・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2015/12/31

藤田正一著『札幌遠友夜学校』

2015年12月

札幌の藤田正一先生が、ご著書『札幌遠友夜学校』を
お送りくださいました。
この冊子のご発行については、先ごろ閉室になった遠友夜学校記念室
の再開、そして、遠友夜学校の貴重な資料を国の文化遺産に、
という強い気持ちが込められています。

遠友夜学校記念室(2011年に訪問)については、こちら



藤田先生は、北海道大学の元副学長/名誉教授でいらっしゃいます。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』執筆のため同大学を訪問した際に
初めてお目にかかりました。
平成遠友夜学校」の校長先生でもいらっしゃいます。
その後、『日本のオールターナティブ 〜クラークが種を蒔き、北大の
前身、札幌農学校が育んだ清き精神〜』(2013年12月)の出版の
お手伝いをさせていただきました。
同書については、こちら


2015/12/30

田中耕太郎「私の履歴書」

2015年の夏、カーライルハウス(ロンドン)での調査で、
新渡戸稲造博士は、ロンドン在住期間に二度カーライルハウスを
訪問して記帳していることがわかりました。
(訪問の記事は、こちら。)

このうちの一回は、当時、新渡戸博士宅に滞在中だった
一高校長時代の教え子、田中耕太郎と並んで署名しています。

田中耕太郎博士は、日経新聞の「私の履歴書」に経歴や一高時代の
思い出、新渡戸校長について書いています。以下、読書メモ/引用。


『私の履歴書 文化人15』日本経済新聞社 昭和59年

田中耕太郎(最高裁長官) p.305〜382

父は、判事、のちに検事。

母は、徳富蘆花の『名婦鑑』を愛読し、
父は、自ら孝経をはじめ、論語や孟子の講義をしてくれた。
儒教以外にもキリスト教にもひきつけられていて、
「人が見ていなくても神が見給う」というようなことを
言っていた。
母は西洋料理を習って知人を手料理でもてなしたり、
婦人の改良服を考案し・・・
父母は田舎での生活改善運動の率先者であった。

明治41年の秋、旧制一高に入学(第一部独法科)。
私は、とくに当時の一高の教育が明治以降の日本教育史上における
もっとも成功した事例としてあげ得ると思う。
・・・一高の特色は学問や芸術を通じ、自らの人格の力でもって
人生の意義を教える一部の教授と、その個人的な指導を受けた生徒に
よって維持されていた。
・・・
私の在校三年間は、ヒューマニストの教育者で愛国者かつ国際主義者の
新渡戸稲造先生の校長としての全盛時代であった。
思想的文化的雰囲気は極端に自由であり、百花らんまんの観を呈していた。
三年生には、岩下壮一、和辻哲郎、九鬼周造・・・といったそうそうたる
人物・・・、田舎出の新入生に目のくらうような未知の輝かしい世界が
出現したのである。
・・・漠然と正しいもの、美しいものを求める気持ちにかられるだけである。
そこに喜びと誇りとがあった。
・・・もっとも根本的な問題は、何になるかではなく、如何に生きるかであった
ことはたしかである。明治的青年の立身出世主義は軽蔑された。生活のための
職業以外に、はるかに崇高な世界があるとこと、人間として身につけておくべき
教養の権威が教えられた。新渡戸先生の三年間の科外講義の題目として
選ばれたファウストや「衣装哲学」や「失楽園」は、当時の私の理解の程度を
はるかに超えるものであった。しかし先生がこれらの愛読書を講読された
その情熱に深い感動を覚えた。
・・・三年の寮生活は、一生涯続き、その後の人生の行路に
大きく影響を及ぼし合った交友関係を作った。

p.319
病気療養中、私は宗教書に親しむようになった。
とくに内村鑑三の「余は如何にして基督教徒となりしか」の中にある
「時計の構造は時計師のみが知っている、人間を造った神のみがこれを
知る」という意味のことばは、私の病気の奇跡的全快と思い合わせて
深い感銘を与えた。これは神の存在のまことにわかりやすい証明のように
思われた。

p.321
(徳富)盧花は私の知るかぎり、二回一高の教壇に立った。第一回は私の
入学の前年、「勝利の悲哀」という演題で全校生の血をわかしたそうである。
私が聞いたのは、卒業の年(明治四十四年)幸徳秋水の大逆事件の直後に
やった「謀反論(むほんろん)」であった。農民の預言者といった風体の
盧花は、ホーンのようなとぎれとぎれの、高い裏声で一昔前の反逆者も
時勢が変われば人々がその徳をたたえることになることを吉田松陰と
井伊掃部頭(いいかもんのかみ=井伊直弼)の例をひいて説き、
死刑に絶対反対を表明し、幸徳などの助命を出張したのであった。
この講演が当時の時勢として問題にならないわけはなかった。
それは新渡戸校長の進退問題にまで発展した。当時の情勢下で校長が
辞職をしないですんだのがむしろ不思議なくらいである。
こういうふうに一高三年間の思い出はつきない。残っているものは
師と友と書に対する感謝の気持ちである。これらは我々にパンを得る
のに役立つものを与えてくれたわけではなかった。しかしほんとうの
人生に必要なものを供給してくれた。実際我々は民法や刑法はもちろん
憲法の条文すらのぞいて見たことはなかった。

p.324
科目の勉強にはずいぶん時間をかけたが、余暇がないわけではなかった。
一高でそだった我々の仲間は法律学だけに没頭できなかった。いわゆる
勉強家と認められていた我々の中には点取り虫になること立身出世に
浮き身をやつすことに対する軽蔑の気持ちがあった。法律の書物以外に
外国語の文学書を耽読したものである。一番われわれが精力を傾注し
勉強時間の半ばくらいを費やしたのは、前に述べたキューゲルゲンの
「一老人の幼時の追憶」の翻訳であった。
これには一高卒業の年の夏休み前から着手した。
・・・我々は新渡戸稲造先生の紹介で森鴎外先生の校閲を依頼に先生の
団子坂上の邸宅にでかけた。鴎外先生は馬上でも読書をされているくらい
多忙だったときいていたから、ずいぶん厚かましい次第である。

p.338
ロンドンはパリ平和会議のあおりを食って宿舎難であった。私は市の西部
ホッランド・パーク六十六番の新渡戸稲造先生のパンションに、
数週間先生の応接間のソファの上で起居させてもらった。そのころ先生の
札幌時代からの親友の宮部金吾博士もそこに滞在していられた。
新渡戸先生は当時ロンドンにあった国際連盟の事務局の事務次長であった。
その間に私は偉大な教育者、国際主義者でかつ愛国者の人格や思想、
教養、日常生活にはじめて身近に接する得難い機会をもった。
先生はスプーンの上げ下ろしにいたるまで、必要なエティケットを
教えられた。我々は毎日のようにストーブをかこみながら夜を更かした。
クエイカーの教会にお伴にたこともあった。一緒に方々にでかけた。
シェイクスピア劇の切符は先生が、安価な音楽会の方は私が買うことに
した。私は先生の慈父の愛につつまれて、ロンドンの生活をはじめた
のである。
エピスコパル教会の牧師の紹介で、私はチェルシーの「カーライルの
家」に遠くない、信者の寡婦の家に室を見つけた。

引用おわりーーーーー(主に新渡戸校長と関わるところを抜粋)


田中氏は、その後、大正十一年(1922年)の初夏に帰国。
さまざまな遍歴を経て、最高裁判所長官を10年、さらに、国連で
国際司法裁判所判事に当選し、オランダのハーグに着任しました。
(昭和49年3月1日 没)

ハーグの国際司法裁判所(平和宮)については、こちら



NHKラジオ「いま生きる 武士道」

2015年10月〜12月
NHK ラジオ第2放送「こころをよむ」

「いま生きる 武士道  その精神と歴史」
笠谷 和比古

日曜日 午前6:45〜7:25 (再放送 翌日曜日 午後1:20〜2:00)

「武士道」という言葉は、よく見かけることがありますが、
筆者または話者が、なにを差しているのかわかりにくいことが多いと
思います。
私はすぐに新渡戸博士の著書『武士道』を思い浮かべますが、
『葉隠』を考える人、漠然と「日本人に昔から引き継がれている精神」
と捉える人・・・

今回の笠谷先生の講義では、さまざまな角度から「武士道」を考えることが
できました。
また、今日的な意義を示されていて大変勉強になりました。

2016年1月は、NHK Eテレ「100分de名著」に、
再び、内村鑑三の著書が登場です。こちらも楽しみ!

武士の娘「杉本鉞子」(すぎもとえつこ)

2015年12月29日 10:00〜11:49
BS1 スペシャル「武士の娘 鉞子とフローレンス
〜奇跡のベストセラーを生んだ日米の絆〜」

以前、ある方から、
「新渡戸稲造や武士道を研究しているのなら、ぜひこの人のことも・・・」
と紹介していただいたのが、杉本鉞子(えつこ)という人物です。

長岡出身の杉本鉞子さん(1873年〜1950年)は、元武士の娘でしたが、
アメリカ在住の日本人と結婚するために、渡米しました。
1925年、英語で「A Daughter of the Samurai(『武士の娘』」を書き、
当時、欧米で注目されました。
新渡戸稲造が、英語で『武士道』を出版(1900年)したちょうど25年後、
新渡戸博士が国際連盟の事務次長としてスイスのジュネーブに滞在して
いたころです。
杉本鉞子さんが、渡米後からずっとお世話になったのが、
新渡戸のアメリカ留学時代の学友(ジョンズホプキンズ大学)で、
アメリカの大統領になったウッドロー・ウイルソンの一族の方々です。
特に、ウィルソン一族のフローレンスさんとは生涯の友になり、
この本『武士の娘』の刊行には、彼女の大きな尽力がありました。

杉本鉞子さんは、コロンビア大学で講師も務めましたが、
日本では、新渡戸博士ご夫妻と深いご縁もある普連土学園でも
教えたそうです。


2015/12/20

旧制一高の教え子、谷崎潤一郎

2015年12月12日(土曜日)

新渡戸稲造博士との関わりも深い聖路加国際病院/大学。
このあたりは、作家の谷崎潤一郎が幼少期を過ごしたところでも
あります。
谷崎潤一郎(1886年〜1965年)は、
新渡戸博士が旧制第一高等学校の校長時代の教え子の一人でもあります。
谷崎は、在校時、文芸部に所属し、校友会雑誌に作品を発表していました。

聖路加国際病院のすぐ前の会場(中央区立郷土天文館)で、
企画展「谷崎潤一郎と日本橋 〜文豪のルーツをたどる〜」が
偶然にも開催されていましたので、見学させていただきました。




前列中央に新渡戸校長、左隣が谷崎


2015/12/18

聖路加国際病院と新渡戸稲造博士

2015年12月

聖路加国際病院は、歴史のある都内有数の総合病院です。
104歳の日野原重明先生が、名誉病院長をされていることでも
よく知られています。


聖路加病院旧館(現在の聖路加国際大学)



新渡戸稲造博士は、この病院の設立にも関わっており、
病院と看護大学の評議員を務めました。
現在も旧館の正面玄関にその足跡を確認することができます。
この写真は、設立当時に建てられた石碑。
12ある穴(釘跡)は、戦時中に「神の栄光」と刻まれた礎石を
憲兵隊によって隠すよう命令され、御影石で覆っていた跡と
説明されています。



「この基礎石は、建物(旧館)が、1928年(昭和3年)1月に着工し、
 その後、1930年(昭和5年)3月28日に行われた定礎式で披露され、
 約67年間、旧館東口玄関に設置されていました。
 ・・・中略
 定礎式には、秩父宮両殿下を始め、各大臣、東京府知事、
 警視総監、各国大公使、新渡戸稲造の署名士たち400名が出席
 されました。
 ・・・後略」

 定礎式の当日は、内村鑑三が亡くなった日でもありました。

新渡戸博士の鎌倉の別荘は、新渡戸の没後、メアリー夫人によって
聖路加看護大学(現在の聖路加国際大学)に売却されています。
鎌倉の別荘跡の訪問については、こちら

今回、大学史編纂資料室のご厚意で、関連資料を閲覧させて
いただくことができました。
松山事件の後、新渡戸博士がこの病院に入院されていたことなども
確認できました。

旧館内部

旧館内部


この病院のある明石町(東京都中央区)は、かつて外国人居留地
でした。


中庭には、設立者トイスラー博士(Dr. Teusler)の旧宅(洋館)も保存されています。

また、同地には、「芥川龍之介生誕の地」と書かれた案内版も。


芥川もまた、新渡戸校長時代の旧制一高の生徒でした。
(このあたりで幼少時代を過ごした谷崎潤一郎については、こちら。)

2015/12/06

狩野亨吉展

2015年12月4日(金曜日)

東京大学駒場博物館にて
「東京大学駒場博物館 秋季特別展
 教育者・蒐集家・鑑定人
 狩野亨吉(かのうこうきち)生誕150周年記念展」




2015年10月17日〜12月6日

狩野亨吉先生(1865年〜)は、新渡戸稲造校長の前任の
旧制第一高等学校(現 東京大学教養学部)校長でした。
久しぶりに東大駒場博物館に向かいました。

狩野亨吉校長は、同級の親友、澤柳政太郎校長(のちに
成城学園を創立)の後任として、
明治31年(1898年)、一高校長に着任。33歳。

「全寮制」「ろう城主義」「四綱領」「自治」「文武両道」へ。

新渡戸稲造博士が、同校の校長に就任したのは、
アメリカで『武士道』を出版した後。1906年〜1913年。
一高で「ソシアリティー」を教え、新風を吹き込みました。
のちに活躍する多くの人材を育て、影響を与えました。

今回の記念展によって、
狩野校長の幅広い活躍について知ることができました。
会場で放映していた映像「一高130周年記念 ああ向陵よ 向陵よ
(約40分 2004年 一高同窓会)には貴重な動画が含まれ、
興味深く拝見しました。

以下、映像視聴メモ

一高生徒「選ばれし者の誇りと責任」
「教育」の充実に向けて
明治7年 東京英語学校(前身)
明治10年 予備門
明治27年 第一高等学校
昭和5年 「行軍」「紀念祭」記録フィルム(当時の一高の生活がわかる)
昭和10年 本郷から駒場に移転
     9月14日8時半 全職員/生徒が本郷を出発
            皇居前遥拝式
            警視庁、国会、渋谷を行進/沿道に多くの市民

岩本貞(てい)ドイツ語 総持寺に哲学碑
安藤昌益『自然真営道』

「校友会雑誌」「向陵時報」




2015/11/24

新渡戸記念中野総合病院

2015年11月23日(水・祝)

新渡戸稲造博士が、初代組合長として設立に尽力された
中野総合病院(東京都中野区)が、このたび、病院名を
「新渡戸記念中野総合病院」と改め、
この日、中野サンプラザにて、記念シンポジウムが行われました。


入江病院長・理事長様ご夫妻をはじめ、関係者のみなさま、
お招きいただき、ありがとうございました。

2015/11/20

松山の「ふなや旅館」

2015年11月11日(水曜日)

この秋、初めての四国、そして、松山/道後温泉を訪問しました。
道後温泉の宿泊は、偶然にも、新渡戸博士が滞在された由緒ある
旅館「鮒屋(ふなや)」さんです。


館内には、ここに宿泊されたゆかりの方々の紹介展示があります。
新渡戸博士についてもありました!



2015/10/25

拓殖大学 グローバルファシリテーター育成塾 

2015年10月21日(水曜日)

拓殖大学 グローバルファシリテーター育成塾(後期)
文京キャンパス

子ども大学 水戸

2015年10月24日(土曜日)

子ども大学 水戸にお招きいただき、新渡戸博士について
お話させていただきました。
週末にも学ぶ意欲にあふれる子どもたち、保護者の方々、
そして活動を支える大学生たちの姿に感動しました。

新渡戸博士ともゆかりの深い水戸を初めて訪問しました。

関係者の皆様、ありがとうございました。


2015/10/17

「新渡戸菊」の研究

2015年10月16日(金)13:30〜16:30

「新渡戸菊キックオフシンポジウム
 ー 新渡戸菊のかけはし ー 」

星薬科大学 大谷記念ホール(東京都品川区)


新渡戸稲造を語る 内川 頴一郎 (新渡戸基金理事長)
新渡戸稲造と医療 樋野 興夫 (順天堂大学教授)
新渡戸菊の栽培と沖縄の取り組み 川満 芳信(琉球大学農学部教授)

(敬称略)

ブラジル原産で中国や台湾で民間薬などとして使われている
「新渡戸菊」の研究が、沖縄で進んでいます。
「新渡戸」の名前が付いているのは、新渡戸博士がこの植物を
日本に持ち込んだとされているからだそうです。
鮮やかな黄色の花が咲きます。

このシンポジウムには、盛岡から帰京の日に、そのまま東京駅から
直行して聴講させていただきました。
今後の研究と活用にが大いに期待されています。

2015/10/16

新渡戸稲造博士の命日祭

2015年10月15日(木)
盛岡グランドホテルにて

新渡戸博士の生誕の地、盛岡にて毎年開催されている
命日祭に出席させていただきました。

今年は記念対談として、
新渡戸記念中野総合病院理事長・院長の入江徹也氏と
新渡戸基金事務局長の藤井茂氏が語り合いました。

演題「新渡戸記念中野総合病院への道のり」

同病院は、初めての医療利用組合病院として、賀川豊彦氏と
新渡戸博士(初代組合長)の尽力により、昭和7年に開院。
このたび設立当初の精神にいま一度立ち戻ろうという思いを
込めて、病院名に「新渡戸記念」を冠することになりました。

同病院(東京都中野区)の近くには、新渡戸博士が校長を務めた
新渡戸文化学園(教え子の一人、森本厚吉先生による創立)もあります。








2015/10/13

田中館愛橘博士 岩手出身の国際人

2015年10月12日 岩手県二戸

初めて二戸(岩手県)を訪問しました。
今回の訪問の目的は、ここ二戸出身で新渡戸博士とも親交が
あり、国際的にも活躍された田中館愛橘博士の出身地を訪ね、
その原点を探ることです。
東京在住の曾孫様のご紹介で、まず二戸シビックセンターに
伺いました。

二戸駅に降り立つと、あたりは特に商店街などもなく、
住宅街の中を歩いてシビックセンターに向かいました。










田中館博士にちなんだ作品展と資料展(1階の展示室)













































新渡戸稲造博士追悼会 1937年4月

新渡戸博士の追悼会にて(写真のすぐ前)田中館博士 80歳
































シビックセンター内の田中館愛橘博士記念科学館を見学、その後、
田中館博士の原資料を資料室で拝見しました。
そのほとんどは曾孫様の寄贈によるものです。
書類ばかりではなく、愛用されていたカバン、帽子、タイプライターも
あります。






その後、センター長さんの運転で、田中館博士のゆかりの地や
お墓を巡りました。
二戸では、街の中心は駅周辺ではなく、美しい渓谷を渡った先に
あることがわかりました。


ゆかりの家(帰郷の際に滞在した家)



生誕地(母の実家「呑香稲荷神社」)と幼少時の学び舎「会輔社」

































冬には雪に覆われる二戸ですが、おかげさまで学び多き秋の一日を
過ごすことができました。
関係者のみなさまに感謝を申し上げます。

シビックセンターの庭から田中館博士の墓地を望む



2015/09/11

安原みどり著『山室機恵子の生涯』

2015年9月

山室 機恵子(きえこ)研究家の安原みどり様が、長年のご研究を
まとめ出版されました。
『花巻が育んだ救世軍の母 山室 機恵子の生涯
 〜宮沢賢治に通底する生き方〜』

山室軍平(救世軍)・機恵子夫妻と新渡戸夫妻は親交がありました。

安原様とは数年前、初めてお目にかかりました。
この春、久しぶりにお会いした時は、ご病気の再発がわかり、
出版のご意向を固めた矢先でした。
その後、「後進の研究者のために」と意欲的に取り組まれ、
最終校正終了後の二日後にお亡くなりになりました。
出来上がった本を手に取っていただけなかったことが無念です。
表紙は、山室機恵子(旧姓佐藤)の実家のある花巻の
美しい田園風景。著者の安原さんも一目で気に入られた写真です。

刊行後は、安原様のご家族、母校の盛岡一高、日本女子大学の
方々にご紹介いただきました。御礼を申し上げます。

同書につきましては、盛岡の新渡戸基金様にも多大なご尽力を
いただいております。
今後も著者のご遺志に沿うようできる限り努めたいと考えています。

ご冥福を心よりお祈りいたします。

2015/08/16

ロンドンだより その2「クエーカーハウス」

2015年8月7日 ロンドン

ロンドン市内、地下鉄Euton駅前にあるクエーカーハウスを
訪ねました。
新渡戸博士は、ロンドン在住時(国際連盟の仮事務局がロンドンにあった
1919年〜1920年ごろ)などに訪れています。
地下鉄の駅前の立派な建物ですが、駅の職員に尋ねてもあまりよく知られて
いないようでした。
図書室にて、「nitobe」でキーワード検索すると、数多くのヒット(該当)が
ありました。
そのいくつかを閉架資料の中から出してもらい、閲覧することができました。

中には、新渡戸夫人から同図書室への寄贈書籍もありました。
(署名は、新渡戸博士没後の1937年2月25日付け)




開架資料

図書室の内部





















原爆の日にも近く、ちょうど「Hibakusha Worldwide」という展示をやっていました。
世界中で今日でも危惧されている原子力発電による「被爆」の影響についてなどが
紹介されていました。







2015/08/11

ロンドンだより「カーライルハウス」

2015年8月7日(土) 英国 ロンドン

ロンドンで滞在中の家から徒歩10分。
新渡戸博士の生涯の愛読書『サーター・リザータス
(Satrtor Resartus=衣装哲学)』を著した、
トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)と妻ジェーンの旧宅を
訪ねました。
トーマス・カーライル(1795年〜1881年)は、スコットランド
出身の歴史家、作家で、内村鑑三ほか、日本人にも大きな影響を
与えた人物です。

現在はナショナルトラストが管理していて、
海外や国内からも多くの訪問者があります。

ここは、夏目漱石も留学中に訪ねていて、
訪問記「カーライル博物館」を執筆しています。

この日、事務所にて、過去の訪問帳を調査して、主に、
1919年〜1920年の日本人訪問者の記帳を探しました。
新渡戸博士のサインは、この期間では、二カ所で確認する
ことができました。
当時は、ヨーロッパを疲弊させた第一次大戦後で、
ちょうど後藤新平らと外遊中の新渡戸博士が、
国際連盟(The League of Nations)の事務次長就任の要請を
受け、事務所があったロンドンに滞在中でした。

新渡戸博士の教え子の一人、前田陽一氏の記帳もあり。

同行者のサインも残されており、大変興味深い。

そのほか、毎月のように日本人訪問者のサインが残されています。

写真撮影したデータを持ち帰り、帰国後、
詳しく調査するのが楽しみです。

カーライルハウスの方々には大変なご協力をいただきました。
カーライルと同時代を生きたご近所の画家ホイッスラーの
旧宅などもご案内くださり、楽しく充実した訪問になりました。
ありがとうございました。

当時を再現している庭(建物内部は撮影禁止)



2015/08/03

オランダだより「国際司法裁判所」

2015年8月2日(土)14時40分、ハーグ、オランダ
The Peace Palace (平和宮)






新渡戸博士が国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中、
同時代にオランダのハーグ(den Haag, The Hague)では、
安達峰一郎博士が司法の場で、国際的な活躍をしていました。




‘ten years of international jurisdiction 1922-1932 Mineichiro Adachi
Ten years of international co-operation, chapter III (International justice). 
- Genève, 1930

Search result with Adachi at the Palace Library

2015/07/27

スイスだより「波蘭(ポーランド)の国宝」

2015年7月24日(金)晴れ Rapperswil(ラッパーズヴィル)スイス

新渡戸稲造博士は、著書『東西相触れて』の中で、
「波蘭(ポーランド)の国宝」というエッセイを書いています。

「端西(スイス)のチューリッヒ湖水の傍にラッパーズヴィルという
小部落がある。・・・この町より一段高い所に六百年以前に築かれた
旧城がある。・・・この城をある有志家が買い求めて波蘭の史蹟を
保存する博物館とした。この館に収むるものは、・・・故国のために
悲惨なる運命を荷なった人々の衣服、書翰(書簡)、武器、肖像、
著述そのほか何ものにもよらず、所詮波蘭の国事に殉死した志士に
関するものをここに収めたのである。・・・これを衛るべき場所が
本国には得られぬ故、中立国なる端西(スイス)にして始めて
この保存を委ねらるるのである。
我輩も再三これを見舞うて、その都度不覚の涙を流した。」

新渡戸稲造全集 第一巻 p.243-245「「波蘭(ポーランド)の国宝」


チューリッヒ滞在中、新渡戸博士が何度も足を運んだこの博物館を
訪ねました。
チューリッヒから、電車で約40分。車窓からチューリッヒ湖の美しい
眺めを楽しみながら、ラッパーズヴィルへ。
新渡戸博士が訪問した当時と変わらず、博物館はこのお城の中に
あります。




この博物館はポーランドの歴史とともにいろいろな変遷を経て、
今日にいたっています。

お城の入口


博物館の入口

館の説明文によると、入口に掲げてある紋章の三つの掲示板は、
当時からのオリジナルのようです。
新渡戸博士も目にしたことでしょう。


1927年の博物館内の展示

現在の博物館は、1954年に開館。
1989年、民主化によってポーランドが共和国となった後、
博物館はポーランドのほかの博物館や図書館などとともに運営される
ようになり、1990年、現在の展示になりました。




ポーランドの偉人として、キュリー夫人の紹介コーナーがありました。
新渡戸博士が訪れた当時、新渡戸博士は、まさにキュリー夫人らと共に、
国際知的協力委員会(のちのユネスコ)を発足したころです。


実際に使用していたキュリー夫人の実験道具
スイスとポーランドの友好関係のシンボルですが、
スイスの友人たちにとっては、このポーランド博物館だけが、
特別なものではないようです。
スイスは、ほかの国からもさまざまなものや移民を受け入れて
きている国なのです。
受け入れる中立国としてのスイス、故国の貴重な品々を国外で保存
しなければならない事情があった国々。
それぞれの立場や心情を察すると、
新渡戸博士のみならず、感慨深い思いがあります。