・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2013/09/18

『世界史における日本』 G.B.サンソム


『世界史における日本』 G.B.サンソム (大窪愿二 訳) 岩波新書80  1951年

原文タイトルは、Japan in world history
G.B.サンソム(George Bailey Sansom )

日本語版の序文は、矢内原忠雄氏(日本太平洋問題調査会理事調査委員長)
1951年9月1日に書いています。
「サンソムは、戦前東京のイギリス大使館員として日本滞在三十年に及ぶ著名の
外交官であり、戦時中は、ワシントン駐在公使、戦後は極東委員会イギリス代表の
要職にあった。
・・・1947年以後は、太平洋問題調査会国際調査委員長の任についておられる。」

矢内原氏は、サンソム氏のことを、
「外交官としてのみならず、日本文化史研究の最高権威の一人である」と
讃えています。

この本は、サンソム氏が1950年12月7日から五回にわたり、主催の東京大学で
おこなった連続公開講演の記録です。
その当時の東京大学総長は、南原繁。矢内原忠雄、南原繁は、ともに、
新渡戸博士の教え子でもあります。
(矢内原忠雄氏は、新渡戸が東大で担当していた植民地政策講義の後継者で、
 『武士道』の日本語訳者)
 

第五回「日本の将来にふれて」で、サンソム氏は、次のように述べています。
「私はこの寛容ということにこそ、人と人とのあいだにおけるように国民と
 国民のあいだに理解が成り立つ唯一の希望があると考えます。そして、
 理解のうちにこそ融合の唯一の希望があるのであります。」
 (『世界史における日本』p.113)

新渡戸稲造博士は、亡くなる数ヶ月前の第五回太平洋問題調査会の会議
(カナダ・バンフ)で、次のような内容の演説をしています。

〈「寛容(相手を理解して受け入れること)は、あらゆる進歩と人類福祉の
 根底深くにあるものである。文明はその大部分の成長を、この精神に
 負っている」〉 (『新渡戸稲造ものがたり』p.210)