・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
ラベル 国連 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 国連 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2022/06/10

フィンランドのオーランド諸島 自治100周年

 2022年6月9日

今日発信されましたフィンランド大使館からのニュースです。

本日自治100周年を迎えているオーランドはかつて、
フィンランドとスウェーデン間の帰属問題に揺れていました。
国際連盟事務次官だった新渡戸稲造を中心に、オーランドのフィンランド帰属を認め、
条件として自治権の確約を求めた「新渡戸裁定」で知られています。

オーランドの帰属問題解決に関する動画(英語)

A digital exhibition on the Åland Islands Solution, produced by Researcher Pertti Hakala and Dr Kennet Gustavsson is available from here. 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新渡戸博士は、発足したばかりの国際連盟の事務次官に選出され、世界で初めての

国際機関の代表メンバーの一人として活躍されました。


2020/02/01

新渡戸稲造と「安全保障」

2020年1月28日(火曜日)

交詢社「安全保障研究会」新年会

真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」

上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。

ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・

まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。

最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」

そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)

新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。

山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、

過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。

このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。



2016/10/10

『20世紀における女性の平和運動』

2016年10月 読書メモ

『日本女子大学叢書1 
 20世紀における女性の平和運動
 ーーー婦人国際平和自由連盟と日本の女性』
中嶌 邦 ・ 杉森 長子 編
2006年5月 ドメス出版

「婦人平和協会」という平和の文字を全面に掲げて
最も早く始まった女性団体の活動を中心にとりあげた論文集。
協会成立へ大きな影響を与えた成瀬仁蔵および新渡戸稲造と
その夫人メアリーの動向、協会の結成と活動の展開など。
(千代田区立図書館のHPより)

1910年代、新渡戸稲造博士および成瀬仁蔵先生(日本女子大学
創設者)やそのまわりの人脈から始まった日本における女性の平和運動が
アメリカや世界の動きに呼応するように発展、新渡戸博士の
教え子たち(上代タノ先生や河井道先生)によって、継承されて
いったこと、そして、新渡戸博士が、国際連盟事務次長を務めた
国際連盟とともに、国際組織の一つとして活動してきたことなど、
女性平和活動の活発な展開が興味深い。

目次
第一部
女性の平和運動への触発 成瀬仁蔵の平和思想と活動 / 中嶌/邦‖著
婦人平和協会へ向けて 新渡戸稲造夫妻と成瀬仁蔵 / 小塩/和人‖著
婦人平和協会の結成と活動の展開 / 杉森/長子‖著
婦人平和協会と第二次世界大戦 / 杉森/長子‖著
日本における婦人国際平和自由連盟の国際総会開催 / 蟻川/芳子‖著
WILPFと国連 / 秋林/こずえ‖著

第二部 年表より

1919(大正8)年1月
国際問題研究会発足(新渡戸稲造邸)
目賀田逸子(目賀田種太郎夫人、勝海舟三女)、
新渡戸萬里子(新渡戸稲造夫人)、
津田梅子(新渡戸博士の友人、津田塾大学創設者)らの呼びかけにより、
井上秀子、上代タノ、羽仁もと子(自由学園創設者)、
塚本はま子など数十人参加。

1920(大正9)年1月
国際連盟発足

1921(大正10)年7月10日〜14日
第三回国際会議(ウィーン、参加21カ国222人)
日本から新渡戸萬里子らが参加。
第一次世界大戦で敵味方だった諸国の婦人たちが、
平和のための努力を誓い合う

1923(大正23)年6月
国際会長ジェーン・アダムス来日

1924(大正24)年5月17日
第4回国内総会(門野重九郎邸)
講演「ジュネーブ湖畔に開く世界市民の集まり」
新渡戸萬里子

1926(大正15)年5月8日
第6回国内総会
講演「太平洋問題について」
鶴見祐輔

同年7月8日〜15日
第五回国際会議(ダブリン、参加20カ国151人参加)
日本支部代表として上代タノが出席、初めて支部報告をおこなう
「平和へのつぎの段階」
上代タノ

1927(昭和2)年5月21日
第7回国内総会(ドイツ大使館)
講演「平和を将来する人々」
河井道

1928(昭和3)年5月18日
第8回国内総会(大阪ビルディング講堂)
講演「世界の平和と婦人」
新渡戸稲造

1930(昭和5)年6月6日
第10回国内総会
第二代理事長 河井道

1931(昭和6)年
懸賞論文発表「拓け国際協力への進路を」
日米児童画交換開始
満州問題メッセージカード2500枚配布
世界軍縮誓願者署名運動など

(以上、新渡戸博士関連を抜粋、1932年以降は省略)

新渡戸稲造博士の教え子の一人、河井道先生(恵泉女学園創設者)は、
理想とする女子教育の柱に「国際」を掲げていらっしゃいました。
「少女たちが、外国のことを知るようになれば、戦争はなくなると
考えていました。」(『新渡戸稲造ものがたり』より)

やがて母親になる少女たちが、海外のことにも目を向け、平和の尊さを
知ることで、そして、その思いが世界中の女性たちからも芽生え、
響き合い、一つになれば、戦争の悲劇はいつかなくなるのではないでしょうか。
そんな共通の思いを強く感じられる先人たちの活動を知る機会になりました。

2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/08/06

神谷美恵子さんのこと

2016年8月

読書メモ

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』
大谷 美和子 著 くもん出版 2012年12月

神谷美恵子氏(1914年〜1979年)は、皇后美智子様を精神的に
お支えした方として知られています。(旧姓は、前田)
新渡戸稲造博士の教え子の一人、前田多門氏のご長女です。

ご両親(前田多門・房子)のご縁をとりもったのも新渡戸博士です。
お母様は、普連土学園のご出身。

新渡戸博士が、国際連盟の事務次長としてジュネーブに在住していた
1923年、父・前田多門氏が国際労働機関(ILO)の日本代表として
ジュネーブに赴任。
幼かった子どもたちを連れて、ジュネーブにやってきました。
美恵子氏は、両親が慕う新渡戸博士にかわいがられ、
『武士道』のフランス語版をプレゼントされています。

伝記『新渡戸稲造ものがたり』では、
文字数(全体の文量)を少なくするために、やむを得ず、
神谷美恵子氏についての記述も、当初の原稿から削らなければ
なりませんでした。
けれども、『新渡戸稲造ものがたり』を読んでくださった知人の中に
神谷美恵子氏の教え子や、大きな影響を受けた方がいらっしゃること
がわかり、嬉しい驚きでした。

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』は、
神谷美恵子氏の生涯がわかりやすくまとめられた一冊。
神谷美恵子氏が、結婚前にペンドル・ヒル(アメリカ・ペンシルベニア州)
で過ごしたことを知りました。
ペンドル・ヒルは、クエーカーの人々が学ぶ学寮。
ここで、彼女は世界中からやってきた人々から感化を受け、
将来の自分の歩む道を模索した時期を過ごしたようです。
彼女もまた、クエーカーの信仰に影響を受けた一人といえるかもしれません。

彼女の代表的な著書『生きがいについて』を
あらためてじっくりと読んでみたいと思っています。

2016/07/25

拓殖大学に「台湾研究センター」開設

2016年7月23日(土曜日)

このたび、拓殖大学様に「台湾研究センター」が開設になり、
その記念シンポジウムにお招きいただきました。

拓殖大学 文京キャンパス
後藤新平・新渡戸稲造記念講堂にて
主催:拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター

大変興味深い内容のご講演でした。
特に、羅福全氏のご生涯には、感慨深いものがありました。
日本の統治時代の台湾に生まれ、日本の教育を受け、その後、
アメリカで学び、国連で活躍されました。
現在は、何年間も帰ることができなかった台湾に戻り、ご夫妻で
幸せな日々を送っていらっしゃいます。
この日は、夫人もご一緒に会場に元気にお見えになりました。

第一部
記念講演「台湾と日本のはざまに生きて」 
羅福全 (元 台北駐日経済文化代表処 代表)

第二部
基調講演

鶯歌庄文書研究の意義―同風会に関する文書から見る日本統治期台湾の基層社会
玉置充子(拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター専任研究員)

Ⅱ.
日本統治時代に日本商人がもたらした台湾社会近代化の諸相
陳柔縉(コラムニスト)

今後の同センターのご発展を祈念いたします。

このたびは、貴重な機会をありがとうございました。

2016/07/20

テレビ番組「フィンランドで見つけたBUSHIDO」

2016年7月

岩手めんこいテレビさんが、開局25周年記念番組として、
「フィンランドで見つけたBUSHIDO 〜新渡戸稲造と平和の島〜」を
制作されました。

約100年前、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造博士が解決に導いた
国境問題。その時の「新渡戸裁定」は、成功事例として、現在も
語られています。

◆放送日
2016年7月30日(土)14:00〜14:55 めんこいテレビ
2016年8月20日(土)14:00〜14:55 BSフジ

2016/06/07

ムーミンの著者トーヴェ・ヤンソンが描いたフィンランド

2016年6月5日(日)

日本では、あまりにも有名なキャラクター「ムーミン」。
その作者トーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)氏(1914〜2008)は、
スウェーデン系フィンランド人として、ヘルシンキに生まれた。
もともと画家として活躍し、当時に政治風刺雑誌「ガルム」にも
多くの絵を描いています。

20世紀前半のフィンランドが置かれた状況は、歴史、文化、地理などの
影響により複雑なものでした。
そんな中、1921年に国際連盟にその解決を委ねたのが、オーランド諸島の
帰属問題でした。当時、事務次長で国際部長だった新渡戸博士は、
その裁定をおこないました。
国際連盟がおこなった紛争解決の中で、成功事例として、
いまにも伝えられている「新渡戸裁定」です。

『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界 ムーミン・トロールの誕生』 
(冨原眞弓 著 青土社 2009年5月)から、以下を引用します。

p.68〜「オーランド解放区」

 フィンランドには一種の解放区がある。オーランド諸島である。
バルト海の多島海域に浮かぶ約6500の島嶼(とうしょ=大きな島や小さな島)
の総称で、スウェーデンの首都ストックホルムとフィンランドのトゥルク
(スウェーデン時代の首都オーボ)の中間に位置する。
1809年にフィンランド本土とともにロシアに割譲されるまでは、
歴史的にも文化的にもスウェーデン王国の一部であった。
住民のほとんどがスウェーデン語を話し、フィンランドではなく
スウェーデンへの帰属意識のほうが強い。ロシア領となってからも、
自分たちはスウェーデン人だと思っていた。本土のフィンランド人とはことなり、
フィンランド人かロシア人かというジレンマは存在しなかった。

 フィンランドがソヴィエト=ロシアから独立したのちも、オーランドの
帰属をめぐって、フィンランドとスウェーデンは争った。この紛争の決着に
道筋をつけたのは、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造である。
1921年、ジュネーブ本会議で「新渡戸裁定」が承認された。
オーランドはスウェーデン語の使用、スウェーデン文化や習慣の維持、
内政自治を手に入れた。

 フィンランドは、オーランドを領有する権利とひきかえに、
オーランドに内政自治を保障する義務を課せられた。スウェーデンは
得るものがなかった。オーランドの非武装・中立化のほかには。
フィンランドとスウェーデン双方の痛み分けで、オーランドの希望が
ほぼ認められた。現在も、オーランドがフィンランドとスウェーデンを
つなぐ重要な中継地だ。今日、フィンランドからスウェーデンへの移住を
希望するものは、かならずといっていいほどオーランドに五年とどまる。
この通過儀礼をおこなうだけで、オーランド人にあたえられている特権、
すなわちスウェーデンへの自由な移住という特権が手に入るのである。

(以上、引用おわり)

 とはいえ、この帰属問題は、フィンランド本土に住むフィンランド系と
スウェーデン系に大きな影響を及ぼしたようです。
 同書の第七章「ひとつの国、ふたつの言語」では、当時の雑誌などに
掲載された記事から、双方の心情を読み取っています。

(以下、同書p.99〜「オーランド、どこへいく」から抜粋)

 フィンランド本土が独立と内戦の混乱のただなかにあったとき、
オーランド諸島の住民たちは、いまこそスウェーデンへの帰属を
嘆願すべきと考えた。スウェーデン王も政府もこの表明を歓迎する。
ロシアに奪われた領土の一部を取り戻すチャンスでもあった。
 1917年12月5日、フィンランド独立宣言の前日というタイミングに、
オーランドの嘆願書が提出された。フィンランドが国としての命運を
かけて戦っている時期であったので、大半のフィンランド系は憤慨し、
当惑したスウェーデン系も少なくなかった。本土におけるスウェーデン系の
立場を悪くすると心配するものも多かった。

 当時、オーランドの人口は、27,000人程度。そのうち成人の7,097人が
復帰嘆願に署名した。

 オーランドの「分離主義」あるいは、「母国復帰願望」は、
フィンランドを二分する階級とイデオロギーと言語の亀裂をあらためて
浮き上がらせた。
 オーランド帰属問題で、割をくったのは、本土のスウェーデン系だった。
内心は同じ穴のムジナだろうと、フィンランド系の不信を買ってしまった。
純正なフィンランド系をとなえる学生たちは、公教育でのフィンランド語化を
訴えた。一般に、フィンランド系の学生は、両親もスウェーデン語を話さず、
学校の授業も友人もフィンランド語(スウェーデン語は一教科にすぎない)。
ところが、高等教育では、講義のほとんどがスウェーデン語になり、
フィンランド語が母国語であることがハンディになる。
 政府も、どちらの言語でも選んで学ぶことができる制度を導入する案などを
出したが、なかなかうまくいかなかった。
 それから数十年後、我が子の将来を考えて、多数派のフィンランド語教育を
選ぶスウェーデン系の親を「親心と打算がスウェーデン語を滅ぼす」と
雑誌「ガルム」は警鐘を鳴らした。

(以上、同書より抜粋)


 隣国との国境問題は、いまでも世界各地で起こっています。その背景には
長年の両国の関係や、地理的要素、文化、言語にいたるまで、複雑な状況が
からんでいることを、今回は、雑誌から垣間みることができました。

(フィンランドが独立して数年後の1923年、雑誌「ガルム」は産声をあげた。
トーヴェ・ヤンソンは、四半世紀の間、「ガルム」ほか多くの新聞雑誌に
千枚以上の絵を描き、1940年代後半には、その絵の八割以上にムーミントロール
が姿を表わしているそうだ。風刺画の隅っこにちょこっと、その愛らしい姿が
見える。)

鎌倉 第81回 円覚寺夏期講座 円覚寺 大方丈にて 
6月5日「ムーミンを哲学する」 冨原 眞弓 聖心女子大学 哲学科教授





2015/08/11

ロンドンだより「カーライルハウス」

2015年8月7日(土) 英国 ロンドン

ロンドンで滞在中の家から徒歩10分。
新渡戸博士の生涯の愛読書『サーター・リザータス
(Satrtor Resartus=衣装哲学)』を著した、
トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)と妻ジェーンの旧宅を
訪ねました。
トーマス・カーライル(1795年〜1881年)は、スコットランド
出身の歴史家、作家で、内村鑑三ほか、日本人にも大きな影響を
与えた人物です。

現在はナショナルトラストが管理していて、
海外や国内からも多くの訪問者があります。

ここは、夏目漱石も留学中に訪ねていて、
訪問記「カーライル博物館」を執筆しています。

この日、事務所にて、過去の訪問帳を調査して、主に、
1919年〜1920年の日本人訪問者の記帳を探しました。
新渡戸博士のサインは、この期間では、二カ所で確認する
ことができました。
当時は、ヨーロッパを疲弊させた第一次大戦後で、
ちょうど後藤新平らと外遊中の新渡戸博士が、
国際連盟(The League of Nations)の事務次長就任の要請を
受け、事務所があったロンドンに滞在中でした。

新渡戸博士の教え子の一人、前田陽一氏の記帳もあり。

同行者のサインも残されており、大変興味深い。

そのほか、毎月のように日本人訪問者のサインが残されています。

写真撮影したデータを持ち帰り、帰国後、
詳しく調査するのが楽しみです。

カーライルハウスの方々には大変なご協力をいただきました。
カーライルと同時代を生きたご近所の画家ホイッスラーの
旧宅などもご案内くださり、楽しく充実した訪問になりました。
ありがとうございました。

当時を再現している庭(建物内部は撮影禁止)



2015/08/03

オランダだより「国際司法裁判所」

2015年8月2日(土)14時40分、ハーグ、オランダ
The Peace Palace (平和宮)






新渡戸博士が国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中、
同時代にオランダのハーグ(den Haag, The Hague)では、
安達峰一郎博士が司法の場で、国際的な活躍をしていました。




‘ten years of international jurisdiction 1922-1932 Mineichiro Adachi
Ten years of international co-operation, chapter III (International justice). 
- Genève, 1930

Search result with Adachi at the Palace Library

2015/07/27

スイスだより「波蘭(ポーランド)の国宝」

2015年7月24日(金)晴れ Rapperswil(ラッパーズヴィル)スイス

新渡戸稲造博士は、著書『東西相触れて』の中で、
「波蘭(ポーランド)の国宝」というエッセイを書いています。

「端西(スイス)のチューリッヒ湖水の傍にラッパーズヴィルという
小部落がある。・・・この町より一段高い所に六百年以前に築かれた
旧城がある。・・・この城をある有志家が買い求めて波蘭の史蹟を
保存する博物館とした。この館に収むるものは、・・・故国のために
悲惨なる運命を荷なった人々の衣服、書翰(書簡)、武器、肖像、
著述そのほか何ものにもよらず、所詮波蘭の国事に殉死した志士に
関するものをここに収めたのである。・・・これを衛るべき場所が
本国には得られぬ故、中立国なる端西(スイス)にして始めて
この保存を委ねらるるのである。
我輩も再三これを見舞うて、その都度不覚の涙を流した。」

新渡戸稲造全集 第一巻 p.243-245「「波蘭(ポーランド)の国宝」


チューリッヒ滞在中、新渡戸博士が何度も足を運んだこの博物館を
訪ねました。
チューリッヒから、電車で約40分。車窓からチューリッヒ湖の美しい
眺めを楽しみながら、ラッパーズヴィルへ。
新渡戸博士が訪問した当時と変わらず、博物館はこのお城の中に
あります。




この博物館はポーランドの歴史とともにいろいろな変遷を経て、
今日にいたっています。

お城の入口


博物館の入口

館の説明文によると、入口に掲げてある紋章の三つの掲示板は、
当時からのオリジナルのようです。
新渡戸博士も目にしたことでしょう。


1927年の博物館内の展示

現在の博物館は、1954年に開館。
1989年、民主化によってポーランドが共和国となった後、
博物館はポーランドのほかの博物館や図書館などとともに運営される
ようになり、1990年、現在の展示になりました。




ポーランドの偉人として、キュリー夫人の紹介コーナーがありました。
新渡戸博士が訪れた当時、新渡戸博士は、まさにキュリー夫人らと共に、
国際知的協力委員会(のちのユネスコ)を発足したころです。


実際に使用していたキュリー夫人の実験道具
スイスとポーランドの友好関係のシンボルですが、
スイスの友人たちにとっては、このポーランド博物館だけが、
特別なものではないようです。
スイスは、ほかの国からもさまざまなものや移民を受け入れて
きている国なのです。
受け入れる中立国としてのスイス、故国の貴重な品々を国外で保存
しなければならない事情があった国々。
それぞれの立場や心情を察すると、
新渡戸博士のみならず、感慨深い思いがあります。




2014/12/15

特別シンポジウム「第一次世界大戦と現代世界の誕生」

2014年12月12日(金)
午後1時〜5時30分
国際文化会館(東京・六本木)岩崎小彌太記念ホール

特別シンポジウム「第一次世界大戦と現代世界の誕生」
主催:公益財団法人 国際文化会館
   公益財団法人 サントリー文化財団
   公益財団法人 渋沢栄一記念財団
   
新渡戸博士とも関係の深い国際文化会館でおこなわれた、
特別シンポジウムを聴講しました。
2014年は、第一次世界大戦の勃発から百年。
日本から遠いヨーロッパの地で起こった戦争でしたが、
世界全体が大きく揺れ動き、また日本のその後にも大きな影響を
与えました。
1919年、新渡戸博士は、後藤新平伯に誘われ、第一次世界大戦の
後を視察にヨーロッパを訪問しています。
そして、そのまま国際連盟の事務次長に抜擢されることになります。

今回のシンポでは、二人の基調講演に続き、三人の先生による報告、
そして、全員参加のパネルディスカッションと、大変興味深い内容でした。

基調講演1
「第一次世界大戦が今日に与える教訓」
 デイビッド・A・ウェルチ(ウォータルー大学)

基調講演2
「刻印された歴史意識:長い20世紀と第一次世界大戦」
 中西 寛(京都大学)

「第一次世界大戦は日本に何をもたらしたか」
 井上 寿一(学習院大学)

「日本・ドイツと第一次世界大戦におけるアジア太平洋」
 岩間 陽子(政策研究大学院大学)

「第一次世界大戦は不可避だったか 東アジアの将来への教訓」
 細谷 雄一(慶應義塾大学)

総括 五百旗頭 真(熊本県立大学)

それぞれの視点からの第一次世界大戦の分析、そして、今日までの
影響や教訓まで、とても勉強になる内容でした。

上記の中、学習院大学の井上寿一学長のご講演で、
主に、新渡戸博士がジュネーブで活躍した第一次世界大戦後の
国際政治と日本、そして、新渡戸博士が設立に関わった世界で初めての
国際平和組織「国際連盟(現在の国際連合)」についてのお話が
ありました。(井上先生のレジュメから抜粋)

【第一次世界大戦は日本になにをもたらしたのか】

ヨーロッパで起こった「欧州動乱」は日本に波及、日本の体制を変革した。
この戦争の後、日本の軍事費はピーク時から半減し、国際連盟の原加盟国・
常任理事国となり、「平和とデモクラシー」の時代が到来する。

I パリ講和会議
A 講和会議の諸問題
  旧ドイツ権益/国際連盟/人種平等条項
  (日本は「個別利益の確保」「普遍的な価値の受容」の均衡保持に努めた)
B 4人の「国際会議屋」
  石井菊次郎(国際連盟日本代表)/安達峰一郎(常設国際司法裁判所所長) 
  佐藤尚武(国際連盟帝国事務局長)/杉村陽太郎(国際連盟事務次長)
  (筆者注:杉村は、新渡戸の後任)
C 国際協調の精神
  少数民族問題/常設国際司法裁判所/軍縮

1920年代の日本の国際協調外交は、うまく機能していたが、海外で活躍した
「国際会議屋」たちは、国内に政治的な基盤がなかった。

II 政党政治
A 大正デモクラシー
B 東アジアの脱植民地化要求
C 国際労働機関(ILO)と労働者保護の社会政策
  (社会政策の立案をとおして、官僚と政党が結びつきながら台頭)

III 成金経済と大衆消費社会
A 大衆消費社会の光と影
B 反動不況から長期経済停滞へ

IV 新しい国の〈かたち〉
  皇太子訪欧(1921年3月〜9月)
  新しい時代の新しい皇太子像(背広姿、立憲君主)

おわりに
A 国際協調外交の限界
B 二大政党制の問題
C 大衆消費社会

以上。

新渡戸稲造博士がその設立に関わり、事務次長として尽力した、
国際連盟。
新渡戸博士は、在任中に一時帰国して、日本国内で平和主義と
国際連盟の精神の普及のため、数多くの講演をおこなったが、
難しかった。日本では、第一次世界大戦の戦争認識は浅く、
共有認識されなかったことが、後の大きな問題として残った。

共通の認識基盤を持ち損ねた日本

///

五百旗頭先生は、「第一次世界大戦後の講和会議のまずさ」を指摘。
敗戦国ドイツに厳しすぎたことが、ヨーロッパの新しい出発を妨げ、
ヒットラー台頭を招いてしまったと解説。

私は、第二次世界大戦後のサンフランシスコ平和会議で、
スリランカのジャヤワルデナ大統領(当時は蔵相)が、
敗戦国日本に対し、寛容を示すスピーチをされたこと、
その後の日本が平和に復興できたことに思いを馳せました。

最後に、五百旗頭先生の「有利な立場の側が自制し、相手に自制を
強いることが、平和につながる」というコメントが印象的でした。

1914年のヨーロッパと2014年現在のアジア。
「相手の状況を考え、追いつめない」など、多くの教訓が
現在に活かせることを実感できたように思います。

2014/08/16

テレビ番組の紹介

『ジュネーヴの星~大友啓史が迫る新渡戸稲造の精神~』
 2014年8月23日(土)12:00~12:55
 BS フジ
 今年は日本とスイスの国交樹立150周年。
 両国の交流の歴史において一際輝きを放つ人物が岩手県盛岡市出身の偉人・新渡戸稲造。
 1920年代に国際連盟事務次長として国際平和の実現に向けて奔走し
 「ジュネーヴの星」と称えられた。
 新渡戸の活躍から80年あまり。
 映画「るろうに剣心」の大友啓史監督がスイス・ジュネーヴに降り立った。
 大友監督も盛岡市出身で、同郷の新渡戸に影響を受け
 「武士道」をバイブルに作品をつくってきたという。
 新渡戸の心の軌跡を追いかけ、
 日本をこよなく愛した画家バルテュスの妻でユネスコ平和のアーティスト、
 節子・クロソフスカ・ド・ローラや、
 旧新渡戸邸のあるフランク・ミュラー本社などを訪ねた。

2014/06/04

昭憲皇太后 百年祭(東京・明治神宮)

昭憲皇太后(明治の皇后。1849年〜1914年)没後100年の野外展覧会が
明治神宮の参道でおこなわれています。6月30日まで



新渡戸稲造博士は、幕末に生まれました。
明治の時代になって天皇陛下が東北巡幸をされた折に、
十和田(青森県)の新渡戸家を訪問されています。
そのことが、新渡戸博士のその後を決定づける大きな出来事になりました。

「一八七六(明治九)年の六月から七月、天皇陛下(明治天皇)が
 初めて東北と北海道をお巡りになりました。
 その途中、稲造の祖父が開拓事業をおこなった三本木を訪れ、
 広大な水田をご覧になり、大変喜ばれました。
 そして、その功績をほめて、
 『今後も、家族、子孫たちは、その志を継ぎ、ますます農業にはげむように』
 というお言葉をくださいました。
 (中略)
 東京にいた稲造は、母からの手紙で、このことを知りました。
 そして、天皇陛下の訪問が新聞に載っているのを見た時、
 稲造は、自分の家族の歴史と、今後の自分の責任の重さを実感して、
 胸が高鳴りました。」
 『新渡戸稲造ものがたり』p.38-39より

また、新渡戸博士とメアリー夫人が発起人になり、
日本の動物愛護運動の先駆けとなった日本人道会に対し、
動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、当時の皇后陛下から
活動資金の援助を賜っています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.147より抜粋)

昭憲皇太后は、皇后としてさまざまな社会活動をされました。
今回、明治神宮の森の中で、その業績を知る機会に恵まれました。




1912(明治45)年、昭憲皇太后は、世界の人々のために、
十万円(現在の三億五千万円相当)を下賜しました。
戦時中に留まらず、災害や感染症に苦しむ世界中の人々のために、
平時の国際救援活動を奨励するためでした。(展示解説文より抜粋)

「1921(大正10)年、ジュネーブでおこなわれた第十回赤十字国際会議
 昭憲皇太后基金の定款が正式に採択され、基金管理は、赤十字国際委員会
 (ICRC)がおこなうこととなりました。」(展示解説文より)



この採択がおこなわれた1921年は、ちょうど新渡戸稲造博士が、
国際連盟の事務次長として、同地ジュネーブに滞在中でした。
常任理事国だった日本を代表する、世界のリーダーの一人として、
国際機関の仕事に従事していた新渡戸博士にとって、
どんなに感慨深い出来事だったでしょうか。



「赤十字事業を、戦時の救護活動から、幅広い人道的な活動へと広げた
 支援のあり方は、時代を先取りしたものとして、今日、世界的に大きな
 評価を得ています。」(展示解説文より)





2013/07/10

級友 W. ウィルソン大統領

ジョンズ・ホプキンズ大学のビジター・センターになっているホールに、
W.ウィルソンの胸像があります。




先にジョンズ・ホプキンズに在学中の先輩、佐藤昌介博士に勧められて、
ジョンズ・ホプキンズに入学した新渡戸博士は、佐藤と同じ、アダムス教授の
セミナーに入ります。
そこには、のちにアメリカ合衆国大統領となるW. ウィルソンも在籍していました。
それからさらに30年後、ウィルソン大統領が提唱する世界で初めての国際平和機関、
国際連盟が設立され、新渡戸博士がその事務次長に就任することになります。
運命の巡り合わせでしょうか。


2013/02/02

成城学園と新渡戸稲造博士 その1

母校・成城学園同窓会のホームページで、
著書『新渡戸稲造ものがたり』を紹介していただきました。
掲載ページは、こちら
関係者のみなさま、ありがとうございます。

成城学園と新渡戸稲造博士は、少なからずご縁があります。
以下、現在までにわかった関わりについて簡単に紹介いたします。


1 成城学園創立者 澤柳政太郎先生と新渡戸博士

澤柳政太郎先生(1865年〜1927年)は、文部官僚、教育者として、
大正自由主義教育運動の中心的な役割を果たしました。

1909(明治42)年、新渡戸博士の「実業之日本」編集顧問就任に際して、
澤柳先生は、次のように書いています。
〈その精神の純潔なる、その思想の穏健豊富なる、口を衝いて出づるものは、
金玉の論、適切の教訓でないものはなかろう(略)。
同君が熱心に尽力されるならば、「実業之日本」が新渡戸博士を得たのは、
天下の名士を網羅してその名前を賛助者として掲ぐるよりも満足すべきであると思う。
予は将来「実業之日本」は新渡戸流の思想を鼓吹する雑誌とならんことを希望する、
これやがて我国の青年に対する健全なる指導者たるを以て任ずるに外ならぬ〉。
(「実業之日本」明治42年1月15日号より抜粋)

1917(大正6)年、澤柳先生は、「本当の教育」をめざして、
私立成城小学校を設立。大正自由教育の中心として全国から注目され、
学園として成長していきます。
さらに、澤柳先生は、第一次世界大戦後の欧米教育を視察後、
のちに新渡戸博士が理事長を務める「太平洋問題調査会(IPR)」
日本支部の理事にも就任しています。


2 小林宗作先生のリトミックと新渡戸博士のご令孫

新渡戸博士がスイスのジュネーブで国際連盟事務次長として活躍していたころ、
スイス、ドイツ、アメリカでは、エミール・ジャック=ダルクローズ(Émile Jaques-Dalcrozeのリトミックrythmique=運動によって音楽を学び経験するという
音楽教育の方法)が高く評価されていました。
成城学園幼稚園創設時の主任だった小林宗作先生(1893年〜1962年)は、
1922(大正11)年7月、ジュネーブで新渡戸博士に勧められ、
初めてリトミックに出会います。
小林先生は、一年間、ジャック=ダルクローズに直接学んだ後に帰国。
1925(大正14)年、澤柳校長を説得して、成城学園幼稚園を創設し、
リトミックを幼児教育に導入して、従来の型にとらわれず、
自由・個性を重視した保育をおこないました。
新渡戸博士は、「音楽教育でなすべきことは、演奏技術や技巧の訓練ではなく、
心情の育成である」という教育観をもち、小林先生は、成城学園で「心で音を聴く」
という感性の教育を実践され、日本におけるリトミックの基礎を築きました。

小林先生は、黒柳徹子さんの「窓際のトットちゃん」の先生(トモエ学園校長)
です。

新渡戸博士には、成城学園に通われた二人のお孫さんがいらっしゃいます。
故 新渡戸誠さん(10文甲)と加藤武子さん(6百合)のごきょうだいです。
ジュネーブ郊外の邸宅で新渡戸博士夫妻と同居されていた二人は、夫妻の薦めで、
リトミックの教室に通われたそうです。
ジュネーブから帰国後、二人は成城学園に入ります。
その入学に際しては、新渡戸博士が直接学園にでかけて話をされたのであろう、
と加藤武子さんは回想しています。

3 柳田国男先生と新渡戸博士

日本民俗学の創始者 柳田国男先生(1875年〜1962年)は、
成城学園との関わりが深く、成城大学正門近くに住みました。
成城学園には、「日本民俗学の祖」柳田国男先生の柳田文庫、
民俗学研究所があります。

柳田先生は、日本の農政学の先駆者だった新渡戸博士の影響を強く受けています。
1903(明治43)年、東京・小日向の新渡戸稲造邸で、
新渡戸博士とともに「郷土会」を催します。
貧困に苦しむ農民の救済と自立という共通の問題意識をもった二人が中心となり、
日本の農村のありかたや地方の保護について広く話し合う場でした。

1920(大正10)年から1922(大正12)年、
柳田先生は、欧米を視察し、新渡戸博士の推薦によって、国際連盟委任統治委員に
就任してジュネーブに滞在しました。
柳田先生は、当時、国際連盟事務次長としてジュネーブに赴任中の新渡戸博士から、
大学での聴講やヨーロッパ各地への旅行、文献購入を促され、
後年の活動の基礎を築きました。
また、二人は、ジュネーブで、エスペラント(特定の民族が有利または不利にならない
ように考えられた世界共通語)の普及にも力を尽します。
柳田先生は、後年、日本エスペラント学会の理事に就任しています。

柳田先生のご長男、為正氏も成城学園の卒業生です。
お茶の水大学教授(生物学)。



2013/01/08

朝日新聞 社説「アジアの国境 繁栄わかちあう知恵を」

2013年1月6日(日曜日) 朝日新聞朝刊 8面 
社説「アジアの国境 繁栄わかちあう知恵を」

この記事に、「新渡戸裁定」のことが引用されていましたので、
紹介します。(以下一部を抜粋)

今から100年近く前、北欧を舞台に始まった話である。
バルト海の北方に浮かぶオーランド諸島。小さな島を全部あわせれば、
沖縄本島をひとまわり大きくした広さになる。
この島々の領有権をめぐってフィンランドと隣国スウェーデンとの間で
争いがおきた。フィンランドは古くからの統治の実績を言い、
スウェーデンは自国語を日常生活で使う住民の思いを理由にあげた。
両国の対立は国際連盟に持ち込まれた。

北欧の「非武の島」
1921年6月、連盟の裁定が下った。フィンランドへの帰属を認めるかわりに、
島を非武装中立とし、住民の自治を認めるべし。
両国はこれを受け入れ、オーランドを「非武の島」とする国際協定が結ばれた。
当時の国際連盟事務次長、新渡戸稲造は「将来、諸国民の友好関係を妨げる
類似の問題が生じた場合、大小にかかわらずその処置の先例を確立することに
なる」と語った。だが裁定の意義はそれにとどまらない。
国境はもともと、国と国、人と人を隔てる。しかし2万8千人の住民にとって、
いまや国境はあってなきごとき存在だ。
むしろ国と国、人と人をつなぐものにさえなっている。
海を渡るフェリーの乗客にパスポートは必要ない。島の高校を出た若者の
7割が隣国スウェーデンの大学に進む。自治政府のカミラ・グネル首相は
「国境を越える人が増えれば島の経済も潤う。あの裁定が私たちを
豊かにしてくれた」と話す。

(以下、略)

日本は、現在、隣国との国境問題に揺れています。
オーランド諸島問題を解決した新渡戸裁定が、そのままあてはまる事例
ではないですが、平和と繁栄を共有する思想は受け継いでいきたい。

2011/09/03

国連見学ツアー

一般向けのツアーに参加してみました。


一番大きな会議場



ニューヨークの国連本部のように、世界各国からの贈りものが
展示されています。

日本からの贈りものの壷


天井がおもしろいアート作品になっている会議場






国連カフェテリア

古文書室は、お昼休みになると閉室。全員、室外に出なければなりません。
鍵を締めるので、パソコンや閲覧している資料など、そのままにしてカフェテリアに
行きます。


入り口に今日のメニューが出ています



ピザを注文すると、その場で作ってオーブンで焼いてくれます。

サラダバーが充実していて、人気です。



自分で好きなものを盛りつけて、レジに持っていくと重さを量って、値段が決まります。
テイクアウト用のケースも用意されていて、自分の部屋などに持ち帰って食べる人も
いるようです。


もちろん(?)お寿司もあります。


外で食べることもできます。広い芝生の向こうには、レマン湖が見えます。



新渡戸博士関連の書類

昔の図書館の利用方法と同じように、
まず、インデックスで、nitobeのカードを探します。
nitobe, I.と書かれたたくさんのカードがあります。
これは、途方もなく多い資料がありそうです。

そのカードから、今度は、古文書室に設置してある分厚い本で、
書類収納箱の番号を探します。
その際、その文書がどんな関係のものかわかるように、
アルファベットや数字で類別されています。

その番号を、所定の紙に記入し、係の人に渡すと、
その箱をワゴンに載せて運んできてくれます。
一度に請求できる書類収納箱は、5つまでです。


書類箱のタイトル

1919年〜1926年の書類ですから、タイプライターで入力された文書に
新渡戸博士の直筆のサインなども多く見られます。

インデックスのカード、各案件別に綴られたの書類の表紙など、
手書きのものも少なくありません。



copyright
UNOG Library, League of Nations Archives