・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2020/02/01

新渡戸稲造と「安全保障」

2020年1月28日(火曜日)

交詢社「安全保障研究会」新年会

真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」

上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。

ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・

まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。

最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」

そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)

新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。

山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、

過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。

このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。



2020/01/14

ハヴァフォード大学の新渡戸奨学基金

2020年1月14日

以前、ハヴァフォード大学に「新渡戸」の名前を冠した
日本人留学生のための奨学金制度があると聞いたことがあり、
調べてみたことがありました。

「Haverford College Bulletins, 1969-70」
(この印刷物は、Internet Archiveで閲覧することができます)

上記のp.183に、Inazo Nitobe Scholarship Fund(新渡戸奨学基金)として、
次のような説明が掲載されています。

Established in November, 1955, under the will of Anna H. Chace, 
the income to be used and applied for the education at Haverford College 
of a Japanese student who shall be a resident of Japan and 
the time of his appointment to such scholarship and for his traveling expenses 
from and to Japan and his living expenses during the period he shall hold such scholarship.

実際にその基金を提供したAnna H. Chaceという人物について、
Rhode Island Historical Societyによる説明では、
Chace Family Papers Of Philadelphia and Rhode Islandとして、
次のように記されています。

Historical note:

            Jonathan Chace (1829-1917) was born into a prominent Quaker family in Valley Falls, R.I. His father was textile manufacturer Harvey Chace (b.1797), and his mother was Hannah Wood Chace (1800-1833). Harvey Chace was a nephew of famous abolitionist Elizabeth Buffum Chace and had himself been active in the Underground Railroad. Jonathan settled in Pennsylvania, where he established a dry goods business, and met and married Jane C. Moon (1831-1914). They had two daughters: Anna H. Chace (1856-1945) and Elizabeth M. Chace (1868-1955). Neither of the daughters ever married.
            Jonathan eventually returned to Rhode Island, and served as U.S. Representative from 1881 to 1885. He was elected U.S. Senator in 1885, and resigned in 1889. In 1910, he and his family moved from their residence in Central Falls to 190 Hope Street on the east side of Providence.
            Both the daughters, Anna and Elizabeth, led active interesting lives, and seem to have generally acted together, with Anna perhaps the more frequent traveler while Elizabeth tended to stay in Rhode Island. According to their obituaries, they were both active in the international peace movement, and traveled frequently to Geneva as observers at League of Nations sessions. They both also remained devout Quakers.

2017/01/26

東京帝国大学図書館の復興

2017年1月25日

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こった時、
新渡戸博士は、国際連盟事務次長として在任中で、
スイスのジュネーブにいらっしゃいました。
当時、海外にいた人々は、この悲惨なニュースの
詳細がなかなかわからず不安な日々を過ごしましたが、
新渡戸博士もそんなお一人でした。

以下、『團琢磨伝 下』p.155〜 抜粋

東京帝国大学は、教室の一部と、附属図書館をすべて
失い、蔵書80万冊以上が跡形もなくなりました。
直ちに図書館復興委員会が組織され、数名の教授を
欧米各国に派遣して、大学や学界、名士らに協力を呼びかけました。
ニューヨークでは、ロックフェラー第二世が四百万円の寄付を
決心し、その資金の保管管理に著名な銀行家を要求したことから、
團琢磨が着任しました。

鉄骨鉄筋、地下地上八階の立派な図書館が完成しました。
(抜粋おわり)

上記の話から、ジュネーブの国際連合アーカイブに保存されている
東京帝国大学図書館復興に関する書類を思い出しました。
新渡戸博士は母校でもあり、また、教授を務めた同大学の復興に
大変関心を寄せて、欧米にある数多くの大学などに協力依頼の手紙を
書き送っています。
同図書館は「一つの図書館に過ぎず、ここは、日本の知の集積地」と、
その救済に遠くスイスで尽力しました。
同アーカイブには、復興後の図書館の絵などが含まれた報告書が
残されています。

2016/10/10

『20世紀における女性の平和運動』

2016年10月 読書メモ

『日本女子大学叢書1 
 20世紀における女性の平和運動
 ーーー婦人国際平和自由連盟と日本の女性』
中嶌 邦 ・ 杉森 長子 編
2006年5月 ドメス出版

「婦人平和協会」という平和の文字を全面に掲げて
最も早く始まった女性団体の活動を中心にとりあげた論文集。
協会成立へ大きな影響を与えた成瀬仁蔵および新渡戸稲造と
その夫人メアリーの動向、協会の結成と活動の展開など。
(千代田区立図書館のHPより)

1910年代、新渡戸稲造博士および成瀬仁蔵先生(日本女子大学
創設者)やそのまわりの人脈から始まった日本における女性の平和運動が
アメリカや世界の動きに呼応するように発展、新渡戸博士の
教え子たち(上代タノ先生や河井道先生)によって、継承されて
いったこと、そして、新渡戸博士が、国際連盟事務次長を務めた
国際連盟とともに、国際組織の一つとして活動してきたことなど、
女性平和活動の活発な展開が興味深い。

目次
第一部
女性の平和運動への触発 成瀬仁蔵の平和思想と活動 / 中嶌/邦‖著
婦人平和協会へ向けて 新渡戸稲造夫妻と成瀬仁蔵 / 小塩/和人‖著
婦人平和協会の結成と活動の展開 / 杉森/長子‖著
婦人平和協会と第二次世界大戦 / 杉森/長子‖著
日本における婦人国際平和自由連盟の国際総会開催 / 蟻川/芳子‖著
WILPFと国連 / 秋林/こずえ‖著

第二部 年表より

1919(大正8)年1月
国際問題研究会発足(新渡戸稲造邸)
目賀田逸子(目賀田種太郎夫人、勝海舟三女)、
新渡戸萬里子(新渡戸稲造夫人)、
津田梅子(新渡戸博士の友人、津田塾大学創設者)らの呼びかけにより、
井上秀子、上代タノ、羽仁もと子(自由学園創設者)、
塚本はま子など数十人参加。

1920(大正9)年1月
国際連盟発足

1921(大正10)年7月10日〜14日
第三回国際会議(ウィーン、参加21カ国222人)
日本から新渡戸萬里子らが参加。
第一次世界大戦で敵味方だった諸国の婦人たちが、
平和のための努力を誓い合う

1923(大正23)年6月
国際会長ジェーン・アダムス来日

1924(大正24)年5月17日
第4回国内総会(門野重九郎邸)
講演「ジュネーブ湖畔に開く世界市民の集まり」
新渡戸萬里子

1926(大正15)年5月8日
第6回国内総会
講演「太平洋問題について」
鶴見祐輔

同年7月8日〜15日
第五回国際会議(ダブリン、参加20カ国151人参加)
日本支部代表として上代タノが出席、初めて支部報告をおこなう
「平和へのつぎの段階」
上代タノ

1927(昭和2)年5月21日
第7回国内総会(ドイツ大使館)
講演「平和を将来する人々」
河井道

1928(昭和3)年5月18日
第8回国内総会(大阪ビルディング講堂)
講演「世界の平和と婦人」
新渡戸稲造

1930(昭和5)年6月6日
第10回国内総会
第二代理事長 河井道

1931(昭和6)年
懸賞論文発表「拓け国際協力への進路を」
日米児童画交換開始
満州問題メッセージカード2500枚配布
世界軍縮誓願者署名運動など

(以上、新渡戸博士関連を抜粋、1932年以降は省略)

新渡戸稲造博士の教え子の一人、河井道先生(恵泉女学園創設者)は、
理想とする女子教育の柱に「国際」を掲げていらっしゃいました。
「少女たちが、外国のことを知るようになれば、戦争はなくなると
考えていました。」(『新渡戸稲造ものがたり』より)

やがて母親になる少女たちが、海外のことにも目を向け、平和の尊さを
知ることで、そして、その思いが世界中の女性たちからも芽生え、
響き合い、一つになれば、戦争の悲劇はいつかなくなるのではないでしょうか。
そんな共通の思いを強く感じられる先人たちの活動を知る機会になりました。

2016/10/04

市民のための「新渡戸教室」 花巻新渡戸記念館

2016年10月1日(土曜日)
10時30分〜
花巻市立 花巻新渡戸記念館

市民のための「新渡戸教室」
「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」 柴崎 由紀

朝一番の新幹線で、東京駅から新花巻駅に向かいました。
東京は小雨の降るお天気でしたが、東北に近づくにつれて
空が高くなり、すっきりした青空の広がる新花巻駅に到着。
この日は、国体の初日。46年ぶりの岩手県での開催です。
天皇皇后両陛下も、すでに花巻にご滞在中です。

新渡戸稲造博士のご先祖の地 花巻の花巻新渡戸記念館にお招きいただき、
下記のような内容のお話を準備しました。

1 はじめに(自己紹介)

     伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

        ・ルーズベルト大統領からの贈物「時計」(花巻新渡戸記念館で展示)
   と 鎌倉の河野家についてご紹介

2 小さな旅へご案内
     「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」
  アメリカ・イギリス(ロンドン)・スイス(ジュネーブ)・カナダ
  ~ 非公開資料と取材裏話 ~

  ・約50枚の写真をご覧いただきながら、小さな旅へご案内

3 一人の人物の生涯を通じて学ぶこと
  日本の子どもたち/若者たちへの思い

4    新渡戸稲造夫妻と山室軍平・山室機恵子(花巻出身)夫妻

5 質疑応答(Q&A)

この日は、宗徧流のお茶の先生がたが、お茶席をご用意くださり、
来館者さんたちは、お菓子とお茶も楽しみました。

晴天の休日、そして、国体開会式の日にもかかわらず、お参加いただきました
市民の方々、嶽間澤 茂 館長様、菊池喜一 副館長様をはじめ、ご関係者の皆様に
心より御礼を申し上げます。

2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/08/06

神谷美恵子さんのこと

2016年8月

読書メモ

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』
大谷 美和子 著 くもん出版 2012年12月

神谷美恵子氏(1914年〜1979年)は、皇后美智子様を精神的に
お支えした方として知られています。(旧姓は、前田)
新渡戸稲造博士の教え子の一人、前田多門氏のご長女です。

ご両親(前田多門・房子)のご縁をとりもったのも新渡戸博士です。
お母様は、普連土学園のご出身。

新渡戸博士が、国際連盟の事務次長としてジュネーブに在住していた
1923年、父・前田多門氏が国際労働機関(ILO)の日本代表として
ジュネーブに赴任。
幼かった子どもたちを連れて、ジュネーブにやってきました。
美恵子氏は、両親が慕う新渡戸博士にかわいがられ、
『武士道』のフランス語版をプレゼントされています。

伝記『新渡戸稲造ものがたり』では、
文字数(全体の文量)を少なくするために、やむを得ず、
神谷美恵子氏についての記述も、当初の原稿から削らなければ
なりませんでした。
けれども、『新渡戸稲造ものがたり』を読んでくださった知人の中に
神谷美恵子氏の教え子や、大きな影響を受けた方がいらっしゃること
がわかり、嬉しい驚きでした。

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』は、
神谷美恵子氏の生涯がわかりやすくまとめられた一冊。
神谷美恵子氏が、結婚前にペンドル・ヒル(アメリカ・ペンシルベニア州)
で過ごしたことを知りました。
ペンドル・ヒルは、クエーカーの人々が学ぶ学寮。
ここで、彼女は世界中からやってきた人々から感化を受け、
将来の自分の歩む道を模索した時期を過ごしたようです。
彼女もまた、クエーカーの信仰に影響を受けた一人といえるかもしれません。

彼女の代表的な著書『生きがいについて』を
あらためてじっくりと読んでみたいと思っています。

2016/04/25

1920年代の米国製自動車

2016年4月24日(日曜日)

新渡戸博士のジュネーブ在住は、1920年〜1926年でした。
国際連合ヨーロッパ本部内の古書室の資料によりますと、
1926年、新渡戸博士が国際連盟事務次長を退任し帰国する際、
米国製の車、Buickを日本に輸送することを検討したようです。
結局、現地の秘書に処分を頼み、日本に持ち帰ることはありません
でした。



ジュネーブ郊外の新渡戸邸にて(『新渡戸稲造ものがたり』p.178より)

このたび、
1927年製の米国車「Hudson Super Six」(エンジンは1917年製)に
乗せていただく機会がありました。
当時は、米国製の自動車が主流だったようです。








クラッチの操作が難しく、当時の運転はとても大変だったと思います。
デザインは細部までとても美しいです。





2014/12/20

番組再放送のお知らせ

以前に番組制作に協力させていただきました、
岩手めんこいテレビ様の二番組の再放送が決まり、
ご案内をいただきましたので、紹介いたします。

スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~


岩手めんこいテレビ 12日(木)午前600

ジュネーヴの星 

石川テレビ(石川県)1222日(月)深夜045
テレビ西日本(福岡県)1224日(水)深夜245
テレビ大分(大分県)1225日(木)午後500
鹿児島テレビ(鹿児島県)1227日(土)深夜135

めんこいテレビ(岩手県)1228日(日)午後445

2014/08/16

テレビ番組の紹介

『ジュネーヴの星~大友啓史が迫る新渡戸稲造の精神~』
 2014年8月23日(土)12:00~12:55
 BS フジ
 今年は日本とスイスの国交樹立150周年。
 両国の交流の歴史において一際輝きを放つ人物が岩手県盛岡市出身の偉人・新渡戸稲造。
 1920年代に国際連盟事務次長として国際平和の実現に向けて奔走し
 「ジュネーヴの星」と称えられた。
 新渡戸の活躍から80年あまり。
 映画「るろうに剣心」の大友啓史監督がスイス・ジュネーヴに降り立った。
 大友監督も盛岡市出身で、同郷の新渡戸に影響を受け
 「武士道」をバイブルに作品をつくってきたという。
 新渡戸の心の軌跡を追いかけ、
 日本をこよなく愛した画家バルテュスの妻でユネスコ平和のアーティスト、
 節子・クロソフスカ・ド・ローラや、
 旧新渡戸邸のあるフランク・ミュラー本社などを訪ねた。

2014/06/15

テレビ番組「知られざる親日国第六弾・フィンランド」

テレビ東京「未来世紀 ジパング」で、新渡戸博士の活躍について紹介されるようです。
新渡戸基金の藤井様よりお知らせをいただきました。

2014年6月16日(月)22時〜
テレビ東京「未来世紀 ジパング」
知られざる親日国第六弾・フィンランド

以下は、番組ホームページより ↓

大好評"知られざる親日国シリーズ"第6弾はフィンランド。
実はフィンランドは日本から一番近いヨーロッパ、そこは意外な親日国だった。
公園で行われていたのは何と"桜まつり"。
桜を愛でながら、和太鼓に剣術、パラパラまで日本が沸騰していた。
その裏に日本との知られざる接点があった。
新渡戸稲造、旧五千円札の肖像でなじみ深いあの人物がフィンランド人に感謝されていた。
いったい100年前に何があったのか?


フィンランドに平和もたらした日本人

なぜフィンランドが親日なのか?
それは100年以上前の出来事に関わりがあるという。
フィンランドの歴史に名を刻む日本人がいた。
新渡戸稲造、そう旧五千円札の肖像に使われた人物だ。
当時、国際連盟の事務次長だった新渡戸は、
フィンランドとスウェーデンの間で起こっていたオーランド諸島の領有権争いを、
後々まで“新渡戸裁定”と呼ばれるようになった画期的な方法で解決したのだ。
その解決法とは、なんと「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、
言葉や文化風習はスウェーデン式」という意外なものだった。
おかげでオーランド諸島はいまや平和モデルの島となり、
領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになった。
住民はこう言う。
「新渡戸さんをとても尊敬しているの。だって、彼がこの島を平和にしてくれたんだから」

番組ホームページは、こちら

2014/06/04

昭憲皇太后 百年祭(東京・明治神宮)

昭憲皇太后(明治の皇后。1849年〜1914年)没後100年の野外展覧会が
明治神宮の参道でおこなわれています。6月30日まで



新渡戸稲造博士は、幕末に生まれました。
明治の時代になって天皇陛下が東北巡幸をされた折に、
十和田(青森県)の新渡戸家を訪問されています。
そのことが、新渡戸博士のその後を決定づける大きな出来事になりました。

「一八七六(明治九)年の六月から七月、天皇陛下(明治天皇)が
 初めて東北と北海道をお巡りになりました。
 その途中、稲造の祖父が開拓事業をおこなった三本木を訪れ、
 広大な水田をご覧になり、大変喜ばれました。
 そして、その功績をほめて、
 『今後も、家族、子孫たちは、その志を継ぎ、ますます農業にはげむように』
 というお言葉をくださいました。
 (中略)
 東京にいた稲造は、母からの手紙で、このことを知りました。
 そして、天皇陛下の訪問が新聞に載っているのを見た時、
 稲造は、自分の家族の歴史と、今後の自分の責任の重さを実感して、
 胸が高鳴りました。」
 『新渡戸稲造ものがたり』p.38-39より

また、新渡戸博士とメアリー夫人が発起人になり、
日本の動物愛護運動の先駆けとなった日本人道会に対し、
動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、当時の皇后陛下から
活動資金の援助を賜っています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.147より抜粋)

昭憲皇太后は、皇后としてさまざまな社会活動をされました。
今回、明治神宮の森の中で、その業績を知る機会に恵まれました。




1912(明治45)年、昭憲皇太后は、世界の人々のために、
十万円(現在の三億五千万円相当)を下賜しました。
戦時中に留まらず、災害や感染症に苦しむ世界中の人々のために、
平時の国際救援活動を奨励するためでした。(展示解説文より抜粋)

「1921(大正10)年、ジュネーブでおこなわれた第十回赤十字国際会議
 昭憲皇太后基金の定款が正式に採択され、基金管理は、赤十字国際委員会
 (ICRC)がおこなうこととなりました。」(展示解説文より)



この採択がおこなわれた1921年は、ちょうど新渡戸稲造博士が、
国際連盟の事務次長として、同地ジュネーブに滞在中でした。
常任理事国だった日本を代表する、世界のリーダーの一人として、
国際機関の仕事に従事していた新渡戸博士にとって、
どんなに感慨深い出来事だったでしょうか。



「赤十字事業を、戦時の救護活動から、幅広い人道的な活動へと広げた
 支援のあり方は、時代を先取りしたものとして、今日、世界的に大きな
 評価を得ています。」(展示解説文より)





2013/03/18

成城学園と新渡戸稲造博士 その2

先日、教文館(銀座)でお目にかかりました太田愛人氏のご著書
『神谷美恵子 若きこころの旅』(河出書房新社 2003年)から、
母校 成城学園と新渡戸博士のご縁について、追記します。

新渡戸稲造博士は、1906(明治三十九)〜1913(大正二)年、
旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長を務めました。
その間、のちに政財界で活躍する多くの優秀な人材を育てました。
「専門センスよりコモンセンス(常識)を」と、
学生たち一人一人との触れ合いを大切にし、学生たちに実に大きな影響を
及ぼしました。

その教え子の中には、田島道治氏(のちの宮内庁長官)、前田多門氏
(ユネスコ日本委員会委員長)たちがいます。
新渡戸博士が、国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中の1923年、
前田多門は、ILO(国際労働機関、国際連盟の外郭組織)の日本代表に就任し、
4人の子どもを連れて、家族でジュネーブに暮らし、新渡戸一家と親しく
交際しました。
長男の前田陽一氏、長女の美恵子氏(のちの神谷美恵子)は、両親が尊敬していた
新渡戸博士を祖父のように慕い、大きな影響を受けます。
(次女には、新渡戸博士の母の名前「せき」から、勢喜子と命名。
 勢喜子氏は、のちに、ソニー創業者の一人、井深大の妻となる)

スイスから帰国後、陽一と美恵子は成城学園で学びました。
前田陽一(桜組、藤組、3文甲)、前田美恵子(1白百合)
「成城学園同窓会 会員名簿」より

陽一氏は、のちに、新渡戸博士とのご縁も深い国際文化会館(東京・六本木)の
専務理事にも就任しています。

美恵子氏は、精神医学を学び、ハンセン病救済活動、戦後は、GHQとの
折衝などで父・多門を補佐、また、著作『生きがいについて』(初版1966年)は
長く読み継がれています。

また、美智子妃(現皇后)の相談役を務め、精神的に支えました。
新渡戸博士の教え子で書生だった、宮内庁長官 田島道治の尽力によるものです。
美智子妃にお会いする日には、長官みずから、東京駅にて美恵子氏を出迎えた
こともあったようです。





2011/09/04

ジュネーブの街

国際都市 ジュネーブ(スイス)

レマン湖畔に広がる美しい街です。フランス語圏。
新渡戸稲造博士が、事務局次長として約7年間勤めた国際連盟の本部がありました。
その後も、国際連合の諸機関など多くの国際機関が所在します。

レマン湖の水上に高く噴き上げられる大噴水(Jet d'Eau)が有名。


旧市街のサン・ピエール大聖堂の塔からの眺め。
Cathédrale Saint Pierre


大聖堂内の美しいステンドガラス。

旧市街には、ジャン・ジャック・ルソーの生家があります。
いまは記念館になっていて、オーディオガイドでルソーの生涯を
辿ることができるようになっています。
Espace Jean-Jacques Rousseau


ルソーといえば、『エミール』



ルソーの家の近くには、古い邸宅、タベルの館があります。
裕福な商家の暮らしぶりが、よくわかります。
通常1階にありそうなキッチンが、2階にあるのが疑問だったので、
監視員に聞いてみましたが、わからないということでした。
Maison Tavel



旧市街には、音楽家 フランツ・リストが、1830年代に暮らした家も残っています。
Franz Liszt

ここで生まれた3人の子どもの一人が、のちにリヒャルト・ワーグナーの妻になる
コジマ(Cosima)。
Wilhelm Richard Wagner


レマン湖のほとりにあるホテル ボー・リバージュ(Beau Rivage)に滞在中だった
シシー(Sissi、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世の皇后)は、
1898年9月、船に乗るところを刺殺され、ここジュネーブで生涯を閉じました。




いまは、飛行機で訪れることができるジュネーブですが、新渡戸博士のころは、
どんなに遠い地であったことでしょう。
故国から遠く離れ、世界平和と秩序のために尽くした博士の高い志を感じます。


充実したジュネーブの滞在を終えて、次の目的地に向かいます。
飛行機からは、もう一度、レマン湖、大噴水を見ることができました。
UNでお世話になった方々、ジュネーブの街に感謝を捧げます。

新渡戸博士夫妻が暮らした邸宅

新渡戸稲造博士夫妻は、レマン湖を望む邸宅に住んでいた、
そして、その家には来客が絶えなかった、などの情報から、
今回のUN訪問の際、ぜひその邸宅を訪れてみたいと思っていました。

古文書室の資料の中に、新渡戸博士の引越についての書類があり、
そこから、夫妻の住んでいた屋敷の名前が、レザマンドリエ
であることがわかり、その場所をネットで検索してくれました。

なんと、その屋敷は、いまスイスを代表する時計メーカーの一つ、
Franck Mullerの社屋になっていることがわかりました。
その日から、何回か電話してみますが、返答がありません。

とうとう最終日が近づき、思い切って、バスで行ってみることに
したのです。

UNの前から、バスに乗り、ジュネーブの街とは反対方向に向かいます。



途中、素敵な邸宅が並ぶ、きれいな街並を通ります。
新渡戸夫妻が暮らしていた頃、この家々はすでにあったかも
しれません。この同じ道を、博士は毎日、車で通勤していたので
しょうか、などと車窓からの景色を眺めながら、あれこれ思います。

途中、ジュネーブの空港の滑走路近くも、通りました。
さすがに、新渡戸博士のころは、まだ空港はなかったことでしょう。


Genthodという村でバスを降ります。
Franck Mullerの会社になっている建物、と道で出会った人に尋ねてみました。

「この道をまっすぐ、そんなに遠くはないわよ」


ありました!

もうお屋敷の名前は書いてなかったので、Franck Mullerになっていなかったら、
みつからなかったかもしれません。
三階建て(一番上の階は、屋根裏部屋?)のりっぱな邸宅です。




工事をしている人がいましたが、やはり、会社は夏期休業とのことで
建物の中に入ることはできず、お話を伺うことはできませんでした。

 

Franck Mullerのホームページで、いまは社屋になった建物が掲載されています。