・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2012/08/28

『新渡戸稲造ものがたり』を刊行しました

2012年9月1日の新渡戸稲造博士生誕150年を記念して、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』(小学校中学年〜おとな)を
刊行しました。

「いまこそ、子どもたちに伝えたい、新渡戸稲造博士の生涯」

〈表紙カバー〉 肖像写真(1931年)・自筆英語(15歳)・英文『武士道』初版(1900年)表紙

2012/08/25

京都 飄亭

1933(昭和8)年の春、新渡戸博士は、京都へ向かいます。
旧友の佐伯理一郎博士、竹内栖鳳画伯も一緒に、南禅寺の
近くにある飄亭で食事をしました。

1933年、飄亭にて 左から佐伯、新渡戸、竹内
(同志社大学同志社社史資料センター所蔵)
『新渡戸稲造ものがたり』p.207より
2012年8月、その飄亭を訪ねました。
上の写真が撮られたと思われる中庭は、当時の風情を今に伝えています。

400年前に創業、飄亭

中庭 2012年8月撮影



2012/07/16

後藤新平の会@学士会館

2012年7月15日(日)
第六回後藤新平賞授賞式/
2012年度「後藤新平の会」シンポジウム
「チャールズ・ビーアドと後藤新平」
二十世紀を代表する歴史家ビーアドとの関係から見えるものはなにか

パネリスト
青山  佾(明治大学公共政策大学院教授)
阿川 尚之(慶應義塾常任理事 同大学教授)
小倉 和夫(青山学院大学特別招聘教授)
開米 潤(ジャーナリスト)
細谷 雄一(慶応義塾大学法学部教授)


後藤新平伯は、新渡戸稲造に大きな影響を及ぼした人物といえます。
ともに岩手出身の二人は、兄弟や師弟関係のようでもあり、
ともに外遊もしました。
新渡戸が、国際連盟の事務次長に就任することになった時も、
二人そろって、パリに滞在中でした。

後藤新平もまた、幅広い活躍をした大人物です。

今回のシンポジウムでは、ビーアド博士が、後藤と出会って、アジア観を
大きく転換したこと、後藤の要請で、関東大震災直後に緊急来日して、
後藤の片腕となって、復興計画に協力しました。
その著書 "President Roosevelt and the coming of the war"は
1941年にアメリカで出版され、大きな反響を呼びました。
(日本語版『ルーズベルトの責任』は、2011年〜2012年、藤原書店から刊行)

2012/07/15

賀川豊彦学会@明治学院大学

2012年7月14日 賀川豊彦学会@明治学院大学白金校舎
「国際的な平和運動における新渡戸稲造と賀川豊彦の役割」
広島大学大学院総合科学研究科 布川 弘

布川先生は、『平和の絆 新渡戸稲造と賀川豊彦、そして中国』
(平成23年 丸善)の著者であり、貴重な機会なので、出席させて
いただきました。
キリスト教の精神を共有していた新渡戸と賀川が、ともに平和のための
活動をおこなったことについて、太平洋問題調査会や日本友和会の活動、
さらに中国との関係など、興味深いお話でした。

二人は、ともに中国人と個人的な関わりやつながりをもっていました。
個人の信頼関係がありながら、それぞれの祖国が争うことになってしまった
ことは、本当に無念であったと心が傷みます。

新渡戸稲造博士のご令孫、加藤武子さんのお話を思い出します。
「小日向の家にいらした中国人の方たちは、本当に礼儀正しく、
本当に素晴らしい、立派な方ばかりでした」。

2012/07/06

渋沢栄一 社会企業家の先駆者

2012年7月5日 渋沢栄一記念財団会員総会@東京工業俱楽部

島田昌和(渋沢研究会代表・文京学院大学経営学部教授)

特に、渋沢栄一が考えていた経済全体の仕組みについての話が興味深かった。
大きな視点と長期的視野に立った考え方。

渋沢の構想した「合本(がっぽん)」資本主義社会
(つまり、民間に公共性をもたせる資本主義)
株式会社は、公共的(パブリック)なもの
会社組織は、一つの共和政体のようなもので、株主は国民のようなもの
民間パブリック(異なる利害を共有すること、共通の利害を見出す)
経営には、道理(論語)が大事

今回の話は、主に渋沢の構想した経済の仕組みとビジネスモデル。
スケールの大きな仕事を成し遂げながら、新渡戸稲造とは、
国際友好に関わることにも共に積極的に関わりをもった渋沢の功績は、
大きい。渋沢も新渡戸も、ともに、現在の社会に、いまなお、影響を
及ぼしている。

2012/06/02

近代日本のリーダー@早稲田大学

2012年5月31日(木)早稲田大学大隈小講堂
寄付講座 Trans-Pacific Leadership 記念シンポジウム
「近代日本のリーダー 渋沢栄一・福沢諭吉・大隈重信」

この講座は、太平洋を越えて日米両国のリーダーの育成を考える機会として
早稲田大学とポートランド州立大学(アメリカ)が協同で、渋沢栄一記念財団の
厚意で立ち上げられたもので、今回は、新渡戸稲造博士と同時代を生き、
また関わりのあった三人のリーダーたちについてのお話を伺うことができました。

パネリストは、
渋沢雅英(渋沢栄一記念財団理事長)、
北岡伸一(政策研究大学院大学教授)、
真辺将之(早稲田大学文学学術院准教授)、
討論者として、
五百旗頭 真(熊本県立大学理事長・復興庁復興推進委員会委員長)

「渋沢栄一の世界」渋沢雅英
1 没後80年、持続する社会的関心
2 伝記資料の電子化と解説
3 大隈、福沢、渋沢、そして岩崎弥太郎の出会い 明治11年春
4 スーパー経営者
5 抜群の説得力と粘り強さ
6 近代化推進のための枠組みの構築
7 470余の企業の設立と運営 ほか

「福沢諭吉」北岡伸一
1 『福翁自伝』の福沢
2 啓蒙の戦略
3 脱亜論
4 近代日本における福沢の位置

「世界に向き合う独立的青年 ー大隈重信のリーダー教育論」真辺将之
1 教育者としての大隈
2 アソシエーションの思想:自治の体現、「民」へのこだわり
3 世界的市民の育成
4 「世界の道は早稲田に通ず」

「新渡戸稲造」の名前は、全体を通して、一度だけしか出ませんでしたが、
同時代を生きた三人のリーダーたちの素顔など、大変興味深い話で、
勉強になりました。

2012/03/14

恵泉女学園(東京・経堂)

2012年3月13日(火)
東京・経堂、恵泉女学園を訪問しました。
この学校は、新渡戸稲造博士の教え子(札幌のスミス女学校、現在の北星学園)、
河井道先生が建学した学校です。
新渡戸博士は、かつて苦学をしていた学生に貸したお金の返済を断わり、かわりに
恵泉女学園へ寄付してもらうように頼んだほか、
創立認可をもらえるよう自分が保証人になるという文書を東京府あてに送っています。

住宅街にある環境がよく、施設も素晴らしい学校です。



史料室で、貴重な資料をたくさん見せていただいたほか、学園関係の方々から、興味深い
お話を伺うことができました。
お昼はきれいなカフェテリアでいただき、その後、翌日おこなわれる卒業式の予行練習を
見学しました。
創立者・河井先生の教育に対する姿勢を、いまも大切に引き継いでいることを実感しました。
ありがとうございました。

2012/03/12

羽田空港の「世界への架け橋」展

2012年3月11日(日)快晴
羽田空港第一ターミナルで、新渡戸稲造生誕150年「世界への架け橋」展が始まりました。
二階出発ロビーの二カ所に、展示があります。
稲造博士の父・十次郎氏の甲冑など十和田市新渡戸記念館の所蔵品のほか、日本ユネスコの
未来遺産に選ばれた青森県十和田市の三本木についての概要を見ることができます。
三本木は、稲造博士の祖父と父によっておこなわれた開拓事業で、その開拓によって初めて
稲が収穫された後に生まれた稲造博士は、「稲之助」(幼名)と名付けられました。


稲造博士の父・十次郎氏の甲冑(うしろに、新渡戸稲造博士夫妻の写真)

左に祖父、右に父の像の写真
開拓時に使われた道具のレプリカなど

この日は、東日本大震災からちょうど一年。
14時47分、空港内でも黙祷がおこなわれました。

4月中旬まで開催中。詳細は、こちら

2012/03/10

東京・湯島の「共慣義塾」

2012年3月
湯島天神からお茶の水に向かって歩いている時、偶然、文京区の「旧町名案内」に
新渡戸稲造博士のことが書いてあるのをみつけました。




新渡戸文化学園(東京・東高円寺)

2012年3月8日(木)と9日(金)の二日間、東京の東高円寺にある新渡戸文化学園を
訪問しました。
この学校は、新渡戸稲造博士の教え子の一人である森本厚吉先生が創立した学校です。
(女子経済専門学校)
稲造博士は、校長を引き受けました。



現在では、幼稚園から短期大学までの学園として、多くの生徒たちが学んでいます。

森本晴生様(創立者・森本厚吉先生のお孫様)が、いろいろなお話をしてくださいました。
図書室で貴重な資料を拝見することもできました。心より御礼を申し上げます。

2012/02/14

キリスト友会 Tokyo Friends Meeting

2012年2月12日(日)、開拓使仮学校跡から、車で10分ほどのところにあるキリスト友会へ
行ってみました。
ここは、日本におけるクエーカー教徒の本拠地です。
新渡戸稲造博士夫妻も、何度もここを訪れています。
(稲造博士は、日本人初のクエーカー教徒。メアリー夫人もクエーカー教徒)
1891(明治24)年、1月1日、二人はアメリカのフレンド・ミーティングハウスで結婚
しました。出席した175人のクエーカー教徒たちが、結婚証書にサインをしています。

日曜の午後、中では数人の方々が話し合いをされているようでした。





近くにある普連土女学園を訪問する時に、また訪れてみようと思います。

2012/02/12

「開拓使仮学校」跡(東京・芝公園)

今日は、2012年2月12日(日)
北日本では大雪、ヨーロッパに寒波がきているここ数日ですが、東京は快晴です。
東京・芝公園内にある、開拓使仮学校跡を探しに行きました。
芝公園は、徳川家の霊廟がある増上寺や東京タワーのある一帯に広がる都立の公園です。


新渡戸稲造博士も、札幌農学校に入学する前、東京に住んでいたころ、開拓使仮学校に
短期間ですが、通ったと思われます。
その後、仮学校は、全面的に札幌に移転し、その役割を終えました。


2012/02/06

音無川(鎌倉)の別荘

新渡戸稲造博士は、鎌倉に別荘をお持ちでした。
2012年2月5日(日曜日)、その別荘跡を訪ねました。

JR鎌倉駅から江の電に乗り換え、稲村ケ崎駅で降りて、海岸に向かって2,3分のところ、
素敵な家が立ち並ぶ一角、音無川のすぐ横です。
(建物はずいぶんリニューアルされていると思われます)



大正九年(1920年)秋から六ヵ月間、有島家がこの別荘を借りて生活しました。
新渡戸博士の教え子であった有島武郎の弟、画家・有島生馬(里見弴の兄)の一家です。

「新渡戸別荘の内部は、洋間ばかり、ベランダ、サロン、食堂と書斎にはマントル・ピース
があり、それに廊下続きの離れには使用人用の日本間が二部屋あり、(以下、略)」
(『松の屋敷 有島暁子遺稿集』より)

聖路加に売却され、その後、聖路加看護大学の施設「アリスハウス」になり、現在は、
セミナーハウスとして使用されているようです。



ジュネーブの国連古文書館に残っている帰国時の資料には、ジュネーブからの
引越荷物の一部は、鎌倉へ輸送されるように手配した文書が残っていました。

また、北海道大学図書館古文書室に保管されている書簡の中から、メアリー夫人が、
札幌の宮部金吾博士に書いた手紙も含まれていました。
その手紙の中で、夫人は、病気だった宮部博士に、温暖な鎌倉の別荘で療養するよう
勧めています。
「夫は、鎌倉には出向かないので、いつまでも好きなだけ滞在してくださるようにと
申しています」と書き、夫妻が親しい宮部博士を気遣っている様子が伝わってきます。


海側からの写真。南側に傾斜した高台にあります。
新渡戸博士の別荘だった当時は、三百坪の庭があり、裏門からすぐに海岸に出られた
ようです。
いまでは、別荘と海との間にはガソリンスタンドが立ち、国道が走り、当時とはずいぶん
趣きが変わってしまったのではないかと思います。

2011/12/19

芭蕉「夏草」稲造博士による英訳の句碑 平泉

2012年1月16日(月) 奥州平泉

平泉の毛越寺(もうつうじ)を訪れた際、思いがけず、稲造博士の英語の句碑を
発見しました。
平泉を訪れた芭蕉が詠んだ「夏草や つわものどもが 夢のあと」は有名ですが、
その句を英訳した稲造博士の直筆が、刻まれています。近くには、解説がありました。






The summer grass
'Tis all that's left
Of ancient warriors' dreams.  Inazo Nitobe


たしかに、かつては美しい庭園だった毛越寺も、いまや、ほとんどの建物を消失し、
昔の姿を偲ぶばかりの静かな地になっています。
「純白の つわものどもが 夢のあと」

花巻新渡戸記念館(新花巻)

盛岡市先人記念館を再訪したあと、新幹線で新花巻に向かいました。

2012年1月15日(日)
8時30分、花巻新渡戸記念館に到着しました。
ここ花巻は、新渡戸稲造博士の祖父、新渡戸傳(つとう)氏の出身の地です。
新渡戸家が二百年以上にわたって居住した地に建てられている記念館です。


花巻は、札幌農学校の先輩、佐藤昌介(北海道大学総長)の出身地でもあります。


朝早いにもかかわらず、すでにすっかり雪かきがされています。


ここで、佐藤館長さんからいろいろなお話を伺うことができました。
館内で稲造博士の生涯について10分間のビデオを視聴し、「新渡戸稲造の生涯展」を
見学しました。さらに、新渡戸家の新田開発などの業績もわかりやすく展示してあります。


お忙しい中、ご親切に説明してくださった佐藤館長に心より御礼申し上げます。
花巻新渡戸記念館のホームページは、こちら

新渡戸稲造博士生誕の地(盛岡)冬

中津川を渡って、下の橋に向かいます。
途中、道を尋ねると、「雪にうもれてて、なにもないよ」と言われました。
稲造博士生誕の地に到着しました。


稲造博士の像は、雪にもうもれず、静かに思索にふけっているご様子です。

新渡戸稲造胸像(盛岡)

レストラン公会堂多賀から、城跡公園沿いを歩いて中津川へ。


稲造博士の胸像がありました。




レストラン公会堂多賀(盛岡)


1927年、1932年、1933年、稲造博士はレストラン公会堂多賀で会食をされました。
盛岡市内にある登録有形文化財「岩手公会堂」は、大正12年(1923年)に建設されました。
その地下にある創業84年の老舗レストランです。


稲造博士の直筆が飾られています。
「Haste not Rest not.(急ぐなかれ、とどまることなかれ)」



現在は、客席も地下にありますが、当時、地下は厨房のみだったそうです。


古そうな木箱が並んでいます。



新渡戸博士が召し上がったコースの一つを、「新渡戸コース」と命名して提供しています。


レストラン公会堂多賀のホームページは、こちら

新渡戸基金(盛岡)

2012年1月14日(土)
朝早く東京を出発し、稲造博士生誕の地、盛岡へ向かいました。
駅前からバスに乗り、城跡公園前で下りました。
11時、新渡戸基金を訪問しました。
内川理事長、藤井事務局長、佐藤理事の三人の方々にお会いし、貴重なお話を
伺うことができました。また、資料を提供してくださいました。
ご親切に応対していただき、本当にありがとうございました。