・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2021/09/17

HAPPINESS CREATOR 新渡戸文化高等学校

2021年9月9日(木)17:30~  外国人特派員協会にて

一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)の記者発表

CCF代表と登壇者のお一人が知人でしたので、出席させていただきました。

教育現場を代表して、登壇されていらしたのが、新渡戸文化学園の山藤旅聞(さんとうりょぶん)先生。

新渡戸文化高等学校の総括校長補佐、高等学校教育チーフデザイナーをされています。

山藤先生は、

「新渡戸文化学園は、創立者の森本厚吉先生、初代校長の新渡戸稲造先生が

 社会の変革をめざして、開校」

「新渡戸文化学園は、学校と社会をブリッジ(橋渡し)する」

とお話しされ、建学の精神を大切にし、いまの時代に合った変革を推し進められていること

がわかり、感動しました。

会場には、山藤先生の教え子(新渡戸文化学園のOGお二人)も登場、

「最近、『一枚500円のTシャツを購入し、ひと夏が終わると捨てる』という友人たちの言動に

違和感を抱いていた。使われない/使われなくなったコットンが、紙としてよみがえり、

再利用されることは素晴らしい取り組み」という率直な声を聞くことができました。

同校では、「国際人としての人格教育」をはじめ、

学園の7つの強みを掲げた教育をおこなっています。

未来に向かって変革を続ける新渡戸文化学園に大きなエールを送ります。

新渡戸文化学園のホームページは、こちら

同校にお招きいただいた時の報告は、こちら


一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)とは、

綺麗な地球を子どもたちに引き継ぐために、洋服の廃棄物をゴミにせず、廃棄物から紙を再生し、

活用することを始めた一般社団法人。

繊維業界にとどまらず、製紙会社、出版社、日本郵便株式会社様、さらに、

お菓子メーカー(今回の登壇者は、榮太棲総本舗の細田将己副社長様)、学校など、

社会全体の大きな連帯により実現可能な、循環型社会をめざす壮大な取り組み。

(日本における繊維リサイクル率は、17.5%。毎年137万トンの繊維廃棄物が捨てられ、燃やされている。

2019年、28.5億枚の洋服が作られ、14.8億枚は、新品のまま破棄。配布資料より抜粋)

CCFのホームページは、こちら


 

2021/06/28

軽井沢の新渡戸別荘跡地

 2021年6月25日(土曜日)

軽井沢の旧軽井沢近く、新渡戸通り沿いにある新渡戸別荘跡地。

長年、空き地になっていましたが、近年、トラスコ中山株式会社様の保養地に

なったと聞いていましたので、行ってみました。


新渡戸通りから新しくできた建物を見ると、そこには、新渡戸博士の記念碑が

設置されています。






軽井沢らしい趣のある界隈で、苔むした低い石垣、通り沿いの木々はそのまま。




10年前の様子は、こちら

2021/06/21

最短の在任、最大の業績 『石橋湛山の65日』保阪正康・著

2021年6月21日

ノンフィクション作家で「昭和史を語り継ぐ会」を主宰されている

保阪正康氏の近刊を拝読しました。

戦後の一時期、首相を務めた石橋湛山は、新渡戸稲造の母校・札幌農学校

(いまの北海道大学)の第一期生・大島正健先生から影響を受けました。

山梨の第一中学校(いまの県立甲府第一高等学校)在学中、

校長先生として赴任してきたのが大島先生。

札幌農学校の流れは、 大島校長から石橋湛山にも受け継がれたのではないか。

山梨には、石橋湛山による書「Boys, be ambitious!」が残っています。

石橋湛山と大島正健についての過去の記事は、こちら


著者は、『石橋湛山の65日』の中で、現在のコロナ禍を生きる私たちの状況を、

「民主主義の体制が崩壊して、自由が制限された社会で生きていることを

想像しただけでも息が詰まる。こういう時代が来ないように、日々、

現在のコロナ禍の社会から何がしかの教訓を学ばなければならないと、私は思う」。

と述べ、関東大震災後の石橋首相の記事を引用している。↓


(ここからは『石橋湛山の65日』p.295~ 引用)   


『東洋経済新報』(大正12年10月1日号)の社説

「此経験を科学化せよ」

とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまう

と指摘した上で、次のように書くのである。

「我輩の見る所に依れば、今の我国民は、全体として、

斯かる場合に甚だ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(ひっきょう=結局)、

日本国民は、わっと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いて善く考え、

共同して静かに秩序を立て、地味の仕事をすることには不適任である。(中略)

我国は、今回の災害に依り、あらゆる方面に人為の更に大に改良すべきものを発見する。

と同時に此災害は、随分苦き経験であったが、併し之を善用すれば、所謂、

禍を転じて福となすの道は多いのである」

 この経験を「科学化(データの整理や予防策など)」して将来に残さなければ

ならない、とも強調している。さらに「亡びゆく国民なら知らぬこと、いやしくも

伸びる力を持つ国民が、これくらいの災害で意気阻喪しては貯まるものではない」

とも断言している。

・・・(中略)

国家がコロナ禍に対応し、個人が人生観を懸けてコロナ禍と向き合っている時、

石橋の思想や言論がもっとも価値があり、頼りがいがあると私は考えている。


本書でも繰り返しているが、石橋は首相としての在任がわずか六十五日である。

近代日本史の上では最短に近い。しかし私は、「最短の在任、最大の業績」

思っている。

・・・(中略)

石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性

教えた。首相が何を目指し、どのような方向に、この国を率いていくのか、

そのことを国民は知る権利がある。それは首相を目指す政治家が日頃から信念を

発信する姿勢を持たなければならないということだ。

石橋を範とせよ、と強調しておきたいのである。


(巻末の石橋湛山略年譜より主に鎌倉関連を抜粋)

明治17(1884)年、東京都生まれ

明治34(1901)年、大島生健が山梨県立第一中学校の校長として赴任

明治35,36年、旧制第一高等学校の受験に不合格

      <筆者注:新渡戸は、のちに同校校長を務める。

           岩波茂雄は、明治34~37年、旧制一高に在学>

明治37(1904)年、早稲田大学文学部哲学科に入学

大正8(1919)年、鎌倉町海岸通りに転居

大正11(1922)年、鎌倉町大町蔵屋敷705番地に転居

        <筆者注:現在の御成町20番地。御成小学校とその付近>

大正12(1923)年、関東大震災により居宅被災

         鎌倉臨時復興委員会委員を委嘱

大正13(1924)年、湘南倶楽部(信用購買利用組合)の設立に参画し、

         常務理事に選任。

         鎌倉町長会議員選挙において第三位で当選。

昭和3(1928)年、任期満了で辞任。

昭和16(1941)年、東洋経済新社の代表取締社長に就任

昭和21(1946)年、衆議院選挙で落選、第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任

昭和22(1947)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

         公職追放令、新宿区下落合4-1712に転居

昭和26(1951)年、公職追放解除

昭和27(1952)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

昭和29(1954)年、第一次鳩山内閣で通商産業大臣

昭和31(1956)年、石橋湛山内閣成立

昭和32(1957)年、石橋湛山内閣総辞職

昭和33(1958)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

昭和36(1961)年、日中米ソ平和同盟案を発表

昭和48(1973)年、自宅にて死去。88歳

(引用終わり)


このほか、『石橋湛山の65日』には、興味深い、政治の舞台裏も描かれています。

著者の保阪氏も繰り返し述べていますが、もし石橋首相が病に倒れることなく

続投していたら・・・。

いまにつながる政治体制、さらには、国民の政治に対する姿勢までもが

違っていたのではないだろうか。そんなことも考えさせられました。




2021/03/30

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

 2021月3月 30日

例年になく早く満開を迎えた東京の桜が、いまは盛んに散っていきます。

後藤新平伯は、昭和4年4月13日に亡くなりました。

手元の資料の中に、昭和四年に雑誌「朝日」に掲載された、

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

の記事があります。その記事の冒頭には、

「惜しみなく散る桜とともに」逝ったとあります。享年74歳。

後藤の逝去を受けて、新渡戸が語った話によると、

後藤新平が新渡戸稲造に台湾での仕事を要請したのは、

「当時の農商務大臣であった曽根さんを通じて・・・」とありますが、

「いまだに私にわからないのは、あの遠いアメリカにいた私をどうしてわざわざ

呼んだかである。これだけはいまだにわからないのである」としています。

本多静六博士の自伝によれば、本多が推薦したとあります。詳しくはこちらへ

新渡戸は、本多の推薦があったことを、ご存知だったのでしょうか。

いまとなっては、確かめようがありません。


この記事によると、後藤新平の思い出話は、尽きることがなかったようです。

新渡戸によると、後藤伯は、「よく眠り、よく食った人」のようです。

最後の二人の会食は、貴族院の食堂でした。同じ料理を注文して「実にうまそうに

食べた」後、後藤さんは、いつの間にか追加注文して、二人前の料理をペロリと

平らげて平気だったそうです。

「あの時の後藤さんの顔が、いまでもはっきりと眼の前にちらつく。親しみのある、

あのくすぐったそうな、温情のある、あの顔が」

4月13日 麻布桜田町にて 大澤 栄一

雑誌「朝日」第1号第6号(昭和4年6月)博文館


2021/03/16

新渡戸稲造を後藤新平に引き合わせた人物

 2021年3月16日

新渡戸稲造博士は、アメリカで『武士道』を出版した翌年、

後藤新平伯の熱心な説得を受けて、台湾に赴任しました。

1901(明治34)年、後藤新平が台湾総督府の民政長官だった時のことです。

共に岩手出身の二人ですが、それまで面識はなかったようです。

(その後、後藤、新渡戸の二人は親しくなります)

今回、本多静六博士の自伝を読んでいて、本多がドイツ留学時代から

後藤新平を知っていて交流があったこと、そして、新渡戸もまた、

本多の友人であったことがわかりました。さらに、その自伝には

次のように書かれています。

「後藤は、台湾の民政長官となるや、私に顧問として台湾へ出掛け、

いろいろ行政を手伝ってくれぬかと持ち込んで来た。

当時、私は多少の金もでき、仕事も忙しく、また学者としてそうした方面に

手をのばすのもいたずらに妬みの敵を多くするばかり、いわゆる明哲保身の術

ではないと考えたので、友人の新渡戸稲造、河合鈰太郎(かわいしたろう)

両君を推薦して、自分は両君にできない公園計画だけを引き受けることにした」

『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六 実業之日本社 2016年 P.216


新渡戸は、台湾総督府の糖務局長として台湾の砂糖産業の発展を担い、

本多は、台湾の北投や亀山一帯の温泉、台北や台南などの公園を設計、

河合は、阿里山鉄道の建設に尽力、「阿里山開発の父」と呼ばれました。





2021/03/02

安倍能成(あべよししげ)先生のこと

 2021年3月1日

安倍能成先生は、新渡戸先生の一高の教え子で、のちに一高校長や

学習院院長を歴任しています。

一高のリベラルな思想が戦中、戦後にも引き継がれていたことがわかる

エピソードとして、宇沢弘文先生のご著書より抜粋して紹介します。

↓ 

『人間の経済』宇沢弘文 著 新潮新書 2017年4月

p.84

三 教育とリベラリズム

安倍能成先生のこと

社会的共通資本としての教育について考えるとき、

私にとって忘れられない光景があります。

東京大空襲後の1945年、旧制一高に入学した年の出来事でした。

・・・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つと同時に、

過酷な占領政策が始まります。あたり一面は焼け野原と化していて、

占領軍は、めぼしい建物はみな接収して占領のために使うことにしたのです。

たしか9月半ば、軍隊の施設とみなされていた一高にもジープに乗った占領軍の

将校団が接収にやってきました。当時の一高にも校長は安倍能成先生で、

戦前の日本では最も優れたカント哲学者で、すぐれたリベラリストでも

ありました。ずっと後になって知ったことですが、安倍先生は、戦争中から、

近衛文麿を中心とした敗戦処理を考えるグループの一員だったそうです。

(筆者注:近衛文麿も新渡戸校長時代の一高の生徒)

その安倍先生は占領軍の将校たちを前にして、英語できっぱりとおっしゃいました。

「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。

ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的の

ためには使わせない」

リベラルアーツというのは、教育の仕上げの段階で重要な役割を果たすものです。

つまり、学問や芸術、知識であれ文学であれ、専門を問わず、先祖が残した貴重な

遺産をひたすら学び吸収し、同時にそれらを次の世代へ受け渡すという営為を

する場所だということです。一人ひとりの学生の人間的な成長を図るとともに、

それを時代へと継承する役割がある。安倍先生はそのことを繰り返し、それを聞いた

占領軍の将校たちは、黙ってそのまま帰っていきました。

占領軍に楯突くなど逮捕されて当たり前、という時代にきわめて珍しい

エピソードのはずなのに、新聞はもちろん一高の記録にもいっさい残っていません。

しかし、その場に居合わせた私は心の奥底で、われわれは先祖が残した貴重な遺産を

できる限り吸収して次世代に残すという仕事をしている、

それが大学あるいは学校なのだという思いを強くしました。いまになって考えると

私の心の中で「社会的共通資本としての教育」という考え方が芽生えた原点

だったように思うのです。


2020/09/30

2020年 国際連盟100年

 2020年9月30日

アジア歴史資料センターのニュースレターで、

今年は、1920年に創設された国際連盟の創設100年であることが

報告されています。

新渡戸稲造博士が、常任理事国の日本から事務次長として選出され、

はじめは、ロンドンで、のちにジュネーブに渡り、発足当初から、

日本の代表者としてではなく、国際機関の代表者の一人として、

世界平和のために尽くしました。

当時、新渡戸博士は、すでに57歳。年長者としても尊敬を集めましたが、

他にも日本人の若い外交官たちが連盟の活動を支え、活躍していたことが

わかります。

ニュースレターの記事は、こちら

2020/03/07

新渡戸夫人と鈴木大拙夫人の動物愛護運動

新渡戸夫人のメアリーさんが、日本で動物愛護運動をおこなったことは、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』でも紹介しました。

以下、同書からの引用ーーーーーー

p.147
日本人道会(Japan Humane Society)動物愛護運動
1915(大正4)年、日本で動物愛護運動の先駆けとなった日本人同会が
生まれました。稲造とメアリーは発起人になり、小日向の自宅で
会合を開きました。動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、
当時の皇后陛下から活動資金が下賜されました。
活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど
日本に住む外国人が中心で、欧米式の動物愛護精神を日本に広める
という大きな役割がありました。(中略)
当時の日本には、動物を生きものとして扱うという考え方が
まだ広くゆきわたっていなかったからです。
「動物愛は、人類愛の延長である。・・・・・」
と稲造は書いています。

p.148 注
日本人道会(大正五年十一月〜大正六年十月)の幹事
名誉会長  鍋島直人
名誉副会長 後藤新平
理事長   新渡戸萬里子(新渡戸夫人)
専務理事  廣井辰太郎
理事    田島道治
理事    前田多門
理事    鶴見祐輔 ほか

ーーーーー以上、引用終わり

一方、鈴木大拙夫人のビアトリス(Beatrice Lane Suzuki)も
動物の保護活動に精力を注いでいたことがわかっています。
ビアトリス夫人は、北鎌倉の円覚寺正伝庵に、犬猫のための保護施設を
設けていたこと、鎌倉には、新渡戸夫妻も別荘を構えていたことから、
この二人のアメリカ人女性に接点はなかったのでしょうか。

この疑問の答えを探して、数年前に東慶寺で井上住職様(故人)に
相談したことがありました。
井上住職様は、ビアトリス夫人と動物の世話にあたっていた
「関口この」さんという方のご関係者にも照会してくださいましたが、
残念ながら、詳細についてはわかりませんでした。

このたび、松ヶ岡文庫年報の最新刊で、
「鈴木ビアトリスと動物たち 〜松ヶ岡文庫所蔵資料に見る〜」
(日沖直子)が掲載されました。

その論文の中で、次のように書かれています。



円覚寺の敷地内に場所を借り、バーネット夫人や日本人道会の
援助を受けて、捨てられた犬や猫を保護する「バーネット記念動物保護
慈悲園」(Barnett Mercy Animal Shelter、以下慈悲園)が開設されたのである。

(中略)

一般に、日本の動物愛護運動の黎明期においては、日本人男性主導の
動物愛護会と、外国人女性主導の日本人道会の2つの流れがあったことが
先行研究によって指摘されている。前者のメンバーには、牧師出身の
リーダー、広井辰太郎とともに、ユニテリアンや仏教改革派の論者が
多く含まれていた。後者は、形の上では鍋島侯爵などを会長に据えつつ、
実際にはバーネット夫人や新渡戸夫人などアメリカ人女性が中心となって
活動したグループであり、キリスト教的背景を伴っていた。

(ビアトリスは、日本人同会に援助を受けながらも、両者にとらわれない
 自由な活動を展開、関口このと二人三脚で実務をこなし、慈善家として
 知られていた九条男爵夫人武子や国際的人道家のアルベルト・シュバイツアー
 の行き方を鑑み、やがて仏教的な自然観と生物観を模索)
(慈悲園は、特定の団体に属さない独立した施設であり、それゆえ
 資金面での問題が深刻であったようだ)

以上、引用、抜粋ーーーー

慈悲園を支援した寄付者リストには、新渡戸夫人の名前もあるようで、
この両夫人の接点、そして、日本における動物愛護にかける共通の
思いがあったことが伺えます。
鈴木大拙や新渡戸稲造を含んだ個人的な関わりがあったかどうかは
わかりませんが、これまで気になっていたことが少し判明しました。
また、当時の国内外の動物愛護運動のこともわかりました。

鈴木大拙は、動物愛護がビアトリスの業績の重要な一部分を占めていたと
考えていたようです。『青蓮仏教小観』の「はしがきと思ひ出」ほか







2020/02/01

新渡戸稲造と「安全保障」

2020年1月28日(火曜日)

交詢社「安全保障研究会」新年会

真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」

上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。

ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・

まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。

最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」

そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)

新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。

山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、

過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。

このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。



2020/01/14

ハヴァフォード大学の新渡戸奨学基金

2020年1月14日

以前、ハヴァフォード大学に「新渡戸」の名前を冠した
日本人留学生のための奨学金制度があると聞いたことがあり、
調べてみたことがありました。

「Haverford College Bulletins, 1969-70」
(この印刷物は、Internet Archiveで閲覧することができます)

上記のp.183に、Inazo Nitobe Scholarship Fund(新渡戸奨学基金)として、
次のような説明が掲載されています。

Established in November, 1955, under the will of Anna H. Chace, 
the income to be used and applied for the education at Haverford College 
of a Japanese student who shall be a resident of Japan and 
the time of his appointment to such scholarship and for his traveling expenses 
from and to Japan and his living expenses during the period he shall hold such scholarship.

実際にその基金を提供したAnna H. Chaceという人物について、
Rhode Island Historical Societyによる説明では、
Chace Family Papers Of Philadelphia and Rhode Islandとして、
次のように記されています。

Historical note:

            Jonathan Chace (1829-1917) was born into a prominent Quaker family in Valley Falls, R.I. His father was textile manufacturer Harvey Chace (b.1797), and his mother was Hannah Wood Chace (1800-1833). Harvey Chace was a nephew of famous abolitionist Elizabeth Buffum Chace and had himself been active in the Underground Railroad. Jonathan settled in Pennsylvania, where he established a dry goods business, and met and married Jane C. Moon (1831-1914). They had two daughters: Anna H. Chace (1856-1945) and Elizabeth M. Chace (1868-1955). Neither of the daughters ever married.
            Jonathan eventually returned to Rhode Island, and served as U.S. Representative from 1881 to 1885. He was elected U.S. Senator in 1885, and resigned in 1889. In 1910, he and his family moved from their residence in Central Falls to 190 Hope Street on the east side of Providence.
            Both the daughters, Anna and Elizabeth, led active interesting lives, and seem to have generally acted together, with Anna perhaps the more frequent traveler while Elizabeth tended to stay in Rhode Island. According to their obituaries, they were both active in the international peace movement, and traveled frequently to Geneva as observers at League of Nations sessions. They both also remained devout Quakers.

2019/12/28

上皇陛下とハヴァフォード大学

2019年12月

この秋、上皇陛下のご学友のお一人、ロバート・東ケ崎氏が
亡くなりました。
東ケ崎氏は、上皇陛下と共に、ヴァイニング夫人の教えを受けた生徒の
一人です。
ヴァイニング夫人は、新渡戸稲造博士ご夫妻と同様、クエーカーです。

上皇陛下は、皇太子時代に、アメリカ、および、クエーカーの思想に
触れていることになります。
ハヴァフォード大学は、クエーカーの学校の一つで、
クエーカーに関する資料館もあります。

数年前に、同大学を訪問した時の紹介は、こちらへ。


1953年、上皇陛下(当時は皇太子19歳)は、ハヴァフォード大学の学生だった
東ケ崎氏を同大学のキャンパスにお訪ねになり、ヴァイニング夫人とも再会しています。

再会の写真(左から、ヴァイニング夫人、陛下、東ケ崎氏)、および、
出典のウェブページ(ハヴァフォード大学ブログ)は、こちら

また、新渡戸博士ご夫妻のご養子(孝夫)は、同大学で学んでおり、
新渡戸博士もかつてここを訪ねています。

なお、ローバート・東ケ崎氏のお父様は、東ケ崎潔氏。
1961(昭和36)年、アジアで初めてロータリークラブの国際大会が
開催された時、昭和天皇と皇后陛下(上皇陛下のご両親)は、初日に
出席され、昭和天皇は、お言葉を述べています。
続く1967年、東ケ崎潔氏は、全世界のロータリークラブの会長(アジア人で初めて)
に就任したほか、ジャパンタイムズの社長、国際基督教大学の初代理事長などを
歴任されています。

2019/12/10

『増田義一伝』藤井茂・著

2019年12月3日(火曜日)

盛岡の新渡戸基金理事長/事務局長の藤井茂様が
『一代の出版人 増田義一伝』を出版され、この日、
東京京橋の明治屋さんにて、出版を祝う会が催されました。

増田義一という人物は、実業之日本社の創業者で、
新渡戸稲造、大隈重信、渋沢栄一などから大きな信頼を得ていました。

新渡戸博士は、実業之日本社の編集顧問にも就任しています。

この日の祝う会には、実業之日本社の会長・増田義和様(ご令孫)、
同社の社長・岩野裕一様をはじめ、
北海道や青森、四国などの遠方から、新渡戸博士関係の方々も数多く
ご参集されました。

藤井様は、新渡戸基金の理事長としてのお役職のほか、
執筆、ご講演、編集など、幅広いお仕事を精力的にこなされ、
いつも頭が下がる思いがいたします。

藤井様、このたびは、本当におめでとうございました。

2019/09/12

東京女子大学第一期生 斎藤百合

2019年9月12日(木曜日)

先月、東京女子大学の茂里学長様がお話しされた、
東京女子大学(初代学長新渡戸稲造)第一期生の斎藤百合さんについて、
下記の本から、紹介します。

『光に向かって咲け 斎藤百合の生涯』 粟津 キヨ 著 岩波新書342

茂里学長のご講演については、こちら


いまよりさらに困難な状況であったと考えられる当時の障害者が、
特別生とはいえ、第一期生として入学が許可されたことに驚かされます。
学友たちともあたたかい交流があったようです。

・・・ここより、同書から引用(抜粋)・・・

p.53〜54(抜粋)

大正七年の春まだ浅いある朝、武弥(斎藤百合の夫、弱視者)は
新聞に発表された東京女子大学設立の記事を見つけて読んでくれた。
そこには設立の意図として、
「いままでのような家政科でなく、教員養成でもなく、キリスト教精神により
女性を一人一人の人間として伸ばすための高等教育を行う」
という意味のことが書かれていた。百合は感激して、
「これこそ、私の求めていた学校だ。そして、私の住むべき世界だ」
と思った。夢は際限なく大きくふくらんでゆき、百合にはもう、
自分の現実を深く考える余裕はなくなってしまっていた。

・・・百合は、盲女子であり、その上、主婦であり、大正五年八月には
長女久美が生まれていたから幼児をもつ母でもあった。年は、二十八歳
になっていた。経済的にも決して裕福とはいえない。

・・・夫は「やれるだけやってみるんだね」といって、百合の無謀としか
言いようのない女子大学入学への望みに理解を示し励ましてくれた。

・・・入学試験は口頭で行われた。面接の時、学長代理の安井てつ学監は、
いきなり言った。
「ここは、勉学の意気に燃えているお嬢さんたちの集まる所です。
結婚しているめくらの女が大きなお腹にでもなったらどんな勉強が
できるというのですか」
 覚悟はしてきたのだったが、こんな言い方をされようとは思わなかった。

・・・盲女子の置かれている社会的地位がいかに低いか、
それを高めるために、一人でも二人でも高等教育を受けなければ
ならないのです、と百合はしゃべるだけしゃべって帰ってきた。

それから一週間後、東京女子大から「特別生として入学を許可する」
という文面の速達便が届いた。すでにあきらめていた百合は、
その手紙を胸に抱いて、声をあげて泣いた。

・・・元東京女子大学教授平野雪枝は、「・・・新渡戸先生(学長)や
ライシャワー先生(理事)がお決めになったのでしょう」と
言っている。・・・ライシャワー夫妻が聾唖の娘をもっていたこと、
また、若いころ重い眼病にかかって、いったんは失明の宣告まで受けた
新渡戸の、障害者に対する深い理解が、百合の入学を大きく左右した
ことが考えられる。
のちに学長となった安井てつは、面接の時は冷酷ともとれる言葉を向けて
百合の決意を確かめたが、入学後は特に百合に心をとめて指導し、
卒業後も百合の主催する「陽光会」の後援会長になるなど、
援助を惜しまなかった。

p.56(抜粋)

斎藤百合は、大正七年春、東京女子大学予科に入学、人文科を経て、
高等学部三年に編入し、卒業すると、つづいて大学部英文科に
一年半在籍し、十二年の秋に退学している。
(その間に、三人の子どもを出産。長男は生後まもなく死亡)
(十二年九月の関東大震災で夫の勤務先が焼けて一時失業、
 また町の混乱した状況が通学を難しくしてやむなく退学)
(百合が優秀であったこと、学友たちと楽しく交流したエピソードが
 残されている。学友たちは卒業後も百合の活動を支援した)
(視力を補う、素晴らしい勘の持ち主でもあったらしい)

p.102〜(要約)

第一回のヘレン・ケラーの来日時に、さまざまな困難を経て、
講演会を企画、実現した。
講演会では、百合の作詞、宮城道雄の作曲による、
「ヘレン・ケラー女史に捧ぐる歌」を自ら歌った。
(琴の演奏は、宮城道雄)

1946(昭和21)年、夫(武弥)死去 53歳
1947(昭和22)年、百合 死去 55歳

2019/09/10

ニトベ・フレンズセミナー「一人の女」

2019年9月6日(金曜日)

久しぶりの盛岡です。(新渡戸稲造博士 生誕地)
新渡戸基金、藤井 茂 理事長による読書会に
出席させていただきました。

テキストは、『新渡戸稲造全集』(教文館発行)第11巻収載の
「一人の女」。
新渡戸基金様で読みやすい小冊子にしてあります。

・何事にも慌てぬ強い婦人

・男子を感動させた婦人

など、新渡戸博士が実際に会ったり、話を聞いたりしたことのある
婦人たちのさまざまな境遇や出来事が紹介されています。
新渡戸博士本人が、これらの実話から、婦人に対する考え方や
人生観にまで影響したと、その序文で述べています。
少し道を踏み外した女性、同情に値する経験をした女性に、
あたたかい眼差しを向けています。

新渡戸博士は、自宅に多くの相談者を招き入れて話を聞いたり、
世話をしたことが、わかっていますが、こうした名も無い、
縁もなかった人々の話に耳を傾け、多忙の中、多くの時間をさいていらした
ことに、あらためて驚かされます。

このたびの読書会は、さまざまな専門分野の方々がともに集うことで、
新たな見地が開かれる、貴重な場になっていることもわかりました。

ありがとうございました。








2019/08/22

田島道治(初代宮内庁長官)と新渡戸稲造博士

2019年8月21日(水)

今回、「拝謁記」が公表された田島道治 初代宮内庁長官は、
学生時代、新渡戸稲造博士の書生でした。

伝記『田島道治』をお書きになった恩師加藤恭子先生によると、
新渡戸夫妻は、田島氏に終生大変な信頼をおいていらしたそうです。
新渡戸博士がカナダで亡くなり、遺骨を抱いて帰国したメアリー夫人が、
真っ先に遺骨を手渡したのが、田島氏だったということです。

新渡戸博士のお墓がある多摩墓地の新渡戸像も、田島氏が中心になって
建てられました。詳細は、こちら

加藤恭子先生は、上記の伝記以外に、これまで、

『昭和天皇 「謝罪詔勅草稿」の発見』
昭和天皇と田島道治と吉田茂 初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』
『昭和天皇と美智子妃 その危機に 「田島道治日記」を読む』

などをご執筆されています。

2019/08/19

第2回新渡戸稲造シンポジウム

2019年8月18日(日)14:00~ 中野サンプラザ(東京都・中野区)

第2回新渡戸稲造シンポジウム
〜「新渡戸稲造記念センター」開設記念〜

2019年4月、東京医療生活協同組合に「新渡戸稲造記念センター」が
開設になりました。
新渡戸博士は、1932年に設立された医療生活協同組合病院
(現 新渡戸記念中野総合病院)の初代理事長です。

新渡戸記念中野総合病院についての過去のブログは、こちらへ





最初に、入江徹也理事長様よりごあいさつがありました。
病院の理念は、
「新渡戸稲造博士の精神(誠意と思いやりの心)を基にした医療を
誠実に実践し、疾病を抱えた人を真心で支援する」です。





講演 I  新渡戸稲造が遺したもの 
茂里 一紘 先生(東京女子大学 学長)

1 いと小さきもの

東京女子大学は、新渡戸博士を初代学長に迎え、1918年に開校。
1918年4月30日におこなわれた開校式について、翌日の萬朝報に
よりますと、渋沢栄一はじめ来賓500名(およそ半数は外国人)、
新入生は84名。その中には、斉藤百合さんがいました。
斉藤百合さんは、盲目の28歳、既婚で一児の母でした。
断られてもともとと思って志願すると、なんと特別生として入学が
許可されました。
茂里先生は、新渡戸学長とライシャワー氏(常務理事・財政担当)が
相談し、この異例な許可にいたったのでは、とおっしゃいました。

「いと小さきもの」を、神の子として平等に受け入れ、
知識よりも見識、学問より人格を尊び、人材より人物の養成を
主とした教育をおこないました。

注:ライシャワー家の長女は、聾唖(ろうあ)者で、日本聾話(ろうわ)学校を
夫人とともに設立。次男は、のちの駐日大使 E.O. ライシャワー。
『新渡戸稲造ものがたり』p.154


2 犠牲と奉仕 (Service and Sacrifice)

己を犠牲にしても、国、社会、人道のために貢献する精神。
この二つの頭文字(SS)をデザインした校章


3 リベラル エデュケーション(高等なる常識)

「リベラル・エデュケーションは、無知からの解放」
D. キーン

東京女子大学では、開校時から「文明史」の授業
「人文科」=一女性として高等なる常識を学ぶ
カリキュラムは、リベラル・アーツ教育の源流

卒業生たちが語る東京女子大学(『旅人われら』2007年)の
キーワードは、
「自由」=枠にはまらない考え方=リベラル・アーツ教育

「学び」は、建物の「耐震化」のようなもの
=予期せぬことに対応できるような強靭さを育むこと
特に女性は人生の変化が大きい人がいる

「挑戦する知性 未来につなぐリベラル・アーツ」


講演 II 新渡戸稲造先生の贈り物
宗雪 雅幸 先生(恵泉女学園 理事長)

恵泉女学園の創立者 河井 道先生と新渡戸稲造博士は、
「神の見えざる手」(アダム・スミス)によって導かれた出会い

河井 道先生(1877年〜1953年)は、伊勢神宮の神職の家の出身。
(「祈り」のある家)
明治4年、神職の世襲が禁じられると、河井家は函館へ。
ある日、お使いに出たところ、伊勢山田出身の親戚(キリスト教の
伝道者)に会う。スミス女学校で、新渡戸稲造先生から歴史を学ぶ。
新渡戸博士のアドバイスに従い、米国の名門ブリンマー大学に留学
(津田梅子も同学に留学)

新渡戸夫妻に同行して渡米した際の「渡航証票」が恵泉女学園史料室に
残っている。
雇い主 ↓
新渡戸稲造 東京市四ツ谷區北伊賀町廿五(25)番地
河野 孝忠 方

河井 道 先生は、「恵泉」11号(1933年10月)「恩師新渡戸稲造博士」で、
新渡戸先生口添えで1000円(当時)の寄付をいただいたエピソードを
書いています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.187)

1929年、世界恐慌などの状況にもかかわらず、恵泉女学園を創立。
当初、新渡戸夫妻は、河井の苦労を心配して反対したが、
生涯に一度だけ、新渡戸博士の意見に反して行動しました。
1929年1月、申請。3月、許可。7名の後援者、9名の入学者。

新渡戸先生=優しさ、知性、行動
新渡戸博士のユーモア=心のあたたかさ


講演 III 21世紀の新渡戸稲造 〜がん哲学外来の心得〜
樋野 興夫 先生(東京医療生活協同組合 新渡戸稲造記念センター長)

日頃の講演活動のご報告とご著書の紹介



新渡戸稲造記念センター開設、誠におめでとうございます。
お招きくださいました入江理事長様に感謝を申し上げます。

新渡戸記念中野総合病院のホームページは、こちら


2019/07/30

「友愛・互助・平和」鳴門市賀川豊彦記念館

2019年7月14日(日曜日)
鳴門市 賀川豊彦記念館を訪問

鳴門市に滞在中のこの日、この地で育った賀川豊彦の記念館を
初めて訪問しました。
神戸で生まれた賀川は、幼くして両親と離れ、父の故郷である徳島で
4歳から16歳まで過ごしました。



同館の一階展示室は、大変充実しており、賀川豊彦の生い立ち、
賀川夫妻の功績をじっくり学ぶことができました。

賀川は、その生涯で多くの社会活動をおこないました。
その一つが、協同組合運動。日本初の医療利用組合の病院を
新渡戸博士と協力して設立しています。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.194~

東京医療生協中野総合病院(いまの新渡戸記念中野総合病院)です。
ウェブサイトは、こちら

鳴門市賀川豊彦記念館の展示より

また、これまであまり知られていない「国際友和会」についての解説も。

鳴門市賀川豊彦記念館の展示より


展示解説によりますと、賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて』は、
当時、三部作合計で400万部を超えるベストセラーになり、
いまの価値にして10億円とも言われる印税収入も、
社会運動に当てられたそうです。

 三部作: 
 『死線を越えて』上巻 改造社(1920)
 「死線を越えて」中巻 『太陽を射るもの』 改造社(1921)
 「死線を越えて」下巻『壁の声きく時』改造社(1924)
そして、戦後は、世界平和を訴え、ガンジーやシュバイツアーと
並んで世界の三大偉人と呼ばれ、その活動はいまもさまざまな組織で
引き継がれています。

突然の訪問にも関わらず、お話をお聞かせくださいました副理事長の
武知忠義様に御礼を申し上げます。

賀川豊彦 1888年〜1960年

「友愛・互助・平和のために生涯を捧げ、
 ノーベル平和賞候補に4度、
 ノーベル文学賞候補に2度ノミネートされた偉人」
(同館 パンフレットより)

鳴門市賀川豊彦記念館のウェブサイトは、こちら




2019/06/20

田中舘愛橘顕彰会

2019年6月16日(日曜日)国際文化会館(東京)にて

新渡戸博士と田中舘愛橘博士は、同郷(新渡戸は盛岡、田中舘は二戸)、
「心の友」だったそうです。
盛岡ではなく、東京英語学校で初めて出会いましたが、その後の
約30年間は特に付き合いのあった痕跡がないそうです。
新渡戸より歳上の田中舘ですが、新渡戸よりも二十年近く長く生き、
太平洋戦争、日本の敗戦を見届けています。

新渡戸稲造(1862年〜1933年)
田中館愛橘(1856年〜1952年)終戦は、1945年





両者とも自らの専門をもちつつ、後進の指導によって
多くの優秀な弟子を育て、さらに、国際的に活躍しました。

この日、田中舘博士のひ孫(松浦明氏)主催の顕彰会がおこなわれ、
1 松浦氏による「愛橘顕彰会の最近の動向」のご発表、その後、
2 盛岡の新渡戸基金代表の藤井茂氏が、
  「田中舘愛橘とノーベル賞」の演題でお話になりました。

藤井茂氏(左)と松浦明氏(右)
冒頭に、松浦さんは、田中舘博士のご臨終の日についての思い出を
話してくださいました。
まさにご臨終の時、弟子の中村清二博士は、大きな声で、
「みなさん、田中舘先生にお礼を言おうではありませんか」と
告げ、みんなでお礼の言葉を言ったこと、誰も泣いていなかったこと、
自分だけはどうしても涙が出てきたこと・・・。
松浦氏は、経堂(東京都世田谷区)で、晩年の曽祖父(愛橘)と
数年ご一緒に暮らしています。

田中舘愛橘(曽祖父)とともに 右端が松浦氏


松浦氏ご所蔵の田中館愛橘資料


1 愛橘顕彰会の最近の動向

(1)シルビアシジミ(蝶)の本に登場した田中館愛橘

『シルビア物語』中村 和夫 著 2018年12月20日 発行 随想舎
この本の中で、明治初めに英国から来日した、
モンタギュー・アーサー・フェントン(Fenton)の蝶の採集旅行に、
若き学生だった田中舘が同行したことが書かれているそうです。
フェントン27歳、田中舘17歳。

(2)海上保安庁からの公文書の紹介

このたび、太平洋のある海底海山群に「田中舘海山群」と
命名されたそうです。
(ニュージーランドの海底地形名称委員会による)





そのほか、経堂での愛橘展について(2019年秋の開催予定)などの
報告がありました。




2 田中舘愛橘とノーベル賞

田中舘博士は、日本人で一番数多くのノーベル賞クラスの学者と
交流した一人、1910年にノーベル賞推薦人になっています。
(日本人で第2号の推薦人。第3号は、長岡半太郎で、長岡の推薦で
 後年、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞している)

新渡戸博士は、国際連盟の事務次長(国際部長)として、知的協力委員会
(いまのユネスコの前身)を招集し、キュリー夫人、アインシュタイン、
ベルグソンなどノーベル賞クラスの学者が集いました。
新渡戸が帰国すると、田中舘が、委員に選ばれ(昭和2年〜8年)、
その後、新渡戸が委員に任命されたが、惜しくもカナダで亡くなり、
委員として活動することはありませんでした。





いずれにしても、田中舘、新渡戸の両名は、世界的な学者たちと
交流した日本人。

さらに、新渡戸は、平和賞受賞に値する活躍をしました。
・オーランド問題の解決
・知的協力委員会の招集(学者が交流することによる平和の追求)
(当時は、国境を超えた学術交流が少なかった)

当時の国際連盟の職員による人気投票で、
全員一致の第1位が新渡戸稲造。
第2位は、フリチョフ・ナンセン(1922年にノーベル平和賞受賞)、
第3位は、ロバート・セシル(1937年にノーベル平和賞を受賞)。


藤井氏による二人の共通点は、
・分け隔てなく人と付き合う
・偉ぶらない
・国際社会で、日本人の良き見本となった
(日本の評判を高くした)



貴重なお話と資料をありがとうございました。





2019/03/22

寒川神社(神奈川県)の神苑

2019年3月21日(祝)春分の日

朝早く、寒川神社に向かいました。
この日は、春分の日(二至二分の日)。
日本を横断するレイライン(光の道)、日の出・日の入の位置を
直線で結ぶと、相模国一之宮寒川神社・富士山・竹生島・
元伊勢(皇大神社)・出雲大社が線上にあります。



本殿の真裏にある泉(御神水)の湧水は、相模川の伏流水で、
山中湖(富士山の湧水)が源流だそうです。

祈祷の後、神苑を訪れました。
ここは、カナダの新渡戸記念庭園の改修デザインをされた、
枡野俊明氏のデザインによる、素晴らしい庭園です。
ご本人からお話を伺っていましたので、ずっと訪問したかったお庭を
やっと拝見できました!




カナダの新渡戸記念庭園は、こちら

2019/03/04

サンフランシスコの金門学園

2019年初春

知人の加藤シオー様・睦子様ご夫妻(サンフランシスコ在住)より、
金門学園と、毎年恒例の行事について、お知らせいただきました。
新渡戸稲造博士は、設立時の金門学園と深いご縁があります。
以前の記事ついては、こちらへ。


書き初めの審査員、書家・加藤シオー氏と子どもたち

鏡会(サンフランシスコ餅つき保存会)による餅つきパフォーマンス
    鏡の文字も加藤シオー氏

最近、歴史ある金門学園の取り壊しの動きが出ているようです。
金門学園の付近には、日本や日系人ゆかりの地や建物が多くあります。
日米の友好の証ともいえる、大切な歴史的建造物が大切に保存され、
両国の交流、文化継承や紹介の伝統が末長く引き継がれ、
先人たちの思いが、将来も語り継がれるよう、切に願います。

加藤シオー様・睦子様ご夫妻
サンフランシスコアジア美術館、大書パフォーマンスにて


下記、加藤睦子様がお書きになった記事を、ご本人の許可をいただきましたので
紹介します。


書・習字・書き初め、餅つきと金門学園
         アーティスト・書家・加藤シオー、童話作家・加藤睦子

  金門学園が、年初に毎年取り組まれている書道、「書き初め」の審査の依頼を、
私が初めて受けて、書道の審査と、大きな筆を使っての書のデモンストレーション
、そして鏡会の餅つきパフォーマンスを行って来て、早、15年ほどが経ちました。
その時初めて体験する「書き初め」と、大書パフォーマンスと、生徒も先生も両親
も一緒の餅つきは、毎年、子どもたちが生き生きと目を輝かせ、歓声を上げて喜ん
でくれる、大変活気ある場となります。
その最初の書き初め大会で金賞を取ったK君は、日本語に目覚め、言語学に興味
を持ち、今も現場での研究に励んでいること、また、金門学園の生徒たちが、それ
ぞれに家族を持ち、2019年は、S君、R君の子どもたちが、書き初めと餅つきに参加
していることに、驚きで一杯となり、嬉しい限りでした。

私たち夫婦が、サンフランシスコへやってきたのは、1971年でしたが、金門学園
は、今年110年の歴史を持ち、あまたの子供たちが社会に貢献する社会人として育ち
、金門学園が日系社会の記念碑的な大きな存在となっていること、そこに「書き初
め」の審査員として関わってきたことに、大きな喜びを感じています。

かの「武士道」の著書で、欧米の日本研究者や、トルーマン大統領に多大な感銘
を与えたことで著名な新渡戸稲造博士が、1911年、金門学園の創設時に関わり、何
度も訪問していたことを知った時は、その愛深き生き様に尊敬の念を抱いていただ
けに、不思議な縁と感動を覚えたものです。

また、昭和天皇は1933年及び35年 に、1960年9月25日には、現在の天皇(当時は
皇太子)皇后両陛下も金門学園を訪ねられ、200人の生徒たちが出迎え、ブッシュ
街に1,000人の人々が溢れたと聞いています。その時、陛下は「どうか日本語と日本
文化をしっかり勉強してください。そして、米国の立派な市民となれるよう望みま
す」という、温かいお言葉を残されています。

 日本は平成から新しい元号へと、そして世界中の国々が変化の嵐に見舞われ、一発
触発さえ危惧する時代の流れの中で、子を持つ親御さんたちの想いは、如何なるも
のだろうかと思わずにはおれません。金門学園のお正月イベント、書き初め、競書
、鏡会による餅つきイベントなどの日本文化を、生徒、父兄、教師の皆さんと共に
体験し伝承していくことは、私たちの魂の中に宿る人間本来の精神性、日本人の精
神性が、子どもたちの心の中心軸に直結する、大切な機会になると確信しています

金門学園は110年の歴史と共に、今後も、日系日本人の子弟になくてはならない優
れた教育機関であることを確証し、今後の発展を祈り、見守り続けて行きたく思い
ます。