケダという日本の学生の名が方々の
新聞に出たもんだから、私の所へ知らない人から手紙が来て、
えらくセンセーショナルなものになりました。
その時に新渡戸稲造君がフィラデルフィヤでそこの馬車鐵道會社社長の
娘さんを奥さんに貰いました。その當時日本人というと軽蔑されておった
時ですから、これもビッグ・ニュース。私の學校のことが載った直後に
又新渡戸君の結婚問題がフロント・ページにでかでかと出たものです。

以上、同書から引用。( )は筆者加筆。


2016/06/07

ムーミンの著者トーヴェ・ヤンソンが描いたフィンランド

2016年6月5日(日)

日本では、あまりにも有名なキャラクター「ムーミン」。
その作者トーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)氏(1914〜2008)は、
スウェーデン系フィンランド人として、ヘルシンキに生まれた。
もともと画家として活躍し、当時に政治風刺雑誌「ガルム」にも
多くの絵を描いています。

20世紀前半のフィンランドが置かれた状況は、歴史、文化、地理などの
影響により複雑なものでした。
そんな中、1921年に国際連盟にその解決を委ねたのが、オーランド諸島の
帰属問題でした。当時、事務次長で国際部長だった新渡戸博士は、
その裁定をおこないました。
国際連盟がおこなった紛争解決の中で、成功事例として、
いまにも伝えられている「新渡戸裁定」です。

『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界 ムーミン・トロールの誕生』 
(冨原眞弓 著 青土社 2009年5月)から、以下を引用します。

p.68〜「オーランド解放区」

 フィンランドには一種の解放区がある。オーランド諸島である。
バルト海の多島海域に浮かぶ約6500の島嶼(とうしょ=大きな島や小さな島)
の総称で、スウェーデンの首都ストックホルムとフィンランドのトゥルク
(スウェーデン時代の首都オーボ)の中間に位置する。
1809年にフィンランド本土とともにロシアに割譲されるまでは、
歴史的にも文化的にもスウェーデン王国の一部であった。
住民のほとんどがスウェーデン語を話し、フィンランドではなく
スウェーデンへの帰属意識のほうが強い。ロシア領となってからも、
自分たちはスウェーデン人だと思っていた。本土のフィンランド人とはことなり、
フィンランド人かロシア人かというジレンマは存在しなかった。

 フィンランドがソヴィエト=ロシアから独立したのちも、オーランドの
帰属をめぐって、フィンランドとスウェーデンは争った。この紛争の決着に
道筋をつけたのは、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造である。
1921年、ジュネーブ本会議で「新渡戸裁定」が承認された。
オーランドはスウェーデン語の使用、スウェーデン文化や習慣の維持、
内政自治を手に入れた。

 フィンランドは、オーランドを領有する権利とひきかえに、
オーランドに内政自治を保障する義務を課せられた。スウェーデンは
得るものがなかった。オーランドの非武装・中立化のほかには。
フィンランドとスウェーデン双方の痛み分けで、オーランドの希望が
ほぼ認められた。現在も、オーランドがフィンランドとスウェーデンを
つなぐ重要な中継地だ。今日、フィンランドからスウェーデンへの移住を
希望するものは、かならずといっていいほどオーランドに五年とどまる。
この通過儀礼をおこなうだけで、オーランド人にあたえられている特権、
すなわちスウェーデンへの自由な移住という特権が手に入るのである。

(以上、引用おわり)

 とはいえ、この帰属問題は、フィンランド本土に住むフィンランド系と
スウェーデン系に大きな影響を及ぼしたようです。
 同書の第七章「ひとつの国、ふたつの言語」では、当時の雑誌などに
掲載された記事から、双方の心情を読み取っています。

(以下、同書p.99〜「オーランド、どこへいく」から抜粋)

 フィンランド本土が独立と内戦の混乱のただなかにあったとき、
オーランド諸島の住民たちは、いまこそスウェーデンへの帰属を
嘆願すべきと考えた。スウェーデン王も政府もこの表明を歓迎する。
ロシアに奪われた領土の一部を取り戻すチャンスでもあった。
 1917年12月5日、フィンランド独立宣言の前日というタイミングに、
オーランドの嘆願書が提出された。フィンランドが国としての命運を
かけて戦っている時期であったので、大半のフィンランド系は憤慨し、
当惑したスウェーデン系も少なくなかった。本土におけるスウェーデン系の
立場を悪くすると心配するものも多かった。

 当時、オーランドの人口は、27,000人程度。そのうち成人の7,097人が
復帰嘆願に署名した。

 オーランドの「分離主義」あるいは、「母国復帰願望」は、
フィンランドを二分する階級とイデオロギーと言語の亀裂をあらためて
浮き上がらせた。
 オーランド帰属問題で、割をくったのは、本土のスウェーデン系だった。
内心は同じ穴のムジナだろうと、フィンランド系の不信を買ってしまった。
純正なフィンランド系をとなえる学生たちは、公教育でのフィンランド語化を
訴えた。一般に、フィンランド系の学生は、両親もスウェーデン語を話さず、
学校の授業も友人もフィンランド語(スウェーデン語は一教科にすぎない)。
ところが、高等教育では、講義のほとんどがスウェーデン語になり、
フィンランド語が母国語であることがハンディになる。
 政府も、どちらの言語でも選んで学ぶことができる制度を導入する案などを
出したが、なかなかうまくいかなかった。
 それから数十年後、我が子の将来を考えて、多数派のフィンランド語教育を
選ぶスウェーデン系の親を「親心と打算がスウェーデン語を滅ぼす」と
雑誌「ガルム」は警鐘を鳴らした。

(以上、同書より抜粋)


 隣国との国境問題は、いまでも世界各地で起こっています。その背景には
長年の両国の関係や、地理的要素、文化、言語にいたるまで、複雑な状況が
からんでいることを、今回は、雑誌から垣間みることができました。

(フィンランドが独立して数年後の1923年、雑誌「ガルム」は産声をあげた。
トーヴェ・ヤンソンは、四半世紀の間、「ガルム」ほか多くの新聞雑誌に
千枚以上の絵を描き、1940年代後半には、その絵の八割以上にムーミントロール
が姿を表わしているそうだ。風刺画の隅っこにちょこっと、その愛らしい姿が
見える。)

鎌倉 第81回 円覚寺夏期講座 円覚寺 大方丈にて 
6月5日「ムーミンを哲学する」 冨原 眞弓 聖心女子大学 哲学科教授





日本両親再教育協会

「日本両親再教育協会」は、
1928(昭和3)年、新渡戸博士の東京帝国大学教授時代の教え子の一人、


上村哲彌(かみむらてつや)氏が中心になって創立された民間組織。
後藤新平伯と新渡戸稲造博士は、顧問に就任しています。
会長は、松本亦太郎(まつもとまたたろう)。


同会によって出版された「子供研究講座」第十巻(昭和4年7月11日発行)に、
新渡戸博士は、「親の道」を寄稿しています。

冒頭、新渡戸博士は、東西の二聖人、釈尊とキリストの話を引用しています。
そして、「親子の関係が真にその素質通りにまっすぐにのび、まさにあるべき
境地まで到るには、まず親子の関係の土台である夫婦の関係がその真面目を
発揮せなばならぬ」と書いています。

成瀬仁蔵著『新婦人訓』からテニソンの詩の訳を紹介。
「子のために、親はまず生きがいある生活を営め」としています。

「・・・親子の間に常に感応があり、親の生命が子を育て、
子の成長が親をさらに発展せしむるという親子本来の関係を
どこまでも続けることは、
親の幸福であり、子の健全なる発達の基である。
 それがために親はなにをますべきかといえば、
子の信頼と敬愛を続け得るため、その人格を常に向上させ、
子の進歩と共にますます彼の光たり得るよう生活することである。」
(同書 p.14より)



2016/06/01

講座「新渡戸稲造ものがたり」(鎌倉市)

2016年5月 鎌倉市生涯学習推進委員会

鎌倉市の大船学習センターにて、下記のような連続講座をさせていただきました。
大変学び多い4日間になりました。
関係者の皆様、聴講くださいました皆様、本当にありがとうございました。



 〈 新渡戸 稲造 〉 全四回 大船学習センター

「新渡戸稲造ものがたり
 〜真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける〜」

 ① 5月10日(火曜日)  ② 5月17日(火曜日) 
 ③ 5月24日(火曜日)  ④ 5月31日(火曜日)
 各10時〜12時


第一回 2016年5月10日(火曜日)

はじめに
 ・自己紹介
 ・伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

1 わんぱくな幼少時代
 
 ・武士の家に生まれた少年、稲之助
 ・祖父と父の開拓者精神(フロンティア・スピリット)
 ・近所でも有名なわんぱく坊や
 ・父がなくなる
 ・武士の時代の終わり 戊辰戦争
 ・西洋、英語との出会い

2 親元を離れて東京へ

 ・明治時代の東京
 ・本格的な英語の勉強と講談による人生勉強
 ・人生を決めたできごと

3 「ボーイズ ビー アンビシャス!」クラーク博士 
   札幌農学校(現在の北海道大学)

 ・クラーク精神「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」
 ・キリスト教の洗礼を受ける
 ・悲しみの帰郷
 ・生涯の友人、愛読書に出会う

4 「太平洋の橋になりたい」東京大学

 ・「われ、太平洋の橋とならん」


第二回 2016年5月17日(火曜日)


5 アメリカ、ドイツ留学と結婚

 ・アメリカ留学と学友ウィルソン
 ・クエーカーになる/モリス家に集った日本人留学生たち
 ・メアリーとの出会いと結婚
 
6 母校 札幌農学校教授と遠友夜学校

 ・遠益(トーマス)の誕生
 ・新渡戸夫妻の夢「遠友夜学校」

7 世界的な名著『武士道』

8 台湾の発展に尽くして

 ・後藤新平との出会い

9 旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長

 ・ソシアリティー(社会性)の大切さ
 ・専門センス(専門的知識)よりコモンセンス(常識)
 ・日米交換教授


第三回 2016年5月24日(火曜日)

10 東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長

 ・東京帝国大学 植民地政策講座
 ・日本人道会 動物愛護運動
 ・銀婚式 新しい決心
 ・拓殖大学 学監就任と後藤新平学長とのコンビ復活
 ・東京女子大学の建学 初代学長に就任
 ・農人形
 ・軽井沢夏期大学

11 国際連盟事務次長

 ・かつての学友 ウィルソン大統領が提唱した世界で初めての国際平和機構
 ・国際連盟の輝ける星
 ・国際領土問題を解決「新渡戸裁定」
 ・国際知的協力委員会(ユネスコの土台作り)
 ・ジュネーブの「日本の家」

12 晩年の生き方
 ・平和の使徒として 
 ・太平洋問題調査会(IPR)と最後の旅


第四回 2016年5月31日(火曜日)

13 没後 新渡戸博士が遺したもの

 ・メアリーの晩年
 ・「遠友夜学校」の閉校と現在
 ・教え子たち「稲造の精神的子孫」
 ・『武士道』のその後
 ・カナダの新渡戸記念公園
 ・皇室とクエーカー
 ・諸宗教の根底にあるもの

14 鎌倉と新渡戸稲造博士

 ・別荘跡(稲村ケ崎)とその周辺
 ・母の五十回忌法要
 
15 一人の人物の生涯から学ぶ

 ・ノンフィクション
 ・「伝記」=もう一つの人生
 ・伝記の効用と歴史の学び
 ・「出会い」