台南の奇美博物館をあとにして、
八田輿一記念公園(台南市官田区)に向かいました。
八田輿一技師(1886年〜1942年)は、日本が台湾を統治していた時代
(1895年〜1945年の50年間)、台湾の発展に貢献した日本人の一人。
八田輿一夫妻 |
台湾に渡り、台湾総督府の土木技師として勤務されました。
当時の台湾は、現在のようなインフラが整備されていない時代でした。
数々の水利事業を手がけた八田技師は、後に烏山頭(うざんとう)ダムの
建設地点となる土地を発見します。
ここに大規模な灌漑/排水工事をおこない、灌漑/塩害の問題を解決する
ことを提案。工事が決まると、業務全般の責任者となりました。
計画されましたが、施行/運営は、民間形式が取られ、
八田技師は、建設工事に専念するため、総督府の職員を辞任しました。
それだけ真摯にこの事業にかける強い思いがあったのです。
堰堤の建造は、「セミ・ハイドロック工法」により、コンクリートを
中芯部の一部に使うだけで、大部分は、玉石、砂利などを混合した
土壌を使用するなど、特別な工法によるものでした。
途中、関東大震災による補助金の削減など、大変な苦労を乗り越え、
見事なダムが完成し、現在に続く、農業の発展につながったのです。
現在も美しく広大な貯水湖(2015年3月10日 撮影) |
大規模な烏山頭ダム(通称:八田ダム)の貯水湖が完成しました。
ほかに建設された同時代の大規模ダムが、土砂の堆積で使えなくなっている中、
この貯水湖は、砂防対策が取られていたため、現在も、豊かな水量を保って
いるのだそうです。
烏山頭ダムの建設で、嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯になりました。
やがて戦争が始まり、八田技師は、大洋丸に乗船中の1942(昭和17)年
5月8日、アメリカの潜水艦に撃沈され、亡くなりました。
57歳でした。
遺骸は、付近で操業中だった山口県からの漁船の網にかかり収容され、
故郷で火葬された後、遺骨は、台湾に残されていた遺族の元に送られました。
戦争が激化すると、夫人の外代樹さんは烏山頭を疎開地に選んで、
子どもたちと疎開。
敗戦後、台湾の日本人は台湾から去らなければならなくなり、
ご子息が学徒動員から戻ると、夫人は、夫が築いた烏山頭ダムの
送水口から身を投げて、自らの生涯を閉じたのです。45歳でした。
送水口 |
その功績が紹介されています。
八田技師の銅像が、記念公園内の高台にあります。
ダム完成後、1931(昭和6)年7月に設置されました。
第二次世界大戦の末期に、金属回収されましたが、終戦直後、
倉庫で発見され、1981(昭和56)年1月1日、再び元の位置に戻されました。
八田輿一技師の銅像と八田夫妻のお墓(後方) |
八田技師が亡くなった命日には追悼式、そして、
この大事業がおこなわれた十年間に事故や病気で命を落とした
従業員やその家族の慰霊祭が、いまでもおこなわれているそうです。
記念公園内では、八田宅(復元)も公開されています。
八田技師の家族写真 |
八田技師は、広井勇博士の教え子の一人です。
広井勇博士(1962年〜1928年)は、
新渡戸稲造博士と札幌農学校で同期生、同じ歳です。
幼い時に父が亡くなり、その後、「東京に出て勉強したい」と
わずか10歳で家族に懇願、札幌農学校を卒業すると、
私費でアメリカに留学するなど、新渡戸博士と境遇が似ています。
新渡戸と広井の両博士は、アメリカ留学中に、先輩 佐藤昌介の計らいで、
札幌農学校の助教に任命され、ドイツへ官費留学しています。
アメリカでもドイツでも交流は続き、新渡戸稲造青年が、
アメリカ人女性メアリーとの結婚に悩み相談した時、
広井は、佐伯理一郎とともに、その国際結婚に賛成しています。
新渡戸博士は農学、広井博士は工学の専門家になり、
留学後は、母校 札幌農学校の教育にも尽力しました。
広井勇博士は、小樽港の築港に従事し、いまでも使われている
長大なコンクリート製の防波堤を完成させました。
その後、東京帝国大学の教授になり、八田輿一、
青山士(あおやまあきら=パナマ運河建設に関わった唯一の日本人技師)ら
優秀な人材を育てました。
学生時代の八田輿一と当時の東京帝国大学工学部(展示資料より) |
「高潔無私」の人、広井勇。その愛弟子、八田技師もまた、
人々のためにその生涯を捧げたのです。
尚、八田輿一技師は、映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」にも
登場しています。映画についての記事は、こちらへ。
参考:
八田記念公園配布資料/展示
『日本のオールターナティブ』藤田正一 著 (銀の鈴社 2013年)
『新渡戸稲造事典』佐藤全弘・藤井茂 共著 (教文館 2013年)
『新渡戸稲造ものがたり』 (銀の鈴社 2012 年)