・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2021/06/21

最短の在任、最大の業績 『石橋湛山の65日』保阪正康・著

2021年6月21日

ノンフィクション作家で「昭和史を語り継ぐ会」を主宰されている

保阪正康氏の近刊を拝読しました。

戦後の一時期、首相を務めた石橋湛山は、新渡戸稲造の母校・札幌農学校

(いまの北海道大学)の第一期生・大島正健先生から影響を受けました。

山梨の第一中学校(いまの県立甲府第一高等学校)在学中、

校長先生として赴任してきたのが大島先生。

札幌農学校の流れは、 大島校長から石橋湛山にも受け継がれたのではないか。

山梨には、石橋湛山による書「Boys, be ambitious!」が残っています。

石橋湛山と大島正健についての過去の記事は、こちら


著者は、『石橋湛山の65日』の中で、現在のコロナ禍を生きる私たちの状況を、

「民主主義の体制が崩壊して、自由が制限された社会で生きていることを

想像しただけでも息が詰まる。こういう時代が来ないように、日々、

現在のコロナ禍の社会から何がしかの教訓を学ばなければならないと、私は思う」。

と述べ、関東大震災後の石橋首相の記事を引用している。↓


(ここからは『石橋湛山の65日』p.295~ 引用)   


『東洋経済新報』(大正12年10月1日号)の社説

「此経験を科学化せよ」

とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまう

と指摘した上で、次のように書くのである。

「我輩の見る所に依れば、今の我国民は、全体として、

斯かる場合に甚だ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(ひっきょう=結局)、

日本国民は、わっと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いて善く考え、

共同して静かに秩序を立て、地味の仕事をすることには不適任である。(中略)

我国は、今回の災害に依り、あらゆる方面に人為の更に大に改良すべきものを発見する。

と同時に此災害は、随分苦き経験であったが、併し之を善用すれば、所謂、

禍を転じて福となすの道は多いのである」

 この経験を「科学化(データの整理や予防策など)」して将来に残さなければ

ならない、とも強調している。さらに「亡びゆく国民なら知らぬこと、いやしくも

伸びる力を持つ国民が、これくらいの災害で意気阻喪しては貯まるものではない」

とも断言している。

・・・(中略)

国家がコロナ禍に対応し、個人が人生観を懸けてコロナ禍と向き合っている時、

石橋の思想や言論がもっとも価値があり、頼りがいがあると私は考えている。


本書でも繰り返しているが、石橋は首相としての在任がわずか六十五日である。

近代日本史の上では最短に近い。しかし私は、「最短の在任、最大の業績」

思っている。

・・・(中略)

石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性

教えた。首相が何を目指し、どのような方向に、この国を率いていくのか、

そのことを国民は知る権利がある。それは首相を目指す政治家が日頃から信念を

発信する姿勢を持たなければならないということだ。

石橋を範とせよ、と強調しておきたいのである。


(巻末の石橋湛山略年譜より主に鎌倉関連を抜粋)

明治17(1884)年、東京都生まれ

明治34(1901)年、大島生健が山梨県立第一中学校の校長として赴任

明治35,36年、旧制第一高等学校の受験に不合格

      <筆者注:新渡戸は、のちに同校校長を務める。

           岩波茂雄は、明治34~37年、旧制一高に在学>

明治37(1904)年、早稲田大学文学部哲学科に入学

大正8(1919)年、鎌倉町海岸通りに転居

大正11(1922)年、鎌倉町大町蔵屋敷705番地に転居

        <筆者注:現在の御成町20番地。御成小学校とその付近>

大正12(1923)年、関東大震災により居宅被災

         鎌倉臨時復興委員会委員を委嘱

大正13(1924)年、湘南倶楽部(信用購買利用組合)の設立に参画し、

         常務理事に選任。

         鎌倉町長会議員選挙において第三位で当選。

昭和3(1928)年、任期満了で辞任。

昭和16(1941)年、東洋経済新社の代表取締社長に就任

昭和21(1946)年、衆議院選挙で落選、第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任

昭和22(1947)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

         公職追放令、新宿区下落合4-1712に転居

昭和26(1951)年、公職追放解除

昭和27(1952)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

昭和29(1954)年、第一次鳩山内閣で通商産業大臣

昭和31(1956)年、石橋湛山内閣成立

昭和32(1957)年、石橋湛山内閣総辞職

昭和33(1958)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

昭和36(1961)年、日中米ソ平和同盟案を発表

昭和48(1973)年、自宅にて死去。88歳

(引用終わり)


このほか、『石橋湛山の65日』には、興味深い、政治の舞台裏も描かれています。

著者の保阪氏も繰り返し述べていますが、もし石橋首相が病に倒れることなく

続投していたら・・・。

いまにつながる政治体制、さらには、国民の政治に対する姿勢までもが

違っていたのではないだろうか。そんなことも考えさせられました。




2020/03/07

新渡戸夫人と鈴木大拙夫人の動物愛護運動

新渡戸夫人のメアリーさんが、日本で動物愛護運動をおこなったことは、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』でも紹介しました。

以下、同書からの引用ーーーーーー

p.147
日本人道会(Japan Humane Society)動物愛護運動
1915(大正4)年、日本で動物愛護運動の先駆けとなった日本人同会が
生まれました。稲造とメアリーは発起人になり、小日向の自宅で
会合を開きました。動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、
当時の皇后陛下から活動資金が下賜されました。
活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど
日本に住む外国人が中心で、欧米式の動物愛護精神を日本に広める
という大きな役割がありました。(中略)
当時の日本には、動物を生きものとして扱うという考え方が
まだ広くゆきわたっていなかったからです。
「動物愛は、人類愛の延長である。・・・・・」
と稲造は書いています。

p.148 注
日本人道会(大正五年十一月〜大正六年十月)の幹事
名誉会長  鍋島直人
名誉副会長 後藤新平
理事長   新渡戸萬里子(新渡戸夫人)
専務理事  廣井辰太郎
理事    田島道治
理事    前田多門
理事    鶴見祐輔 ほか

ーーーーー以上、引用終わり

一方、鈴木大拙夫人のビアトリス(Beatrice Lane Suzuki)も
動物の保護活動に精力を注いでいたことがわかっています。
ビアトリス夫人は、北鎌倉の円覚寺正伝庵に、犬猫のための保護施設を
設けていたこと、鎌倉には、新渡戸夫妻も別荘を構えていたことから、
この二人のアメリカ人女性に接点はなかったのでしょうか。

この疑問の答えを探して、数年前に東慶寺で井上住職様(故人)に
相談したことがありました。
井上住職様は、ビアトリス夫人と動物の世話にあたっていた
「関口この」さんという方のご関係者にも照会してくださいましたが、
残念ながら、詳細についてはわかりませんでした。

このたび、松ヶ岡文庫年報の最新刊で、
「鈴木ビアトリスと動物たち 〜松ヶ岡文庫所蔵資料に見る〜」
(日沖直子)が掲載されました。

その論文の中で、次のように書かれています。



円覚寺の敷地内に場所を借り、バーネット夫人や日本人道会の
援助を受けて、捨てられた犬や猫を保護する「バーネット記念動物保護
慈悲園」(Barnett Mercy Animal Shelter、以下慈悲園)が開設されたのである。

(中略)

一般に、日本の動物愛護運動の黎明期においては、日本人男性主導の
動物愛護会と、外国人女性主導の日本人道会の2つの流れがあったことが
先行研究によって指摘されている。前者のメンバーには、牧師出身の
リーダー、広井辰太郎とともに、ユニテリアンや仏教改革派の論者が
多く含まれていた。後者は、形の上では鍋島侯爵などを会長に据えつつ、
実際にはバーネット夫人や新渡戸夫人などアメリカ人女性が中心となって
活動したグループであり、キリスト教的背景を伴っていた。

(ビアトリスは、日本人同会に援助を受けながらも、両者にとらわれない
 自由な活動を展開、関口このと二人三脚で実務をこなし、慈善家として
 知られていた九条男爵夫人武子や国際的人道家のアルベルト・シュバイツアー
 の行き方を鑑み、やがて仏教的な自然観と生物観を模索)
(慈悲園は、特定の団体に属さない独立した施設であり、それゆえ
 資金面での問題が深刻であったようだ)

以上、引用、抜粋ーーーー

慈悲園を支援した寄付者リストには、新渡戸夫人の名前もあるようで、
この両夫人の接点、そして、日本における動物愛護にかける共通の
思いがあったことが伺えます。
鈴木大拙や新渡戸稲造を含んだ個人的な関わりがあったかどうかは
わかりませんが、これまで気になっていたことが少し判明しました。
また、当時の国内外の動物愛護運動のこともわかりました。

鈴木大拙は、動物愛護がビアトリスの業績の重要な一部分を占めていたと
考えていたようです。『青蓮仏教小観』の「はしがきと思ひ出」ほか







2016/10/04

市民のための「新渡戸教室」 花巻新渡戸記念館

2016年10月1日(土曜日)
10時30分〜
花巻市立 花巻新渡戸記念館

市民のための「新渡戸教室」
「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」 柴崎 由紀

朝一番の新幹線で、東京駅から新花巻駅に向かいました。
東京は小雨の降るお天気でしたが、東北に近づくにつれて
空が高くなり、すっきりした青空の広がる新花巻駅に到着。
この日は、国体の初日。46年ぶりの岩手県での開催です。
天皇皇后両陛下も、すでに花巻にご滞在中です。

新渡戸稲造博士のご先祖の地 花巻の花巻新渡戸記念館にお招きいただき、
下記のような内容のお話を準備しました。

1 はじめに(自己紹介)

     伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

        ・ルーズベルト大統領からの贈物「時計」(花巻新渡戸記念館で展示)
   と 鎌倉の河野家についてご紹介

2 小さな旅へご案内
     「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」
  アメリカ・イギリス(ロンドン)・スイス(ジュネーブ)・カナダ
  ~ 非公開資料と取材裏話 ~

  ・約50枚の写真をご覧いただきながら、小さな旅へご案内

3 一人の人物の生涯を通じて学ぶこと
  日本の子どもたち/若者たちへの思い

4    新渡戸稲造夫妻と山室軍平・山室機恵子(花巻出身)夫妻

5 質疑応答(Q&A)

この日は、宗徧流のお茶の先生がたが、お茶席をご用意くださり、
来館者さんたちは、お菓子とお茶も楽しみました。

晴天の休日、そして、国体開会式の日にもかかわらず、お参加いただきました
市民の方々、嶽間澤 茂 館長様、菊池喜一 副館長様をはじめ、ご関係者の皆様に
心より御礼を申し上げます。

2016/06/01

講座「新渡戸稲造ものがたり」(鎌倉市)

2016年5月 鎌倉市生涯学習推進委員会

鎌倉市の大船学習センターにて、下記のような連続講座をさせていただきました。
大変学び多い4日間になりました。
関係者の皆様、聴講くださいました皆様、本当にありがとうございました。



 〈 新渡戸 稲造 〉 全四回 大船学習センター

「新渡戸稲造ものがたり
 〜真の国際人 江戸、明治、大正、昭和をかけぬける〜」

 ① 5月10日(火曜日)  ② 5月17日(火曜日) 
 ③ 5月24日(火曜日)  ④ 5月31日(火曜日)
 各10時〜12時


第一回 2016年5月10日(火曜日)

はじめに
 ・自己紹介
 ・伝記『新渡戸稲造ものがたり』ができるまで

1 わんぱくな幼少時代
 
 ・武士の家に生まれた少年、稲之助
 ・祖父と父の開拓者精神(フロンティア・スピリット)
 ・近所でも有名なわんぱく坊や
 ・父がなくなる
 ・武士の時代の終わり 戊辰戦争
 ・西洋、英語との出会い

2 親元を離れて東京へ

 ・明治時代の東京
 ・本格的な英語の勉強と講談による人生勉強
 ・人生を決めたできごと

3 「ボーイズ ビー アンビシャス!」クラーク博士 
   札幌農学校(現在の北海道大学)

 ・クラーク精神「ビー・ジェントルマン(紳士たれ)」
 ・キリスト教の洗礼を受ける
 ・悲しみの帰郷
 ・生涯の友人、愛読書に出会う

4 「太平洋の橋になりたい」東京大学

 ・「われ、太平洋の橋とならん」


第二回 2016年5月17日(火曜日)


5 アメリカ、ドイツ留学と結婚

 ・アメリカ留学と学友ウィルソン
 ・クエーカーになる/モリス家に集った日本人留学生たち
 ・メアリーとの出会いと結婚
 
6 母校 札幌農学校教授と遠友夜学校

 ・遠益(トーマス)の誕生
 ・新渡戸夫妻の夢「遠友夜学校」

7 世界的な名著『武士道』

8 台湾の発展に尽くして

 ・後藤新平との出会い

9 旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長

 ・ソシアリティー(社会性)の大切さ
 ・専門センス(専門的知識)よりコモンセンス(常識)
 ・日米交換教授


第三回 2016年5月24日(火曜日)

10 東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学初代学長

 ・東京帝国大学 植民地政策講座
 ・日本人道会 動物愛護運動
 ・銀婚式 新しい決心
 ・拓殖大学 学監就任と後藤新平学長とのコンビ復活
 ・東京女子大学の建学 初代学長に就任
 ・農人形
 ・軽井沢夏期大学

11 国際連盟事務次長

 ・かつての学友 ウィルソン大統領が提唱した世界で初めての国際平和機構
 ・国際連盟の輝ける星
 ・国際領土問題を解決「新渡戸裁定」
 ・国際知的協力委員会(ユネスコの土台作り)
 ・ジュネーブの「日本の家」

12 晩年の生き方
 ・平和の使徒として 
 ・太平洋問題調査会(IPR)と最後の旅


第四回 2016年5月31日(火曜日)

13 没後 新渡戸博士が遺したもの

 ・メアリーの晩年
 ・「遠友夜学校」の閉校と現在
 ・教え子たち「稲造の精神的子孫」
 ・『武士道』のその後
 ・カナダの新渡戸記念公園
 ・皇室とクエーカー
 ・諸宗教の根底にあるもの

14 鎌倉と新渡戸稲造博士

 ・別荘跡(稲村ケ崎)とその周辺
 ・母の五十回忌法要
 
15 一人の人物の生涯から学ぶ

 ・ノンフィクション
 ・「伝記」=もう一つの人生
 ・伝記の効用と歴史の学び
 ・「出会い」






2015/12/18

聖路加国際病院と新渡戸稲造博士

2015年12月

聖路加国際病院は、歴史のある都内有数の総合病院です。
104歳の日野原重明先生が、名誉病院長をされていることでも
よく知られています。


聖路加病院旧館(現在の聖路加国際大学)



新渡戸稲造博士は、この病院の設立にも関わっており、
病院と看護大学の評議員を務めました。
現在も旧館の正面玄関にその足跡を確認することができます。
この写真は、設立当時に建てられた石碑。
12ある穴(釘跡)は、戦時中に「神の栄光」と刻まれた礎石を
憲兵隊によって隠すよう命令され、御影石で覆っていた跡と
説明されています。



「この基礎石は、建物(旧館)が、1928年(昭和3年)1月に着工し、
 その後、1930年(昭和5年)3月28日に行われた定礎式で披露され、
 約67年間、旧館東口玄関に設置されていました。
 ・・・中略
 定礎式には、秩父宮両殿下を始め、各大臣、東京府知事、
 警視総監、各国大公使、新渡戸稲造の署名士たち400名が出席
 されました。
 ・・・後略」

 定礎式の当日は、内村鑑三が亡くなった日でもありました。

新渡戸博士の鎌倉の別荘は、新渡戸の没後、メアリー夫人によって
聖路加看護大学(現在の聖路加国際大学)に売却されています。
鎌倉の別荘跡の訪問については、こちら

今回、大学史編纂資料室のご厚意で、関連資料を閲覧させて
いただくことができました。
松山事件の後、新渡戸博士がこの病院に入院されていたことなども
確認できました。

旧館内部

旧館内部


この病院のある明石町(東京都中央区)は、かつて外国人居留地
でした。


中庭には、設立者トイスラー博士(Dr. Teusler)の旧宅(洋館)も保存されています。

また、同地には、「芥川龍之介生誕の地」と書かれた案内版も。


芥川もまた、新渡戸校長時代の旧制一高の生徒でした。
(このあたりで幼少時代を過ごした谷崎潤一郎については、こちら。)

2015/05/24

『新渡戸稲造ものがたり』重版

おかげさまで、伝記『新渡戸稲造ものがたり』が重版に
なりました(3刷)。
今年度から新しくなった小学校の国語の教科書で紹介され、
また、今年は、
第48回岩手読書感想文コンクール課題図書に選定されています。
新渡戸博士の出身地、岩手県の子どもたちに広く新渡戸博士の
生涯が紹介できる機会になるよう期待しています。

重版に際し、関係者の方々にご協力いただきました。
ありがとうございました。
心より御礼を申し上げます。

【2012年 新渡戸稲造博士 生誕150年 記念出版】

ジュニアノンフィクションシリーズ
『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、
 昭和をかけぬける』

発行 銀の鈴社 (神奈川県鎌倉市)

日本図書館協会 選定
全国学校図書館協議会 選定
学校図書館図書整備協会 選定
国連が定める「2012国際協同組合年(IYC)」認定図書


2013/03/16

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』



2013年3月13日 横浜開港資料館図書室にて

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』 Life of Mrs. Flora Best Harris
明治四十四年十一月二十日発行 山鹿 旗之進 編 教文館

伝記叢書182
19951022日発行
山鹿 旗之進 編
大空社

上記の書籍をみつけました。

新渡戸博士は、札幌農学校の学生だった1878(明治11)年6月2日、
宣教師ハリスから洗礼を受けています。
(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.47)

思い悩んでいたころの稲造青年が出会ったのが、イギリスのトーマス・カーライル
(Thomas Carlyle)の書いた言葉です。
そして、宣教師ハリスのおかげで、生涯の愛読書を手にするのです。

〈 稲造は、故郷から札幌へ戻る前に、東京へ行きました。ちょうど、宣教師
 ハリスが帰国を前に本を処分しようとしていると聞き、お別れのあいさつに
 行ってみると、たくさんの本の中から一冊だけカーライルの著書『サーター・
 リザーダス(衣服哲学)』をみつけました。・・・「衣服哲学」という題名が
 ついていますが、洋服や洋裁について書いた本ではありません。
 「人間の身体は、その内にひそむ霊を包む衣服である」とする、
 ユニークな哲学の本だったのです。・・・この一冊こそ、稲造が探し求めていた
 ものでした。稲造はこの本を、「飢えた男が何日もしてやっと手に入れた最初の
 食べものをむさぶり食うように」読みました。そして、ずっと心にあった悩みが
 あたかも氷が解けるように消えていったのです。〉
 (『新渡戸稲造ものがたり』p.53-54)

また、アメリカ留学のため渡米した際、最初はハリス夫人の親族を頼って、
アレゲニー大学に入学しました。

そのハリス夫人は、実は大の親日家で、日本文化と日本語に詳しく、
日本に非常な愛着をもっていたことが、この本によってわかりました。

ある時、偶然、新渡戸博士はハリス夫人に会いました。

稲造「はちす葉の濁りにしまぬ心もて・・・」

と口ずさむと、ハリス夫人はすかさず返しました。

ハリス夫人「・・・なにかは露を玉とあざむく」

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』の序文
大隈重信 明治四十四年九月
新渡戸稲造 明治四十四年八月十五日 信州軽井沢にて

病弱な夫人は、アメリカなら10年生きるところを、6,7年となっても日本に行きたい
(実家の父は医者)、ただ一人の愛児が眠る日本で骨を埋めたい、
と実家にて家事を終える。
明治三十八年の初秋、「美はしの大和の国」に上陸を果たす

明治三十七、八年 日露戦争 p.120
桑港 母国の一大事と帰国する日本の若者3000
病身で、医者からなるべく外出を控えるように言われていたのにもかかわらず、
日本への船があると聞くと、雨が降っても、風が吹いてもほとんど毎船のように
見送り激励。そのつど、小さな日章旗をもって。
「天の神様はもともと戦争を好みません。けれども、今度の日露戦争は、
日本が国家の存在のためにやむを得ず剣をぬいて起きたのであるから、
神さまは、きっと日本をお助けなさるに違いないと信じます。
しかし、戦争とあれば負傷することもあろうし、また討ち死にすることもありましょう。されば、病院にあって眠る時、海のかなたにある米国の一婦人が『あなたのために
真心こめて神さまに祈っていることを記憶しておいてください。』
わが愛する若き友よ、行けよ。勇ましく行けよ」と小さき国旗を降りかざして、
その行をさかんならしめた。


明治三十九年、東北の飢饉。
赤十字社員のハリス夫人は、詳細を調べ、太平洋沿岸の赤十字社に訴えたところが、
本部のあるワシントンにハリス夫人の投書が届けられ、大統領はこれを読み
大いに感動し、これでは一刻も待ってられないと、あらためて、本部からハリス夫人の
陳情書を合衆国全体の赤十字社に回文した。こうして、ついに数十万円の義捐金が
寄贈された。


病中でも喜んで日本人には面会した。

明治四十年四月、皇后陛下に拝謁
明治四十一年春頃、久しく鎌倉で静養
日本語堪能
「ありが十匹に、さる五匹」→「ありがとうござる」
明治十四年十月〜翌年三月、『土佐日記』の翻訳

九月十日青山学院講堂における葬儀
友人総代 内村鑑三「理想の友人 故ハリス夫人」
佐藤昌介
新渡戸稲造(十月一日 実業之日本)