・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2015/06/11

『坂西志保さん』

2015年6月 国際文化会館

坂西志保さんについて、国際文化会館(東京都港区六本木)
の関係から興味を抱いて調べていたところ、
坂西志保さんご自身がお書きになった「私の遺言」
(追悼集『坂西志保さん』に掲載)の中で、
新渡戸博士とのエピソードがありました。
以下、引用して紹介します。

 ・・・そこで提案されたのは、短期間の海外留学ということ
 であった。相談を受けた新渡戸稲造先生は、それもよい
 だろうといわれたということであったが、私はそのことを
 全然知らなかった。本人は平然としているが家族のものは
 何時までもほったらかしにしておくにもいかず、先生のところへ
 駆けつけたのは窮余の一策ということだったのであろう。
  豪放らい落な先生は、一度小石川の自宅に呼んでくださった
 ことがある。学校から頼まれてお説教することになっていた
 のだそうであるが、そんな気配は少しも見せず、北海道の風物や
 初期の開拓民の心構えを、アメリカのそれらと比較し、興味深く
 語られた。同席された夫人は「新渡戸は、私よりもアメリカびいき
 なんですよ」とつけ加えられた。
  私はお説教を聞かされずに釈放された。これはまだアメリカが
 第一次欧州大戦に参加しない前のことで、先生は、ウィルソンの
 新しい民主主義の解釈とアメリカの国際的使命についての考え方に
 大きな期待をかけていられるようであった。しかし、大戦も終わり、
 ウィルソンも失意の人として世を去り、一九二〇年代の初頭に、
 アメリカが日本人排斥の方向に歩み出した時、先生はアメリカを
 許さなかったのである。
 (『坂西志保さん』p.51〜「私の遺言」鈍行列車の旅 p.63-64)


この時期、新渡戸博士は東京女子大学の初代学長。
文面からすると、おそらく家族かまわりの人間が、坂西さんの処遇に
ついて新渡戸学長に相談したことがうかがえます。
坂西さんのその後のアメリカ滞在とその功績、帰国してからの活動を
考えると、渡米前のこの時期に新渡戸博士と面会していることは
非常に興味深いことだと思います。

新渡戸学長はこの後まもなく後藤新平伯と外遊し、国際連盟事務次長に
就任することになります。

坂西さんは結局、「大学在籍(東京女子大学)四年を一年半で打ち切り、
資格をとるため、文部省の中等教員検定試験を受けてこれもパス」した後、
関東学院で英語を教え、一九二一年、アメリカに留学。学業終了後も
アメリカに残り、米国議会図書館などで要職を歴任されました。
そして、一九四二年、日米開戦により、帰国。
滞米は、二十余年に及びました。
帰国後も、翻訳/執筆のほか、ご実績と人脈から多くの仕事をされ、
一九七六(昭和51)年、大磯のご自宅で亡くなりました。79歳。

この「私の遺言」は、雑誌「暮らしの手帖」に1世紀97号(一九六八年秋)
から2世紀5号(一九七〇年春)まで掲載されたもの。
ご自身による伝記のように書かれていますが、途中、くも膜下出血で中断、
回復後に再開することなくご逝去されたそうです。

『坂西志保さん』
昭和五十二年十一月一日
『坂西志保さん』編集世話人会 代表 松本重治
発行 国際文化会館