2015年11月23日(水・祝)
新渡戸稲造博士が、初代組合長として設立に尽力された
中野総合病院(東京都中野区)が、このたび、病院名を
「新渡戸記念中野総合病院」と改め、
この日、中野サンプラザにて、記念シンポジウムが行われました。
入江病院長・理事長様ご夫妻をはじめ、関係者のみなさま、
お招きいただき、ありがとうございました。
学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
2015/11/24
2015/11/20
松山の「ふなや旅館」
2015年11月11日(水曜日)
この秋、初めての四国、そして、松山/道後温泉を訪問しました。
道後温泉の宿泊は、偶然にも、新渡戸博士が滞在された由緒ある
旅館「鮒屋(ふなや)」さんです。
この秋、初めての四国、そして、松山/道後温泉を訪問しました。
道後温泉の宿泊は、偶然にも、新渡戸博士が滞在された由緒ある
旅館「鮒屋(ふなや)」さんです。
館内には、ここに宿泊されたゆかりの方々の紹介展示があります。
新渡戸博士についてもありました!
2015/10/25
子ども大学 水戸
2015年10月24日(土曜日)
子ども大学 水戸にお招きいただき、新渡戸博士について
お話させていただきました。
週末にも学ぶ意欲にあふれる子どもたち、保護者の方々、
そして活動を支える大学生たちの姿に感動しました。
新渡戸博士ともゆかりの深い水戸を初めて訪問しました。
関係者の皆様、ありがとうございました。
子ども大学 水戸にお招きいただき、新渡戸博士について
お話させていただきました。
週末にも学ぶ意欲にあふれる子どもたち、保護者の方々、
そして活動を支える大学生たちの姿に感動しました。
新渡戸博士ともゆかりの深い水戸を初めて訪問しました。
関係者の皆様、ありがとうございました。
2015/10/17
「新渡戸菊」の研究
2015年10月16日(金)13:30〜16:30
「新渡戸菊キックオフシンポジウム
ー 新渡戸菊のかけはし ー 」
星薬科大学 大谷記念ホール(東京都品川区)
新渡戸稲造を語る 内川 頴一郎 (新渡戸基金理事長)
新渡戸稲造と医療 樋野 興夫 (順天堂大学教授)
新渡戸菊の栽培と沖縄の取り組み 川満 芳信(琉球大学農学部教授)
(敬称略)
ブラジル原産で中国や台湾で民間薬などとして使われている
「新渡戸菊」の研究が、沖縄で進んでいます。
「新渡戸」の名前が付いているのは、新渡戸博士がこの植物を
日本に持ち込んだとされているからだそうです。
鮮やかな黄色の花が咲きます。
このシンポジウムには、盛岡から帰京の日に、そのまま東京駅から
直行して聴講させていただきました。
今後の研究と活用にが大いに期待されています。
「新渡戸菊キックオフシンポジウム
ー 新渡戸菊のかけはし ー 」
星薬科大学 大谷記念ホール(東京都品川区)
新渡戸稲造を語る 内川 頴一郎 (新渡戸基金理事長)
新渡戸稲造と医療 樋野 興夫 (順天堂大学教授)
新渡戸菊の栽培と沖縄の取り組み 川満 芳信(琉球大学農学部教授)
(敬称略)
ブラジル原産で中国や台湾で民間薬などとして使われている
「新渡戸菊」の研究が、沖縄で進んでいます。
「新渡戸」の名前が付いているのは、新渡戸博士がこの植物を
日本に持ち込んだとされているからだそうです。
鮮やかな黄色の花が咲きます。
このシンポジウムには、盛岡から帰京の日に、そのまま東京駅から
直行して聴講させていただきました。
今後の研究と活用にが大いに期待されています。
2015/10/16
新渡戸稲造博士の命日祭
2015年10月15日(木)
盛岡グランドホテルにて
新渡戸博士の生誕の地、盛岡にて毎年開催されている
命日祭に出席させていただきました。
今年は記念対談として、
新渡戸記念中野総合病院理事長・院長の入江徹也氏と
新渡戸基金事務局長の藤井茂氏が語り合いました。
演題「新渡戸記念中野総合病院への道のり」
同病院は、初めての医療利用組合病院として、賀川豊彦氏と
新渡戸博士(初代組合長)の尽力により、昭和7年に開院。
このたび設立当初の精神にいま一度立ち戻ろうという思いを
込めて、病院名に「新渡戸記念」を冠することになりました。
同病院(東京都中野区)の近くには、新渡戸博士が校長を務めた
新渡戸文化学園(教え子の一人、森本厚吉先生による創立)もあります。


盛岡グランドホテルにて
新渡戸博士の生誕の地、盛岡にて毎年開催されている
命日祭に出席させていただきました。
今年は記念対談として、
新渡戸記念中野総合病院理事長・院長の入江徹也氏と
新渡戸基金事務局長の藤井茂氏が語り合いました。
演題「新渡戸記念中野総合病院への道のり」
同病院は、初めての医療利用組合病院として、賀川豊彦氏と
新渡戸博士(初代組合長)の尽力により、昭和7年に開院。
このたび設立当初の精神にいま一度立ち戻ろうという思いを
込めて、病院名に「新渡戸記念」を冠することになりました。
同病院(東京都中野区)の近くには、新渡戸博士が校長を務めた
新渡戸文化学園(教え子の一人、森本厚吉先生による創立)もあります。

2015/10/13
田中館愛橘博士 岩手出身の国際人
2015年10月12日 岩手県二戸
初めて二戸(岩手県)を訪問しました。
今回の訪問の目的は、ここ二戸出身で新渡戸博士とも親交が
あり、国際的にも活躍された田中館愛橘博士の出身地を訪ね、
その原点を探ることです。
東京在住の曾孫様のご紹介で、まず二戸シビックセンターに
伺いました。
二戸駅に降り立つと、あたりは特に商店街などもなく、
住宅街の中を歩いてシビックセンターに向かいました。



シビックセンター内の田中館愛橘博士記念科学館を見学、その後、
田中館博士の原資料を資料室で拝見しました。
そのほとんどは曾孫様の寄贈によるものです。
書類ばかりではなく、愛用されていたカバン、帽子、タイプライターも
あります。


その後、センター長さんの運転で、田中館博士のゆかりの地や
お墓を巡りました。
二戸では、街の中心は駅周辺ではなく、美しい渓谷を渡った先に
あることがわかりました。

冬には雪に覆われる二戸ですが、おかげさまで学び多き秋の一日を
過ごすことができました。
関係者のみなさまに感謝を申し上げます。
初めて二戸(岩手県)を訪問しました。
今回の訪問の目的は、ここ二戸出身で新渡戸博士とも親交が
あり、国際的にも活躍された田中館愛橘博士の出身地を訪ね、
その原点を探ることです。
東京在住の曾孫様のご紹介で、まず二戸シビックセンターに
伺いました。
二戸駅に降り立つと、あたりは特に商店街などもなく、
住宅街の中を歩いてシビックセンターに向かいました。
| 田中館博士にちなんだ作品展と資料展(1階の展示室) |

| 新渡戸稲造博士追悼会 1937年4月 |
| 新渡戸博士の追悼会にて(写真のすぐ前)田中館博士 80歳 |
シビックセンター内の田中館愛橘博士記念科学館を見学、その後、
田中館博士の原資料を資料室で拝見しました。
そのほとんどは曾孫様の寄贈によるものです。
書類ばかりではなく、愛用されていたカバン、帽子、タイプライターも
あります。

その後、センター長さんの運転で、田中館博士のゆかりの地や
お墓を巡りました。
二戸では、街の中心は駅周辺ではなく、美しい渓谷を渡った先に
あることがわかりました。
| ゆかりの家(帰郷の際に滞在した家) |
| 生誕地(母の実家「呑香稲荷神社」)と幼少時の学び舎「会輔社」 |

冬には雪に覆われる二戸ですが、おかげさまで学び多き秋の一日を
過ごすことができました。
関係者のみなさまに感謝を申し上げます。
| シビックセンターの庭から田中館博士の墓地を望む |
2015/09/11
安原みどり著『山室機恵子の生涯』
2015年9月
山室 機恵子(きえこ)研究家の安原みどり様が、長年のご研究を
まとめ出版されました。
『花巻が育んだ救世軍の母 山室 機恵子の生涯
〜宮沢賢治に通底する生き方〜』
山室軍平(救世軍)・機恵子夫妻と新渡戸夫妻は親交がありました。
安原様とは数年前、初めてお目にかかりました。
この春、久しぶりにお会いした時は、ご病気の再発がわかり、
出版のご意向を固めた矢先でした。
その後、「後進の研究者のために」と意欲的に取り組まれ、
最終校正終了後の二日後にお亡くなりになりました。
出来上がった本を手に取っていただけなかったことが無念です。
表紙は、山室機恵子(旧姓佐藤)の実家のある花巻の
美しい田園風景。著者の安原さんも一目で気に入られた写真です。
刊行後は、安原様のご家族、母校の盛岡一高、日本女子大学の
方々にご紹介いただきました。御礼を申し上げます。
同書につきましては、盛岡の新渡戸基金様にも多大なご尽力を
いただいております。
今後も著者のご遺志に沿うようできる限り努めたいと考えています。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
山室 機恵子(きえこ)研究家の安原みどり様が、長年のご研究を
まとめ出版されました。
『花巻が育んだ救世軍の母 山室 機恵子の生涯
〜宮沢賢治に通底する生き方〜』
山室軍平(救世軍)・機恵子夫妻と新渡戸夫妻は親交がありました。
安原様とは数年前、初めてお目にかかりました。
この春、久しぶりにお会いした時は、ご病気の再発がわかり、
出版のご意向を固めた矢先でした。
その後、「後進の研究者のために」と意欲的に取り組まれ、
最終校正終了後の二日後にお亡くなりになりました。
出来上がった本を手に取っていただけなかったことが無念です。
表紙は、山室機恵子(旧姓佐藤)の実家のある花巻の
美しい田園風景。著者の安原さんも一目で気に入られた写真です。
刊行後は、安原様のご家族、母校の盛岡一高、日本女子大学の
方々にご紹介いただきました。御礼を申し上げます。
同書につきましては、盛岡の新渡戸基金様にも多大なご尽力を
いただいております。
今後も著者のご遺志に沿うようできる限り努めたいと考えています。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
2015/08/16
ロンドンだより その2「クエーカーハウス」
2015年8月7日 ロンドン
ロンドン市内、地下鉄Euton駅前にあるクエーカーハウスを
訪ねました。
新渡戸博士は、ロンドン在住時(国際連盟の仮事務局がロンドンにあった
1919年〜1920年ごろ)などに訪れています。
地下鉄の駅前の立派な建物ですが、駅の職員に尋ねてもあまりよく知られて
いないようでした。
図書室にて、「nitobe」でキーワード検索すると、数多くのヒット(該当)が
ありました。
そのいくつかを閉架資料の中から出してもらい、閲覧することができました。
中には、新渡戸夫人から同図書室への寄贈書籍もありました。
(署名は、新渡戸博士没後の1937年2月25日付け)


原爆の日にも近く、ちょうど「Hibakusha Worldwide」という展示をやっていました。
世界中で今日でも危惧されている原子力発電による「被爆」の影響についてなどが
紹介されていました。



ロンドン市内、地下鉄Euton駅前にあるクエーカーハウスを
訪ねました。
新渡戸博士は、ロンドン在住時(国際連盟の仮事務局がロンドンにあった
1919年〜1920年ごろ)などに訪れています。
地下鉄の駅前の立派な建物ですが、駅の職員に尋ねてもあまりよく知られて
いないようでした。
図書室にて、「nitobe」でキーワード検索すると、数多くのヒット(該当)が
ありました。
そのいくつかを閉架資料の中から出してもらい、閲覧することができました。
中には、新渡戸夫人から同図書室への寄贈書籍もありました。
(署名は、新渡戸博士没後の1937年2月25日付け)
![]() |
| 開架資料 |
| 図書室の内部 |
原爆の日にも近く、ちょうど「Hibakusha Worldwide」という展示をやっていました。
世界中で今日でも危惧されている原子力発電による「被爆」の影響についてなどが
紹介されていました。

2015/08/11
ロンドンだより「カーライルハウス」
2015年8月7日(土) 英国 ロンドン
ロンドンで滞在中の家から徒歩10分。
新渡戸博士の生涯の愛読書『サーター・リザータス
(Satrtor Resartus=衣装哲学)』を著した、
トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)と妻ジェーンの旧宅を
訪ねました。
トーマス・カーライル(1795年〜1881年)は、スコットランド
出身の歴史家、作家で、内村鑑三ほか、日本人にも大きな影響を
与えた人物です。
現在はナショナルトラストが管理していて、
海外や国内からも多くの訪問者があります。
ここは、夏目漱石も留学中に訪ねていて、
訪問記「カーライル博物館」を執筆しています。
この日、事務所にて、過去の訪問帳を調査して、主に、
1919年〜1920年の日本人訪問者の記帳を探しました。
新渡戸博士のサインは、この期間では、二カ所で確認する
ことができました。
当時は、ヨーロッパを疲弊させた第一次大戦後で、
ちょうど後藤新平らと外遊中の新渡戸博士が、
国際連盟(The League of Nations)の事務次長就任の要請を
受け、事務所があったロンドンに滞在中でした。
新渡戸博士の教え子の一人、前田陽一氏の記帳もあり。
同行者のサインも残されており、大変興味深い。
そのほか、毎月のように日本人訪問者のサインが残されています。
写真撮影したデータを持ち帰り、帰国後、
詳しく調査するのが楽しみです。
カーライルハウスの方々には大変なご協力をいただきました。
カーライルと同時代を生きたご近所の画家ホイッスラーの
旧宅などもご案内くださり、楽しく充実した訪問になりました。
ありがとうございました。

ロンドンで滞在中の家から徒歩10分。
新渡戸博士の生涯の愛読書『サーター・リザータス
(Satrtor Resartus=衣装哲学)』を著した、
トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)と妻ジェーンの旧宅を
訪ねました。
トーマス・カーライル(1795年〜1881年)は、スコットランド
出身の歴史家、作家で、内村鑑三ほか、日本人にも大きな影響を
与えた人物です。
現在はナショナルトラストが管理していて、
海外や国内からも多くの訪問者があります。
ここは、夏目漱石も留学中に訪ねていて、
訪問記「カーライル博物館」を執筆しています。
この日、事務所にて、過去の訪問帳を調査して、主に、
1919年〜1920年の日本人訪問者の記帳を探しました。
新渡戸博士のサインは、この期間では、二カ所で確認する
ことができました。
当時は、ヨーロッパを疲弊させた第一次大戦後で、
ちょうど後藤新平らと外遊中の新渡戸博士が、
国際連盟(The League of Nations)の事務次長就任の要請を
受け、事務所があったロンドンに滞在中でした。
新渡戸博士の教え子の一人、前田陽一氏の記帳もあり。
同行者のサインも残されており、大変興味深い。
そのほか、毎月のように日本人訪問者のサインが残されています。
写真撮影したデータを持ち帰り、帰国後、
詳しく調査するのが楽しみです。
カーライルハウスの方々には大変なご協力をいただきました。
カーライルと同時代を生きたご近所の画家ホイッスラーの
旧宅などもご案内くださり、楽しく充実した訪問になりました。
ありがとうございました。
| 当時を再現している庭(建物内部は撮影禁止) |
2015/08/03
オランダだより「国際司法裁判所」
2015年8月2日(土)14時40分、ハーグ、オランダ
The Peace Palace (平和宮)
新渡戸博士が国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中、
同時代にオランダのハーグ(den Haag, The Hague)では、
安達峰一郎博士が司法の場で、国際的な活躍をしていました。
The Peace Palace (平和宮)
新渡戸博士が国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中、
同時代にオランダのハーグ(den Haag, The Hague)では、
安達峰一郎博士が司法の場で、国際的な活躍をしていました。
‘ten years of
international jurisdiction 1922-1932 Mineichiro Adachi
Ten years of international
co-operation, chapter III (International justice).
- Genève, 1930
Search result with Adachi at
the Palace Library
2015/07/27
スイスだより「波蘭(ポーランド)の国宝」
2015年7月24日(金)晴れ Rapperswil(ラッパーズヴィル)スイス
新渡戸稲造博士は、著書『東西相触れて』の中で、
「波蘭(ポーランド)の国宝」というエッセイを書いています。
「端西(スイス)のチューリッヒ湖水の傍にラッパーズヴィルという
小部落がある。・・・この町より一段高い所に六百年以前に築かれた
旧城がある。・・・この城をある有志家が買い求めて波蘭の史蹟を
保存する博物館とした。この館に収むるものは、・・・故国のために
悲惨なる運命を荷なった人々の衣服、書翰(書簡)、武器、肖像、
著述そのほか何ものにもよらず、所詮波蘭の国事に殉死した志士に
関するものをここに収めたのである。・・・これを衛るべき場所が
本国には得られぬ故、中立国なる端西(スイス)にして始めて
この保存を委ねらるるのである。
我輩も再三これを見舞うて、その都度不覚の涙を流した。」
新渡戸稲造全集 第一巻 p.243-245「「波蘭(ポーランド)の国宝」
チューリッヒ滞在中、新渡戸博士が何度も足を運んだこの博物館を
訪ねました。
チューリッヒから、電車で約40分。車窓からチューリッヒ湖の美しい
眺めを楽しみながら、ラッパーズヴィルへ。
新渡戸博士が訪問した当時と変わらず、博物館はこのお城の中に
あります。
この博物館はポーランドの歴史とともにいろいろな変遷を経て、
今日にいたっています。
館の説明文によると、入口に掲げてある紋章の三つの掲示板は、
当時からのオリジナルのようです。
新渡戸博士も目にしたことでしょう。
博物館はポーランドのほかの博物館や図書館などとともに運営される
ようになり、1990年、現在の展示になりました。
ポーランドの偉人として、キュリー夫人の紹介コーナーがありました。
新渡戸博士が訪れた当時、新渡戸博士は、まさにキュリー夫人らと共に、
国際知的協力委員会(のちのユネスコ)を発足したころです。
スイスとポーランドの友好関係のシンボルですが、
スイスの友人たちにとっては、このポーランド博物館だけが、
特別なものではないようです。
スイスは、ほかの国からもさまざまなものや移民を受け入れて
きている国なのです。
受け入れる中立国としてのスイス、故国の貴重な品々を国外で保存
しなければならない事情があった国々。
それぞれの立場や心情を察すると、
新渡戸博士のみならず、感慨深い思いがあります。
新渡戸稲造博士は、著書『東西相触れて』の中で、
「波蘭(ポーランド)の国宝」というエッセイを書いています。
「端西(スイス)のチューリッヒ湖水の傍にラッパーズヴィルという
小部落がある。・・・この町より一段高い所に六百年以前に築かれた
旧城がある。・・・この城をある有志家が買い求めて波蘭の史蹟を
保存する博物館とした。この館に収むるものは、・・・故国のために
悲惨なる運命を荷なった人々の衣服、書翰(書簡)、武器、肖像、
著述そのほか何ものにもよらず、所詮波蘭の国事に殉死した志士に
関するものをここに収めたのである。・・・これを衛るべき場所が
本国には得られぬ故、中立国なる端西(スイス)にして始めて
この保存を委ねらるるのである。
我輩も再三これを見舞うて、その都度不覚の涙を流した。」
新渡戸稲造全集 第一巻 p.243-245「「波蘭(ポーランド)の国宝」
チューリッヒ滞在中、新渡戸博士が何度も足を運んだこの博物館を
訪ねました。
チューリッヒから、電車で約40分。車窓からチューリッヒ湖の美しい
眺めを楽しみながら、ラッパーズヴィルへ。
新渡戸博士が訪問した当時と変わらず、博物館はこのお城の中に
あります。
この博物館はポーランドの歴史とともにいろいろな変遷を経て、
今日にいたっています。
![]() |
| お城の入口 |
| 博物館の入口 |
館の説明文によると、入口に掲げてある紋章の三つの掲示板は、
当時からのオリジナルのようです。
新渡戸博士も目にしたことでしょう。
| 1927年の博物館内の展示 |
現在の博物館は、1954年に開館。
1989年、民主化によってポーランドが共和国となった後、博物館はポーランドのほかの博物館や図書館などとともに運営される
ようになり、1990年、現在の展示になりました。
ポーランドの偉人として、キュリー夫人の紹介コーナーがありました。
新渡戸博士が訪れた当時、新渡戸博士は、まさにキュリー夫人らと共に、
国際知的協力委員会(のちのユネスコ)を発足したころです。
![]() |
| 実際に使用していたキュリー夫人の実験道具 |
スイスの友人たちにとっては、このポーランド博物館だけが、
特別なものではないようです。
スイスは、ほかの国からもさまざまなものや移民を受け入れて
きている国なのです。
受け入れる中立国としてのスイス、故国の貴重な品々を国外で保存
しなければならない事情があった国々。
それぞれの立場や心情を察すると、
新渡戸博士のみならず、感慨深い思いがあります。
2015/07/07
速報! テレビ番組のお知らせ
新渡戸稲造博士の特別番組第三弾「台湾編」の放映日が
決まりました!
「新渡戸稲造の台湾 〜スーツを着たサムライ2015〜」
岩手めんこいテレビ制作
8月7日 (金) 午後7時〜 岩手めんこいテレビ (岩手県内)
8月22日(土)午後2時〜 BSフジ
出演:城戸裕次(きどゆうじ)
決まりました!
「新渡戸稲造の台湾 〜スーツを着たサムライ2015〜」
岩手めんこいテレビ制作
8月7日 (金) 午後7時〜 岩手めんこいテレビ (岩手県内)
8月22日(土)午後2時〜 BSフジ
出演:城戸裕次(きどゆうじ)
2015/06/27
大島正満博士 没後50年 記念講演会
2015年6月26日(金)15:00〜17:00
海老名市交流館(厚木駅下車)
1 開会の辞
2 演題「動物学者としての大島正満と札幌農学校」
大島 智夫 氏 (大島正満 八男/横浜市立大学名誉教授)
3 演題「大島正満の想い出」
大島 久子 氏 (大島正満 五男の妻/音楽教育者)
4 演題「大島正満=台湾における動物学研究の先駆者」
郭金泉(かくきんせん)氏 (台湾国立海洋大学 教授)
5 ピアノ演奏 大島 妙子 氏(大島正泰・久子 長女)
6 閉会の辞
(司会 大島富士子 氏)
大島正満博士は、大島正健博士(札幌農学校第一期生)のご長男。
台湾での功績を顕彰したいと、郭金泉教授が、ある日、台湾から
大島正満博士のご家族を探して訪ねて来られ、今回の記念講演会が
実現したと伺いました。
大島正満博士の生涯について、大島智夫氏のご講演、
博士の晩年15年間を一緒に暮らされた大島久子様からは
日常生活のエピソード、
郭教授からは、大島博士の学術的な研究や経歴についての
ご紹介がありました。
大島正満没後50年 記念冊子
「キリスト信徒としての動物学者 大島正満の生涯」
大島 智夫 著
発行:2015年6月26日(非売品)
新渡戸稲造博士は、終生、大島正健博士と親しくされ、
晩年には、札幌で共に洗礼を受けたハリス神父の墓参りに
でかけています。(1928年6月2日 東京の青山墓地)
その際の写真2枚は、『新渡戸稲造ものがたり』p.190に
掲載。
参考
『随筆 不定芽』大島正満 著 昭和九年 刀江書院
p.13〜21「新渡戸博士の書」
海老名市交流館(厚木駅下車)
1 開会の辞
2 演題「動物学者としての大島正満と札幌農学校」
大島 智夫 氏 (大島正満 八男/横浜市立大学名誉教授)
3 演題「大島正満の想い出」
大島 久子 氏 (大島正満 五男の妻/音楽教育者)
4 演題「大島正満=台湾における動物学研究の先駆者」
郭金泉(かくきんせん)氏 (台湾国立海洋大学 教授)
5 ピアノ演奏 大島 妙子 氏(大島正泰・久子 長女)
6 閉会の辞
(司会 大島富士子 氏)
大島正満博士は、大島正健博士(札幌農学校第一期生)のご長男。
台湾での功績を顕彰したいと、郭金泉教授が、ある日、台湾から
大島正満博士のご家族を探して訪ねて来られ、今回の記念講演会が
実現したと伺いました。
大島正満博士の生涯について、大島智夫氏のご講演、
博士の晩年15年間を一緒に暮らされた大島久子様からは
日常生活のエピソード、
郭教授からは、大島博士の学術的な研究や経歴についての
ご紹介がありました。
大島正満没後50年 記念冊子
「キリスト信徒としての動物学者 大島正満の生涯」
大島 智夫 著
発行:2015年6月26日(非売品)
新渡戸稲造博士は、終生、大島正健博士と親しくされ、
晩年には、札幌で共に洗礼を受けたハリス神父の墓参りに
でかけています。(1928年6月2日 東京の青山墓地)
その際の写真2枚は、『新渡戸稲造ものがたり』p.190に
掲載。
参考
『随筆 不定芽』大島正満 著 昭和九年 刀江書院
p.13〜21「新渡戸博士の書」
2015/06/21
台友会セミナー
2015年6月20日(土)
台湾留学経験者の親睦団体「台友会」を主宰されていらっしゃる
長谷部茂様のご案内により、定例交流会(セミナー)に
参加させていただきました。
拓殖大学(文京キャンパス) A 館 3階 第3会議室にて
(新しいA館の中に保存されている、レトロな趣きの教室)
開会あいさつ 長谷部 茂 氏
講演1
郷土教育から見る台湾人アイデンティティの形成
林初梅 先生
(大阪大学大学院言語文化研究科・外国語学部准教授)
講演2
台湾に新渡戸稲造の足跡を訪ねて
ー ドキュメンタリー制作のための取材旅行を終えて ー
工藤 哲人 氏
(岩手めんこいテレビ 番組プロデューサー)
「台湾で将軍になり軍神になった零戦パイロット」
梶本 光義 氏
(公益財団法人 呉海軍基地顕彰保存会 代表理事)
論文「明治・大正期における拓殖大学
草創期の台湾語教育について」
長谷部 茂 氏
長谷部様をはじめ、関係者のみなさま、ありがとうございました。
大変興味深い、そして、楽しいセミナーでした。
台湾留学経験者の親睦団体「台友会」を主宰されていらっしゃる
長谷部茂様のご案内により、定例交流会(セミナー)に
参加させていただきました。
拓殖大学(文京キャンパス) A 館 3階 第3会議室にて
(新しいA館の中に保存されている、レトロな趣きの教室)
開会あいさつ 長谷部 茂 氏
講演1
郷土教育から見る台湾人アイデンティティの形成
林初梅 先生
(大阪大学大学院言語文化研究科・外国語学部准教授)
講演2
台湾に新渡戸稲造の足跡を訪ねて
ー ドキュメンタリー制作のための取材旅行を終えて ー
工藤 哲人 氏
(岩手めんこいテレビ 番組プロデューサー)
「台湾で将軍になり軍神になった零戦パイロット」
梶本 光義 氏
(公益財団法人 呉海軍基地顕彰保存会 代表理事)
論文「明治・大正期における拓殖大学
草創期の台湾語教育について」
長谷部 茂 氏
長谷部様をはじめ、関係者のみなさま、ありがとうございました。
大変興味深い、そして、楽しいセミナーでした。
2015/06/11
第3回新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会記念フォーラム
第3回新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会記念フォーラム
「作文・論文コンクール授賞式および記念講演
がおこなわれます。
会長の秋山孝二様よりご案内をくださいましたので、
紹介させていただきます。
2015年6月27日(土)
開場 13時
授賞式/講演 13時30分〜16時
会場 わくわくホリデーホール(札幌市民ホール)
第1、第2会議室
作文・論文コンクール授賞式・講評
審査委員長 三島徳三 氏(北大名誉教授、名寄市立大学副学長)
記念講演「新渡戸稲造 世界に示した紳士道」
藤井 茂 氏 新渡戸基金事務局長、新渡戸稲造研究家、著述家
主催:一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会
ホームページは、こちら。
「作文・論文コンクール授賞式および記念講演
がおこなわれます。
会長の秋山孝二様よりご案内をくださいましたので、
紹介させていただきます。
2015年6月27日(土)
開場 13時
授賞式/講演 13時30分〜16時
会場 わくわくホリデーホール(札幌市民ホール)
第1、第2会議室
作文・論文コンクール授賞式・講評
審査委員長 三島徳三 氏(北大名誉教授、名寄市立大学副学長)
記念講演「新渡戸稲造 世界に示した紳士道」
藤井 茂 氏 新渡戸基金事務局長、新渡戸稲造研究家、著述家
主催:一般社団法人 新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会
ホームページは、こちら。
『坂西志保さん』
2015年6月 国際文化会館
坂西志保さんについて、国際文化会館(東京都港区六本木)
の関係から興味を抱いて調べていたところ、
坂西志保さんご自身がお書きになった「私の遺言」
(追悼集『坂西志保さん』に掲載)の中で、
新渡戸博士とのエピソードがありました。
以下、引用して紹介します。
・・・そこで提案されたのは、短期間の海外留学ということ
であった。相談を受けた新渡戸稲造先生は、それもよい
だろうといわれたということであったが、私はそのことを
全然知らなかった。本人は平然としているが家族のものは
何時までもほったらかしにしておくにもいかず、先生のところへ
駆けつけたのは窮余の一策ということだったのであろう。
豪放らい落な先生は、一度小石川の自宅に呼んでくださった
ことがある。学校から頼まれてお説教することになっていた
のだそうであるが、そんな気配は少しも見せず、北海道の風物や
初期の開拓民の心構えを、アメリカのそれらと比較し、興味深く
語られた。同席された夫人は「新渡戸は、私よりもアメリカびいき
なんですよ」とつけ加えられた。
私はお説教を聞かされずに釈放された。これはまだアメリカが
第一次欧州大戦に参加しない前のことで、先生は、ウィルソンの
新しい民主主義の解釈とアメリカの国際的使命についての考え方に
大きな期待をかけていられるようであった。しかし、大戦も終わり、
ウィルソンも失意の人として世を去り、一九二〇年代の初頭に、
アメリカが日本人排斥の方向に歩み出した時、先生はアメリカを
許さなかったのである。
(『坂西志保さん』p.51〜「私の遺言」鈍行列車の旅 p.63-64)
この時期、新渡戸博士は東京女子大学の初代学長。
文面からすると、おそらく家族かまわりの人間が、坂西さんの処遇に
ついて新渡戸学長に相談したことがうかがえます。
坂西さんのその後のアメリカ滞在とその功績、帰国してからの活動を
考えると、渡米前のこの時期に新渡戸博士と面会していることは
非常に興味深いことだと思います。
新渡戸学長はこの後まもなく後藤新平伯と外遊し、国際連盟事務次長に
就任することになります。
坂西さんは結局、「大学在籍(東京女子大学)四年を一年半で打ち切り、
資格をとるため、文部省の中等教員検定試験を受けてこれもパス」した後、
関東学院で英語を教え、一九二一年、アメリカに留学。学業終了後も
アメリカに残り、米国議会図書館などで要職を歴任されました。
そして、一九四二年、日米開戦により、帰国。
滞米は、二十余年に及びました。
帰国後も、翻訳/執筆のほか、ご実績と人脈から多くの仕事をされ、
一九七六(昭和51)年、大磯のご自宅で亡くなりました。79歳。
この「私の遺言」は、雑誌「暮らしの手帖」に1世紀97号(一九六八年秋)
から2世紀5号(一九七〇年春)まで掲載されたもの。
ご自身による伝記のように書かれていますが、途中、くも膜下出血で中断、
回復後に再開することなくご逝去されたそうです。
『坂西志保さん』
昭和五十二年十一月一日
『坂西志保さん』編集世話人会 代表 松本重治
発行 国際文化会館
坂西志保さんについて、国際文化会館(東京都港区六本木)
の関係から興味を抱いて調べていたところ、
坂西志保さんご自身がお書きになった「私の遺言」
(追悼集『坂西志保さん』に掲載)の中で、
新渡戸博士とのエピソードがありました。
以下、引用して紹介します。
・・・そこで提案されたのは、短期間の海外留学ということ
であった。相談を受けた新渡戸稲造先生は、それもよい
だろうといわれたということであったが、私はそのことを
全然知らなかった。本人は平然としているが家族のものは
何時までもほったらかしにしておくにもいかず、先生のところへ
駆けつけたのは窮余の一策ということだったのであろう。
豪放らい落な先生は、一度小石川の自宅に呼んでくださった
ことがある。学校から頼まれてお説教することになっていた
のだそうであるが、そんな気配は少しも見せず、北海道の風物や
初期の開拓民の心構えを、アメリカのそれらと比較し、興味深く
語られた。同席された夫人は「新渡戸は、私よりもアメリカびいき
なんですよ」とつけ加えられた。
私はお説教を聞かされずに釈放された。これはまだアメリカが
第一次欧州大戦に参加しない前のことで、先生は、ウィルソンの
新しい民主主義の解釈とアメリカの国際的使命についての考え方に
大きな期待をかけていられるようであった。しかし、大戦も終わり、
ウィルソンも失意の人として世を去り、一九二〇年代の初頭に、
アメリカが日本人排斥の方向に歩み出した時、先生はアメリカを
許さなかったのである。
(『坂西志保さん』p.51〜「私の遺言」鈍行列車の旅 p.63-64)
この時期、新渡戸博士は東京女子大学の初代学長。
文面からすると、おそらく家族かまわりの人間が、坂西さんの処遇に
ついて新渡戸学長に相談したことがうかがえます。
坂西さんのその後のアメリカ滞在とその功績、帰国してからの活動を
考えると、渡米前のこの時期に新渡戸博士と面会していることは
非常に興味深いことだと思います。
新渡戸学長はこの後まもなく後藤新平伯と外遊し、国際連盟事務次長に
就任することになります。
坂西さんは結局、「大学在籍(東京女子大学)四年を一年半で打ち切り、
資格をとるため、文部省の中等教員検定試験を受けてこれもパス」した後、
関東学院で英語を教え、一九二一年、アメリカに留学。学業終了後も
アメリカに残り、米国議会図書館などで要職を歴任されました。
そして、一九四二年、日米開戦により、帰国。
滞米は、二十余年に及びました。
帰国後も、翻訳/執筆のほか、ご実績と人脈から多くの仕事をされ、
一九七六(昭和51)年、大磯のご自宅で亡くなりました。79歳。
この「私の遺言」は、雑誌「暮らしの手帖」に1世紀97号(一九六八年秋)
から2世紀5号(一九七〇年春)まで掲載されたもの。
ご自身による伝記のように書かれていますが、途中、くも膜下出血で中断、
回復後に再開することなくご逝去されたそうです。
『坂西志保さん』
昭和五十二年十一月一日
『坂西志保さん』編集世話人会 代表 松本重治
発行 国際文化会館
2015/06/09
新渡戸博士が一高の生徒たちに教えた詩
新渡戸博士と親交のあった渋沢栄一氏の四男 渋沢秀雄氏が
旧制第一高等学校の生徒だった時、校長が新渡戸博士でした。
渋沢秀雄氏は、ご著書の中で次のような思い出を書いています。
(以下、渋沢氏の著書より引用 ↓ )
私は物静かな先生がよくロングフェローの詩を
愛誦された聲を今でも思い出す。
"Some day must be dark and dreary."
同時に何といふこともなく
「眞理が忍び足で世に現れた」
といふ中世紀の時代相が脳に浮かんでくる。
渋沢秀雄『通学日記』東宝書店 昭和16年
「新渡戸校長」p.19-20 より
(引用おわり)
作者のヘンリー・ロングフェロー(1807〜1882)は、
アメリカで広く愛された、著名な詩人でした。
裕福な家庭の娘を妻にし、多くの子どもにも恵まれましたが、
不慮の事故で最愛の妻を失うなど、その人生には
深い悲しみもありました。
多くの詩作品を残していますが、新渡戸校長がよく生徒たちに
愛誦されたという、この詩の全文は以下の通りです。
今年も梅雨の季節を迎えたので、新渡戸博士が愛した詩
「The Rainy Day」を紹介します。
The Rainy Day
旧制第一高等学校の生徒だった時、校長が新渡戸博士でした。
渋沢秀雄氏は、ご著書の中で次のような思い出を書いています。
(以下、渋沢氏の著書より引用 ↓ )
私は物静かな先生がよくロングフェローの詩を
愛誦された聲を今でも思い出す。
"Some day must be dark and dreary."
同時に何といふこともなく
「眞理が忍び足で世に現れた」
といふ中世紀の時代相が脳に浮かんでくる。
渋沢秀雄『通学日記』東宝書店 昭和16年
「新渡戸校長」p.19-20 より
(引用おわり)
作者のヘンリー・ロングフェロー(1807〜1882)は、
アメリカで広く愛された、著名な詩人でした。
裕福な家庭の娘を妻にし、多くの子どもにも恵まれましたが、
不慮の事故で最愛の妻を失うなど、その人生には
深い悲しみもありました。
多くの詩作品を残していますが、新渡戸校長がよく生徒たちに
愛誦されたという、この詩の全文は以下の通りです。
今年も梅雨の季節を迎えたので、新渡戸博士が愛した詩
「The Rainy Day」を紹介します。
The Rainy Day
The day is cold, and dark, and dreary;
It rains, and the wind is never weary;
The vine still clings to the mouldering wall,
But at every gust the dead leaves fall,
And the day is dark and dreary.
My life is cold, and dark, and dreary;
It rains, and the wind is never weary;
My thoughts still cling to the mouldering Past,
But the hopes of youth fall thick in the blast,
And the days are dark and dreary.
Be still, sad heart! and cease repining;
Behind the clouds is the sun still shining;
Thy fate is the common fate of all,
Into each life some rain must fall,
Some days must be dark and dreary.
It rains, and the wind is never weary;
The vine still clings to the mouldering wall,
But at every gust the dead leaves fall,
And the day is dark and dreary.
My life is cold, and dark, and dreary;
It rains, and the wind is never weary;
My thoughts still cling to the mouldering Past,
But the hopes of youth fall thick in the blast,
And the days are dark and dreary.
Be still, sad heart! and cease repining;
Behind the clouds is the sun still shining;
Thy fate is the common fate of all,
Into each life some rain must fall,
Some days must be dark and dreary.
Henry Wadsworth Longfellow
http://www.hwlongfellow.org
"Some day must be dark and dreary."
「(人生には)暗く、荒涼を感じる日があるもの」
人生には、喜びも悲しみもあるということを、
時には、深い悲しみを経験することがあることを
「雲の裏側では、それでも太陽が光り輝いていることを」
新渡戸校長は生徒たちに伝え、
励まそうとされたのかもしれません。
2015/05/24
『新渡戸稲造ものがたり』重版
おかげさまで、伝記『新渡戸稲造ものがたり』が重版に
なりました(3刷)。
今年度から新しくなった小学校の国語の教科書で紹介され、
また、今年は、
第48回岩手読書感想文コンクール課題図書に選定されています。
新渡戸博士の出身地、岩手県の子どもたちに広く新渡戸博士の
生涯が紹介できる機会になるよう期待しています。
重版に際し、関係者の方々にご協力いただきました。
ありがとうございました。
心より御礼を申し上げます。
【2012年 新渡戸稲造博士 生誕150年 記念出版】
ジュニアノンフィクションシリーズ
『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、
昭和をかけぬける』
発行 銀の鈴社 (神奈川県鎌倉市)
日本図書館協会 選定
全国学校図書館協議会 選定
学校図書館図書整備協会 選定
国連が定める「2012国際協同組合年(IYC)」認定図書
なりました(3刷)。
今年度から新しくなった小学校の国語の教科書で紹介され、
また、今年は、
第48回岩手読書感想文コンクール課題図書に選定されています。
新渡戸博士の出身地、岩手県の子どもたちに広く新渡戸博士の
生涯が紹介できる機会になるよう期待しています。
重版に際し、関係者の方々にご協力いただきました。
ありがとうございました。
心より御礼を申し上げます。
【2012年 新渡戸稲造博士 生誕150年 記念出版】
ジュニアノンフィクションシリーズ
『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、
昭和をかけぬける』
発行 銀の鈴社 (神奈川県鎌倉市)
日本図書館協会 選定
全国学校図書館協議会 選定
学校図書館図書整備協会 選定
国連が定める「2012国際協同組合年(IYC)」認定図書
2015/05/19
新聞記事「今こそ」新渡戸稲造
2015年5月18日(月)朝日新聞(朝刊)文化・文芸 掲載記事
「今こそ」新渡戸稲造
百年前に「自己啓発本」を書いた元祖教養人。
もう一つの「教養」が、そこに。
かく語りき
「唯書物を読んだ、美術の批評が出来ると云ふだけが
教育ではない。意志の力を養はなければならぬ」
(『読書と人生』から)
「今こそ」新渡戸稲造
百年前に「自己啓発本」を書いた元祖教養人。
もう一つの「教養」が、そこに。
かく語りき
「唯書物を読んだ、美術の批評が出来ると云ふだけが
教育ではない。意志の力を養はなければならぬ」
(『読書と人生』から)
登録:
投稿 (Atom)










