・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2022/06/10

フィンランドのオーランド諸島 自治100周年

 2022年6月9日

今日発信されましたフィンランド大使館からのニュースです。

↓

本日自治100周年を迎えているオーランドはかつて、
フィンランドとスウェーデン間の帰属問題に揺れていました。
国際連盟事務次官だった新渡戸稲造を中心に、オーランドのフィンランド帰属を認め、
条件として自治権の確約を求めた「新渡戸裁定」で知られています。

オーランドの帰属問題解決に関する動画(英語)

A digital exhibition on the Åland Islands Solution, produced by Researcher Pertti Hakala and Dr Kennet Gustavsson is available from here. 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新渡戸博士は、発足したばかりの国際連盟の事務次官に選出され、世界で初めての

国際機関の代表メンバーの一人として活躍されました。


2022/06/01

拓殖大学に「拓殖アーカイブズ事業室」新設

2022年5月 このたび、拓殖大学様に「拓殖アーカイブズ事業室」が新設されましたこと、 心よりお祝いを申し上げます。 本学は、すぐ近くに住んでいらした新渡戸博士が学監を務めた学校です。 伝記『新渡戸稲造ものがたり』出版(生誕150周年記念)の際には、 百年史編纂室の方々に大変お世話になりました。 歴史ある拓殖大学には貴重な史料の所蔵があり、その保存、利活用に対する真摯な姿勢に 私も多くを学ばせていただきました。 あらためまして、御礼を申し上げます。 今回、新設された事業室では、百年史編纂室の業務を引き継ぐほか、旧外地関係資料など 戦前期日本の拓殖事業に関する知的財産の幅広い活用を進められるそうです。 拓殖大学理事長であり、また、拓殖アーカイブズ事業室長に御就任されました福田勝幸様より、 お知らせをいただきました。 ありがとうございました。

2020/03/07

新渡戸夫人と鈴木大拙夫人の動物愛護運動

新渡戸夫人のメアリーさんが、日本で動物愛護運動をおこなったことは、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』でも紹介しました。

以下、同書からの引用ーーーーーー

p.147
日本人道会(Japan Humane Society)動物愛護運動
1915(大正4)年、日本で動物愛護運動の先駆けとなった日本人同会が
生まれました。稲造とメアリーは発起人になり、小日向の自宅で
会合を開きました。動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、
当時の皇后陛下から活動資金が下賜されました。
活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど
日本に住む外国人が中心で、欧米式の動物愛護精神を日本に広める
という大きな役割がありました。(中略)
当時の日本には、動物を生きものとして扱うという考え方が
まだ広くゆきわたっていなかったからです。
「動物愛は、人類愛の延長である。・・・・・」
と稲造は書いています。

p.148 注
日本人道会(大正五年十一月〜大正六年十月)の幹事
名誉会長  鍋島直人
名誉副会長 後藤新平
理事長   新渡戸萬里子(新渡戸夫人)
専務理事  廣井辰太郎
理事    田島道治
理事    前田多門
理事    鶴見祐輔 ほか

ーーーーー以上、引用終わり

一方、鈴木大拙夫人のビアトリス(Beatrice Lane Suzuki)も
動物の保護活動に精力を注いでいたことがわかっています。
ビアトリス夫人は、北鎌倉の円覚寺正伝庵に、犬猫のための保護施設を
設けていたこと、鎌倉には、新渡戸夫妻も別荘を構えていたことから、
この二人のアメリカ人女性に接点はなかったのでしょうか。

この疑問の答えを探して、数年前に東慶寺で井上住職様(故人)に
相談したことがありました。
井上住職様は、ビアトリス夫人と動物の世話にあたっていた
「関口この」さんという方のご関係者にも照会してくださいましたが、
残念ながら、詳細についてはわかりませんでした。

このたび、松ヶ岡文庫年報の最新刊で、
「鈴木ビアトリスと動物たち 〜松ヶ岡文庫所蔵資料に見る〜」
(日沖直子)が掲載されました。

その論文の中で、次のように書かれています。

↓

円覚寺の敷地内に場所を借り、バーネット夫人や日本人道会の
援助を受けて、捨てられた犬や猫を保護する「バーネット記念動物保護
慈悲園」(Barnett Mercy Animal Shelter、以下慈悲園)が開設されたのである。

(中略)

一般に、日本の動物愛護運動の黎明期においては、日本人男性主導の
動物愛護会と、外国人女性主導の日本人道会の2つの流れがあったことが
先行研究によって指摘されている。前者のメンバーには、牧師出身の
リーダー、広井辰太郎とともに、ユニテリアンや仏教改革派の論者が
多く含まれていた。後者は、形の上では鍋島侯爵などを会長に据えつつ、
実際にはバーネット夫人や新渡戸夫人などアメリカ人女性が中心となって
活動したグループであり、キリスト教的背景を伴っていた。

(ビアトリスは、日本人同会に援助を受けながらも、両者にとらわれない
 自由な活動を展開、関口このと二人三脚で実務をこなし、慈善家として
 知られていた九条男爵夫人武子や国際的人道家のアルベルト・シュバイツアー
 の行き方を鑑み、やがて仏教的な自然観と生物観を模索)
(慈悲園は、特定の団体に属さない独立した施設であり、それゆえ
 資金面での問題が深刻であったようだ)

以上、引用、抜粋ーーーー

慈悲園を支援した寄付者リストには、新渡戸夫人の名前もあるようで、
この両夫人の接点、そして、日本における動物愛護にかける共通の
思いがあったことが伺えます。
鈴木大拙や新渡戸稲造を含んだ個人的な関わりがあったかどうかは
わかりませんが、これまで気になっていたことが少し判明しました。
また、当時の国内外の動物愛護運動のこともわかりました。

鈴木大拙は、動物愛護がビアトリスの業績の重要な一部分を占めていたと
考えていたようです。『青蓮仏教小観』の「はしがきと思ひ出」ほか







2020/02/01

新渡戸稲造と「安全保障」

2020年1月28日(火曜日)

交詢社「安全保障研究会」新年会

真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」

上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。

ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・

まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。

最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」

そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)

新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。

山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、

過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。

このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。



2019/08/19

第2回新渡戸稲造シンポジウム

2019年8月18日(日)14:00~ 中野サンプラザ(東京都・中野区)

第2回新渡戸稲造シンポジウム
〜「新渡戸稲造記念センター」開設記念〜

2019年4月、東京医療生活協同組合に「新渡戸稲造記念センター」が
開設になりました。
新渡戸博士は、1932年に設立された医療生活協同組合病院
(現 新渡戸記念中野総合病院)の初代理事長です。

新渡戸記念中野総合病院についての過去のブログは、こちらへ。





最初に、入江徹也理事長様よりごあいさつがありました。
病院の理念は、
「新渡戸稲造博士の精神(誠意と思いやりの心)を基にした医療を
誠実に実践し、疾病を抱えた人を真心で支援する」です。





講演 I  新渡戸稲造が遺したもの 
茂里 一紘 先生(東京女子大学 学長)

1 いと小さきもの

東京女子大学は、新渡戸博士を初代学長に迎え、1918年に開校。
1918年4月30日におこなわれた開校式について、翌日の萬朝報に
よりますと、渋沢栄一はじめ来賓500名(およそ半数は外国人)、
新入生は84名。その中には、斉藤百合さんがいました。
斉藤百合さんは、盲目の28歳、既婚で一児の母でした。
断られてもともとと思って志願すると、なんと特別生として入学が
許可されました。
茂里先生は、新渡戸学長とライシャワー氏(常務理事・財政担当)が
相談し、この異例な許可にいたったのでは、とおっしゃいました。

「いと小さきもの」を、神の子として平等に受け入れ、
知識よりも見識、学問より人格を尊び、人材より人物の養成を
主とした教育をおこないました。

注:ライシャワー家の長女は、聾唖(ろうあ)者で、日本聾話(ろうわ)学校を
夫人とともに設立。次男は、のちの駐日大使 E.O. ライシャワー。
『新渡戸稲造ものがたり』p.154


2 犠牲と奉仕 (Service and Sacrifice)

己を犠牲にしても、国、社会、人道のために貢献する精神。
この二つの頭文字(SS)をデザインした校章


3 リベラル エデュケーション(高等なる常識)

「リベラル・エデュケーションは、無知からの解放」
D. キーン

東京女子大学では、開校時から「文明史」の授業
「人文科」=一女性として高等なる常識を学ぶ
カリキュラムは、リベラル・アーツ教育の源流

卒業生たちが語る東京女子大学(『旅人われら』2007年)の
キーワードは、
「自由」=枠にはまらない考え方=リベラル・アーツ教育

「学び」は、建物の「耐震化」のようなもの
=予期せぬことに対応できるような強靭さを育むこと
特に女性は人生の変化が大きい人がいる

「挑戦する知性 未来につなぐリベラル・アーツ」


講演 II 新渡戸稲造先生の贈り物
宗雪 雅幸 先生(恵泉女学園 理事長)

恵泉女学園の創立者 河井 道先生と新渡戸稲造博士は、
「神の見えざる手」(アダム・スミス)によって導かれた出会い

河井 道先生(1877年〜1953年)は、伊勢神宮の神職の家の出身。
(「祈り」のある家)
明治4年、神職の世襲が禁じられると、河井家は函館へ。
ある日、お使いに出たところ、伊勢山田出身の親戚(キリスト教の
伝道者)に会う。スミス女学校で、新渡戸稲造先生から歴史を学ぶ。
新渡戸博士のアドバイスに従い、米国の名門ブリンマー大学に留学
(津田梅子も同学に留学)

新渡戸夫妻に同行して渡米した際の「渡航証票」が恵泉女学園史料室に
残っている。
雇い主 ↓
新渡戸稲造 東京市四ツ谷區北伊賀町廿五(25)番地
河野 孝忠 方

河井 道 先生は、「恵泉」11号(1933年10月)「恩師新渡戸稲造博士」で、
新渡戸先生口添えで1000円(当時)の寄付をいただいたエピソードを
書いています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.187)

1929年、世界恐慌などの状況にもかかわらず、恵泉女学園を創立。
当初、新渡戸夫妻は、河井の苦労を心配して反対したが、
生涯に一度だけ、新渡戸博士の意見に反して行動しました。
1929年1月、申請。3月、許可。7名の後援者、9名の入学者。

新渡戸先生=優しさ、知性、行動
新渡戸博士のユーモア=心のあたたかさ


講演 III 21世紀の新渡戸稲造 〜がん哲学外来の心得〜
樋野 興夫 先生(東京医療生活協同組合 新渡戸稲造記念センター長)

日頃の講演活動のご報告とご著書の紹介



新渡戸稲造記念センター開設、誠におめでとうございます。
お招きくださいました入江理事長様に感謝を申し上げます。

新渡戸記念中野総合病院のホームページは、こちら。


2019/07/30

「友愛・互助・平和」鳴門市賀川豊彦記念館

2019年7月14日(日曜日)
鳴門市 賀川豊彦記念館を訪問

鳴門市に滞在中のこの日、この地で育った賀川豊彦の記念館を
初めて訪問しました。
神戸で生まれた賀川は、幼くして両親と離れ、父の故郷である徳島で
4歳から16歳まで過ごしました。



同館の一階展示室は、大変充実しており、賀川豊彦の生い立ち、
賀川夫妻の功績をじっくり学ぶことができました。

賀川は、その生涯で多くの社会活動をおこないました。
その一つが、協同組合運動。日本初の医療利用組合の病院を
新渡戸博士と協力して設立しています。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.194~

東京医療生協中野総合病院(いまの新渡戸記念中野総合病院)です。
ウェブサイトは、こちら。

鳴門市賀川豊彦記念館の展示より

また、これまであまり知られていない「国際友和会」についての解説も。

鳴門市賀川豊彦記念館の展示より


展示解説によりますと、賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて』は、
当時、三部作合計で400万部を超えるベストセラーになり、
いまの価値にして10億円とも言われる印税収入も、
社会運動に当てられたそうです。

 三部作: 
 『死線を越えて』上巻 改造社(1920)
 「死線を越えて」中巻 『太陽を射るもの』 改造社(1921)
 「死線を越えて」下巻『壁の声きく時』改造社(1924)
そして、戦後は、世界平和を訴え、ガンジーやシュバイツアーと
並んで世界の三大偉人と呼ばれ、その活動はいまもさまざまな組織で
引き継がれています。

突然の訪問にも関わらず、お話をお聞かせくださいました副理事長の
武知忠義様に御礼を申し上げます。

賀川豊彦 1888年〜1960年

「友愛・互助・平和のために生涯を捧げ、
 ノーベル平和賞候補に4度、
 ノーベル文学賞候補に2度ノミネートされた偉人」
(同館 パンフレットより)

鳴門市賀川豊彦記念館のウェブサイトは、こちら。




2018/10/10

小泉八雲の文学とその背景

カルチャーラジオ 文学の世界
NHKラジオ第2毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時

文化講演会「小泉八雲の文学とその背景」

小泉八雲記念館館長、島根県立大学短期大学部名誉教授…小泉凡

小泉八雲さんのひ孫さん・小泉凡さんのお話が放送されている中、
第11回では、ボナ・フェラーズが取り上げられています。

『新渡戸稲造ものがたり』p.222~

新渡戸稲造博士の「精神的子孫(spiritual descendants)より

 日本は敗戦し、連合国の占領下になりました。連合国最高司令官
総司令部の最高司令官マッカーサーとともに、軍事秘書官ボナー・
F・フェラーズが来日しました。フェラーズはカーライルを学び、
稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神をよく理解して
いるクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の一色ゆり
(旧姓・渡辺)の友人でもありました。(引用終わり)

フェラーズは、河井道と一色ゆりの二人からの意見も参考にして、
報告書を作成し、天皇陛下を裁くのではなく、
日本国民の天皇陛下への尊敬心を、むしろ日本統治にいかすことを
提案したのです。
フェラーズは、戦前から、小泉八雲の著書を読み、日本人の精神性を
理解していました。そして、小泉家とも親交がありました。

小泉凡さんの「ボン」という名前は、ボナー・フェラーズの名前から
付けられています。
凡さんは、この回の最後に、
「人との出会い、書物との出会いが、歴史を作るときがある」
と述べています。

NHKラジオのホームページ(聞き逃しが聴けます)は、こちら。

2018/04/04

鈴木貫太郎と妻タカ夫人

『武士道』のその後
(『新渡戸稲造ものがたり』p.225より下記を引用)

第二次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト
大統領が亡くなると、鈴木貫太郎首相は、アメリカと戦争中にも
かかわらず、偉大な指導者を失ったアメリカ国民に対し、
日本を代表してすぐにお悔やみの電報を送り、
その全文がアメリカの新聞に載りました。
ドイツの作家で、当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは、
「ドイツでは、みんなが万歳、万歳と叫んでいるのに、
 日本はお悔やみの言葉を送ってきた。
 やはり、日本はサムライの国だ」
と語ったと言われています。敵の国に対するこのような態度に
よって、「武士道」の精神が国境を越えて、世界の人々に
感動を与えました。

(『新渡戸稲造ものがたり』第十三章 没後 稲造が遺したもの)
(引用終わり)

終戦時の難しい時期に首相を務めた鈴木貫太郎の妻たか夫人の父は、
新渡戸稲造と札幌農学校で同期生の足立元太郎です。

・鈴木たか
1883(明治16)年、札幌生まれ。戸籍名は「たか」。
(鈴木貫太郎は、「孝子」などと記述している場合がある)
父、足立元太郎は、札幌農学校卒業、農商務省横浜生糸研究所技師。
東京女子高等師範(いまのお茶の水女子大学)で幼児保育を学び、
同附属幼稚園の教師。
明治38年から大正4年までの10年間、裕仁(昭和天皇 4歳〜)、
秩父宮(3歳〜)の養育係。
1915(大正4)年、海軍次官鈴木貫太郎と結婚。

たか夫人が、幼稚園の教師だった時の教え子の祖父に菊池大麓(だいろく)
がいました。
菊池は、学習院院長、東京帝国大学総長、文部大臣、
枢密顧問官などを歴任、皇室と強いつながりがあり、その推薦で、
たかは、皇室の養育係となりました。

子どもの頃の昭和天皇と一緒に遊び、昭和天皇の誕生日には、
毎年呼ばれました。

1978(昭和53)年十二月、昭和天皇は、須崎御用邸での記者会見で、
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくしました。・・・」
と話されています。

鈴木貫太郎は、太平洋戦争の始まる前の1936(昭和11)年2月に起きた
二・二六事件で襲撃され、最後の一撃を制止させたのが、
たか夫人です。(当時、鈴木貫太郎は侍従長)
(この事件の前夜、鈴木貫太郎夫妻や斎藤實夫妻らは、アメリカのグルー大使に
招かれ、外出していました)
事件が起こったのは、その翌日の早朝のことでした。
鈴木貫太郎がピストルで何発か撃たれて倒れ、「トドメ、トドメ」の声が上がると、
銃剣とピストルを突きつけられていた夫人が、
「とどめはどうかやめていただきたい」
と叫び、入ってきた指揮官の安藤輝三(歩兵第三連隊の将校)が、
「トドメは残酷だからやめろ」
と命じました。かつて、秩父宮の直接の部下だった安藤は、
皇子たちの養育係だった、たか夫人の存在を知っていたようです。
指揮官は、たか夫人に、
「奥さんのことは、かねてお話に聞いておりました。
 まことにお気の毒なことをいたしました。
 ・・・ひまが(時間が)ありませんからこれで引き揚げます」
と言い残して、立ち去りました。
出血多量の重症を救った医師の一人、塩田広重東大教授を呼んだと
されているのが、町村金五(宮内大臣秘書官)。
町村の父、町村金弥もまた、足立元太郎(たか夫人の父)と札幌農学校で
同期でした。

鈴木首相夫妻は、二人とも昭和天皇に近い存在で、陛下から信頼されて
いました。
1945(昭和20)年、首相に任命された鈴木は、辞退すると、天皇陛下から
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時にあたってもう他に人は
いない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
と直接言われたことから、高齢(77歳)にもかかわらず
引き受けました。たか夫人は、夫の覚悟を知ります。

たか夫人は、嫁入りの時、日本刀を持参、
そして、戦後、鈴木首相の故郷の関町に隠居して、地域の農業振興を
支援しました。たか自身も酪農の知識があったようです。
札幌農学校で学んだ父、そして出身地北海道の影響でしょうか・・・。

鈴木貫太郎記念館の入り口にある「為萬世開太平」

鈴木貫太郎 肖像画

記念館の内部

鈴木貫太郎記念館 入り口付近

鈴木の父、由哲の教えは、
「人間は怒るものではないよ、怒るのは、自分の根性がたりないからだ。
 怒ってすることは、成功しない」。
母、きよの教えは、
「絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。
 これが親に対するなによりの孝行である」。

鈴木の教訓は、
『正直に 腹を立てずに たゆまず励め』

鈴木没後も、たか夫人は度々この教訓を書き残しました。
二・二六事件で命を狙われ、終戦に反対する勢力に家を焼かれた
鈴木夫妻が、それでも自らの境遇を受け入れ、祖国や天皇陛下への
忠誠心を常に強く持ち続けた生涯を思うと、
両親の教えと、この教訓が重く響きます。

参考資料:『妻と家族のみが知る宰相』保阪正康 毎日新聞社
     『昭和天皇の親代わり 鈴木貫太郎とたか夫人』若林滋 中西出版
      カルチャーラジオ NHKラジオ アーカイブス
      「声でつづる昭和人物史 鈴木貫太郎の妻たか夫人」

鈴木貫太郎記念館 訪問日 2018年1月7日(写真撮影)

2017/05/23

京都看護婦学校と佐伯理一郎

「同志社と看護学教育」
岡山 寧子(おかやま やすこ)
同志社女子大学看護部長
同志社女子大学看護学部教授

出典:下記(p.72-91)
『良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ起リ来ラン事ヲ』
Doshisha Spirit Week 講演集 2015
2017年3月15日
同志社大学キリスト教文化センター 発行

=====講演記録より、以下に抜粋、要約。

○「看護」という言葉=看る(みて)+ 護る(まもる)
=人類がこの世に誕生した時からあるもの

○看護専門職の登場=ナイチンゲールの看護教育

「看護は、患者の生命力の消耗を最小限にすること」
ナイチンゲール著『看護覚え書』

19世紀中頃、F.ナイチンゲールは、看護学校を設立
(いまのセント・トーマス病院、ロンドンの国会議事堂のテムズ川を
はさんで向かい側)
卒業生たちが世界各地で看護教育、看護の実践。
日本でも明治の初めに『看護覚え書』(当時は『看護の栞』)が紹介される。
1886年、京都看護婦学校で、ナイチンゲールに直接指導を受けたL.リチャーズに
よる看護教育が開始。
ナイチンゲールの看護思想は、看護の原点、つまり、医療の発展の中で、
なにを看護の対象にするか、「病気」を見るのではなく、「人」を見る。

○この新島襄の医療への志を継いだのが、(新渡戸博士の友人)佐伯理一郎医師。
『京都看護婦学校五十年史』(佐伯理一郎 著 1936年)

同志社主導の病院、学校は、新島没後、佐伯医師が管理者となる。
産科医でもあった佐伯医師は、産婆学校も設立。
佐伯医師の息子たちも医師になり、学校の運営に携わる。
両校は「佐伯の学校」と呼ばれ、戦後まで続く。

現在、同志社女子大学の看護学部において、京都看護婦学校の志が
引き継がれている。

=====以上で、抜粋終わり。

新渡戸博士は、アメリカ留学時、新島襄と出会っています。
新島先生は、新渡戸に同志社の教員になるよう誘いますが、
ついに実現しませんでした。
けれども、同志社の教育には協力し続けました。

また、佐伯理一郎医師とは、長年親交がありました。
新渡戸博士が亡くなる年に、新渡戸は同志社での講演のため京都に出向き、
また、新渡戸がカナダへ出発する二日前に佐伯は東京に訪ねてきています。
これが、45年間続いた親交の最後になるのです。
新渡戸が、生涯最後となる船旅へ出発した三日後、佐伯は長文の電報を
送っています。

その中にあった聖書の言葉の一節は、
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のような翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない」
(イザヤ書四十章三十一節より)
『新渡戸稲造ものがたり』p.210より

長年の二人の友情、そして、最後の力を振り絞って旅立つ友人に対する
佐伯医師の心情が伝わってくるようです。





2016/08/06

神谷美恵子さんのこと

2016年8月

読書メモ

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』
大谷 美和子 著 くもん出版 2012年12月

神谷美恵子氏(1914年〜1979年)は、皇后美智子様を精神的に
お支えした方として知られています。(旧姓は、前田)
新渡戸稲造博士の教え子の一人、前田多門氏のご長女です。

ご両親(前田多門・房子)のご縁をとりもったのも新渡戸博士です。
お母様は、普連土学園のご出身。

新渡戸博士が、国際連盟の事務次長としてジュネーブに在住していた
1923年、父・前田多門氏が国際労働機関(ILO)の日本代表として
ジュネーブに赴任。
幼かった子どもたちを連れて、ジュネーブにやってきました。
美恵子氏は、両親が慕う新渡戸博士にかわいがられ、
『武士道』のフランス語版をプレゼントされています。

伝記『新渡戸稲造ものがたり』では、
文字数(全体の文量)を少なくするために、やむを得ず、
神谷美恵子氏についての記述も、当初の原稿から削らなければ
なりませんでした。
けれども、『新渡戸稲造ものがたり』を読んでくださった知人の中に
神谷美恵子氏の教え子や、大きな影響を受けた方がいらっしゃること
がわかり、嬉しい驚きでした。

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』は、
神谷美恵子氏の生涯がわかりやすくまとめられた一冊。
神谷美恵子氏が、結婚前にペンドル・ヒル(アメリカ・ペンシルベニア州)
で過ごしたことを知りました。
ペンドル・ヒルは、クエーカーの人々が学ぶ学寮。
ここで、彼女は世界中からやってきた人々から感化を受け、
将来の自分の歩む道を模索した時期を過ごしたようです。
彼女もまた、クエーカーの信仰に影響を受けた一人といえるかもしれません。

彼女の代表的な著書『生きがいについて』を
あらためてじっくりと読んでみたいと思っています。

2016/06/01

講座「新渡戸稲造ものがたり」(鎌倉市)

2016年5月 鎌倉市生涯学習推進委員会

鎌倉市の大船学習センターにて、下記のような連続講座をさせていただきました。
大変学び多い4日間になりました。
関係者の皆様、聴講くださいました皆様、本当にありがとうございました。



 〈 新渡戸 稲造 〉 全四回 大船学習センター

「新渡戸稲造ものがたり
 〜真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける〜」

 ① 5月10日(火曜日)  ② 5月17日(火曜日) 
 ③ 5月24日(火曜日)  ④ 5月31日(火曜日)
 各10時〜12時


第一回 2016年5月10日(火曜日)

はじめに
 ・自己紹介
 ・伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

1 わんぱくな幼少時代
 
 ・武士の家に生まれた少年、稲之助
 ・祖父と父の開拓者精神(フロンティア・スピリット)
 ・近所でも有名なわんぱく坊や
 ・父がなくなる
 ・武士の時代の終わり 戊辰戦争
 ・西洋、英語との出会い

2 親元を離れて東京へ

 ・明治時代の東京
 ・本格的な英語の勉強と講談による人生勉強
 ・人生を決めたできごと

3 「ボーイズ ビー アンビシャス!」クラーク博士 
   札幌農学校(現在の北海道大学)

 ・クラーク精神「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」
 ・キリスト教の洗礼を受ける
 ・悲しみの帰郷
 ・生涯の友人、愛読書に出会う

4 「太平洋の橋になりたい」東京大学

 ・「われ、太平洋の橋とならん」


第二回 2016年5月17日(火曜日)


5 アメリカ、ドイツ留学と結婚

 ・アメリカ留学と学友ウィルソン
 ・クエーカーになる/モリス家に集った日本人留学生たち
 ・メアリーとの出会いと結婚
 
6 母校 札幌農学校教授と遠友夜学校

 ・遠益(トーマス)の誕生
 ・新渡戸夫妻の夢「遠友夜学校」

7 世界的な名著『武士道』

8 台湾の発展に尽くして

 ・後藤新平との出会い

9 旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長

 ・ソシアリティー(社会性)の大切さ
 ・専門センス(専門的知識)よりコモンセンス(常識)
 ・日米交換教授


第三回 2016年5月24日(火曜日)

10 東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長

 ・東京帝国大学 植民地政策講座
 ・日本人道会 動物愛護運動
 ・銀婚式 新しい決心
 ・拓殖大学 学監就任と後藤新平学長とのコンビ復活
 ・東京女子大学の建学 初代学長に就任
 ・農人形
 ・軽井沢夏期大学

11 国際連盟事務次長

 ・かつての学友 ウィルソン大統領が提唱した世界で初めての国際平和機構
 ・国際連盟の輝ける星
 ・国際領土問題を解決「新渡戸裁定」
 ・国際知的協力委員会(ユネスコの土台作り)
 ・ジュネーブの「日本の家」

12 晩年の生き方
 ・平和の使徒として 
 ・太平洋問題調査会(IPR)と最後の旅


第四回 2016年5月31日(火曜日)

13 没後 新渡戸博士が遺したもの

 ・メアリーの晩年
 ・「遠友夜学校」の閉校と現在
 ・教え子たち「稲造の精神的子孫」
 ・『武士道』のその後
 ・カナダの新渡戸記念公園
 ・皇室とクエーカー
 ・諸宗教の根底にあるもの

14 鎌倉と新渡戸稲造博士

 ・別荘跡(稲村ケ崎)とその周辺
 ・母の五十回忌法要
 
15 一人の人物の生涯から学ぶ

 ・ノンフィクション
 ・「伝記」=もう一つの人生
 ・伝記の効用と歴史の学び
 ・「出会い」






2016/05/25

拓殖大学グローバル ファシリテーター育成塾

2016年5月21日(土曜日)
拓殖大学 文京キャンパス
グローバル ファシリテーター育成塾

今年度も新渡戸稲造先生(拓殖大学第二代学監)について
お話をさせていただきました。
さすがに選抜された意欲あふれる学生さんたちです。
今後の活躍を期待しています。
貴重な機会をいただき、ありがとうございました。










2015/05/24

『新渡戸稲造ものがたり』重版

おかげさまで、伝記『新渡戸稲造ものがたり』が重版に
なりました(3刷)。
今年度から新しくなった小学校の国語の教科書で紹介され、
また、今年は、
第48回岩手読書感想文コンクール課題図書に選定されています。
新渡戸博士の出身地、岩手県の子どもたちに広く新渡戸博士の
生涯が紹介できる機会になるよう期待しています。

重版に際し、関係者の方々にご協力いただきました。
ありがとうございました。
心より御礼を申し上げます。

【2012年 新渡戸稲造博士 生誕150年 記念出版】

ジュニアノンフィクションシリーズ
『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、
 昭和をかけぬける』

発行 銀の鈴社 (神奈川県鎌倉市)

日本図書館協会 選定
全国学校図書館協議会 選定
学校図書館図書整備協会 選定
国連が定める「2012国際協同組合年(IYC)」認定図書


2015/04/19

拓殖大学グローバルファシリテーター育成塾 開講式

2015年4月17日(金)11:00〜
拓殖大学 八王子国際キャンパス A 館5階 A524教室

平成27年度 拓殖大学グローバルファシリテーター育成塾
〜新渡戸稲造に学ぶフローバル人材〜

第1期(前期)の開講式に伺いました。
八王子の校舎に伺うのは初めてです。
高尾駅から専用バスで10分ほど、広々とした緑豊かなキャンパスです。

開講式(司会:石川一喜 国際学部准教授)
挨拶    甲斐信好 国際開発研究所長
塾生紹介  赤石和則 国際開発教育センター長
基調講演  渡辺利夫 総長

今年度の育成塾は、選考を経た18名の学生さんたちが揃いました。
石川先生が、今日の開講式に先がけて「宿題」を出していました。
このコースに望むことを表わす漢字一字を選んでくることが宿題でした。
初日にその一字について、各自が発表して、楽しみながら自己紹介も。
初めての顔合わせの日でしたが、すぐにコミュニケーションが始まりました。

育成塾の「塾」には、理念があることを示してるいること。
日本の労働運動の父でもある新渡戸博士は、理念を基に行動することの
大切さを伝えた、元祖ファシリテーターでもある。

この育成塾で大切にすることは、
1 主体的に関わる
2 出会いをつくる
3 違っているものをもつ人から引き出す/学び合う

などのお話を伺いました。

続いて、渡辺総長の講演では、
グローバルということ(globe, global)
異文化理解/ツールとしての言語の大切さ
international = inter+national
(nationalistでなければ、internationalistにはなれない)

などのお話がありました。



最後にお弁当をいただきながらのランチタイムも
ご一緒させていただきました。
学生さんたちの前向きな姿勢が印象的でした。

最後に、小著『新渡戸稲造ものがたり』(拓殖大学オリジナル表紙版)が、
大学より一人一人に配布されました。
読んでいただけたら嬉しいです。

私も共に学ぶ機会になり、また、直接学生さんたちと
お話させていただき、ありがとうございました。
諸先生に御礼を申し上げます。


2015/04/08

台湾 李登輝 元総統を訪ねて

2015年3月18日(水)李登輝 元総統の事務所へ

このたびの台湾訪問を機に、李登輝 元総統に、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』を寄贈させていただきました。
李登輝氏は、日本でも多くの著書があります。
新渡戸博士からも大きな影響を受けていらっしゃることは、
ご著書の中などでも紹介されています。
ご著書『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージとは』では、
日本人の思想について、書かれています。

この日はちょうど、日本から岡山学芸館高等学校の生徒さんたちが
李登輝氏のご講演を聴くために来訪されました。
同校の参与 森美智子様はじめ、高校生39名(1〜3年生の希望者)の
みなさまと一緒に聴講させていただきました。

演題は、「日本と台湾のこれまでの歴史と私が受けた教育」

日本の若者たちのために、熱意あるお話をされました。
日本が台湾を統治していた(台湾が日本の一部であった)時代に
生まれ育った李登輝氏は、日本の教育から多くの知識を得て、
人格を形成されました。
新渡戸博士も大変な読書家で知られていますが、
「児童百科事典」(小学館)や800冊の岩波文庫を読破されるなど、
李登輝氏も若いころから本当に多くの本を読まれていることに
驚かされました。



生徒さんから、「グローバルな人材になるためには、
どうしたらいいでしょうか」という質問を受けると、すぐに、
「とにかく勉強する。聞いたこと、書いてあることではなく
自分で実際に本物を見ることが大切」とお答えになっていました。

私にとっても学び多いお話を聞かせていただきました。
このたびの貴重な機会をご提供くださいました関係者の皆様に
感謝申し上げます。

学校法人 森教育学園 岡山学芸館高校は、平成25年12月、
許文龍氏が制作された「新渡戸稲造博士の胸像」を、
同氏より寄贈されました。
同校では、新渡戸博士のご著書『武士道』を必読書に指定されて
いるそうです。国際教育にも大変熱心な学校です。

同校のホームページは、こちら。


台湾 日本人学校を訪問

2015年3月16日(月)13時 台湾の日本人学校

台北市内や近郊に住む日本人の子どもたちが多く通っている
日本人学校(Taipei Japanese School)を訪ねました。
台北の中心からMRT(電車)淡水信義線で15分程度、
「芝山(Zinshan)」駅から歩いて20分ほどのところです。
通りを隔てた隣には、アメリカン・スクールがあります。


表札は、李登輝元総統の筆を元にしたもの。
守衛の方に、面会の約束があることを伝え、校内に入れていただきました。




応接室で、校長先生と教頭先生にお目にかかりました。
この日本人学校には、台北在住の日本人の子どものうち約80%が
通っているそうです。
(残りの約20%は、現地校やアメリカン・スクールに登校。)

小学生と中学生の9学年、820名もの生徒が在校しています。
在校期間は、平均して3年から5,6年間。
保護者の転勤による転入があるそうです。

日本の文部科学省から派遣されている教職員は現在27名、
3年周期で異動します。
台湾で現地採用されている職員は、28名。




校長先生、教頭先生のお話によりますと、
子どもたちは、文部科学省で定められている教育課程に加え、
英語、中国語を学びます。
台湾については、「台湾を学ぶ」という総合学習の中で学ぶことに
なっているそうです。
小学校6年生で、八田輿一博士について学び、
修学旅行で八田記念公園を訪れます。

2013年5月24日には、李登輝元総統が、同校にて講演をされました。
後藤新平伯についてなどを話されたようです。
この時の揮毫を元に正門の表札が作成されました。





『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、昭和を
かけぬける』を同校に寄贈させていただきました。
日本の先人たちが台湾でどのような功績を残されたのか、
台湾にご縁のある日本の子どもたちが、その一端を知り、また、
先人の生き方から、「真の国際人」について考えるきっかけにして
いただければ、と願っています。

同書は、図書室に置いてくださるそうです。
お役に立てていただければ幸いです。

台北日本人学校 図書室

ちょうど春休み中で、子どもたちの姿を見ることはできませんでしたが、
教頭先生が、図書室など校内をご案内くださいました。




春休み期間中にもかかわらず、お迎えくださりありがとうございました。
亀山佳久校長先生、居原田晃教頭先生、
両先生にあらためて御礼を申し上げます。

2015/04/02

台湾 児玉源太郎と後藤新平の銅像

2015年3月14日(土)国立台湾博物館(台北)

台北の国立台湾博物館(National Taiwan Museum)を訪問しました。
この博物館は、1905年、「児玉総督 後藤民政長官 記念博物館」として
建設されました。
新渡戸稲造博士が、児玉源太郎総督と後藤新平民政長官の依頼で
台湾の糖業発展に尽くしたのが、1901年〜1903年ごろですので、
ちょうど同時代です。
現在の建物は、1915年の建造で、台湾国内で最も歴史ある建物の一つです。
完成当時の建物の写真は、こちら。


正面玄関を入ると、大きなエントランスロビーがあり、天井には、
美しいステンドグラスが見えます。
児玉家と後藤家の家紋をデザインしたステンドグラスとのことでした。







このエントランスロビーの両側には、かつて、児玉総督と後藤民政長官の像が
それぞれ設置されていたそうです。
現在は、代わりに大壺が飾られています。



日本の統治時代が終わると、この二人の像は、ここから撤去されました。
長い年月を経て、現在、同館の三階に再び展示されています。
通常は非公開の銅像を特別に見学させていただきました。

向かって左に児玉総督、右に後藤民政長官の像

児玉源太郎の像



後藤新平の像

制作は、彫刻家の新海竹太郎(1868年〜1927年)。
忠実に表現された作品で、後藤新平伯のトレードマーク「鼻眼鏡」の跡も
確認できます。

1900年1月、アメリカで『武士道』を出版したばかりの新渡戸博士は、
児玉総督と後藤新平民政長官の熱心な依頼を受け、
1901年、両氏の下で働き、台湾の農業発展に尽くす決意をし、
後藤新平と運命的な出会いをします。新渡戸博士、39歳。

(『新渡戸稲造ものがたり』p.114〜p.124 
  第八章 台湾の砂糖産業と植民地政策)

初めて海外勤務を経験し、児玉総督や後藤民政長官から多くを学び、
自分の専門とする農学の分野で大きな実績を残したことは、
まだ若かった新渡戸博士にとって、大きなステップになったと思われます。

同郷の後藤新平伯とは、このあと、生涯を通じて、師弟、または、
兄弟のような親しい関係が続き、後藤伯の外遊にも同行します。
そして、数年後、後藤伯とパリを訪れていた時に、国際連盟の事務次長の
就任が決まるのです。

この台湾時代が大きな転機になったといえるのではないでしょうか。


同館の初代館長、川上 瀧彌(かわかみ たきや 1971年〜1915年)も
札幌農学校の出身で、北海道のマリモ研究で知られる植物学者。
開館に向けて奔走し、開館の翌日に若くして病死しています。

同館の一階には、台湾の少数民族についての興味深い展示もあります。


台湾 八田輿一技師と恩師の広井勇博士

2015年3月10日 八田輿一(はった よいち)記念公園(台湾)

台南の奇美博物館をあとにして、
八田輿一記念公園(台南市官田区)に向かいました。


八田輿一技師(1886年〜1942年)は、日本が台湾を統治していた時代
(1895年〜1945年の50年間)、台湾の発展に貢献した日本人の一人。

八田輿一夫妻

八田輿一技師は、東京帝国大学工学科土木科を卒業すると同時に
台湾に渡り、台湾総督府の土木技師として勤務されました。
当時の台湾は、現在のようなインフラが整備されていない時代でした。
数々の水利事業を手がけた八田技師は、後に烏山頭(うざんとう)ダムの
建設地点となる土地を発見します。
ここに大規模な灌漑/排水工事をおこない、灌漑/塩害の問題を解決する
ことを提案。工事が決まると、業務全般の責任者となりました。

この堰堤工事は、当時、東洋一の大規模なもので、官僚によって
計画されましたが、施行/運営は、民間形式が取られ、
八田技師は、建設工事に専念するため、総督府の職員を辞任しました。
それだけ真摯にこの事業にかける強い思いがあったのです。

堰堤の建造は、「セミ・ハイドロック工法」により、コンクリートを
中芯部の一部に使うだけで、大部分は、玉石、砂利などを混合した
土壌を使用するなど、特別な工法によるものでした。

途中、関東大震災による補助金の削減など、大変な苦労を乗り越え、
見事なダムが完成し、現在に続く、農業の発展につながったのです。

現在も美しく広大な貯水湖(2015年3月10日 撮影)
十年の歳月と巨額の工事費(当時の約五千四百万円)をかけて、1930(昭和5)年、
大規模な烏山頭ダム(通称:八田ダム)の貯水湖が完成しました。

ほかに建設された同時代の大規模ダムが、土砂の堆積で使えなくなっている中、
この貯水湖は、砂防対策が取られていたため、現在も、豊かな水量を保って
いるのだそうです。
烏山頭ダムの建設で、嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯になりました。

やがて戦争が始まり、八田技師は、大洋丸に乗船中の1942(昭和17)年
5月8日、アメリカの潜水艦に撃沈され、亡くなりました。
57歳でした。

遺骸は、付近で操業中だった山口県からの漁船の網にかかり収容され、
故郷で火葬された後、遺骨は、台湾に残されていた遺族の元に送られました。

戦争が激化すると、夫人の外代樹さんは烏山頭を疎開地に選んで、
子どもたちと疎開。
敗戦後、台湾の日本人は台湾から去らなければならなくなり、
ご子息が学徒動員から戻ると、夫人は、夫が築いた烏山頭ダムの
送水口から身を投げて、自らの生涯を閉じたのです。45歳でした。


送水口
現在、送水口の近くに「八田技師記念室」があり、展示によって、
その功績が紹介されています。



八田技師の銅像が、記念公園内の高台にあります。
ダム完成後、1931(昭和6)年7月に設置されました。
第二次世界大戦の末期に、金属回収されましたが、終戦直後、
倉庫で発見され、1981(昭和56)年1月1日、再び元の位置に戻されました。

八田輿一技師の銅像と八田夫妻のお墓(後方)



八田技師が亡くなった命日には追悼式、そして、
この大事業がおこなわれた十年間に事故や病気で命を落とした
従業員やその家族の慰霊祭が、いまでもおこなわれているそうです。

記念公園内では、八田宅(復元)も公開されています。




八田技師の家族写真


八田技師は、広井勇博士の教え子の一人です。
広井勇博士(1962年〜1928年)は、
新渡戸稲造博士と札幌農学校で同期生、同じ歳です。
幼い時に父が亡くなり、その後、「東京に出て勉強したい」と
わずか10歳で家族に懇願、札幌農学校を卒業すると、
私費でアメリカに留学するなど、新渡戸博士と境遇が似ています。

新渡戸と広井の両博士は、アメリカ留学中に、先輩 佐藤昌介の計らいで、
札幌農学校の助教に任命され、ドイツへ官費留学しています。
アメリカでもドイツでも交流は続き、新渡戸稲造青年が、
アメリカ人女性メアリーとの結婚に悩み相談した時、
広井は、佐伯理一郎とともに、その国際結婚に賛成しています。
新渡戸博士は農学、広井博士は工学の専門家になり、
留学後は、母校 札幌農学校の教育にも尽力しました。

広井勇博士は、小樽港の築港に従事し、いまでも使われている
長大なコンクリート製の防波堤を完成させました。

その後、東京帝国大学の教授になり、八田輿一、
青山士(あおやまあきら=パナマ運河建設に関わった唯一の日本人技師)ら
優秀な人材を育てました。

学生時代の八田輿一と当時の東京帝国大学工学部(展示資料より)

「高潔無私」の人、広井勇。その愛弟子、八田技師もまた、
人々のためにその生涯を捧げたのです。

尚、八田輿一技師は、映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」にも
登場しています。映画についての記事は、こちらへ。

参考:
八田記念公園配布資料/展示
『日本のオールターナティブ』藤田正一 著 (銀の鈴社 2013年)
『新渡戸稲造事典』佐藤全弘・藤井茂 共著 (教文館 2013年)
『新渡戸稲造ものがたり』 (銀の鈴社 2012 年)



2014/10/14

東京医療生活協同組合 中野総合病院を訪問

2014年10月9日(木曜日)
東京医療生活協同組合 中野総合病院を訪問し、
池澤康郎 理事長様、入江徹也 副院長様にお目にかかりました。



中野総合病院(東京都中野区)は、

「新渡戸博士が、東京医療利用組合の初代組合長として設立に尽力し、
1932(昭和7)年に認可された、日本で初めての組合病院です。
当時は、まだ医療制度が不十分で、医療費は驚くほど高額、
病気の治療を受けられる人は限られていました。
稲造たちが提案した協同組合の病院は、多くの人々がお金を出し合って設立し、
治療を受ける人の負担をできるだけ少なくしました。(中略)
その後は、全国各地で医療組合の活動がさかんになり、
多くの人々が、安心して医療を受けられるようになりました。
これは、現在の保険医療の制度につながっていきました。」
(『新渡戸稲造ものがたり』p.194〜より抜粋)

現在も、地域の医療に大きく貢献している総合病院です。
池澤理事長と入江副院長は、この病院の設立精神をいま一度確認し、
今後の病院経営と改革に挑んでいくと、その意気込みを語ってくださいました。

病院訪問に先立ち、入江副院長様が、下記のようなメールをくださり、
感激してしまいました。
ご本人の許可を得て、その一部を紹介させていただきます。

(入江先生からのお便り)

御著書から多くを学ばせて頂きました。
児玉源太郎、後藤新平との出会い、藤沼庄平による東京医療利用組合の認可等、
大変勉強になりました。

お会いした時にもお話ししましたが、
最後のページの”読書のみなさんへ”と最後の段落の
「この世に生まれた大きな目的は、人のために尽くすことにある。
自分の名誉や利益のためではない。自分が生まれた時からこの世を去るまで、
まわりの人々が少しでもよくなれば、それで生まれた甲斐があるというものである」
という新渡戸稲造博士のメッセージに感激した次第です。

今日も病院の若い事務職員に
”武士道を読もうよ。それと新渡戸稲造物語は読んだ方が良い”と
話したところでした。

私は昨年8月に副院長になり、初めて病院の歴史に向き合うことになりました。
それまでは、日常臨床にのみ専念し、
病院の存在意義に目を向けてはいなかったと思います。
当院の設立に新渡戸博士が関わっていたことは薄々は知っていたのですが、
今の立場になり初めて意識しました。
まず、武士道を読み、圧倒されて、それから順天堂の樋野興夫先生と
同じ道を辿っているところです。
内村鑑三、矢内原忠雄、を読み、今は南原繁を調べ始めようと
しているところです。

現在医療の現場は非常に厳しい状況です。
大学病院やセンター病院は世界に誇るレベルを目指しているのですが、
それ以外は、将来、療養病院や、
”急性期患者を診てもよい地域の病院”(主体は療養病院)だけになるのではという状況です。
大学病院の対象にならない”普通の”病気になった人が、
高いレベルの医療を受けられなくなってしまう可能性があります。

今こそ、新渡戸博士が創立した、営利を目的としない、貧しい人でも診療を受けられる、
東京医療生活協同組合(東京医療利用組合)が頑張らねばならないと
決意を新たにしているところです。

御著書に出会い本当に感謝しております。

(入江先生からのお便りは、ここまで)

また、池澤理事長は、「病跡学と新渡戸稲造博士」についての興味深いお話も

してくださいました。

「病跡学(Pathography)」とは、突出した人物の生涯や業績を、
精神医学や心理学で分析/研究する学問で、
ゲーテなども有名な事例としてよく語られるようです。
興味津々で聞き入りました。これから詳しく調べてみたいと思っています。

最後に、病院内の新渡戸稲造初代組合長の紹介プレートなどをご案内くださいました。






お忙しい中、ありがとうございました。
入江 副院長様、池澤 理事長様に、あらためて御礼を申し上げます。





中野総合病院のホームページは、こちら。