・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2024/07/01

2021/06/28

軽井沢の新渡戸別荘跡地

 2021年6月25日(土曜日)

軽井沢の旧軽井沢近く、新渡戸通り沿いにある新渡戸別荘跡地。

長年、空き地になっていましたが、近年、トラスコ中山株式会社様の保養地に

なったと聞いていましたので、行ってみました。


新渡戸通りから新しくできた建物を見ると、そこには、新渡戸博士の記念碑が

設置されています。






軽井沢らしい趣のある界隈で、苔むした低い石垣、通り沿いの木々はそのまま。




10年前の様子は、こちら

2016/10/28

「続 あの人の直筆」

2016年10月25日(火曜日)
国立国会図書館(東京都・千代田区)東京本館 新館展示室
平成28年度 企画展示
「続 あの人の直筆」

フロアレクチャーに参加しました。
講師は、季武(すえたけ)嘉也 氏
(創価大学文学部教授 国立国会図書館客員調査員)

「文化財の行方」「文字について」「江戸時代の鑑定」のお話のあと、
実際の直筆文書を解説いただきながら、見学しました。
新渡戸稲造博士は、【第三部 近現代】の教育家として、
直筆文書一点が展示紹介されていました。

そのほかに、近現代の人々としては、
後藤新平、石橋湛山、賀川豊彦、新島襄、柳田國男、夏目漱石、
朝倉文夫の各氏など、新渡戸博士ゆかりの方々の直筆も展示。

新渡戸稲造
展示資料番号 69
新渡戸稲造書簡 昭和2(1927)年7月16日 
請求記号 鶴見祐輔関係文書(書簡の部)514-4

「鶴見祐輔あて」と紹介されていますが、実際には、
東京帝国大学教授時代の教え子である鶴見祐輔が刊行した
『北米遊説記』を読んだ感想を、出版社「大日本雄弁会講談社」の便箋に
書いた書評と思われる。
日付は、昭和2(1927)年7月16日、消印は同日、軽井沢。

内容は、
「・・・一般社会は海外の奉仕の如何なるものかを知らぬ。
 外国働きをする者は、単に才能や手腕に長ずるだけでは事たらぬ。
 心中、確信と犠牲と奉仕の念の強きを欠くべからざる条件とする」
(以上、一部抜粋)

1927年は、国際連盟事務次長を退任して帰国した翌年。
海外での自身の働きについての思いも重なる内容である。
また、「鶴見の後継者となるべき人物の出現に期待」している。

展覧会は、11月12日(土曜日)まで。展示替えもありますが、新渡戸博士の
直筆は会期中ずっと展示の予定。



2016/10/04

『明治大正昭和の人々』佐佐木信綱

『明治大正昭和の人々』佐佐木 信綱 著
 図書出版株式会社/新樹社 昭和36年1月30日 発行

この本には、佐佐木信綱先生が関わった実に多くの著名人について
紹介されています。

以下、読書メモ

p.80 新渡戸稲造

明治42年の春の竹柏会では、新渡戸博士にご講演を依頼。
新渡戸博士は、「ファウスト物語について」という題で話され、
「敷島の道に心得のない私が、こういう会で出ますことは、忠臣蔵の芝居に
 弁慶でも出るように、あまりに釣り合いのわるいことで・・・」と
おもしろく前置きをされ、話を進められた、と書かれています。

しかし、博士は、敷島の道を心得られないのではなく、学生の会合とか
結婚式などには、たびたび、訓誡(くんかい=物事の善悪、是非を教え諭すこと)
の古歌を引用された。

注・竹柏会(ちくはくかい)=歌誌「心の花」を発行する短歌結社(佐佐木信綱主宰)

(中略)

三村起一氏の結婚披露宴(上野の精養軒)では、
(佐佐木先生は)媒酌人 新渡戸博士の前の席に座られた。


注・三村起一(1887年〜1972年)は、一高から東京帝国大学法科卒の実業家。
  住友鋼業初代社長、日経連、経団連の理事なども歴任。

(中略)

軽井沢にいたある夏の夕べ、霧の深い山荘に、博士を訪ねたことがある。
喜んでお迎えくださり、歌語りに時を過ごし、さて帰ろうとして玄関に出た
ところへ、夫人が帰って来られた。
博士は、自分を、歌の道に何十年をささげた人であるというふうに夫人に
紹介され、夫人の答えを訳して聞かせてくださった。
それは、短い言葉であったが、意味の深い言葉であった。

///
新渡戸稲造先生についての部分のみ、抜粋(一部書き直し)。注などは筆者。



2014/08/27

「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」


この夏、久しぶりに軽井沢を訪れました。
現在の天皇皇后両陛下も、たびたび訪問されている、
軽井沢町立植物園や軽井沢草花館(両陛下とご親交があった故 石川功一氏の私設美術館)
を訪ねました。
植物園では、皇居より下賜されたキスゲが軽やかな花を咲かせていました。





軽井沢は、新渡戸博士にとっても大切な地であり、別荘地跡近くには、
「新渡戸通り」が現在もあり、また、新渡戸博士が後藤新平伯らとともに、
一般の人々の生涯教育のために創設した「軽井沢夏期学校」は、
現在も存続しています。
ブログでの関連記事は、こちらへ。

ちょうど時期を同じくして、文藝春秋誌で、両陛下と軽井沢についての
記事が掲載になりましたので、一部紹介します。

文藝春秋 2014年9月特別号
特別読物「天皇皇后両陛下はなぜ軽井沢を愛されるのか」
奥野修司 著

以下、同誌 p.115、116より抜粋

「象徴天皇」という言葉を読み解いていくと、GHQに押し付けられたのではなく、
国際的リベラリストで昭和天皇の信頼が篤く、クエーカー(キリスト教の
一派で絶対的平和主義で知られる)でもあった新渡戸稲造にたどり着く。

現憲法に大きな影響を与えたマッカーサーの秘書官ボナ・フェラーズは
新渡戸と同じクエーカーであり、当然新渡戸の本は読んだいたはずである。
ちなみに、天皇の人格形成に影響を与えたといわれるバイニングも
クエーカーである。
(筆者注:ボナ・フェラーズについては、こちらを。)

新渡戸は軽井沢に別荘を構え、いまも新渡戸通りにその名を残す。

新しく定められた象徴天皇を支えたのは、戦後、宮内庁長官になった
田島道治であり、侍従長になった三谷隆信だが、実は二人とも
新渡戸稲造の門下生である。
田島は、新渡戸家の近くに別荘を持っていて、皇居と同じように、
戦時中は軽井沢に疎開していた。
前出の前田多門とは親交があった。
(筆者注:新渡戸博士と前田家との関わりについては、こちらを。

戦後の皇室を支えた人物には、前田多門の他に安倍能成(学習院院長)、
田中耕太郎(最高裁判官)の名がしばしば登場するが、
大正七年(一九一八)、新渡戸が後藤新平と軽井沢夏期大学を開設したとき、
その運営にあたったのが、前田多門と鶴見祐輔らであった。

・・・こうして見ると、戦後の皇室には新渡戸人脈とクエーカー人脈が
深く張り巡らされ、軽井沢がひそかな舞台となっていたことがわかる。

・・・両陛下のリベラルな発想は、こうした人脈と無縁ではないだろう。
平成六年六月、ホワイトハウスで行われた歓迎式典で天皇が、
「新渡戸稲造博士は、自分の若き日の夢を『太平洋の橋』になることとして
 海を渡り、貴国の地に参りました」とわざわざ述べられたことからも
新渡戸の影響がうかがえる。

・・・五反田にある正田邸が解体されることが決まった平成十四年に、
皇后はこんな歌を詠まれた。

  かの町の野にもとめ見し夕すげの
  月の色して咲きゐたりしが
  (筆者注:この御歌の歌碑については、こちら。)

皇后が少女時代に過ごした軽井沢の別荘周辺には、ユウスゲが咲き乱れて

いたのだろうか。・・・ご実家である正田邸がなくなり、ユウスゲの花が
咲く軽井沢をあらためて思い出されたのだろう。

軽井沢で、植物園園長の佐藤邦雄から「開発がすすみ、あまり見られなく

なりました」と聞くと、皇居で育てたユウスゲから種を採取して、六年間、
毎年、軽井沢に届けた。

以下、略。



2013/09/10

『ライシャワー自伝』東京女子大学と日本聾話学校

2013年9月10日(火) 伝記『ライシャワー自伝』

駐日大使を務めたエドウィン・O・ライシャワー氏(Edwin O. Reischauer)の
父は、アメリカ人宣教師で、新渡戸稲造や安井てつと共に、
東京女子大学を設立しました。

エドウィン・O・ライシャワーたち三人の子どもたちは、
いわゆるBIJ(Born in Japan=日本生まれ)。
エドウィンの伝記「My Life Between Japan and America(『ライシャワー自伝』)」
には、次のように書かれています。


『ライシャワー自伝』
エドウィン・O・ライシャワー 著 徳岡孝夫 訳 文藝春秋 1987年


〈 キリスト教徒で現在は五千円札の顔になっている新渡戸稲造、女子教育家の
 安井てつらの協力を得て、父は一九一八年に東京女子大学の創立に成功した。
 英語名をTokyo Woman's Christian Collegeというこの学校は、今日では学問的にも
 社会的にも日本の一流大学になったが、父はいつも非常な満足をもってその創設を
 語ったものである。
 母のほうは一貫して婦人矯風運動と貧しい人のためのセツルメント活動に熱心
 だったが、最大の業績は聾者を口話法(口の形で音を読み取る)で教える
 日本最初の学校を作ったことだろう。〉
 『ライシャワー自伝』p.43-44

エドウィンの父オーガスト・カール・ライシャワーについて、伝記『新渡戸稲造
ものがたり』には、次のように書きました。(p.154 注)

〈 A・K・ライシャワー August Karl Reischauer 1879年〜1971年
 東京女子大学の設立に大きく関わり、常務理事として財政を担当。夫人とともに
 日本聾話学校を(聴力に困難がある子のための学校)を設立。次男のE・O・
 ライシャワーは、のちに駐日大使。〉

ライシャワー家は、軽井沢でよく夏を過ごしていたことが知られています。
当時の外国人たちの多くも、そして新渡戸夫妻もまた軽井沢に別荘をもっていた
ので、軽井沢で両家の交流もあったかもしれません。
新渡戸夫妻の軽井沢の別荘については、こちら

『ライシャワー自伝』の中では、軽井沢で交流した中に、新渡戸博士の教え子
(第一高等学校)三谷隆信氏の姉で女子学院院長の三谷民子、軽井沢でテニスを
したカナダ人E・ハーバート・ノーマンが登場しています。

エドウィンは、後年、三谷隆信氏を侍従長として知ることになります。

三谷は、新渡戸の書生だった友人の田島道治(初代宮内庁長官)とともに
戦後の宮内庁改革に尽力することになるのです。






2011/09/09

石の教会 内村鑑三記念室

札幌農学校時代の同級生で親友の内村鑑三記念室と「石の教会」が、
軽井沢の星野温泉近くにあることがわかり、見学に行きました。





建築家ケンドリック・ケロッグによるオーガニック建築(建築が自然の一部になること)

残念ながら、教会の中は撮影することができませんでしたが、
水の流れが優しく響く、落ち着いた空間でした。

内村鑑三が提唱した「無教会」

明治・大正期のキリスト教者、内村鑑三によって初めて語られた言葉です。
教会のすべてを無にするという意味ではありません。
教会とは、
制度が「無」くても、たとえ信仰が「無」くても、
祈りたい人が、
自由に集うことができる場所なのではないか・・・

内村鑑三と軽井沢

内村鑑三がはじめてここ星野を訪れたのは、1921(大正10)年のことでした。
島村藤村、北原白秋らが集った「芸術自由教育講習会」の講師として招かれた
ためです。それ以降、毎年逗留し、師の別荘には、学友の新渡戸稲造氏や
小野塚喜平次氏らが訪れ、日曜になると聖書会や子供会を催したといいます。

(記念室冊子より抜粋)

教会の地下には、内村鑑三記念室があります。




今回の取材には、高校時代からの仲良しで軽井沢に詳しい中嶋(旧姓・森本)泉さんが
同行してくれました。ありがとうございました!

軽井沢 石の教会 内村鑑三記念室のホームページは、こちらへ。

新渡戸通りと三度山の別荘

旧軽井沢からすぐのところに、新渡戸家の別荘があった、新渡戸通りがあります。
「新渡戸通り」の説明文
明治時代から軽井沢を愛し、昭和初期に三度山に三階洋風別荘を造った新渡戸稲造は、
軽井沢夏期大学創始者の一人である。新渡戸は、国際連盟事務次長として活躍した。
設置者 軽井沢観光協会 美しい村プロジェクト2006
協力  軽井沢トラスト
「軽井沢夏期大学60周年記念誌」に投稿されている加藤武子氏(稲造博士の孫娘)
の記事によると、ここは、「三度山の別荘」と呼ばれていたようです。
近くで門の修理をしていたおじさんに尋ねてみると、このあたりが「三度山」と
呼ばれている地域だよ、と教えてくれました。
別荘の背後に、小高い山が見えます。
当時のものと思われる門構えと石塀が残っています。
番号1450 別荘地
新渡戸通りと別荘の石塀
敷地内の坂を登ったところに、家が建っていたということですから、
おそらくこの坂道でしょう。
右下から左上に向かって、なだらかな坂になっています。
その坂を上がったところに、家が建っていた跡と思われる平らな地面が
ありました。ここに三階建ての洋館が建っていたものと思われます。
その平面の奥が、新渡戸博士が書斎にしていた別邸「月心亭」があった
ところのはずです。
新渡戸博士が希望して引き入れた小さな川があるはず、とお庭を見渡すと、
ありました!
家の南側に広がる広いお庭を、小さな流れが横切っています。

にぎやかな旧軽井沢の近くでありながら、とても静かなところです。
ここで、新渡戸博士は、チャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh、
アメリカ合衆国の飛行家、1927年、大西洋単独無着陸飛行、1931年、太平洋
横断飛行に成功)ら要人も迎えました。

上記の取材から10年後、2021年6月の跡地の様子は、こちら

2011/09/08

軽井沢夏期大学の跡地

後藤新平氏、新渡戸稲造博士らが始めた軽井沢夏期大学の跡は、
現在、日本大学の軽井沢研修センターになっています。
センターの裏手に、軽井沢夏期大学当時のものといわれている門が
残っています。



軽井沢夏期大学は、戦争で一時中断されましたが、その後、再開し、
現在も続いています。

当時、学問は、帝国大学でおこなわれるものとされていましたが、
一般の人々も広く学ぶことが、国の将来のためにも必要であるとの
考え方から、始められました。
その意図が、「通俗」という名称にあらわれていたのです。
開校時の名称は、軽井沢夏期通俗大学。

2011/09/07

晩夏の軽井沢へ

大正7年(1918年)、
新渡戸稲造博士は、後藤新平氏らと共に、軽井沢(通俗)夏期大学を開校しました。
後藤新平氏が総裁、新渡戸博士が会長。
軽井沢という地で、どのような目的と経緯で、この大学が開かれたのでしょうか。

その背景と、軽井沢での新渡戸博士を探しに、軽井沢に向かいました。

まずは、軽井沢町立図書館に行き、資料探しです。
あらかじめ、図書館のホームページで検索してみつけ、興味のあった
「軽井沢夏期大学60周年記念誌」を借りることができました。
また、新渡戸博士の別荘のあった「新渡戸通り」の場所を、図書館の窓口の方が、
大きな地図で探してくださいました。ありがとうございました。

図書館の隣にある軽井沢町歴史民俗資料館では、
「軽井沢夏期大学のことは、中央公民館に行けば、なにか資料があるはず」と
教えていただきました。

早速、軽井沢町中央公民館へ行くと、軽井沢夏期大学事務局の方が、
「軽井沢夏期大学50周年誌」と「50周年記念資料 軽井沢夏期大学のあゆみ」を
どうぞとくださいました。
突然の訪問にもかかわらず、本当にありがとうございました。