2021年3月16日
新渡戸稲造博士は、アメリカで『武士道』を出版した翌年、
後藤新平伯の熱心な説得を受けて、台湾に赴任しました。
1901(明治34)年、後藤新平が台湾総督府の民政長官だった時のことです。
共に岩手出身の二人ですが、それまで面識はなかったようです。
(その後、後藤、新渡戸の二人は親しくなります)
今回、本多静六博士の自伝を読んでいて、本多がドイツ留学時代から
後藤新平を知っていて交流があったこと、そして、新渡戸もまた、
本多の友人であったことがわかりました。さらに、その自伝には
次のように書かれています。
「後藤は、台湾の民政長官となるや、私に顧問として台湾へ出掛け、
いろいろ行政を手伝ってくれぬかと持ち込んで来た。
当時、私は多少の金もでき、仕事も忙しく、また学者としてそうした方面に
手をのばすのもいたずらに妬みの敵を多くするばかり、いわゆる明哲保身の術
ではないと考えたので、友人の新渡戸稲造、河合鈰太郎(かわいしたろう)
両君を推薦して、自分は両君にできない公園計画だけを引き受けることにした」
『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六 実業之日本社 2016年 P.216
新渡戸は、台湾総督府の糖務局長として台湾の砂糖産業の発展を担い、
本多は、台湾の北投や亀山一帯の温泉、台北や台南などの公園を設計、
河合は、阿里山鉄道の建設に尽力、「阿里山開発の父」と呼ばれました。