・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2021/09/17

HAPPINESS CREATOR 新渡戸文化高等学校

2021年9月9日(木)17:30~  外国人特派員協会にて

一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)の記者発表

CCF代表と登壇者のお一人が知人でしたので、出席させていただきました。

教育現場を代表して、登壇されていらしたのが、新渡戸文化学園の山藤旅聞(さんとうりょぶん)先生。

新渡戸文化高等学校の総括校長補佐、高等学校教育チーフデザイナーをされています。

山藤先生は、

「新渡戸文化学園は、創立者の森本厚吉先生、初代校長の新渡戸稲造先生が

 社会の変革をめざして、開校」

「新渡戸文化学園は、学校と社会をブリッジ(橋渡し)する」

とお話しされ、建学の精神を大切にし、いまの時代に合った変革を推し進められていること

がわかり、感動しました。

会場には、山藤先生の教え子(新渡戸文化学園のOGお二人)も登場、

「最近、『一枚500円のTシャツを購入し、ひと夏が終わると捨てる』という友人たちの言動に

違和感を抱いていた。使われない/使われなくなったコットンが、紙としてよみがえり、

再利用されることは素晴らしい取り組み」という率直な声を聞くことができました。

同校では、「国際人としての人格教育」をはじめ、

学園の7つの強みを掲げた教育をおこなっています。

未来に向かって変革を続ける新渡戸文化学園に大きなエールを送ります。

新渡戸文化学園のホームページは、こちら

同校にお招きいただいた時の報告は、こちら


一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)とは、

綺麗な地球を子どもたちに引き継ぐために、洋服の廃棄物をゴミにせず、廃棄物から紙を再生し、

活用することを始めた一般社団法人。

繊維業界にとどまらず、製紙会社、出版社、日本郵便株式会社様、さらに、

お菓子メーカー(今回の登壇者は、榮太棲総本舗の細田将己副社長様)、学校など、

社会全体の大きな連帯により実現可能な、循環型社会をめざす壮大な取り組み。

(日本における繊維リサイクル率は、17.5%。毎年137万トンの繊維廃棄物が捨てられ、燃やされている。

2019年、28.5億枚の洋服が作られ、14.8億枚は、新品のまま破棄。配布資料より抜粋)

CCFのホームページは、こちら


 

2021/03/02

安倍能成(あべよししげ)先生のこと

 2021年3月1日

安倍能成先生は、新渡戸先生の一高の教え子で、のちに一高校長や

学習院院長を歴任しています。

一高のリベラルな思想が戦中、戦後にも引き継がれていたことがわかる

エピソードとして、宇沢弘文先生のご著書より抜粋して紹介します。

↓ 

『人間の経済』宇沢弘文 著 新潮新書 2017年4月

p.84

三 教育とリベラリズム

安倍能成先生のこと

社会的共通資本としての教育について考えるとき、

私にとって忘れられない光景があります。

東京大空襲後の1945年、旧制一高に入学した年の出来事でした。

・・・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つと同時に、

過酷な占領政策が始まります。あたり一面は焼け野原と化していて、

占領軍は、めぼしい建物はみな接収して占領のために使うことにしたのです。

たしか9月半ば、軍隊の施設とみなされていた一高にもジープに乗った占領軍の

将校団が接収にやってきました。当時の一高にも校長は安倍能成先生で、

戦前の日本では最も優れたカント哲学者で、すぐれたリベラリストでも

ありました。ずっと後になって知ったことですが、安倍先生は、戦争中から、

近衛文麿を中心とした敗戦処理を考えるグループの一員だったそうです。

(筆者注:近衛文麿も新渡戸校長時代の一高の生徒)

その安倍先生は占領軍の将校たちを前にして、英語できっぱりとおっしゃいました。

「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。

ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的の

ためには使わせない」

リベラルアーツというのは、教育の仕上げの段階で重要な役割を果たすものです。

つまり、学問や芸術、知識であれ文学であれ、専門を問わず、先祖が残した貴重な

遺産をひたすら学び吸収し、同時にそれらを次の世代へ受け渡すという営為を

する場所だということです。一人ひとりの学生の人間的な成長を図るとともに、

それを時代へと継承する役割がある。安倍先生はそのことを繰り返し、それを聞いた

占領軍の将校たちは、黙ってそのまま帰っていきました。

占領軍に楯突くなど逮捕されて当たり前、という時代にきわめて珍しい

エピソードのはずなのに、新聞はもちろん一高の記録にもいっさい残っていません。

しかし、その場に居合わせた私は心の奥底で、われわれは先祖が残した貴重な遺産を

できる限り吸収して次世代に残すという仕事をしている、

それが大学あるいは学校なのだという思いを強くしました。いまになって考えると

私の心の中で「社会的共通資本としての教育」という考え方が芽生えた原点

だったように思うのです。


2020/02/01

新渡戸稲造と「安全保障」

2020年1月28日(火曜日)

交詢社「安全保障研究会」新年会

真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」

上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。

ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・

まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。

最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」

そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)

新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。

山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、

過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。

このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。



2019/09/12

東京女子大学第一期生 斎藤百合

2019年9月12日(木曜日)

先月、東京女子大学の茂里学長様がお話しされた、
東京女子大学(初代学長新渡戸稲造)第一期生の斎藤百合さんについて、
下記の本から、紹介します。

『光に向かって咲け 斎藤百合の生涯』 粟津 キヨ 著 岩波新書342

茂里学長のご講演については、こちら


いまよりさらに困難な状況であったと考えられる当時の障害者が、
特別生とはいえ、第一期生として入学が許可されたことに驚かされます。
学友たちともあたたかい交流があったようです。

・・・ここより、同書から引用(抜粋)・・・

p.53〜54(抜粋)

大正七年の春まだ浅いある朝、武弥(斎藤百合の夫、弱視者)は
新聞に発表された東京女子大学設立の記事を見つけて読んでくれた。
そこには設立の意図として、
「いままでのような家政科でなく、教員養成でもなく、キリスト教精神により
女性を一人一人の人間として伸ばすための高等教育を行う」
という意味のことが書かれていた。百合は感激して、
「これこそ、私の求めていた学校だ。そして、私の住むべき世界だ」
と思った。夢は際限なく大きくふくらんでゆき、百合にはもう、
自分の現実を深く考える余裕はなくなってしまっていた。

・・・百合は、盲女子であり、その上、主婦であり、大正五年八月には
長女久美が生まれていたから幼児をもつ母でもあった。年は、二十八歳
になっていた。経済的にも決して裕福とはいえない。

・・・夫は「やれるだけやってみるんだね」といって、百合の無謀としか
言いようのない女子大学入学への望みに理解を示し励ましてくれた。

・・・入学試験は口頭で行われた。面接の時、学長代理の安井てつ学監は、
いきなり言った。
「ここは、勉学の意気に燃えているお嬢さんたちの集まる所です。
結婚しているめくらの女が大きなお腹にでもなったらどんな勉強が
できるというのですか」
 覚悟はしてきたのだったが、こんな言い方をされようとは思わなかった。

・・・盲女子の置かれている社会的地位がいかに低いか、
それを高めるために、一人でも二人でも高等教育を受けなければ
ならないのです、と百合はしゃべるだけしゃべって帰ってきた。

それから一週間後、東京女子大から「特別生として入学を許可する」
という文面の速達便が届いた。すでにあきらめていた百合は、
その手紙を胸に抱いて、声をあげて泣いた。

・・・元東京女子大学教授平野雪枝は、「・・・新渡戸先生(学長)や
ライシャワー先生(理事)がお決めになったのでしょう」と
言っている。・・・ライシャワー夫妻が聾唖の娘をもっていたこと、
また、若いころ重い眼病にかかって、いったんは失明の宣告まで受けた
新渡戸の、障害者に対する深い理解が、百合の入学を大きく左右した
ことが考えられる。
のちに学長となった安井てつは、面接の時は冷酷ともとれる言葉を向けて
百合の決意を確かめたが、入学後は特に百合に心をとめて指導し、
卒業後も百合の主催する「陽光会」の後援会長になるなど、
援助を惜しまなかった。

p.56(抜粋)

斎藤百合は、大正七年春、東京女子大学予科に入学、人文科を経て、
高等学部三年に編入し、卒業すると、つづいて大学部英文科に
一年半在籍し、十二年の秋に退学している。
(その間に、三人の子どもを出産。長男は生後まもなく死亡)
(十二年九月の関東大震災で夫の勤務先が焼けて一時失業、
 また町の混乱した状況が通学を難しくしてやむなく退学)
(百合が優秀であったこと、学友たちと楽しく交流したエピソードが
 残されている。学友たちは卒業後も百合の活動を支援した)
(視力を補う、素晴らしい勘の持ち主でもあったらしい)

p.102〜(要約)

第一回のヘレン・ケラーの来日時に、さまざまな困難を経て、
講演会を企画、実現した。
講演会では、百合の作詞、宮城道雄の作曲による、
「ヘレン・ケラー女史に捧ぐる歌」を自ら歌った。
(琴の演奏は、宮城道雄)

1946(昭和21)年、夫(武弥)死去 53歳
1947(昭和22)年、百合 死去 55歳

2019/08/22

田島道治(初代宮内庁長官)と新渡戸稲造博士

2019年8月21日(水)

今回、「拝謁記」が公表された田島道治 初代宮内庁長官は、
学生時代、新渡戸稲造博士の書生でした。

伝記『田島道治』をお書きになった恩師加藤恭子先生によると、
新渡戸夫妻は、田島氏に終生大変な信頼をおいていらしたそうです。
新渡戸博士がカナダで亡くなり、遺骨を抱いて帰国したメアリー夫人が、
真っ先に遺骨を手渡したのが、田島氏だったということです。

新渡戸博士のお墓がある多摩墓地の新渡戸像も、田島氏が中心になって
建てられました。詳細は、こちら

加藤恭子先生は、上記の伝記以外に、これまで、

『昭和天皇 「謝罪詔勅草稿」の発見』
昭和天皇と田島道治と吉田茂 初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』
『昭和天皇と美智子妃 その危機に 「田島道治日記」を読む』

などをご執筆されています。

2019/08/19

第2回新渡戸稲造シンポジウム

2019年8月18日(日)14:00~ 中野サンプラザ(東京都・中野区)

第2回新渡戸稲造シンポジウム
〜「新渡戸稲造記念センター」開設記念〜

2019年4月、東京医療生活協同組合に「新渡戸稲造記念センター」が
開設になりました。
新渡戸博士は、1932年に設立された医療生活協同組合病院
(現 新渡戸記念中野総合病院)の初代理事長です。

新渡戸記念中野総合病院についての過去のブログは、こちらへ





最初に、入江徹也理事長様よりごあいさつがありました。
病院の理念は、
「新渡戸稲造博士の精神(誠意と思いやりの心)を基にした医療を
誠実に実践し、疾病を抱えた人を真心で支援する」です。





講演 I  新渡戸稲造が遺したもの 
茂里 一紘 先生(東京女子大学 学長)

1 いと小さきもの

東京女子大学は、新渡戸博士を初代学長に迎え、1918年に開校。
1918年4月30日におこなわれた開校式について、翌日の萬朝報に
よりますと、渋沢栄一はじめ来賓500名(およそ半数は外国人)、
新入生は84名。その中には、斉藤百合さんがいました。
斉藤百合さんは、盲目の28歳、既婚で一児の母でした。
断られてもともとと思って志願すると、なんと特別生として入学が
許可されました。
茂里先生は、新渡戸学長とライシャワー氏(常務理事・財政担当)が
相談し、この異例な許可にいたったのでは、とおっしゃいました。

「いと小さきもの」を、神の子として平等に受け入れ、
知識よりも見識、学問より人格を尊び、人材より人物の養成を
主とした教育をおこないました。

注:ライシャワー家の長女は、聾唖(ろうあ)者で、日本聾話(ろうわ)学校を
夫人とともに設立。次男は、のちの駐日大使 E.O. ライシャワー。
『新渡戸稲造ものがたり』p.154


2 犠牲と奉仕 (Service and Sacrifice)

己を犠牲にしても、国、社会、人道のために貢献する精神。
この二つの頭文字(SS)をデザインした校章


3 リベラル エデュケーション(高等なる常識)

「リベラル・エデュケーションは、無知からの解放」
D. キーン

東京女子大学では、開校時から「文明史」の授業
「人文科」=一女性として高等なる常識を学ぶ
カリキュラムは、リベラル・アーツ教育の源流

卒業生たちが語る東京女子大学(『旅人われら』2007年)の
キーワードは、
「自由」=枠にはまらない考え方=リベラル・アーツ教育

「学び」は、建物の「耐震化」のようなもの
=予期せぬことに対応できるような強靭さを育むこと
特に女性は人生の変化が大きい人がいる

「挑戦する知性 未来につなぐリベラル・アーツ」


講演 II 新渡戸稲造先生の贈り物
宗雪 雅幸 先生(恵泉女学園 理事長)

恵泉女学園の創立者 河井 道先生と新渡戸稲造博士は、
「神の見えざる手」(アダム・スミス)によって導かれた出会い

河井 道先生(1877年〜1953年)は、伊勢神宮の神職の家の出身。
(「祈り」のある家)
明治4年、神職の世襲が禁じられると、河井家は函館へ。
ある日、お使いに出たところ、伊勢山田出身の親戚(キリスト教の
伝道者)に会う。スミス女学校で、新渡戸稲造先生から歴史を学ぶ。
新渡戸博士のアドバイスに従い、米国の名門ブリンマー大学に留学
(津田梅子も同学に留学)

新渡戸夫妻に同行して渡米した際の「渡航証票」が恵泉女学園史料室に
残っている。
雇い主 ↓
新渡戸稲造 東京市四ツ谷區北伊賀町廿五(25)番地
河野 孝忠 方

河井 道 先生は、「恵泉」11号(1933年10月)「恩師新渡戸稲造博士」で、
新渡戸先生口添えで1000円(当時)の寄付をいただいたエピソードを
書いています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.187)

1929年、世界恐慌などの状況にもかかわらず、恵泉女学園を創立。
当初、新渡戸夫妻は、河井の苦労を心配して反対したが、
生涯に一度だけ、新渡戸博士の意見に反して行動しました。
1929年1月、申請。3月、許可。7名の後援者、9名の入学者。

新渡戸先生=優しさ、知性、行動
新渡戸博士のユーモア=心のあたたかさ


講演 III 21世紀の新渡戸稲造 〜がん哲学外来の心得〜
樋野 興夫 先生(東京医療生活協同組合 新渡戸稲造記念センター長)

日頃の講演活動のご報告とご著書の紹介



新渡戸稲造記念センター開設、誠におめでとうございます。
お招きくださいました入江理事長様に感謝を申し上げます。

新渡戸記念中野総合病院のホームページは、こちら


2018/10/10

小泉八雲の文学とその背景

カルチャーラジオ 文学の世界
NHKラジオ第2毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時

文化講演会「小泉八雲の文学とその背景」

小泉八雲記念館館長、島根県立大学短期大学部名誉教授…小泉凡

小泉八雲さんのひ孫さん・小泉凡さんのお話が放送されている中、
第11回では、ボナ・フェラーズが取り上げられています。

『新渡戸稲造ものがたり』p.222~

新渡戸稲造博士の「精神的子孫(spiritual descendants)より

 日本は敗戦し、連合国の占領下になりました。連合国最高司令官
総司令部の最高司令官マッカーサーとともに、軍事秘書官ボナー・
F・フェラーズが来日しました。フェラーズはカーライルを学び、
稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神をよく理解して
いるクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の一色ゆり
(旧姓・渡辺)の友人でもありました。(引用終わり)

フェラーズは、河井道と一色ゆりの二人からの意見も参考にして、
報告書を作成し、天皇陛下を裁くのではなく、
日本国民の天皇陛下への尊敬心を、むしろ日本統治にいかすことを
提案したのです。
フェラーズは、戦前から、小泉八雲の著書を読み、日本人の精神性を
理解していました。そして、小泉家とも親交がありました。

小泉凡さんの「ボン」という名前は、ボナー・フェラーズの名前から
付けられています。
凡さんは、この回の最後に、
「人との出会い、書物との出会いが、歴史を作るときがある」
と述べています。

NHKラジオのホームページ(聞き逃しが聴けます)は、こちら

2018/06/25

渋沢栄一の孫「鮫島純子」様と新渡戸博士

2018年6月25日

最近の読書記録メモ

鮫島純子(渋沢栄一 孫)著
『祖父・渋沢栄一に学んだこと』
2010年10月15日 文藝春秋

P.86〜88「新渡戸稲造先生」より抜粋

あれは、私が小学校低学年の頃でした。
その日は記者で名古屋に向かいましたが、・・・
父(渋沢栄一の四男 正雄)は、車内に落ち着くやいなや
向かい合わせの席に書類を広げ、社用を片付けていました。
列車が浜松にさしかかる頃、さすがに飽きた私は、
背中合わせに座っておられる上品な白髪のご老人と目が合い、
ニコッと笑いかけました。
これがきっかけで、このご老人との車内文通が始まりました。
はじめ彼はノートの切れ端に
「お名前は何といわれますか?」と書いて渡されました。
「純子と申します」
「どこまでゆかれますか?」
「名古屋でございます」
「お年はいくつですか?」
飽きもせず、背中合わせのたどたどしい文字のやりとりは
エスカレートし、ご老人のボックス席に入り込んでお話を
うかがうことになりました。

「ご家族と一緒に楽しい旅ができるということは、
 なんとお幸せなことでしょうね」
と言われ、それにはたくさんの方々のご恩を受けてこそですね
と説明されてから、私の指をとって一本一本折り曲げながら、
誰のお陰でこうして旅に出られたかを考えるように促されました。
「お父様、それから?」というように、留守番の人々から、
旅に出る服を調(ととの)えた人、列車を運転している運転手さん
に至るまで・・・。

そしてそれも種が尽きる頃、「お天道様や空気や雨もなくては
なりませんね。それはどなたがくださったのでしょう?」と
誘導して、神の大いなる恵みの中にわれわれは生きているので、
誰ひとりとして自分だけの力や働きで生きていられるのではないことを
話されました。

そろそろ名古屋に着くので、降りる支度を始めるようにと、
立ち上がって私たちのほうを見た父が、
「おや、先生じゃいらっしゃいませんか」と進み出て、
丁寧にご挨拶しました。

このご老人こそは、一高時代の恩師でもあった新渡戸稲造博士だったのです。
新渡戸先生は、栄一とご一緒の写真がいくつか残っています。
日米交流に尽くした御両者ですので、交流も深かったことでしょう。
私はあの優しいご老人が、読書の邪魔をした見知らぬ少女の心にさえ、
神の恩寵に気づくよう促されたのを折に触れ思い出し、
感激しつつ、心に蘇らせています。

(以上、抜粋終わり)

〈補記〉 同書 「鈴木貫太郎大将」p.117より
昭和17年4月、鮫島員重氏と結婚
帝国ホテルと華族会館で披露宴
仲人は、鈴木貫太郎・たか夫妻


2016/10/28

「続 あの人の直筆」

2016年10月25日(火曜日)
国立国会図書館(東京都・千代田区)東京本館 新館展示室
平成28年度 企画展示
「続 あの人の直筆」

フロアレクチャーに参加しました。
講師は、季武(すえたけ)嘉也 氏
(創価大学文学部教授 国立国会図書館客員調査員)

「文化財の行方」「文字について」「江戸時代の鑑定」のお話のあと、
実際の直筆文書を解説いただきながら、見学しました。
新渡戸稲造博士は、【第三部 近現代】の教育家として、
直筆文書一点が展示紹介されていました。

そのほかに、近現代の人々としては、
後藤新平、石橋湛山、賀川豊彦、新島襄、柳田國男、夏目漱石、
朝倉文夫の各氏など、新渡戸博士ゆかりの方々の直筆も展示。

新渡戸稲造
展示資料番号 69
新渡戸稲造書簡 昭和2(1927)年7月16日 
請求記号 鶴見祐輔関係文書(書簡の部)514-4

「鶴見祐輔あて」と紹介されていますが、実際には、
東京帝国大学教授時代の教え子である鶴見祐輔が刊行した
『北米遊説記』を読んだ感想を、出版社「大日本雄弁会講談社」の便箋に
書いた書評と思われる。
日付は、昭和2(1927)年7月16日、消印は同日、軽井沢。

内容は、
「・・・一般社会は海外の奉仕の如何なるものかを知らぬ。
 外国働きをする者は、単に才能や手腕に長ずるだけでは事たらぬ。
 心中、確信と犠牲と奉仕の念の強きを欠くべからざる条件とする」
(以上、一部抜粋)

1927年は、国際連盟事務次長を退任して帰国した翌年。
海外での自身の働きについての思いも重なる内容である。
また、「鶴見の後継者となるべき人物の出現に期待」している。

展覧会は、11月12日(土曜日)まで。展示替えもありますが、新渡戸博士の
直筆は会期中ずっと展示の予定。



2016/10/10

『20世紀における女性の平和運動』

2016年10月 読書メモ

『日本女子大学叢書1 
 20世紀における女性の平和運動
 ーーー婦人国際平和自由連盟と日本の女性』
中嶌 邦 ・ 杉森 長子 編
2006年5月 ドメス出版

「婦人平和協会」という平和の文字を全面に掲げて
最も早く始まった女性団体の活動を中心にとりあげた論文集。
協会成立へ大きな影響を与えた成瀬仁蔵および新渡戸稲造と
その夫人メアリーの動向、協会の結成と活動の展開など。
(千代田区立図書館のHPより)

1910年代、新渡戸稲造博士および成瀬仁蔵先生(日本女子大学
創設者)やそのまわりの人脈から始まった日本における女性の平和運動が
アメリカや世界の動きに呼応するように発展、新渡戸博士の
教え子たち(上代タノ先生や河井道先生)によって、継承されて
いったこと、そして、新渡戸博士が、国際連盟事務次長を務めた
国際連盟とともに、国際組織の一つとして活動してきたことなど、
女性平和活動の活発な展開が興味深い。

目次
第一部
女性の平和運動への触発 成瀬仁蔵の平和思想と活動 / 中嶌/邦‖著
婦人平和協会へ向けて 新渡戸稲造夫妻と成瀬仁蔵 / 小塩/和人‖著
婦人平和協会の結成と活動の展開 / 杉森/長子‖著
婦人平和協会と第二次世界大戦 / 杉森/長子‖著
日本における婦人国際平和自由連盟の国際総会開催 / 蟻川/芳子‖著
WILPFと国連 / 秋林/こずえ‖著

第二部 年表より

1919(大正8)年1月
国際問題研究会発足(新渡戸稲造邸)
目賀田逸子(目賀田種太郎夫人、勝海舟三女)、
新渡戸萬里子(新渡戸稲造夫人)、
津田梅子(新渡戸博士の友人、津田塾大学創設者)らの呼びかけにより、
井上秀子、上代タノ、羽仁もと子(自由学園創設者)、
塚本はま子など数十人参加。

1920(大正9)年1月
国際連盟発足

1921(大正10)年7月10日〜14日
第三回国際会議(ウィーン、参加21カ国222人)
日本から新渡戸萬里子らが参加。
第一次世界大戦で敵味方だった諸国の婦人たちが、
平和のための努力を誓い合う

1923(大正23)年6月
国際会長ジェーン・アダムス来日

1924(大正24)年5月17日
第4回国内総会(門野重九郎邸)
講演「ジュネーブ湖畔に開く世界市民の集まり」
新渡戸萬里子

1926(大正15)年5月8日
第6回国内総会
講演「太平洋問題について」
鶴見祐輔

同年7月8日〜15日
第五回国際会議(ダブリン、参加20カ国151人参加)
日本支部代表として上代タノが出席、初めて支部報告をおこなう
「平和へのつぎの段階」
上代タノ

1927(昭和2)年5月21日
第7回国内総会(ドイツ大使館)
講演「平和を将来する人々」
河井道

1928(昭和3)年5月18日
第8回国内総会(大阪ビルディング講堂)
講演「世界の平和と婦人」
新渡戸稲造

1930(昭和5)年6月6日
第10回国内総会
第二代理事長 河井道

1931(昭和6)年
懸賞論文発表「拓け国際協力への進路を」
日米児童画交換開始
満州問題メッセージカード2500枚配布
世界軍縮誓願者署名運動など

(以上、新渡戸博士関連を抜粋、1932年以降は省略)

新渡戸稲造博士の教え子の一人、河井道先生(恵泉女学園創設者)は、
理想とする女子教育の柱に「国際」を掲げていらっしゃいました。
「少女たちが、外国のことを知るようになれば、戦争はなくなると
考えていました。」(『新渡戸稲造ものがたり』より)

やがて母親になる少女たちが、海外のことにも目を向け、平和の尊さを
知ることで、そして、その思いが世界中の女性たちからも芽生え、
響き合い、一つになれば、戦争の悲劇はいつかなくなるのではないでしょうか。
そんな共通の思いを強く感じられる先人たちの活動を知る機会になりました。

2016/10/04

『明治大正昭和の人々』佐佐木信綱

『明治大正昭和の人々』佐佐木 信綱 著
 図書出版株式会社/新樹社 昭和36年1月30日 発行

この本には、佐佐木信綱先生が関わった実に多くの著名人について
紹介されています。

以下、読書メモ

p.80 新渡戸稲造

明治42年の春の竹柏会では、新渡戸博士にご講演を依頼。
新渡戸博士は、「ファウスト物語について」という題で話され、
「敷島の道に心得のない私が、こういう会で出ますことは、忠臣蔵の芝居に
 弁慶でも出るように、あまりに釣り合いのわるいことで・・・」と
おもしろく前置きをされ、話を進められた、と書かれています。

しかし、博士は、敷島の道を心得られないのではなく、学生の会合とか
結婚式などには、たびたび、訓誡(くんかい=物事の善悪、是非を教え諭すこと)
の古歌を引用された。

注・竹柏会(ちくはくかい)=歌誌「心の花」を発行する短歌結社(佐佐木信綱主宰)

(中略)

三村起一氏の結婚披露宴(上野の精養軒)では、
(佐佐木先生は)媒酌人 新渡戸博士の前の席に座られた。


注・三村起一(1887年〜1972年)は、一高から東京帝国大学法科卒の実業家。
  住友鋼業初代社長、日経連、経団連の理事なども歴任。

(中略)

軽井沢にいたある夏の夕べ、霧の深い山荘に、博士を訪ねたことがある。
喜んでお迎えくださり、歌語りに時を過ごし、さて帰ろうとして玄関に出た
ところへ、夫人が帰って来られた。
博士は、自分を、歌の道に何十年をささげた人であるというふうに夫人に
紹介され、夫人の答えを訳して聞かせてくださった。
それは、短い言葉であったが、意味の深い言葉であった。

///
新渡戸稲造先生についての部分のみ、抜粋(一部書き直し)。注などは筆者。



2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/08/06

神谷美恵子さんのこと

2016年8月

読書メモ

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』
大谷 美和子 著 くもん出版 2012年12月

神谷美恵子氏(1914年〜1979年)は、皇后美智子様を精神的に
お支えした方として知られています。(旧姓は、前田)
新渡戸稲造博士の教え子の一人、前田多門氏のご長女です。

ご両親(前田多門・房子)のご縁をとりもったのも新渡戸博士です。
お母様は、普連土学園のご出身。

新渡戸博士が、国際連盟の事務次長としてジュネーブに在住していた
1923年、父・前田多門氏が国際労働機関(ILO)の日本代表として
ジュネーブに赴任。
幼かった子どもたちを連れて、ジュネーブにやってきました。
美恵子氏は、両親が慕う新渡戸博士にかわいがられ、
『武士道』のフランス語版をプレゼントされています。

伝記『新渡戸稲造ものがたり』では、
文字数(全体の文量)を少なくするために、やむを得ず、
神谷美恵子氏についての記述も、当初の原稿から削らなければ
なりませんでした。
けれども、『新渡戸稲造ものがたり』を読んでくださった知人の中に
神谷美恵子氏の教え子や、大きな影響を受けた方がいらっしゃること
がわかり、嬉しい驚きでした。

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』は、
神谷美恵子氏の生涯がわかりやすくまとめられた一冊。
神谷美恵子氏が、結婚前にペンドル・ヒル(アメリカ・ペンシルベニア州)
で過ごしたことを知りました。
ペンドル・ヒルは、クエーカーの人々が学ぶ学寮。
ここで、彼女は世界中からやってきた人々から感化を受け、
将来の自分の歩む道を模索した時期を過ごしたようです。
彼女もまた、クエーカーの信仰に影響を受けた一人といえるかもしれません。

彼女の代表的な著書『生きがいについて』を
あらためてじっくりと読んでみたいと思っています。

2016/06/07

日本両親再教育協会

「日本両親再教育協会」は、
1928(昭和3)年、新渡戸博士の東京帝国大学教授時代の教え子の一人、


上村哲彌(かみむらてつや)氏が中心になって創立された民間組織。
後藤新平伯と新渡戸稲造博士は、顧問に就任しています。
会長は、松本亦太郎(まつもとまたたろう)。


同会によって出版された「子供研究講座」第十巻(昭和4年7月11日発行)に、
新渡戸博士は、「親の道」を寄稿しています。

冒頭、新渡戸博士は、東西の二聖人、釈尊とキリストの話を引用しています。
そして、「親子の関係が真にその素質通りにまっすぐにのび、まさにあるべき
境地まで到るには、まず親子の関係の土台である夫婦の関係がその真面目を
発揮せなばならぬ」と書いています。

成瀬仁蔵著『新婦人訓』からテニソンの詩の訳を紹介。
「子のために、親はまず生きがいある生活を営め」としています。

「・・・親子の間に常に感応があり、親の生命が子を育て、
子の成長が親をさらに発展せしむるという親子本来の関係を
どこまでも続けることは、
親の幸福であり、子の健全なる発達の基である。
 それがために親はなにをますべきかといえば、
子の信頼と敬愛を続け得るため、その人格を常に向上させ、
子の進歩と共にますます彼の光たり得るよう生活することである。」
(同書 p.14より)



2016/05/07

近衛文麿首相の別邸「荻外荘」

2016年5月6日(金曜日)午後6時〜
講演会「近衛ファミリーの昭和」
講師:工藤美代子氏
セシオン杉並ホール

新渡戸博士が旧制第一高等学校の校長だった時の教え子の

一人で、戦前に総理大臣を3度にわたって務めた近衛文麿公爵の
別邸「荻外荘(てきがいそう)」が、このたび、国の史跡に
指定されました。
この別邸では、「荻窪会談」(昭和15年)など
重要な政治会談もおこなわれました。
終戦後、1945(昭和20)年12月6日、GHQより逮捕令が発せられ、
出頭当日の12月16日早朝、
近衛元首相は、荻外荘の書斎にて自決しました。


近衛文麿(1891年〜1945年)首相は、新渡戸博士の没後、

次のような内容の追悼文を書いています。

私が初めて新渡戸先生を知ったのは、

学習院中等科の在学中、一高の新渡戸校長が学習院で講演。
あれほど感動したことはなかった。
一高を受験。新渡戸先生が校長であるということが主な動機であった。

先生は私の父とドイツのボン大学で一緒だった。


入学すると、毎週一回の修身講和を聞き、

「人格の完成、自分自身を反省して掘り下げていくこと、
名誉や立身出世は究極の価値あるものではない」ことを教えられ、
貴重な感化を受けた。
大学卒業後、先生が「なにをやるのか」と言われるので、
「なにをしたらよいか」と尋ねたら、
「君は立場が違う。一通りいろいろなことを心得ておくことがよい」
「あらゆる人とつきあってみよ」
と助言を受けた。
先生は、当時、内務大臣だった後藤新平さんに話をしてくれ、
私は、内務省文書課に行った。 

「新渡戸稲造全集」別巻一 p.170〜「新渡戸先生」より抜粋


記念特別展 「荻外荘」と近衛文麿

平成28年4月29日〜5月29日
杉並区立郷土博物館

2015/12/20

旧制一高の教え子、谷崎潤一郎

2015年12月12日(土曜日)

新渡戸稲造博士との関わりも深い聖路加国際病院/大学。
このあたりは、作家の谷崎潤一郎が幼少期を過ごしたところでも
あります。
谷崎潤一郎(1886年〜1965年)は、
新渡戸博士が旧制第一高等学校の校長時代の教え子の一人でもあります。
谷崎は、在校時、文芸部に所属し、校友会雑誌に作品を発表していました。

聖路加国際病院のすぐ前の会場(中央区立郷土天文館)で、
企画展「谷崎潤一郎と日本橋 〜文豪のルーツをたどる〜」が
偶然にも開催されていましたので、見学させていただきました。




前列中央に新渡戸校長、左隣が谷崎


2015/11/24

新渡戸記念中野総合病院

2015年11月23日(水・祝)

新渡戸稲造博士が、初代組合長として設立に尽力された
中野総合病院(東京都中野区)が、このたび、病院名を
「新渡戸記念中野総合病院」と改め、
この日、中野サンプラザにて、記念シンポジウムが行われました。


入江病院長・理事長様ご夫妻をはじめ、関係者のみなさま、
お招きいただき、ありがとうございました。

2015/08/11

ロンドンだより「カーライルハウス」

2015年8月7日(土) 英国 ロンドン

ロンドンで滞在中の家から徒歩10分。
新渡戸博士の生涯の愛読書『サーター・リザータス
(Satrtor Resartus=衣装哲学)』を著した、
トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)と妻ジェーンの旧宅を
訪ねました。
トーマス・カーライル(1795年〜1881年)は、スコットランド
出身の歴史家、作家で、内村鑑三ほか、日本人にも大きな影響を
与えた人物です。

現在はナショナルトラストが管理していて、
海外や国内からも多くの訪問者があります。

ここは、夏目漱石も留学中に訪ねていて、
訪問記「カーライル博物館」を執筆しています。

この日、事務所にて、過去の訪問帳を調査して、主に、
1919年〜1920年の日本人訪問者の記帳を探しました。
新渡戸博士のサインは、この期間では、二カ所で確認する
ことができました。
当時は、ヨーロッパを疲弊させた第一次大戦後で、
ちょうど後藤新平らと外遊中の新渡戸博士が、
国際連盟(The League of Nations)の事務次長就任の要請を
受け、事務所があったロンドンに滞在中でした。

新渡戸博士の教え子の一人、前田陽一氏の記帳もあり。

同行者のサインも残されており、大変興味深い。

そのほか、毎月のように日本人訪問者のサインが残されています。

写真撮影したデータを持ち帰り、帰国後、
詳しく調査するのが楽しみです。

カーライルハウスの方々には大変なご協力をいただきました。
カーライルと同時代を生きたご近所の画家ホイッスラーの
旧宅などもご案内くださり、楽しく充実した訪問になりました。
ありがとうございました。

当時を再現している庭(建物内部は撮影禁止)



2015/06/27

大島正満博士 没後50年 記念講演会

2015年6月26日(金)15:00〜17:00
海老名市交流館(厚木駅下車)

1 開会の辞

2 演題「動物学者としての大島正満と札幌農学校」
  大島 智夫 氏 (大島正満 八男/横浜市立大学名誉教授)

3 演題「大島正満の想い出」
  大島 久子 氏 (大島正満 五男の妻/音楽教育者)

4 演題「大島正満=台湾における動物学研究の先駆者」
  郭金泉(かくきんせん)氏 (台湾国立海洋大学 教授)

5 ピアノ演奏 大島 妙子 氏(大島正泰・久子 長女)

6 閉会の辞

(司会 大島富士子 氏)


大島正満博士は、大島正健博士(札幌農学校第一期生)のご長男。
台湾での功績を顕彰したいと、郭金泉教授が、ある日、台湾から
大島正満博士のご家族を探して訪ねて来られ、今回の記念講演会が
実現したと伺いました。

大島正満博士の生涯について、大島智夫氏のご講演、
博士の晩年15年間を一緒に暮らされた大島久子様からは
日常生活のエピソード、
郭教授からは、大島博士の学術的な研究や経歴についての
ご紹介がありました。

大島正満没後50年 記念冊子
「キリスト信徒としての動物学者 大島正満の生涯」
 大島 智夫 著
 発行:2015年6月26日(非売品)
 

新渡戸稲造博士は、終生、大島正健博士と親しくされ、
晩年には、札幌で共に洗礼を受けたハリス神父の墓参りに
でかけています。(1928年6月2日 東京の青山墓地)

その際の写真2枚は、『新渡戸稲造ものがたり』p.190に
掲載。


参考
『随筆 不定芽』大島正満 著 昭和九年 刀江書院
p.13〜21「新渡戸博士の書」


2015/06/11

『坂西志保さん』

2015年6月 国際文化会館

坂西志保さんについて、国際文化会館(東京都港区六本木)
の関係から興味を抱いて調べていたところ、
坂西志保さんご自身がお書きになった「私の遺言」
(追悼集『坂西志保さん』に掲載)の中で、
新渡戸博士とのエピソードがありました。
以下、引用して紹介します。

 ・・・そこで提案されたのは、短期間の海外留学ということ
 であった。相談を受けた新渡戸稲造先生は、それもよい
 だろうといわれたということであったが、私はそのことを
 全然知らなかった。本人は平然としているが家族のものは
 何時までもほったらかしにしておくにもいかず、先生のところへ
 駆けつけたのは窮余の一策ということだったのであろう。
  豪放らい落な先生は、一度小石川の自宅に呼んでくださった
 ことがある。学校から頼まれてお説教することになっていた
 のだそうであるが、そんな気配は少しも見せず、北海道の風物や
 初期の開拓民の心構えを、アメリカのそれらと比較し、興味深く
 語られた。同席された夫人は「新渡戸は、私よりもアメリカびいき
 なんですよ」とつけ加えられた。
  私はお説教を聞かされずに釈放された。これはまだアメリカが
 第一次欧州大戦に参加しない前のことで、先生は、ウィルソンの
 新しい民主主義の解釈とアメリカの国際的使命についての考え方に
 大きな期待をかけていられるようであった。しかし、大戦も終わり、
 ウィルソンも失意の人として世を去り、一九二〇年代の初頭に、
 アメリカが日本人排斥の方向に歩み出した時、先生はアメリカを
 許さなかったのである。
 (『坂西志保さん』p.51〜「私の遺言」鈍行列車の旅 p.63-64)


この時期、新渡戸博士は東京女子大学の初代学長。
文面からすると、おそらく家族かまわりの人間が、坂西さんの処遇に
ついて新渡戸学長に相談したことがうかがえます。
坂西さんのその後のアメリカ滞在とその功績、帰国してからの活動を
考えると、渡米前のこの時期に新渡戸博士と面会していることは
非常に興味深いことだと思います。

新渡戸学長はこの後まもなく後藤新平伯と外遊し、国際連盟事務次長に
就任することになります。

坂西さんは結局、「大学在籍(東京女子大学)四年を一年半で打ち切り、
資格をとるため、文部省の中等教員検定試験を受けてこれもパス」した後、
関東学院で英語を教え、一九二一年、アメリカに留学。学業終了後も
アメリカに残り、米国議会図書館などで要職を歴任されました。
そして、一九四二年、日米開戦により、帰国。
滞米は、二十余年に及びました。
帰国後も、翻訳/執筆のほか、ご実績と人脈から多くの仕事をされ、
一九七六(昭和51)年、大磯のご自宅で亡くなりました。79歳。

この「私の遺言」は、雑誌「暮らしの手帖」に1世紀97号(一九六八年秋)
から2世紀5号(一九七〇年春)まで掲載されたもの。
ご自身による伝記のように書かれていますが、途中、くも膜下出血で中断、
回復後に再開することなくご逝去されたそうです。

『坂西志保さん』
昭和五十二年十一月一日
『坂西志保さん』編集世話人会 代表 松本重治
発行 国際文化会館