・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2019/12/10

『増田義一伝』藤井茂・著

2019年12月3日(火曜日)

盛岡の新渡戸基金理事長/事務局長の藤井茂様が
『一代の出版人 増田義一伝』を出版され、この日、
東京京橋の明治屋さんにて、出版を祝う会が催されました。

増田義一という人物は、実業之日本社の創業者で、
新渡戸稲造、大隈重信、渋沢栄一などから大きな信頼を得ていました。

新渡戸博士は、実業之日本社の編集顧問にも就任しています。

この日の祝う会には、実業之日本社の会長・増田義和様(ご令孫)、
同社の社長・岩野裕一様をはじめ、
北海道や青森、四国などの遠方から、新渡戸博士関係の方々も数多く
ご参集されました。

藤井様は、新渡戸基金の理事長としてのお役職のほか、
執筆、ご講演、編集など、幅広いお仕事を精力的にこなされ、
いつも頭が下がる思いがいたします。

藤井様、このたびは、本当におめでとうございました。

2019/09/10

ニトベ・フレンズセミナー「一人の女」

2019年9月6日(金曜日)

久しぶりの盛岡です。(新渡戸稲造博士 生誕地)
新渡戸基金、藤井 茂 理事長による読書会に
出席させていただきました。

テキストは、『新渡戸稲造全集』(教文館発行)第11巻収載の
「一人の女」。
新渡戸基金様で読みやすい小冊子にしてあります。

・何事にも慌てぬ強い婦人

・男子を感動させた婦人

など、新渡戸博士が実際に会ったり、話を聞いたりしたことのある
婦人たちのさまざまな境遇や出来事が紹介されています。
新渡戸博士本人が、これらの実話から、婦人に対する考え方や
人生観にまで影響したと、その序文で述べています。
少し道を踏み外した女性、同情に値する経験をした女性に、
あたたかい眼差しを向けています。

新渡戸博士は、自宅に多くの相談者を招き入れて話を聞いたり、
世話をしたことが、わかっていますが、こうした名も無い、
縁もなかった人々の話に耳を傾け、多忙の中、多くの時間をさいていらした
ことに、あらためて驚かされます。

このたびの読書会は、さまざまな専門分野の方々がともに集うことで、
新たな見地が開かれる、貴重な場になっていることもわかりました。

ありがとうございました。








2019/06/20

田中舘愛橘顕彰会

2019年6月16日(日曜日)国際文化会館(東京)にて

新渡戸博士と田中舘愛橘博士は、同郷(新渡戸は盛岡、田中舘は二戸)、
「心の友」だったそうです。
盛岡ではなく、東京英語学校で初めて出会いましたが、その後の
約30年間は特に付き合いのあった痕跡がないそうです。
新渡戸より歳上の田中舘ですが、新渡戸よりも二十年近く長く生き、
太平洋戦争、日本の敗戦を見届けています。

新渡戸稲造(1862年〜1933年)
田中館愛橘(1856年〜1952年)終戦は、1945年





両者とも自らの専門をもちつつ、後進の指導によって
多くの優秀な弟子を育て、さらに、国際的に活躍しました。

この日、田中舘博士のひ孫(松浦明氏)主催の顕彰会がおこなわれ、
1 松浦氏による「愛橘顕彰会の最近の動向」のご発表、その後、
2 盛岡の新渡戸基金代表の藤井茂氏が、
  「田中舘愛橘とノーベル賞」の演題でお話になりました。

藤井茂氏(左)と松浦明氏(右)
冒頭に、松浦さんは、田中舘博士のご臨終の日についての思い出を
話してくださいました。
まさにご臨終の時、弟子の中村清二博士は、大きな声で、
「みなさん、田中舘先生にお礼を言おうではありませんか」と
告げ、みんなでお礼の言葉を言ったこと、誰も泣いていなかったこと、
自分だけはどうしても涙が出てきたこと・・・。
松浦氏は、経堂(東京都世田谷区)で、晩年の曽祖父(愛橘)と
数年ご一緒に暮らしています。

田中舘愛橘(曽祖父)とともに 右端が松浦氏


松浦氏ご所蔵の田中館愛橘資料


1 愛橘顕彰会の最近の動向

(1)シルビアシジミ(蝶)の本に登場した田中館愛橘

『シルビア物語』中村 和夫 著 2018年12月20日 発行 随想舎
この本の中で、明治初めに英国から来日した、
モンタギュー・アーサー・フェントン(Fenton)の蝶の採集旅行に、
若き学生だった田中舘が同行したことが書かれているそうです。
フェントン27歳、田中舘17歳。

(2)海上保安庁からの公文書の紹介

このたび、太平洋のある海底海山群に「田中舘海山群」と
命名されたそうです。
(ニュージーランドの海底地形名称委員会による)





そのほか、経堂での愛橘展について(2019年秋の開催予定)などの
報告がありました。




2 田中舘愛橘とノーベル賞

田中舘博士は、日本人で一番数多くのノーベル賞クラスの学者と
交流した一人、1910年にノーベル賞推薦人になっています。
(日本人で第2号の推薦人。第3号は、長岡半太郎で、長岡の推薦で
 後年、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞している)

新渡戸博士は、国際連盟の事務次長(国際部長)として、知的協力委員会
(いまのユネスコの前身)を招集し、キュリー夫人、アインシュタイン、
ベルグソンなどノーベル賞クラスの学者が集いました。
新渡戸が帰国すると、田中舘が、委員に選ばれ(昭和2年〜8年)、
その後、新渡戸が委員に任命されたが、惜しくもカナダで亡くなり、
委員として活動することはありませんでした。





いずれにしても、田中舘、新渡戸の両名は、世界的な学者たちと
交流した日本人。

さらに、新渡戸は、平和賞受賞に値する活躍をしました。
・オーランド問題の解決
・知的協力委員会の招集(学者が交流することによる平和の追求)
(当時は、国境を超えた学術交流が少なかった)

当時の国際連盟の職員による人気投票で、
全員一致の第1位が新渡戸稲造。
第2位は、フリチョフ・ナンセン(1922年にノーベル平和賞受賞)、
第3位は、ロバート・セシル(1937年にノーベル平和賞を受賞)。


藤井氏による二人の共通点は、
・分け隔てなく人と付き合う
・偉ぶらない
・国際社会で、日本人の良き見本となった
(日本の評判を高くした)



貴重なお話と資料をありがとうございました。





2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2015/10/16

新渡戸稲造博士の命日祭

2015年10月15日(木)
盛岡グランドホテルにて

新渡戸博士の生誕の地、盛岡にて毎年開催されている
命日祭に出席させていただきました。

今年は記念対談として、
新渡戸記念中野総合病院理事長・院長の入江徹也氏と
新渡戸基金事務局長の藤井茂氏が語り合いました。

演題「新渡戸記念中野総合病院への道のり」

同病院は、初めての医療利用組合病院として、賀川豊彦氏と
新渡戸博士(初代組合長)の尽力により、昭和7年に開院。
このたび設立当初の精神にいま一度立ち戻ろうという思いを
込めて、病院名に「新渡戸記念」を冠することになりました。

同病院(東京都中野区)の近くには、新渡戸博士が校長を務めた
新渡戸文化学園(教え子の一人、森本厚吉先生による創立)もあります。








2015/07/07

速報! テレビ番組のお知らせ

新渡戸稲造博士の特別番組第三弾「台湾編」の放映日が
決まりました! 

「新渡戸稲造の台湾 〜スーツを着たサムライ2015〜」
 岩手めんこいテレビ制作

8月7日  (金) 午後7時〜   岩手めんこいテレビ  (岩手県内)
8月22日(土)午後2時〜 BSフジ

出演:城戸裕次(きどゆうじ)

 

2015/05/09

原敬(はらたかし)同郷の国際派政治家

2015年5月7日 テレビ番組 視聴メモ

NHK「英雄たちの選択」’平民宰相’ 原敬 知られざる素顔

井上寿一(学習院院長)
川田 稔(歴史学者)
三浦瑠麗(国際政治学者)
一ノ瀬俊也(歴史学者)

原敬 はらたかし(1856年〜1921年)盛岡出身
雅号は、「一山」
戊辰戦争で破れ、賊軍出身として上京した原敬は、
外交のプロとして政治家に。

原が影響を受けた二人の人物

1・中江兆民からフランス啓蒙思想を学ぶ
 モンテスキュー、ボルテールなどが教材

明治18年 パリ公使館勤務
読書メモ
『パンセ』『フリードリッヒ2世回想録』『国際法の理論と実践』

2・陸奥宗光との出会い

明治28年、陸奥外相のもと、外務次官に就任。
ところが、陸奥は病死。原は外務省を辞めて、立憲政友会に参加し
政治家の道へ。内務大臣就任。

明治41年、52歳、大臣を辞任して、180日間の世界一周船旅へ。
太平洋横断してアメリカへ、さらにヨーロッパ視察へ
(トランクが盛岡の記念館に残されている)

そこで見た民主主義の国、20世紀初頭のアメリカ。

「将来この国が世界に対し、いかなるものとなるか
 常に注目しておく必要がある。」
 (『原敬日記』明治41年10月8日)

産業や大学を見学し、アメリカの将来の躍進を確信した。

1914(大正3)年、第一次世界大戦 開戦
ヨーロッパ衰退の始まり

1918(大正7)年、第一次世界大戦終結
パリ講和会議で、アメリカ大統領ウィルソンによる国際協調

原は、内閣総理大臣に就任 初の政党内閣の誕生

課題:シベリア出兵問題
山県有朋(やまがたありとも)は派兵拡大を黙認
日本の兵力7万人以上に拡大していた派兵を原は半減へ
「レーニン率いる革命軍といかに対するか」
増兵(派兵継続=国際協調に反する)か、
全面撤兵(財政破綻を回避)か。
いつ、どのように撤退するか。
(軍部は存在理由が危ぶまれ始めた=出兵、しかし、
 なにか取得しないと撤兵できない)
(世論にも配慮が必要。「米騒動」)

原は、アメリカとの関係を重視していた=日本の運命に関わる
アメリカは一方的な撤兵=原もその機会を利用して撤兵を決める
(山県を説得して、政治主導の撤兵へ)
1920(大正9)年9月13日、山県有朋の古希庵(現在は栃木県に移築)
で、山県と会談。原は、イギリスの立憲君主制をめざし、
内閣が軍部をコントロールすることを計画し、山県に同意を求めた。
(大日本憲法では、天皇が陸海軍を直属としている)
=「平民宰相(原)が元老(山県)を動かした」

「軍事についても 政府が政治上全責任を負う方針に改めるべきです」
 (『原敬日記』大正9年9月10日)

・皇太子の外遊実現
原は、「これからの元首は広く世界を知っていなければならない」と
皇太子の外遊を実現させた。
1921(大正10)年9月3日、皇太子(のちの昭和天皇)が外遊から帰国。
各国で王室や元首らにお会いになり、戦後のヨーロッパを視察。
帰国後、「世界平和の切要なるを感じた」と原に述べられた。
若き皇太子に原の理念が刻まれた。

・鉄道網の拡大 経済の発展

1921(大正10)年11月4日夜、東京駅にて平民宰相 原 敬 暗殺 65歳

「原の外交政策は常に融和的だった」(英タイムズ紙 11月5日)
「彼を失ったこと日本国民にとって大きな痛手である」(同)

約10年後、昭和六年、軍の暴走で満州事変が勃発

///視聴メモ 終わり

新渡戸博士は、同郷の政治家、原敬と親交がありました。
原は稲造の養父だった太田時敏と親しく、養父が亡くなった際、
その死亡記事には、友人として原敬の名前が掲載されています。

『新渡戸稲造ものがたり』から、以下を引用します。

  原敬と稲造は、自分たちの故郷である東北地方をどのように
 開発していくべきかについて、意見を交換することがありました。
 原敬、渋沢栄一、益田孝、高橋是清、大橋新太郎たちと共に
 一九一四年の凶作に見舞われた東北地方のために、一九一四
 (大正三)年十一月、東北振興会を開いて、具体的な話し合いを
 おこないました。
  原は、その後、総理大臣に就任しました。原と稲造は、
 民主主義について共通の考えをもっていました。原は、
 政治の舞台で民主政治の基本である政党政治の確立をめざし、
 稲造は、雑誌「実業之日本」などに記事を書いて、自分の考える
 民主主義を人々に広めました。
 『新渡戸稲造ものがたり』
  「原敬とともに 東北の振興と民主主義の普及」p.148-149
 
新渡戸博士は、かつての学友ウィルソン大統領が、
第一次世界大戦後に提案した世界で初めての国際平和機関、
国際連盟の事務次長に就任(スイス ジュネーブ)。
スイス在住中に、原敬暗殺の悲報を聞きました。

「・・・有力な人物がまた倒れた。誰が彼に代わることができよう。
 このところおよそ最も強力な人物であった」
と、その死を深く悲しみました。



2015/04/17

タマシン・アレンさんと岩手

2015年3月30日(月)

今日は、太田愛人様と目黒安子様が、鎌倉のオフィスを
お訪ねくださいました。

太田愛人様は、新渡戸博士についても大変詳しく、これまでも
多くをご執筆されています。
新渡戸博士の一高での教え子、野村胡堂(岩手出身、
『銭形平次』作者、松田 瓊子の父)の研究家でもあります。
太田様は多くのご著書もあり、ご出身の岩手の人脈についてのお話は
いつも興味深く、勉強になります。
また、新渡戸博士の養女コト様らが設立した「愛の家」(東京都豊島区)
理事長でもいらっしゃいます。「愛の家」については、こちら

目黒安子様は、『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』
(2012年 教文館)のご著者です。
アレン先生が設立したアレン短期大学の学長をされました。

ご著書『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』より、
アレンさんと新渡戸博士の親交について、その一部を紹介します。

 ミス・アレンが岩手県を知ったのは新渡戸稲造との夕食の席
 だった。岩手県出身の新渡戸博士が流暢な英語で話す岩手農村の
 惨状は忘れられない印象をミス・アレンに与えた。
(同書 p.34)

 賀川(豊彦)は貧窮した人を救済するには「協同組合」を
 立ち上げなければならないと新渡戸稲造の協力を得る。
 産業組合のすこやかな運営だけが東北農村の貧しさを救い
 農村発展させる。新渡戸はこれに同意し帰国後、
 盛岡産業組合中央会岩手支会長と岩手県産業組合青年連盟総裁に
 就任したが、カナダで急逝する。新渡戸の「支え合う精神」に
 ついて語られることは少ない。一九三三年十一月十八日、
 新渡戸稲造の追悼式が盛岡で行われた。ミス・アレンは
 盛岡公会堂の壇上で葬送の曲をピアノで演奏し、その急逝を
 悼んだ。
 (同書 p.38)

その後、アレンさんはアメリカに帰国し、シカゴ大学大学院で学んだ後、
再び来日され、盛岡、そして、久慈へと移住し、久慈幼稚園を設立。
(ヴォーリス事務所の建築)
太平洋戦争が始まるとアメリカに強制送還されます。
戦争中も日本人収容所で働くなど日本人を支え続けました。
戦後、再来日すると、アレン短期大学など次々に学校の設立に関わりました。
勲五等瑞宝章などを受章されました。1976年、八十五歳で没。

今年(2015年)は、アレン先生の初来日100年にあたります。
目黒安子様は、このご著書を英訳出版されました。

' Build up, Build up, Prepare the Road!
 The life of Miss Thomasine Allen'
 Yasuko Meguro  2015 Kyo Bun Kwan

太田愛人様、目黒安子様のお話は、尽きることがないほどで、
私にとっても学び多き、光栄な日になりました。
ありがとうございました。






2015/01/16

「愛の家」(東京都豊島区)

2015年1月6日(火曜日)
少し荒れ気味のお天気の中、太田愛人様と池袋でお目にかかりました。
太田様は、「愛の家」の理事長でいらっしゃいます。

社会福祉法人「愛の家」(東京都豊島区)は、池袋から西武池袋線ですぐの
東長崎駅近くにて、「母子生活支援施設愛の家ファミリーホーム」、
「愛の家保育園」を運営しています。

「愛の家」は、1923(大正12)年の関東大震災の後、
三人の女性有志によって、始まりました。その一人が、
新渡戸稲造博士の養女、新渡戸コトさんです(加藤武子様のお母様)。

太田様ご所蔵の資料によりますと、
財政的な援助については、新渡戸稲造博士のご縁を通じて、
渋沢栄一氏のご尽力によるものが大きかったようです。
そのほか、財閥の各団体や皇室からの下賜金など、
多くの方々の善意により、現在まで実に90年以上も運営を継続しています。

以下、『続々 社会事業に生きた女性たち』(太田氏所蔵)から引用

〈 たとえば、宮内省からの御下賜金は、(昭和)12年から19年まで
 続いたが、それは、宮内省に新渡戸稲造の知人(書生の兄)がいて、
 その人のはからいであったというように(太田愛人談)、
 秀れた人脈に囲まれていたからであったろう。
 それでもお金の苦労は絶えなかった。
 「ただ、ただ、お金をいただきに歩いたものです」と、現理事長
 新渡戸コトは、現寮長に語っている。「渋沢さんのところへは、
 よく行きました」とも。そこには、万感の想いが込められている。〉

同書 p.45〜46より

資料によると、新渡戸コトさんは、「愛の家」創始後まもなくご病気に
なり、その後、国際連盟(スイス・ジュネーブ)事務次長に在任中の
新渡戸博士と共にジュネーブに暮らし、一時「愛の家」を離れましたが、
帰国後、理事や理事長を歴任。「愛の家 五十年史」(1973年)の冒頭には、
理事長として序文が掲載されています。

なお、「愛の家」発起人の三人は、
煙山八重、塚原ハマ、新渡戸コト(新渡戸稲造の養女/新渡戸稲造の姉の孫)、
さらに、顧問の一人、羽仁もと子(自由学園創始者、煙山八重の師)は、
盛岡ゆかりの女性たちでした。

参考資料(すべて太田愛人様所蔵):
「愛の家 五十年史」
『天に宝を積んだ人びと 明治キリスト者の気骨』太田愛人/著
(キリスト新聞社 2005年)
『続々 社会事業に生きた女性たちーーーその生涯としごと』
五味百合子/編著 (ドメス出版 1985年)
そのほか、「愛の家保育園」案内書など

当日、久しぶりにお会いした太田様は、午前中、「愛の家」の
大切な行事に理事長としてご出席。面接などもされた後、
三時間もの間、たくさんのお話をお聞かせくださいました。
「田園生活」を大切にされている太田様のお元気ぶりには、
いつも驚かされます。

ご多用の中、本当にありがとうございました。






2014/12/20

番組再放送のお知らせ

以前に番組制作に協力させていただきました、
岩手めんこいテレビ様の二番組の再放送が決まり、
ご案内をいただきましたので、紹介いたします。

スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~


岩手めんこいテレビ 12日(木)午前600

ジュネーヴの星 

石川テレビ(石川県)1222日(月)深夜045
テレビ西日本(福岡県)1224日(水)深夜245
テレビ大分(大分県)1225日(木)午後500
鹿児島テレビ(鹿児島県)1227日(土)深夜135

めんこいテレビ(岩手県)1228日(日)午後445

2014/01/16

メイド・イン・ジャパン 南部鉄器

2014年1月11日(土)〜3月23日(日)
メイド・イン・ジャパン 南部鉄器 伝統から現代まで、400年の歴史
パナソニック汐留ミュージアム
主催 パナソニック汐留ミュージアム/朝日新聞社
協力 南部鉄器協同組合/企画協力 アートプラニングレイ/後援 港区教育委員会

新渡戸博士の関連で、何度か岩手に行く機会に恵まれ、
地域の伝統工芸にも興味をもち、
汐留でおこなわれている「南部鉄器」の展覧会に行きました。

◆展示説明より抜粋
「南部鉄器の背景としての盛岡のあゆみ」
1817年、南部藩は盛岡藩に改称
1830年以降は、天保の飢饉が引き金となり一揆が多発し、藩政は弱体化した。
幕末に奥羽越列藩同盟に参加し倒幕派と戦ったことから、
明治政府では当初盛岡藩出身者の活動の場は限定されたが、
やがて、内閣総理大臣の原敬、教育者の新渡戸稲造など逸材があらわれ、
日本の近代化に貢献した。

◆第一部 南部鉄器の歴史 伝承される美
江戸時代から現代までの精密な鉄瓶などが展示されています。
例:
6 日新堂南部形鉄瓶 六代小泉仁左衛門 仁栄 1864年 盛岡市先人記念館蔵
  (「日新堂」は、幕末、盛岡藩最初の洋学校、1862年)

15  第一回国勢調査記念品鉄瓶 作者不詳 1920年 岩手県立博物館蔵
  (1921年、第一回の国勢調査実施)

20  亀甲形鉄瓶 小泉仁左衛門 昭和時代 南部鉄器協同組合蔵
  (1934年、仙台の国立工芸指導所に勤めていたブルーノ・タウトが
   小泉工房を訪れて絶賛した鉄瓶と同様のもの。タウトの日記に記している)

23  編笠形鉄瓶 金澤専治 鶴齋 昭和時代 南部鉄器協同組合蔵
  (リエージュの万博で金賞受賞した作者による鉄瓶)

◆第二部 南部鉄器の模索・挑戦といま
◆第三部 南部鉄器による空間演出

(以上、展覧会解説より抜粋)

現在では、フランスのティーサロンで、南部鉄器のカラフルなティーポットが
使われるなど、400年の歴史をもつ南部鉄器の真価が見直されているようです。

パナソニック汐留ミュージアムのサイトは、こちら




2013/11/22

新渡戸博士のテレビ番組が「優秀賞」を受賞!

番組制作に協力させていただきました、新渡戸博士の特集番組が、
東北映像フェアでの受賞に続き、
全国地域映像団体協議会でも優秀賞を受賞!
めんこいテレビのみなさま、ご一緒に出演させていただきました
草原様、大森様に、あらためてお祝いを申し上げます。

尚、この番組は、先月、銀座教文館でおこなわれました、
没後80年展「新渡戸稲造を知っていますか」の会場でも放映させていただき、
来場者アンケートの結果でも、大変好評だった番組です。

2013年11月21日付け 「MSN産経ニュース」サイトより引用 ↓

めんこいテレビの特番が優秀賞 岩手
岩手めんこいテレビは昨年12月23日に放送した特番「スーツを着たサムライ
〜新渡戸稲造『武士道』伝説」が、全国地域映像団体協議会の今年度グランプリで
優秀賞に輝いた。
番組部門(放送番組)での受賞で、優秀賞は準グランプリにあたる。
番組は新渡戸の生誕150年を記念し、新渡戸の足跡を振り返る内容。
同局の番組審議会でも「緻密に取材している」「新渡戸を知る入門番組として
最適だ」など評価が高かった。今年6月には、第1回東北映像フェア2013の
番組部門で大賞を受賞している。
企画、脚本、プロデューサーを務めた工藤哲人(てつと)さん(35)は
「武士道を心の支柱に国際社会で活躍した新渡戸の魅力が少しでも伝わったと
思うとうれしい」と話した。
来年夏の新渡戸関連第2作製作に向け準備を進めているという。
///

MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/smp/region/news/131121/iwt13112102020000-s.htm

全国地域映像団体協議会(全映協)のサイトは、こちら
前回の東北映像フェアの受賞については、こちら

2013/10/31

田中舘愛橘博士 南部藩出身のもう一人の偉人

2013年10月20日(日)13:00〜 国際文化会館(東京・六本木)401室
田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)研究会

田中舘愛橘博士の令曾孫、松浦明会長と新渡戸基金の藤井茂事務局長の
対談を聴かせていただきました。
松浦様は、田中舘博士と約14年間、生活を共にされています。
日本航空協会ホームページに掲載されている松浦様の記事は、こちら

田中舘愛橘博士(1856年〜1952年)は、現在の岩手県二戸市の出身で、
世界的に活躍した地球物理学者。
東京帝国大学教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。
地震研究の先駆者であり、日本の航空学の祖、日本式ローマ字の考案者としても
知られています。

田中舘愛橘研究会会誌 2013年8月第3号 没後60年記念号
田中舘博士は、南部盛岡藩の藩校で学んだ後、
新渡戸博士も学んだ東京の共慣義塾に入学しています。

今回の対談では、藤井氏が、田中舘博士と新渡戸博士の関わりを中心に紹介
してくださいました。
同郷の田中舘と新渡戸は、子どものころ、郷里を離れた東京で出会っています。

「私は新渡戸博士とは同郷でありまして、子どものときから同窓であります。
 明治七年ごろであります。英語学校という所に通いまして・・・
 国訛りのずーずーで、気がねなくものを言う・・・お互い晩年に至るまで
 二人顔を合わせますとずーずー丸出しでしゃべった」
 (『実業之日本』昭和九年十一月号)上記、田中舘愛橘研究会会報誌p234より

新渡戸博士は、9歳になるころ、親元を離れて上京していますが、言葉に訛りが
あることで少なからず肩身の狭い思いをしていたようすを後年書いています。
同郷の友人たちとのずーずー弁での会話はさぞ心許すひとときだったことでしょう。

その後、別の道を歩んだ二人でしたが、およそ30年ぶりに再会。
新渡戸博士は、田中舘博士らが始めた「ローマ字ひろめ会」で講演をしたり、
新渡戸が一高(旧制第一高等学校)の校長時代、その校庭で、
田中舘博士(東京大学理学部教授)らは、グライダーの試験飛行をおこなっています。

新渡戸博士は、「国内で有名になるだけで満足せず、広く世界を見て、なにごとも
判断しなければならない」といつも説いていました。彼は、
世界の医学界で知られていた北里柴三郎、
物理学では、世界的に高名な田中舘愛橘を、高く評価していたのです。

1927(昭和2)年2月、南部同郷会は、「新渡戸博士歓迎・田中舘博士送別」の会を
開いています。新渡戸は、国際連盟事務次長の任期を終えて帰国、一方、田中舘は、
これからジュネーブに出発して、国際連盟の知的協力委員会(新渡戸が、キュリー
夫人やアインシュタインらをメンバーに発足、現在のユネスコの前身)の委員に
就任しました。

二人は、新渡戸博士が亡くなる1933年の春、最後の再会をしたと思われる記録が
残っています。藤井氏は、「この二人の巨人は、まさに心友(心の友)であった」
と話されました。

この日の会では、お茶の先生でいらっしゃる松浦夫人がお弟子さんと共に、
一人一人にお茶を立ててくださいました。台風の余波で雨模様だったこの日、
お茶碗も持参され、朝4時からお菓子職人が作った特注の和菓子も大変おいしく
心温まるひとときでした。

松浦様ご夫妻、藤井様、そして研究会の皆様に心より御礼申し上げます。
 




2013/06/10

祝 受賞! テレビ番組「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」


制作に協力させていただきましたテレビ番組、
「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」(岩手めんこいテレビ)が、
東北映像フェア2013という今年から始まった映像コンテストの番組部門で
見事、大賞に選ばれました。
審査員全員が高評価をつけたそうです。

担当されました工藤さん、ディレクターの鎌田さんをはじめ、関係者のみなさま、
おめでとうございます!
下記でニュース映像を見ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=yNqYcCpLGkQ

受賞を受けて、
岩手エリアでの再放送が決定しました。

6月29日(土)14:55-15:55

放送から半年近く経つ番組が再放送になることは滅多にないそうです。

2012/12/20

第一回 もりおか武士道サミット 

2012年12月15日(土)
第一回 もりおか武士道サミットにパネリストの一人として
参加させていただきました。

主催:めんこいテレビ
共催:盛岡市、盛岡市教育委員会
後援:(財)新渡戸基金、(財)盛岡市文化振興事業団・盛岡市先人記念館、
   学校法人新渡戸文化学園、〈映画の力〉プロジェクト、岩手大学、岩手県立大学、
   盛岡大学
特別協賛:株式会社建設システム




新渡戸稲造・生誕150年記念
スーツを着たサムライ
〜第1回 もりおか武士道サミット〜

日時:2012年12月15日(土) 13:00〜16:30
場所:盛岡劇場(盛岡市松尾町3-1)
入場料無料、定員500人

会場の盛岡劇場入口

第一部は、

寺島実郎 氏
(財)日本総合研究所所長・多摩大学学長・(株)三井物産戦略研究所所長
の基調講演

演題「いまを生きる新渡戸稲造」



寺島さんは、当日の朝、札幌から飛行機で花巻に入る予定でしたが、
霧で着陸できないことから、急遽、仙台空港に到着し、新幹線で
いらっしゃいました。
国際ビジネスの現場でのご経験、そして、最近では、若い世代に向けた
教育のお仕事も精力的にされていて、内容の濃いお話を伺うことができました。

なんと、5万冊の蔵書をお持ちだそうで、ぜひ、寺島文庫にお伺いしたいと
思います。
寺島文庫オフシャルウェブサイトは、こちら
寺島さんが就職を控えた学生たちに贈る対談番組「就職を機に世界と人生を考える」
は、こちら


第二部は、パネルディスカッション
テーマ:新渡戸稲造「武士道」の可能性

コーディネーター 藤井 茂 氏(新渡戸基金事務局長)
パネリスト    柴崎 由紀 (ライター・エディター)
         大森 惠子 氏(東京国際大学非常勤講師)
         高橋 和の助 氏 (いおぎみんなの学校 主宰)
         佐藤 一進 氏 (京都精華大学講師)

撮影 めんこいテレビ 工藤哲人様

撮影 めんこいテレビ 工藤哲人様

2012/09/01

新渡戸稲造博士生誕150年 記念式典

2012年8月31日(金曜日)、新渡戸博士生誕の地、盛岡にて、
生誕150年記念式典がおこなわれました。
当日は、高円宮妃を迎え、明石康(元国連事務次長)氏がご講演をされました。

ご講演される明石康氏


主催:新渡戸稲造博士生誕150年祭実行委員会 会長 内川頴一郎
(岩手県/盛岡市/花巻市/岩手県議会/盛岡市議会/岩手大学/岩手医科大学/
東京女子大学/拓殖大学/新渡戸文化学園/岩手県日本カナダ協会/盛岡ビクトリア
友好協会/盛岡市文化振興事業団/岩手経済同友会/盛岡商工会議所/岩手県農協
中央会/盛岡信用金庫/岩手台湾懇話会/北東北・日本アメリカ協会/新渡戸稲造会/
新渡戸基金維持会/新渡戸基金)

2011/12/19

新渡戸稲造博士生誕の地(盛岡)冬

中津川を渡って、下の橋に向かいます。
途中、道を尋ねると、「雪にうもれてて、なにもないよ」と言われました。
稲造博士生誕の地に到着しました。


稲造博士の像は、雪にもうもれず、静かに思索にふけっているご様子です。

新渡戸稲造胸像(盛岡)

レストラン公会堂多賀から、城跡公園沿いを歩いて中津川へ。


稲造博士の胸像がありました。




レストラン公会堂多賀(盛岡)


1927年、1932年、1933年、稲造博士はレストラン公会堂多賀で会食をされました。
盛岡市内にある登録有形文化財「岩手公会堂」は、大正12年(1923年)に建設されました。
その地下にある創業84年の老舗レストランです。


稲造博士の直筆が飾られています。
「Haste not Rest not.(急ぐなかれ、とどまることなかれ)」



現在は、客席も地下にありますが、当時、地下は厨房のみだったそうです。


古そうな木箱が並んでいます。



新渡戸博士が召し上がったコースの一つを、「新渡戸コース」と命名して提供しています。


レストラン公会堂多賀のホームページは、こちら

新渡戸基金(盛岡)

2012年1月14日(土)
朝早く東京を出発し、稲造博士生誕の地、盛岡へ向かいました。
駅前からバスに乗り、城跡公園前で下りました。
11時、新渡戸基金を訪問しました。
内川理事長、藤井事務局長、佐藤理事の三人の方々にお会いし、貴重なお話を
伺うことができました。また、資料を提供してくださいました。
ご親切に応対していただき、本当にありがとうございました。