・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2021/03/30

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

 2021月3月 30日

例年になく早く満開を迎えた東京の桜が、いまは盛んに散っていきます。

後藤新平伯は、昭和4年4月13日に亡くなりました。

手元の資料の中に、昭和四年に雑誌「朝日」に掲載された、

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

の記事があります。その記事の冒頭には、

「惜しみなく散る桜とともに」逝ったとあります。享年74歳。

後藤の逝去を受けて、新渡戸が語った話によると、

後藤新平が新渡戸稲造に台湾での仕事を要請したのは、

「当時の農商務大臣であった曽根さんを通じて・・・」とありますが、

「いまだに私にわからないのは、あの遠いアメリカにいた私をどうしてわざわざ

呼んだかである。これだけはいまだにわからないのである」としています。

本多静六博士の自伝によれば、本多が推薦したとあります。詳しくはこちらへ

新渡戸は、本多の推薦があったことを、ご存知だったのでしょうか。

いまとなっては、確かめようがありません。


この記事によると、後藤新平の思い出話は、尽きることがなかったようです。

新渡戸によると、後藤伯は、「よく眠り、よく食った人」のようです。

最後の二人の会食は、貴族院の食堂でした。同じ料理を注文して「実にうまそうに

食べた」後、後藤さんは、いつの間にか追加注文して、二人前の料理をペロリと

平らげて平気だったそうです。

「あの時の後藤さんの顔が、いまでもはっきりと眼の前にちらつく。親しみのある、

あのくすぐったそうな、温情のある、あの顔が」

4月13日 麻布桜田町にて 大澤 栄一

雑誌「朝日」第1号第6号(昭和4年6月)博文館


2021/03/16

新渡戸稲造を後藤新平に引き合わせた人物

 2021年3月16日

新渡戸稲造博士は、アメリカで『武士道』を出版した翌年、

後藤新平伯の熱心な説得を受けて、台湾に赴任しました。

1901(明治34)年、後藤新平が台湾総督府の民政長官だった時のことです。

共に岩手出身の二人ですが、それまで面識はなかったようです。

(その後、後藤、新渡戸の二人は親しくなります)

今回、本多静六博士の自伝を読んでいて、本多がドイツ留学時代から

後藤新平を知っていて交流があったこと、そして、新渡戸もまた、

本多の友人であったことがわかりました。さらに、その自伝には

次のように書かれています。

「後藤は、台湾の民政長官となるや、私に顧問として台湾へ出掛け、

いろいろ行政を手伝ってくれぬかと持ち込んで来た。

当時、私は多少の金もでき、仕事も忙しく、また学者としてそうした方面に

手をのばすのもいたずらに妬みの敵を多くするばかり、いわゆる明哲保身の術

ではないと考えたので、友人の新渡戸稲造、河合鈰太郎(かわいしたろう)

両君を推薦して、自分は両君にできない公園計画だけを引き受けることにした」

『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六 実業之日本社 2016年 P.216


新渡戸は、台湾総督府の糖務局長として台湾の砂糖産業の発展を担い、

本多は、台湾の北投や亀山一帯の温泉、台北や台南などの公園を設計、

河合は、阿里山鉄道の建設に尽力、「阿里山開発の父」と呼ばれました。





2019/06/20

田中舘愛橘顕彰会

2019年6月16日(日曜日)国際文化会館(東京)にて

新渡戸博士と田中舘愛橘博士は、同郷(新渡戸は盛岡、田中舘は二戸)、
「心の友」だったそうです。
盛岡ではなく、東京英語学校で初めて出会いましたが、その後の
約30年間は特に付き合いのあった痕跡がないそうです。
新渡戸より歳上の田中舘ですが、新渡戸よりも二十年近く長く生き、
太平洋戦争、日本の敗戦を見届けています。

新渡戸稲造(1862年〜1933年)
田中館愛橘(1856年〜1952年)終戦は、1945年





両者とも自らの専門をもちつつ、後進の指導によって
多くの優秀な弟子を育て、さらに、国際的に活躍しました。

この日、田中舘博士のひ孫(松浦明氏)主催の顕彰会がおこなわれ、
1 松浦氏による「愛橘顕彰会の最近の動向」のご発表、その後、
2 盛岡の新渡戸基金代表の藤井茂氏が、
  「田中舘愛橘とノーベル賞」の演題でお話になりました。

藤井茂氏(左)と松浦明氏(右)
冒頭に、松浦さんは、田中舘博士のご臨終の日についての思い出を
話してくださいました。
まさにご臨終の時、弟子の中村清二博士は、大きな声で、
「みなさん、田中舘先生にお礼を言おうではありませんか」と
告げ、みんなでお礼の言葉を言ったこと、誰も泣いていなかったこと、
自分だけはどうしても涙が出てきたこと・・・。
松浦氏は、経堂(東京都世田谷区)で、晩年の曽祖父(愛橘)と
数年ご一緒に暮らしています。

田中舘愛橘(曽祖父)とともに 右端が松浦氏


松浦氏ご所蔵の田中館愛橘資料


1 愛橘顕彰会の最近の動向

(1)シルビアシジミ(蝶)の本に登場した田中館愛橘

『シルビア物語』中村 和夫 著 2018年12月20日 発行 随想舎
この本の中で、明治初めに英国から来日した、
モンタギュー・アーサー・フェントン(Fenton)の蝶の採集旅行に、
若き学生だった田中舘が同行したことが書かれているそうです。
フェントン27歳、田中舘17歳。

(2)海上保安庁からの公文書の紹介

このたび、太平洋のある海底海山群に「田中舘海山群」と
命名されたそうです。
(ニュージーランドの海底地形名称委員会による)





そのほか、経堂での愛橘展について(2019年秋の開催予定)などの
報告がありました。




2 田中舘愛橘とノーベル賞

田中舘博士は、日本人で一番数多くのノーベル賞クラスの学者と
交流した一人、1910年にノーベル賞推薦人になっています。
(日本人で第2号の推薦人。第3号は、長岡半太郎で、長岡の推薦で
 後年、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞している)

新渡戸博士は、国際連盟の事務次長(国際部長)として、知的協力委員会
(いまのユネスコの前身)を招集し、キュリー夫人、アインシュタイン、
ベルグソンなどノーベル賞クラスの学者が集いました。
新渡戸が帰国すると、田中舘が、委員に選ばれ(昭和2年〜8年)、
その後、新渡戸が委員に任命されたが、惜しくもカナダで亡くなり、
委員として活動することはありませんでした。





いずれにしても、田中舘、新渡戸の両名は、世界的な学者たちと
交流した日本人。

さらに、新渡戸は、平和賞受賞に値する活躍をしました。
・オーランド問題の解決
・知的協力委員会の招集(学者が交流することによる平和の追求)
(当時は、国境を超えた学術交流が少なかった)

当時の国際連盟の職員による人気投票で、
全員一致の第1位が新渡戸稲造。
第2位は、フリチョフ・ナンセン(1922年にノーベル平和賞受賞)、
第3位は、ロバート・セシル(1937年にノーベル平和賞を受賞)。


藤井氏による二人の共通点は、
・分け隔てなく人と付き合う
・偉ぶらない
・国際社会で、日本人の良き見本となった
(日本の評判を高くした)



貴重なお話と資料をありがとうございました。





2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/05/21

『田中館愛橘ものがたり』

2016年5月21日(土曜日)

このたび、『田中館愛橘ものがたり ひ孫が語る「日本物理学の祖」』
を刊行いたしました。
田中館愛橘(たなかだて あいきつ)博士は、新渡戸博士と同じ、
南部藩の出身です。現在の岩手県二戸市に生まれました。
世界的に活躍された学者です。
地球物理学のほか、地震の研究、航空学、またローマ字の普及にも
取り組まれました。

田中館博士(1856年〜1952年)は、長年、新渡戸博士とも親交がありました。
また、新渡戸博士が主導した国際連盟の知的協力委員会(いまのユネスコの前身)
の委員も務めました。

同書『田中館愛橘ものがたり』では、
晩年に博士と共に生活された、ひ孫の松浦明様が、家族ならではの逸話なども
紹介され、子どもたちに優しく語りかける内容になっています。

松浦様の労作になりました。
このたびのご出版に心よりお祝いを申し上げます。
また、奥様の郁子様をはじめ、ご協力いただきました関係者の皆様に厚く御礼を
申し上げます。



発行:銀の鈴社
   2016年5月21日

田中館博士の出身地、二戸訪問については、こちら

2015/10/13

田中館愛橘博士 岩手出身の国際人

2015年10月12日 岩手県二戸

初めて二戸(岩手県)を訪問しました。
今回の訪問の目的は、ここ二戸出身で新渡戸博士とも親交が
あり、国際的にも活躍された田中館愛橘博士の出身地を訪ね、
その原点を探ることです。
東京在住の曾孫様のご紹介で、まず二戸シビックセンターに
伺いました。

二戸駅に降り立つと、あたりは特に商店街などもなく、
住宅街の中を歩いてシビックセンターに向かいました。










田中館博士にちなんだ作品展と資料展(1階の展示室)













































新渡戸稲造博士追悼会 1937年4月

新渡戸博士の追悼会にて(写真のすぐ前)田中館博士 80歳
































シビックセンター内の田中館愛橘博士記念科学館を見学、その後、
田中館博士の原資料を資料室で拝見しました。
そのほとんどは曾孫様の寄贈によるものです。
書類ばかりではなく、愛用されていたカバン、帽子、タイプライターも
あります。






その後、センター長さんの運転で、田中館博士のゆかりの地や
お墓を巡りました。
二戸では、街の中心は駅周辺ではなく、美しい渓谷を渡った先に
あることがわかりました。


ゆかりの家(帰郷の際に滞在した家)



生誕地(母の実家「呑香稲荷神社」)と幼少時の学び舎「会輔社」

































冬には雪に覆われる二戸ですが、おかげさまで学び多き秋の一日を
過ごすことができました。
関係者のみなさまに感謝を申し上げます。

シビックセンターの庭から田中館博士の墓地を望む



2015/09/11

安原みどり著『山室機恵子の生涯』

2015年9月

山室 機恵子(きえこ)研究家の安原みどり様が、長年のご研究を
まとめ出版されました。
『花巻が育んだ救世軍の母 山室 機恵子の生涯
 〜宮沢賢治に通底する生き方〜』

山室軍平(救世軍)・機恵子夫妻と新渡戸夫妻は親交がありました。

安原様とは数年前、初めてお目にかかりました。
この春、久しぶりにお会いした時は、ご病気の再発がわかり、
出版のご意向を固めた矢先でした。
その後、「後進の研究者のために」と意欲的に取り組まれ、
最終校正終了後の二日後にお亡くなりになりました。
出来上がった本を手に取っていただけなかったことが無念です。
表紙は、山室機恵子(旧姓佐藤)の実家のある花巻の
美しい田園風景。著者の安原さんも一目で気に入られた写真です。

刊行後は、安原様のご家族、母校の盛岡一高、日本女子大学の
方々にご紹介いただきました。御礼を申し上げます。

同書につきましては、盛岡の新渡戸基金様にも多大なご尽力を
いただいております。
今後も著者のご遺志に沿うようできる限り努めたいと考えています。

ご冥福を心よりお祈りいたします。

2015/05/09

原敬(はらたかし)同郷の国際派政治家

2015年5月7日 テレビ番組 視聴メモ

NHK「英雄たちの選択」’平民宰相’ 原敬 知られざる素顔

井上寿一(学習院院長)
川田 稔(歴史学者)
三浦瑠麗(国際政治学者)
一ノ瀬俊也(歴史学者)

原敬 はらたかし(1856年〜1921年)盛岡出身
雅号は、「一山」
戊辰戦争で破れ、賊軍出身として上京した原敬は、
外交のプロとして政治家に。

原が影響を受けた二人の人物

1・中江兆民からフランス啓蒙思想を学ぶ
 モンテスキュー、ボルテールなどが教材

明治18年 パリ公使館勤務
読書メモ
『パンセ』『フリードリッヒ2世回想録』『国際法の理論と実践』

2・陸奥宗光との出会い

明治28年、陸奥外相のもと、外務次官に就任。
ところが、陸奥は病死。原は外務省を辞めて、立憲政友会に参加し
政治家の道へ。内務大臣就任。

明治41年、52歳、大臣を辞任して、180日間の世界一周船旅へ。
太平洋横断してアメリカへ、さらにヨーロッパ視察へ
(トランクが盛岡の記念館に残されている)

そこで見た民主主義の国、20世紀初頭のアメリカ。

「将来この国が世界に対し、いかなるものとなるか
 常に注目しておく必要がある。」
 (『原敬日記』明治41年10月8日)

産業や大学を見学し、アメリカの将来の躍進を確信した。

1914(大正3)年、第一次世界大戦 開戦
ヨーロッパ衰退の始まり

1918(大正7)年、第一次世界大戦終結
パリ講和会議で、アメリカ大統領ウィルソンによる国際協調

原は、内閣総理大臣に就任 初の政党内閣の誕生

課題:シベリア出兵問題
山県有朋(やまがたありとも)は派兵拡大を黙認
日本の兵力7万人以上に拡大していた派兵を原は半減へ
「レーニン率いる革命軍といかに対するか」
増兵(派兵継続=国際協調に反する)か、
全面撤兵(財政破綻を回避)か。
いつ、どのように撤退するか。
(軍部は存在理由が危ぶまれ始めた=出兵、しかし、
 なにか取得しないと撤兵できない)
(世論にも配慮が必要。「米騒動」)

原は、アメリカとの関係を重視していた=日本の運命に関わる
アメリカは一方的な撤兵=原もその機会を利用して撤兵を決める
(山県を説得して、政治主導の撤兵へ)
1920(大正9)年9月13日、山県有朋の古希庵(現在は栃木県に移築)
で、山県と会談。原は、イギリスの立憲君主制をめざし、
内閣が軍部をコントロールすることを計画し、山県に同意を求めた。
(大日本憲法では、天皇が陸海軍を直属としている)
=「平民宰相(原)が元老(山県)を動かした」

「軍事についても 政府が政治上全責任を負う方針に改めるべきです」
 (『原敬日記』大正9年9月10日)

・皇太子の外遊実現
原は、「これからの元首は広く世界を知っていなければならない」と
皇太子の外遊を実現させた。
1921(大正10)年9月3日、皇太子(のちの昭和天皇)が外遊から帰国。
各国で王室や元首らにお会いになり、戦後のヨーロッパを視察。
帰国後、「世界平和の切要なるを感じた」と原に述べられた。
若き皇太子に原の理念が刻まれた。

・鉄道網の拡大 経済の発展

1921(大正10)年11月4日夜、東京駅にて平民宰相 原 敬 暗殺 65歳

「原の外交政策は常に融和的だった」(英タイムズ紙 11月5日)
「彼を失ったこと日本国民にとって大きな痛手である」(同)

約10年後、昭和六年、軍の暴走で満州事変が勃発

///視聴メモ 終わり

新渡戸博士は、同郷の政治家、原敬と親交がありました。
原は稲造の養父だった太田時敏と親しく、養父が亡くなった際、
その死亡記事には、友人として原敬の名前が掲載されています。

『新渡戸稲造ものがたり』から、以下を引用します。

  原敬と稲造は、自分たちの故郷である東北地方をどのように
 開発していくべきかについて、意見を交換することがありました。
 原敬、渋沢栄一、益田孝、高橋是清、大橋新太郎たちと共に
 一九一四年の凶作に見舞われた東北地方のために、一九一四
 (大正三)年十一月、東北振興会を開いて、具体的な話し合いを
 おこないました。
  原は、その後、総理大臣に就任しました。原と稲造は、
 民主主義について共通の考えをもっていました。原は、
 政治の舞台で民主政治の基本である政党政治の確立をめざし、
 稲造は、雑誌「実業之日本」などに記事を書いて、自分の考える
 民主主義を人々に広めました。
 『新渡戸稲造ものがたり』
  「原敬とともに 東北の振興と民主主義の普及」p.148-149
 
新渡戸博士は、かつての学友ウィルソン大統領が、
第一次世界大戦後に提案した世界で初めての国際平和機関、
国際連盟の事務次長に就任(スイス ジュネーブ)。
スイス在住中に、原敬暗殺の悲報を聞きました。

「・・・有力な人物がまた倒れた。誰が彼に代わることができよう。
 このところおよそ最も強力な人物であった」
と、その死を深く悲しみました。



2015/04/26

拓殖大学 後藤新平・新渡戸稲造記念講堂

2015年4月25日(土)11時〜
拓殖大学 文京キャンパス 
図書館・教室棟一階「後藤新平・新渡戸稲造記念講堂」

拓殖大学ルネサンス
文京キャンパス整備事業完成記念式典・祝賀会
にお招きいただきました。
このたびの完成に心よりお祝いを申し上げます。



この整備事業は、平成17年からおこなわれ、
このたび最終ステージが完了し、「図書館・教育棟(E館)」が
竣工。今年度から、商学部と政経学部は文京キャンパスで
4年間の一貫教育がおこなわれることになりました。

正門から入ると右に本部棟(A館)

今回竣工した図書館・教育棟(E館)
記念式典に先がけて、見学会に参加させていただきました。
落ち着いた色彩の図書館。最新の素晴らしい施設です。

図書館

図書館




俄然やる気が出そうな大きな「志」の書。

望月暁云「志」(寄贈 吉村洋治) 
教室

テラス(10時〜17時)

後藤新平・新渡戸稲造記念講堂は、新しい図書館・教室棟の中にあります。
入口には、お二人の胸像があります。
台湾の許文龍氏からの寄贈です。

後藤新平・新渡戸稲造記念講堂前の胸像

左が後藤新平学長、右が新渡戸稲造学監
式典の後は、9階の展望ラウンジで祝賀会も催されました。
このたびは本当におめでとうございました。
拓殖大学のホームページは、こちら


2015/04/17

タマシン・アレンさんと岩手

2015年3月30日(月)

今日は、太田愛人様と目黒安子様が、鎌倉のオフィスを
お訪ねくださいました。

太田愛人様は、新渡戸博士についても大変詳しく、これまでも
多くをご執筆されています。
新渡戸博士の一高での教え子、野村胡堂(岩手出身、
『銭形平次』作者、松田 瓊子の父)の研究家でもあります。
太田様は多くのご著書もあり、ご出身の岩手の人脈についてのお話は
いつも興味深く、勉強になります。
また、新渡戸博士の養女コト様らが設立した「愛の家」(東京都豊島区)
理事長でもいらっしゃいます。「愛の家」については、こちら

目黒安子様は、『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』
(2012年 教文館)のご著者です。
アレン先生が設立したアレン短期大学の学長をされました。

ご著書『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』より、
アレンさんと新渡戸博士の親交について、その一部を紹介します。

 ミス・アレンが岩手県を知ったのは新渡戸稲造との夕食の席
 だった。岩手県出身の新渡戸博士が流暢な英語で話す岩手農村の
 惨状は忘れられない印象をミス・アレンに与えた。
(同書 p.34)

 賀川(豊彦)は貧窮した人を救済するには「協同組合」を
 立ち上げなければならないと新渡戸稲造の協力を得る。
 産業組合のすこやかな運営だけが東北農村の貧しさを救い
 農村発展させる。新渡戸はこれに同意し帰国後、
 盛岡産業組合中央会岩手支会長と岩手県産業組合青年連盟総裁に
 就任したが、カナダで急逝する。新渡戸の「支え合う精神」に
 ついて語られることは少ない。一九三三年十一月十八日、
 新渡戸稲造の追悼式が盛岡で行われた。ミス・アレンは
 盛岡公会堂の壇上で葬送の曲をピアノで演奏し、その急逝を
 悼んだ。
 (同書 p.38)

その後、アレンさんはアメリカに帰国し、シカゴ大学大学院で学んだ後、
再び来日され、盛岡、そして、久慈へと移住し、久慈幼稚園を設立。
(ヴォーリス事務所の建築)
太平洋戦争が始まるとアメリカに強制送還されます。
戦争中も日本人収容所で働くなど日本人を支え続けました。
戦後、再来日すると、アレン短期大学など次々に学校の設立に関わりました。
勲五等瑞宝章などを受章されました。1976年、八十五歳で没。

今年(2015年)は、アレン先生の初来日100年にあたります。
目黒安子様は、このご著書を英訳出版されました。

' Build up, Build up, Prepare the Road!
 The life of Miss Thomasine Allen'
 Yasuko Meguro  2015 Kyo Bun Kwan

太田愛人様、目黒安子様のお話は、尽きることがないほどで、
私にとっても学び多き、光栄な日になりました。
ありがとうございました。






2015/04/16

台湾 国立台湾大学(旧台北帝国大学)

2015年3月19日(木曜日) 台湾大学キャンパスへ


国立台湾大学(旧台北帝国大学)正門



正門から大学構内へ ヤシの並木が印象的

大学図書館で、データベース検索しました。
日本の統治時代に発行されていた「台湾日日新報」
キーワード検索
「新渡戸」 すべて   735件
『新渡戸』 タイトル  341件
「新渡戸」 作者     97件

新聞に「新渡戸」が作者として登場しているのが100件近く。
これはかなりの数に登ります。
なぜでしょうか。
たとえば、「糖業改良意見」というタイトルで連載記事が
12回にわたって掲載されています。
1901年11月19日(一)〜12月3日(十二) 
また、1911年に赤十字台北病院でおこなわれた講演録も掲載
されたようです。

ちなみに、
「後藤」のキーワード検索は、58件。思いのほか少ないように
思いました。

記事については引き続き調査。

現在の国立台湾大学の前身は、日本の統治時代だった1928年に
設立された台北帝国大学。
帝国大学として、第七番目に開校。現在の大阪大学や名古屋大学よりも
前のことでした。

キャンパスは、帝国大学時代の建物も残り、いまも大切に使われて
います。

2015/04/02

台湾 児玉源太郎と後藤新平の銅像

2015年3月14日(土)国立台湾博物館(台北)

台北の国立台湾博物館(National Taiwan Museum)を訪問しました。
この博物館は、1905年、「児玉総督 後藤民政長官 記念博物館」として
建設されました。
新渡戸稲造博士が、児玉源太郎総督と後藤新平民政長官の依頼で
台湾の糖業発展に尽くしたのが、1901年〜1903年ごろですので、
ちょうど同時代です。
現在の建物は、1915年の建造で、台湾国内で最も歴史ある建物の一つです。
完成当時の建物の写真は、こちら


正面玄関を入ると、大きなエントランスロビーがあり、天井には、
美しいステンドグラスが見えます。
児玉家と後藤家の家紋をデザインしたステンドグラスとのことでした。







このエントランスロビーの両側には、かつて、児玉総督と後藤民政長官の像が
それぞれ設置されていたそうです。
現在は、代わりに大壺が飾られています。



日本の統治時代が終わると、この二人の像は、ここから撤去されました。
長い年月を経て、現在、同館の三階に再び展示されています。
通常は非公開の銅像を特別に見学させていただきました。

向かって左に児玉総督、右に後藤民政長官の像

児玉源太郎の像



後藤新平の像

制作は、彫刻家の新海竹太郎(1868年〜1927年)。
忠実に表現された作品で、後藤新平伯のトレードマーク「鼻眼鏡」の跡も
確認できます。

1900年1月、アメリカで『武士道』を出版したばかりの新渡戸博士は、
児玉総督と後藤新平民政長官の熱心な依頼を受け、
1901年、両氏の下で働き、台湾の農業発展に尽くす決意をし、
後藤新平と運命的な出会いをします。新渡戸博士、39歳。

(『新渡戸稲造ものがたり』p.114〜p.124 
  第八章 台湾の砂糖産業と植民地政策)

初めて海外勤務を経験し、児玉総督や後藤民政長官から多くを学び、
自分の専門とする農学の分野で大きな実績を残したことは、
まだ若かった新渡戸博士にとって、大きなステップになったと思われます。

同郷の後藤新平伯とは、このあと、生涯を通じて、師弟、または、
兄弟のような親しい関係が続き、後藤伯の外遊にも同行します。
そして、数年後、後藤伯とパリを訪れていた時に、国際連盟の事務次長の
就任が決まるのです。

この台湾時代が大きな転機になったといえるのではないでしょうか。


同館の初代館長、川上 瀧彌(かわかみ たきや 1971年〜1915年)も
札幌農学校の出身で、北海道のマリモ研究で知られる植物学者。
開館に向けて奔走し、開館の翌日に若くして病死しています。

同館の一階には、台湾の少数民族についての興味深い展示もあります。


2015/01/16

「愛の家」(東京都豊島区)

2015年1月6日(火曜日)
少し荒れ気味のお天気の中、太田愛人様と池袋でお目にかかりました。
太田様は、「愛の家」の理事長でいらっしゃいます。

社会福祉法人「愛の家」(東京都豊島区)は、池袋から西武池袋線ですぐの
東長崎駅近くにて、「母子生活支援施設愛の家ファミリーホーム」、
「愛の家保育園」を運営しています。

「愛の家」は、1923(大正12)年の関東大震災の後、
三人の女性有志によって、始まりました。その一人が、
新渡戸稲造博士の養女、新渡戸コトさんです(加藤武子様のお母様)。

太田様ご所蔵の資料によりますと、
財政的な援助については、新渡戸稲造博士のご縁を通じて、
渋沢栄一氏のご尽力によるものが大きかったようです。
そのほか、財閥の各団体や皇室からの下賜金など、
多くの方々の善意により、現在まで実に90年以上も運営を継続しています。

以下、『続々 社会事業に生きた女性たち』(太田氏所蔵)から引用

〈 たとえば、宮内省からの御下賜金は、(昭和)12年から19年まで
 続いたが、それは、宮内省に新渡戸稲造の知人(書生の兄)がいて、
 その人のはからいであったというように(太田愛人談)、
 秀れた人脈に囲まれていたからであったろう。
 それでもお金の苦労は絶えなかった。
 「ただ、ただ、お金をいただきに歩いたものです」と、現理事長
 新渡戸コトは、現寮長に語っている。「渋沢さんのところへは、
 よく行きました」とも。そこには、万感の想いが込められている。〉

同書 p.45〜46より

資料によると、新渡戸コトさんは、「愛の家」創始後まもなくご病気に
なり、その後、国際連盟(スイス・ジュネーブ)事務次長に在任中の
新渡戸博士と共にジュネーブに暮らし、一時「愛の家」を離れましたが、
帰国後、理事や理事長を歴任。「愛の家 五十年史」(1973年)の冒頭には、
理事長として序文が掲載されています。

なお、「愛の家」発起人の三人は、
煙山八重、塚原ハマ、新渡戸コト(新渡戸稲造の養女/新渡戸稲造の姉の孫)、
さらに、顧問の一人、羽仁もと子(自由学園創始者、煙山八重の師)は、
盛岡ゆかりの女性たちでした。

参考資料(すべて太田愛人様所蔵):
「愛の家 五十年史」
『天に宝を積んだ人びと 明治キリスト者の気骨』太田愛人/著
(キリスト新聞社 2005年)
『続々 社会事業に生きた女性たちーーーその生涯としごと』
五味百合子/編著 (ドメス出版 1985年)
そのほか、「愛の家保育園」案内書など

当日、久しぶりにお会いした太田様は、午前中、「愛の家」の
大切な行事に理事長としてご出席。面接などもされた後、
三時間もの間、たくさんのお話をお聞かせくださいました。
「田園生活」を大切にされている太田様のお元気ぶりには、
いつも驚かされます。

ご多用の中、本当にありがとうございました。






2014/07/04

佐藤昌介男爵とロータリークラブ

2014年6月18日(水)米山梅吉記念館

ロータリークラブは、国際的な社会奉仕連合団体のメンバークラブの総称。
1905年、アメリカのシカゴで誕生し、日本では、1920年、米山梅吉氏が、
初めてロータリークラブを設立しました。

今回の記念館訪問で、意外なことを発見しました。
それは、新渡戸博士の兄のような存在だった、同郷の佐藤昌介(北大初代総長)が、
ロータリークラブのガバナー(国際ロータリーの管理役員)を務めていたことです。
記念館の2階、ロータリークラブに関する展示室で、
佐藤昌介男爵の写真をみつけた時は、驚きました。

ロータリークラブのメンバーは、企業家や事業家(会社経営者)が中心である
というイメージをもっていたからです。

記念館の展示資料には、
「1936(昭和11)年7月、佐藤昌介(札幌)ガバナーに就任。」
と書かれています。(新渡戸は、1933年に逝去)

札幌農学校第一期生だった佐藤昌介は、アメリカ留学後、母校の教授に就任。
新渡戸博士と共に、日本初の農学博士になり、また、北海道大学(札幌農学校)の
初代総長、日米交換教授(第二代目。初代は新渡戸)を歴任するなど、
一貫してアカデミックな分野で活躍されましたので、ロータリアンで、
しかも、ガバナーまで務めていたとは、意外でした。

米山梅吉記念館の展示室に掲載されている佐藤昌介の写真

後日、学芸員の市川真理様が、関連資料をご提供くださり、
ガバナー就任の経緯などを知ることができました。

以下、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)より、抜粋します。

「札幌RCの誕生由来(p.4)
 札幌のRC(ロータリークラブ)は、東京RCのお世話により誕生。
 札幌では、大正時代から社会俱楽部を設立していて、市内一流の実業家らが、
 会合を随時おこなって、一つは修養にもつくし、一面明るい文化的都市を築くために
 努力もしていた。
 昭和7年12月3日が発会式、初代会長には、前北海道帝国大学総長の
 佐藤昌介男爵が推された。
 一世の徳望を担った佐藤男爵の会長就任は、俱楽部の充実をみて、その後、
 ガバナーともなり、札幌クラブを、日本ならびに世界のRCに強く認識せしめた。

 札幌RCの大きな移りゆき
 第一期時代(昭和7〜昭和11)(p.5)
 初代会長は佐藤男爵、札幌農学校第一期生として卒業生中最初に教授となり、
 さらに校長に就任、札幌農学校を護り育てて東北帝国大学農科大学に昇格
 せしめて学長となり、さらに北海道帝国大学として総合大学へ進展せしめて
 初代総長となって北大の礎石を造った本道の第一人者として厳然たる存在で
 あった。
 札幌RC の会員には会長としての適任者はほかにいくらでもあったのであるが、
 佐藤男爵を重んじ、昭和11年6月まで毎年改選期に再選されて、
 会長を歴任された。

 初代の米山ガバナー(東京3期)についで、・・・
 第5代は、わが佐藤男爵がガバナーに就任されたのである。
 東京、横浜、大阪からガバナーが選出される前例を破ってまだ田舎都市であった
 札幌からガバナーを出すことは破天荒であったが、これにはもとより佐藤男爵の
 ロータリアンとしての人格識見、ガバナーとして好適の人格者として
 認められたことも原因しようが、歴代ガバナーがこれを支持せられ、
 東京外大クラブがこれを支援せられた賜というべく、
 札幌RCの生みの親クラブの東京RCと常に連繋を保っていたことが大きく
 影響したものである。

 昭和10年においては、昭和9年の本道の凶作に対処し1月凶作義捐金を寄附し、
 4月には台湾の震災にお見舞いした。

 昭和11年において特記すべきは5月に佐藤男爵が次期ガバナーに当選したことで、
 ・・・佐藤男爵が渡米することになり、たまたまクロフォード・マカロー氏が
 来札されるのを機としてマカロー氏歓迎と佐藤男爵渡米壮行会を兼ねて
 会を催したことも記憶されるべきこと・・・」
 (注:マカロー氏は、前IR会長)

このほか、この資料からは、札幌RCへの訪問者は、多岐にわたる人々で
あったことがわかります。役人や大学関係者、芸術家などもいらっしゃいます。
また、家族会の開催や、ニコニコ箱、ロータリーソングなど、
いまに続くロータリークラブの恒例行事が、もうすでにこの時からの
伝統であったこともわかります。

新渡戸稲造博士は、札幌を第二の故郷として大切に思っていました。
6歳年上の佐藤昌介男爵は、同じ岩手県の出身で、稲造のアメリカ留学の際も、
先に留学していた佐藤に強く勧められて、ジョンズ・ホプキンズ大学で共に学び
その後、札幌農学校の教授に就任した佐藤のおかげで、稲造は同校の助教として
ドイツに公費留学することができました。
さらに、東京女子大学の初代学長に稲造を推薦した一人は、佐藤といわれています。
公私ともに、稲造のよき先輩、また兄貴分だった佐藤男爵が、稲造の没後、
ロータリークラブと深い関わりがあったのです。

佐藤昌介は、稲造没後6年を経て、1939(昭和14)年、83歳で人生の幕を閉じています。

個人的にも、メンバーの家族として、20年以上前から関わりのある
ロータリークラブについて、また、「米山奨学金」のことなど、初めて学ぶことができ、よい機会になりました。

このたびの米山梅吉記念館訪問につきましては、同館学芸員の市川真理様と
井上靖文学館(長泉町)の松本館長様にお世話になりました。
ありがとうございました。

米山梅吉記念館(静岡県駿東郡長泉町)
米山梅吉記念館のホームページは、こちら

2014/01/25

後藤新平と台湾 近代日本への「遺産」を考える

2014年1月24日(金)16:30〜18:00
第83回アジアセミナー
後藤新平と台湾 近代日本への「遺産」を考える
春山 明哲 氏 (早稲田大学台湾研究所 客員上級研究員)
早稲田大学にて

日比谷図書館の森田様より、ご案内いただきました講演会に出席しました。

1 後藤新平の生涯と事蹟
2 後藤の「台湾経験」
3 台湾旧慣調査と岡松参太郎
4 新渡戸稲造、矢内原忠雄と植民地政策学
5 帝都復興とはなにか 都市計画と自治の精神


2013/10/31

田中舘愛橘博士 南部藩出身のもう一人の偉人

2013年10月20日(日)13:00〜 国際文化会館(東京・六本木)401室
田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)研究会

田中舘愛橘博士の令曾孫、松浦明会長と新渡戸基金の藤井茂事務局長の
対談を聴かせていただきました。
松浦様は、田中舘博士と約14年間、生活を共にされています。
日本航空協会ホームページに掲載されている松浦様の記事は、こちら

田中舘愛橘博士(1856年〜1952年)は、現在の岩手県二戸市の出身で、
世界的に活躍した地球物理学者。
東京帝国大学教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。
地震研究の先駆者であり、日本の航空学の祖、日本式ローマ字の考案者としても
知られています。

田中舘愛橘研究会会誌 2013年8月第3号 没後60年記念号
田中舘博士は、南部盛岡藩の藩校で学んだ後、
新渡戸博士も学んだ東京の共慣義塾に入学しています。

今回の対談では、藤井氏が、田中舘博士と新渡戸博士の関わりを中心に紹介
してくださいました。
同郷の田中舘と新渡戸は、子どものころ、郷里を離れた東京で出会っています。

「私は新渡戸博士とは同郷でありまして、子どものときから同窓であります。
 明治七年ごろであります。英語学校という所に通いまして・・・
 国訛りのずーずーで、気がねなくものを言う・・・お互い晩年に至るまで
 二人顔を合わせますとずーずー丸出しでしゃべった」
 (『実業之日本』昭和九年十一月号)上記、田中舘愛橘研究会会報誌p234より

新渡戸博士は、9歳になるころ、親元を離れて上京していますが、言葉に訛りが
あることで少なからず肩身の狭い思いをしていたようすを後年書いています。
同郷の友人たちとのずーずー弁での会話はさぞ心許すひとときだったことでしょう。

その後、別の道を歩んだ二人でしたが、およそ30年ぶりに再会。
新渡戸博士は、田中舘博士らが始めた「ローマ字ひろめ会」で講演をしたり、
新渡戸が一高(旧制第一高等学校)の校長時代、その校庭で、
田中舘博士(東京大学理学部教授)らは、グライダーの試験飛行をおこなっています。

新渡戸博士は、「国内で有名になるだけで満足せず、広く世界を見て、なにごとも
判断しなければならない」といつも説いていました。彼は、
世界の医学界で知られていた北里柴三郎、
物理学では、世界的に高名な田中舘愛橘を、高く評価していたのです。

1927(昭和2)年2月、南部同郷会は、「新渡戸博士歓迎・田中舘博士送別」の会を
開いています。新渡戸は、国際連盟事務次長の任期を終えて帰国、一方、田中舘は、
これからジュネーブに出発して、国際連盟の知的協力委員会(新渡戸が、キュリー
夫人やアインシュタインらをメンバーに発足、現在のユネスコの前身)の委員に
就任しました。

二人は、新渡戸博士が亡くなる1933年の春、最後の再会をしたと思われる記録が
残っています。藤井氏は、「この二人の巨人は、まさに心友(心の友)であった」
と話されました。

この日の会では、お茶の先生でいらっしゃる松浦夫人がお弟子さんと共に、
一人一人にお茶を立ててくださいました。台風の余波で雨模様だったこの日、
お茶碗も持参され、朝4時からお菓子職人が作った特注の和菓子も大変おいしく
心温まるひとときでした。

松浦様ご夫妻、藤井様、そして研究会の皆様に心より御礼申し上げます。