・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2018/04/04

鈴木貫太郎と妻タカ夫人

『武士道』のその後
(『新渡戸稲造ものがたり』p.225より下記を引用)

第二次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト
大統領が亡くなると、鈴木貫太郎首相は、アメリカと戦争中にも
かかわらず、偉大な指導者を失ったアメリカ国民に対し、
日本を代表してすぐにお悔やみの電報を送り、
その全文がアメリカの新聞に載りました。
ドイツの作家で、当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは、
「ドイツでは、みんなが万歳、万歳と叫んでいるのに、
 日本はお悔やみの言葉を送ってきた。
 やはり、日本はサムライの国だ」
と語ったと言われています。敵の国に対するこのような態度に
よって、「武士道」の精神が国境を越えて、世界の人々に
感動を与えました。

(『新渡戸稲造ものがたり』第十三章 没後 稲造が遺したもの)
(引用終わり)

終戦時の難しい時期に首相を務めた鈴木貫太郎の妻たか夫人の父は、
新渡戸稲造と札幌農学校で同期生の足立元太郎です。

・鈴木たか
1883(明治16)年、札幌生まれ。戸籍名は「たか」。
(鈴木貫太郎は、「孝子」などと記述している場合がある)
父、足立元太郎は、札幌農学校卒業、農商務省横浜生糸研究所技師。
東京女子高等師範(いまのお茶の水女子大学)で幼児保育を学び、
同附属幼稚園の教師。
明治38年から大正4年までの10年間、裕仁(昭和天皇 4歳〜)、
秩父宮(3歳〜)の養育係。
1915(大正4)年、海軍次官鈴木貫太郎と結婚。

たか夫人が、幼稚園の教師だった時の教え子の祖父に菊池大麓(だいろく)
がいました。
菊池は、学習院院長、東京帝国大学総長、文部大臣、
枢密顧問官などを歴任、皇室と強いつながりがあり、その推薦で、
たかは、皇室の養育係となりました。

子どもの頃の昭和天皇と一緒に遊び、昭和天皇の誕生日には、
毎年呼ばれました。

1978(昭和53)年十二月、昭和天皇は、須崎御用邸での記者会見で、
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくしました。・・・」
と話されています。

鈴木貫太郎は、太平洋戦争の始まる前の1936(昭和11)年2月に起きた
二・二六事件で襲撃され、最後の一撃を制止させたのが、
たか夫人です。(当時、鈴木貫太郎は侍従長)
(この事件の前夜、鈴木貫太郎夫妻や斎藤實夫妻らは、アメリカのグルー大使に
招かれ、外出していました)
事件が起こったのは、その翌日の早朝のことでした。
鈴木貫太郎がピストルで何発か撃たれて倒れ、「トドメ、トドメ」の声が上がると、
銃剣とピストルを突きつけられていた夫人が、
「とどめはどうかやめていただきたい」
と叫び、入ってきた指揮官の安藤輝三(歩兵第三連隊の将校)が、
「トドメは残酷だからやめろ」
と命じました。かつて、秩父宮の直接の部下だった安藤は、
皇子たちの養育係だった、たか夫人の存在を知っていたようです。
指揮官は、たか夫人に、
「奥さんのことは、かねてお話に聞いておりました。
 まことにお気の毒なことをいたしました。
 ・・・ひまが(時間が)ありませんからこれで引き揚げます」
と言い残して、立ち去りました。
出血多量の重症を救った医師の一人、塩田広重東大教授を呼んだと
されているのが、町村金五(宮内大臣秘書官)。
町村の父、町村金弥もまた、足立元太郎(たか夫人の父)と札幌農学校で
同期でした。

鈴木首相夫妻は、二人とも昭和天皇に近い存在で、陛下から信頼されて
いました。
1945(昭和20)年、首相に任命された鈴木は、辞退すると、天皇陛下から
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時にあたってもう他に人は
いない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
と直接言われたことから、高齢(77歳)にもかかわらず
引き受けました。たか夫人は、夫の覚悟を知ります。

たか夫人は、嫁入りの時、日本刀を持参、
そして、戦後、鈴木首相の故郷の関町に隠居して、地域の農業振興を
支援しました。たか自身も酪農の知識があったようです。
札幌農学校で学んだ父、そして出身地北海道の影響でしょうか・・・。

鈴木貫太郎記念館の入り口にある「為萬世開太平」

鈴木貫太郎 肖像画

記念館の内部

鈴木貫太郎記念館 入り口付近

鈴木の父、由哲の教えは、
「人間は怒るものではないよ、怒るのは、自分の根性がたりないからだ。
 怒ってすることは、成功しない」。
母、きよの教えは、
「絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。
 これが親に対するなによりの孝行である」。

鈴木の教訓は、
『正直に 腹を立てずに たゆまず励め』

鈴木没後も、たか夫人は度々この教訓を書き残しました。
二・二六事件で命を狙われ、終戦に反対する勢力に家を焼かれた
鈴木夫妻が、それでも自らの境遇を受け入れ、祖国や天皇陛下への
忠誠心を常に強く持ち続けた生涯を思うと、
両親の教えと、この教訓が重く響きます。

参考資料:『妻と家族のみが知る宰相』保阪正康 毎日新聞社
     『昭和天皇の親代わり 鈴木貫太郎とたか夫人』若林滋 中西出版
      カルチャーラジオ NHKラジオ アーカイブス
      「声でつづる昭和人物史 鈴木貫太郎の妻たか夫人」

鈴木貫太郎記念館 訪問日 2018年1月7日(写真撮影)

2016/08/03

クラーク博士の関連文書が札幌市文化財に。

2016年8月3日(水曜日)

本日の岩手日報に次のようなニュースが掲載されています。

クラーク文書 文化財に 新渡戸署名の「契約」も 札幌市指定

札幌市は、北海道大の前身・札幌農学校の初代教頭クラーク
(1826〜86年)が起草し、盛岡市出身の新渡戸稲造や、内村鑑三らが
署名した「イエスを信じる者の契約」や聖書など、クラークゆかりの
キリスト教関連文書7点を、市の文化財にこのほど指定した。
札幌市によるクラーク関連の文化財指定は初めて。
市によると、いずれも札幌市中央区の札幌独立キリスト教会が
所有する。


2015/12/31

藤田正一著『札幌遠友夜学校』

2015年12月

札幌の藤田正一先生が、ご著書『札幌遠友夜学校』を
お送りくださいました。
この冊子のご発行については、先ごろ閉室になった遠友夜学校記念室
の再開、そして、遠友夜学校の貴重な資料を国の文化遺産に、
という強い気持ちが込められています。

遠友夜学校記念室(2011年に訪問)については、こちら



藤田先生は、北海道大学の元副学長/名誉教授でいらっしゃいます。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』執筆のため同大学を訪問した際に
初めてお目にかかりました。
平成遠友夜学校」の校長先生でもいらっしゃいます。
その後、『日本のオールターナティブ 〜クラークが種を蒔き、北大の
前身、札幌農学校が育んだ清き精神〜』(2013年12月)の出版の
お手伝いをさせていただきました。
同書については、こちら


2015/06/27

大島正満博士 没後50年 記念講演会

2015年6月26日(金)15:00〜17:00
海老名市交流館(厚木駅下車)

1 開会の辞

2 演題「動物学者としての大島正満と札幌農学校」
  大島 智夫 氏 (大島正満 八男/横浜市立大学名誉教授)

3 演題「大島正満の想い出」
  大島 久子 氏 (大島正満 五男の妻/音楽教育者)

4 演題「大島正満=台湾における動物学研究の先駆者」
  郭金泉(かくきんせん)氏 (台湾国立海洋大学 教授)

5 ピアノ演奏 大島 妙子 氏(大島正泰・久子 長女)

6 閉会の辞

(司会 大島富士子 氏)


大島正満博士は、大島正健博士(札幌農学校第一期生)のご長男。
台湾での功績を顕彰したいと、郭金泉教授が、ある日、台湾から
大島正満博士のご家族を探して訪ねて来られ、今回の記念講演会が
実現したと伺いました。

大島正満博士の生涯について、大島智夫氏のご講演、
博士の晩年15年間を一緒に暮らされた大島久子様からは
日常生活のエピソード、
郭教授からは、大島博士の学術的な研究や経歴についての
ご紹介がありました。

大島正満没後50年 記念冊子
「キリスト信徒としての動物学者 大島正満の生涯」
 大島 智夫 著
 発行:2015年6月26日(非売品)
 

新渡戸稲造博士は、終生、大島正健博士と親しくされ、
晩年には、札幌で共に洗礼を受けたハリス神父の墓参りに
でかけています。(1928年6月2日 東京の青山墓地)

その際の写真2枚は、『新渡戸稲造ものがたり』p.190に
掲載。


参考
『随筆 不定芽』大島正満 著 昭和九年 刀江書院
p.13〜21「新渡戸博士の書」


2015/04/03

台湾 磯永吉と末永仁 二人の日本人農業技師

2015年3月14日(土) 国立台湾大学 農業試験場「磯 永吉 小屋」

台湾のお米は、大変おいしいのですが、
そのお米「蓬萊米(ほうらいまい)」について、
台湾大学の農業試験場内にある「磯 永吉(いそ えいきち) 小屋」
で紹介されています。





それまでの在来米を改良し、日本人の好みに合った「蓬萊米」
の栽培を可能にしたのが、磯 永吉博士(1886年〜1972年)と、
末永 仁(すえなが めぐむ)博士(1885年〜1939年)です。

二期作が可能な台湾で、良質なお米が取れるようになり、
内地(日本の本土)向けの生産が増えて、台湾の経済発展に
つながりました。

磯博士は、北海道帝国大学(旧札幌農学校、現在の北海道大学)の
農学博士。新渡戸稲造博士の後輩にあたります。

「磯 永吉 小屋」には、蓬萊米の父、磯 永吉博士と
蓬萊米の母、末永 仁博士の銅像とともに、
当時の実験器具や資料などが展示され、二人の功績が顕彰されています。










このお二人の胸像を制作されたのは、許文龍氏です。
収集した写真を元に、自ら粘土で制作し、鋳型を起こして、
銅像に仕上げたそうです。
その思いについて、許文龍氏は、次のように述べています。
(館内の展示資料より)

〈 磯 永吉、末永 仁、両人の胸像を造るに想うこと

台湾における稲作の発展において、磯永吉博士は「蓬萊米の父」、
末永仁農事試験場長は「蓬萊米の母」と尊敬をもってこう呼ばれています。

昔、まだ貧しい時代には食卓で蓬萊米を口にすることは本当に贅沢なこと
でした。私たちは、今の幸せの根源を忘れず、お米を口にするたびに
その恩徳に感謝すべきではないでしょうか。

以前、私はシンガポールに住んでいたことがありますが、
シンガポールでは、その土地に功績を残した英国人を讃え、
その名を通りの名前として残し、あるいは、銅像を建てて
後世にその功績を伝えています。インドにおいてでさえも
英国人の銅像をきちんと残しています。私は、その土地に功績のあった
人々に対し、国籍を問わず敬意をもってその功績を讃え、記念すべきだと
思っています。(以下、略) 許文龍 2012.4.19 〉

許文龍氏は、日本の統治時代の台南に生まれ、日本の教育を受けて
育ちました。
許氏は、常に公平な視点で日本の統治について評価されています。
また、台湾を代表する実業家であり、病院や博物館を設立するなど
積極的に社会貢献をおこなっていらっしゃいます。

許文龍氏訪問についての記事は、こちらへ。

台湾ビールにも、蓬萊米が原料として使われています。

すっきりおいしい台湾ビール
現在の国立台湾大学は、
1928(昭和3)年、日本の第七番目の帝国大学として、設立されました。
現在の大阪大学や名古屋大学よりも前のことです。
1945年、日本の敗戦により、日本の統治時代が終わると、
中華民国政府によって、国立台湾大学となり、現在にいたっています。









2014/11/10

第6回武士道講読会講演会

2014年11月7日(金)18時〜
学士会館(東京・神保町)

第6回武士道講読会講演会
鈴木範久先生講演会「内村鑑三研究60年」

昨年に続き、今年も学士会館での武士道講読会の講演会に
出席させていただきました。

今回の講演者は、内村鑑三研究の第一人者でいらっしゃる、
鈴木範久先生(立教大学名誉教授)です。
鈴木先生は、NHK Eテレ「内村鑑三」にもご出演され、
同番組は、録画して何回か視聴させていただきましたので、
この日、直接お話を伺える機会を大変楽しみに伺いました。

内村鑑三は、新渡戸稲造と幼少の頃からの友人で、東京から共に
札幌農学校(現在の北海道大学)に入学、終生の友人でした。

鈴木先生のご講演は、長年の内村研究のお話、内村全集のこと、
内村の思想、新渡戸と内村の信仰の比較など、興味深いお話でした。
特に、よく語られている新渡戸と内村の信仰の違いについて、
鈴木先生は、「最近、大きな違いではないのではと考え始めている」
とおっしゃっていたのが印象的でした。

活発な質疑応答の後、懇親会が続きました。
今回も、新渡戸稲造博士と深いご縁のある、
北海道大学と東京女子大学の両学の同窓生の方々が
親しく交流されていた様子が感動的でした。

ご挨拶は、山田純子様(東京女子大学同窓会会長)と
大山綱夫様(北星学園理事長)。
乾杯は、松谷有希雄様(国立保健医療科学院院長)。

その後、東京女子大学の現役の学生さんたちに、武士道会から
本の贈呈式もおこなわれました。
北海道大学の卒業生で、東京女子大学名誉教授の鳥山英雄先生から
図書が贈られました。
まさに両学の架け橋にふさわしい鳥山先生による贈呈式でした。

スピーチでは

田中美保子先生(東京女子大学准教授)から、
「北海道帝国大学が初めて女子学生を受け入れた際、その10名のうち
 5名が東京女子大学出身の学生だった」というエピソード。

堀田国元様(財団法人 機能水研究振興財団理事長)は、
「知られざる新渡戸稲造人脈:ディスカバー 岡見京」のご研究の
発表がありました。
岡見京 医師は、新渡戸博士の友人 岡見千吉郎の妻で、
海外で医学を学んで女医になった日本で最初の女医。
また新たな新渡戸人脈を知ることになりました。
興味深いお話と資料をご提供いただきました堀田様に感謝申し上げます。

三上節子様(新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会)は、
札幌からのご参加で、札幌で計画中の新渡戸稲造記念館の建設や
作文・論文コンクールのご紹介がありました。
詳細は、新渡戸稲造と札幌遠友夜学校を考える会のホームページへ。

司会は、武士道講読会の桜庭慎吾様でした。

今回も多くの方々にお声をかけていただき、ありがとうございました。
北海道大学武士道講読会の皆様に心より御礼を申し上げます。


2014/07/04

クラーク精神とロータリー

昭和11年10月7日の札幌RCの例会では、札幌訪問中の平生文部大臣が
次のように挨拶をしています。

引き続き、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)から引用します。

「・・・私はこのたび北海道大学に参り、色々創立当初よりの事情を見聞した
 のでありますが、実に感激に堪えないものが多かった。
 殊にウイリアム・スミス・クラークがわずか8ヵ月の間にその基礎を作ったと
 いうことは驚くべきことであるが、そのクラークは英国から移住した
 ピューリタンの血を受けた立派な人格者で『人を造る』という点に非常な
 力点を置いたことは吾らの学ばねばならんことであります。

 大学の50年沿革史で拝見したことであるが、時の黒田清隆氏は、
 『文化の進歩を図ることは、人を造ることである。その成果によって
 国が栄えもすれば衰えもするものである』といわれているが、
 宣なるかなと思う次第であります。
 新聞を編集する1人の学生が私の許に来り、『北大は自然科学だけであって
 人文科学がないから精神文化について欠けるところがあるのではないか』と
 尋ねました。
 そこで私は答えてそれはあれば好いが、而して人文科学がないために精神と
 いうことは当たらない。クラーク先生の如きは科学者であったが、
 当時如何に多くの人物を生んだことであるか。

 私はロータリーの精神が正しく徹底して会員がそれぞれ身を以て
 社会に奉仕すれば決して国が衰えるような心配はないと考えます。
 希くばService above Selfの精神を以て尽瘁(注:じんすい=自分の苦労を
 顧みることなく力を尽くすこと)して頂きたい。
 今や日本は思想的にも非常時であるが、ロータリアンがこれが打開に当って
 一層の責任のあることを自覚しなければならぬと思います。

 本日は突然出まして所感を述べさせて頂きうれしく思います。」

平生 釟三郎(ひらお はちさぶろう)1866年〜1945年
日本の実業家、教育者(甲南学園創立者)、政治家(文部大臣、貴族院議員)
1935年、ブラジルのコメンダトール勲章を受章。灘購買組合(日本初の生協)の
設立や、大阪ロータリークラブの設立にも尽力した。


佐藤昌介男爵とロータリークラブ

2014年6月18日(水)米山梅吉記念館

ロータリークラブは、国際的な社会奉仕連合団体のメンバークラブの総称。
1905年、アメリカのシカゴで誕生し、日本では、1920年、米山梅吉氏が、
初めてロータリークラブを設立しました。

今回の記念館訪問で、意外なことを発見しました。
それは、新渡戸博士の兄のような存在だった、同郷の佐藤昌介(北大初代総長)が、
ロータリークラブのガバナー(国際ロータリーの管理役員)を務めていたことです。
記念館の2階、ロータリークラブに関する展示室で、
佐藤昌介男爵の写真をみつけた時は、驚きました。

ロータリークラブのメンバーは、企業家や事業家(会社経営者)が中心である
というイメージをもっていたからです。

記念館の展示資料には、
「1936(昭和11)年7月、佐藤昌介(札幌)ガバナーに就任。」
と書かれています。(新渡戸は、1933年に逝去)

札幌農学校第一期生だった佐藤昌介は、アメリカ留学後、母校の教授に就任。
新渡戸博士と共に、日本初の農学博士になり、また、北海道大学(札幌農学校)の
初代総長、日米交換教授(第二代目。初代は新渡戸)を歴任するなど、
一貫してアカデミックな分野で活躍されましたので、ロータリアンで、
しかも、ガバナーまで務めていたとは、意外でした。

米山梅吉記念館の展示室に掲載されている佐藤昌介の写真

後日、学芸員の市川真理様が、関連資料をご提供くださり、
ガバナー就任の経緯などを知ることができました。

以下、『三十年の歩み』(札幌ロータリークラブ)より、抜粋します。

「札幌RCの誕生由来(p.4)
 札幌のRC(ロータリークラブ)は、東京RCのお世話により誕生。
 札幌では、大正時代から社会俱楽部を設立していて、市内一流の実業家らが、
 会合を随時おこなって、一つは修養にもつくし、一面明るい文化的都市を築くために
 努力もしていた。
 昭和7年12月3日が発会式、初代会長には、前北海道帝国大学総長の
 佐藤昌介男爵が推された。
 一世の徳望を担った佐藤男爵の会長就任は、俱楽部の充実をみて、その後、
 ガバナーともなり、札幌クラブを、日本ならびに世界のRCに強く認識せしめた。

 札幌RCの大きな移りゆき
 第一期時代(昭和7〜昭和11)(p.5)
 初代会長は佐藤男爵、札幌農学校第一期生として卒業生中最初に教授となり、
 さらに校長に就任、札幌農学校を護り育てて東北帝国大学農科大学に昇格
 せしめて学長となり、さらに北海道帝国大学として総合大学へ進展せしめて
 初代総長となって北大の礎石を造った本道の第一人者として厳然たる存在で
 あった。
 札幌RC の会員には会長としての適任者はほかにいくらでもあったのであるが、
 佐藤男爵を重んじ、昭和11年6月まで毎年改選期に再選されて、
 会長を歴任された。

 初代の米山ガバナー(東京3期)についで、・・・
 第5代は、わが佐藤男爵がガバナーに就任されたのである。
 東京、横浜、大阪からガバナーが選出される前例を破ってまだ田舎都市であった
 札幌からガバナーを出すことは破天荒であったが、これにはもとより佐藤男爵の
 ロータリアンとしての人格識見、ガバナーとして好適の人格者として
 認められたことも原因しようが、歴代ガバナーがこれを支持せられ、
 東京外大クラブがこれを支援せられた賜というべく、
 札幌RCの生みの親クラブの東京RCと常に連繋を保っていたことが大きく
 影響したものである。

 昭和10年においては、昭和9年の本道の凶作に対処し1月凶作義捐金を寄附し、
 4月には台湾の震災にお見舞いした。

 昭和11年において特記すべきは5月に佐藤男爵が次期ガバナーに当選したことで、
 ・・・佐藤男爵が渡米することになり、たまたまクロフォード・マカロー氏が
 来札されるのを機としてマカロー氏歓迎と佐藤男爵渡米壮行会を兼ねて
 会を催したことも記憶されるべきこと・・・」
 (注:マカロー氏は、前IR会長)

このほか、この資料からは、札幌RCへの訪問者は、多岐にわたる人々で
あったことがわかります。役人や大学関係者、芸術家などもいらっしゃいます。
また、家族会の開催や、ニコニコ箱、ロータリーソングなど、
いまに続くロータリークラブの恒例行事が、もうすでにこの時からの
伝統であったこともわかります。

新渡戸稲造博士は、札幌を第二の故郷として大切に思っていました。
6歳年上の佐藤昌介男爵は、同じ岩手県の出身で、稲造のアメリカ留学の際も、
先に留学していた佐藤に強く勧められて、ジョンズ・ホプキンズ大学で共に学び
その後、札幌農学校の教授に就任した佐藤のおかげで、稲造は同校の助教として
ドイツに公費留学することができました。
さらに、東京女子大学の初代学長に稲造を推薦した一人は、佐藤といわれています。
公私ともに、稲造のよき先輩、また兄貴分だった佐藤男爵が、稲造の没後、
ロータリークラブと深い関わりがあったのです。

佐藤昌介は、稲造没後6年を経て、1939(昭和14)年、83歳で人生の幕を閉じています。

個人的にも、メンバーの家族として、20年以上前から関わりのある
ロータリークラブについて、また、「米山奨学金」のことなど、初めて学ぶことができ、よい機会になりました。

このたびの米山梅吉記念館訪問につきましては、同館学芸員の市川真理様と
井上靖文学館(長泉町)の松本館長様にお世話になりました。
ありがとうございました。

米山梅吉記念館(静岡県駿東郡長泉町)
米山梅吉記念館のホームページは、こちら

2014/06/12

『武士道』の翻訳者 飯島正久様を訪ねて

2014年6月1日(日)八ヶ岳南麓にて

飯島正久様のお宅を訪問して、お話を伺いました。
飯島様は、1921(大正10)年のお生まれ。
長年、キリスト教の伝道者として活動されていらっしゃいました。
1975(昭和50)年、八ヶ岳南麓大泉町に転居され、週末に、
横浜の港キリスト教会(単立)に通われていましたが、現在では、大泉町で
聖書研究と著作活動に専念されています。

飯島様は、『武士道』(新渡戸稲造・著)を日本語に翻訳され、
教会の会報誌「家庭の聖書月刊誌・牧歌」に連載(1990年3月号〜1992年6月号)。
その内容を、キリスト教関係者以外の一般読者にもわかりやすいよう手を入れて
一冊の本としてまとめて、出版されました。
(月刊「牧歌」の発行は、500回を数え、400〜500人の読者がいらしたそうです)

『武士道 【日本人の魂】』
新渡戸稲造・著 飯島正久・訳/解説
築地書館 1998年10月1日



このたび、ご縁をいただき、飯島様のお嫁さんにあたる飯島恵美子様のご厚意で、
訪問の機会に恵まれました。

飯島様は、北海道の帯広在住時、弁護士だった父親の勧めで、札幌に移り、
遠友夜学校(新渡戸稲造夫妻が創立)で、およそ1年半ほど学ばれたそうです。

キリスト教の伝道者になった理由は、
慶応大学経済学部卒業後、商社丸紅に就職が決まっていたそうですが、
太平洋戦争の学徒出陣で、多くの学友を失い、
(フィリピンへの輸送船が撃沈され、268名中、たまたま帰省許可が出ていた
 自分ともう一人の2名のみが難を逃れた)
とても普通に会社勤めをする気持ちになれなかったからです。

飯島正久 様


飯島様は、内村鑑三門下の山本泰次郎氏を恩師とされ、尊敬していらっしゃいました。
また、ご自身の伯母様から、新渡戸博士直筆サイン入りの英語の『武士道』を
贈られています。

以下、飯島様の本の「訳者まえがき」の冒頭を引用します。
「私の手元に百七十ページ余りの小さな英語の本がある。一九一五年(大正四年)に
 日本で発行された古い本だか、私にとっては、大切な蔵書の一つである。
 著者は新渡戸稲造といい、題名は、BUSHIDO(武士道)、なお副題として
 THE SOUL OF JAPAN(日本の魂)とある。この本の扉には、新渡戸稲造の
 雄渾な英文のサインがあり、一九九〇年一月二日にこの世を去った私の伯母、
 飯島さと(旧姓上野)にあてて、「from her school uncle  一九一六年 東京」とある。
 新渡戸稲造にかわいがっていただいた若き日の伯母が愛蔵し、後にその伯母から
 直接私に贈られたものである。」
 (『武士道 【日本人の魂】』p.1より)

飯島様の伯母さと様は、津田塾大学を卒業され、のちには、同校の教師もされていた
そうです。「from her school uncle」という新渡戸博士の表現に、津田塾と博士の関係が
よく表れています。

「アンクル・ニトベ(Uncle Nitobe)女子英学塾(津田塾大学)
 一九〇〇(明治三十三)年、稲造がアメリカで『武士道』を出版した年の夏、
 津田梅子は、東京に女子英学塾(津田塾大学)を設立しました。
 もともと女子教育に深い関心があった稲造は、アナ・C・ハーツホーンたちと
 ともに女子英学塾の理事になりました。稲造は、女子英学塾の学生のために、
 武士道や日米関係などについての講演を長年にわたりおこないました。
 分厚い眼鏡の奥で、やさしくいたずらっぽくほほえむ稲造を、学生たちは、
 親しみをこめて「Uncle Nitobe(新渡戸おじさん)」と呼びました。
 (『新渡戸稲造ものがたり』p.113より)


直筆サイン入りのご著書をいただいていることからは、伯母様が、新渡戸博士に
大変かわいがられていらしたと想像できます。

飯島様の『武士道 【日本人の魂】』は、翻訳のみならず、随所に飯島様の
解説が入り、とても理解しやすい内容になっています。
また、飯島様は、ご出版まもなく、新渡戸博士のお孫様(加藤武子様と思われます)
にお目にかかる機会があり、
「一番(原文に)忠実に訳していただいて」と喜んでいただいた、
と話されていました。

このたび、飯島正久様と恵美子様には、貴重なお話を伺うことができ、
後ろ髪を引かれる思いで、お宅を後にしました。
晴天の八ヶ岳が美しく、青空の青色、新緑の緑がまぶしく輝いていました。

飯島様、ご紹介いただきました山本様ご夫妻に感謝申し上げます。

左から 飯島恵美子様 飯島正久様 筆者


2014/06/09

坂本家(坂本龍馬の本家)と北海道

2014年5月31日(土)日野春アルプ美術館

週末に訪れた「日野春アルプ美術館」で、思いがけず、北海道開拓に関する話を
聞かせていただきました。

鈴木館長様が長年かけて収集された山岳書籍や雑誌、山岳絵画などを展示している
私設美術館です。
今回、訪問した際は、臨時休館日でしたが、館長さんのご厚意で見学させていただき、
また興味深いお話をたくさん伺うことができました。




山小屋風の素敵な建物の一階に、山岳画家「坂本直行」の絵画を飾ったコーナーが
あります。お花の絵は、北海道の帯広にある六花亭の包装紙のモチーフになっていて
見覚えがあります。





坂本直行(1906年〜1982年)は、坂本龍馬の長兄の子孫にあたり、坂本家第8代目当主。
(長兄とは、NHK『龍馬伝』にも登場していた権平兄さん)
坂本龍馬は、北海道(蝦夷地)開拓を考えていたと伝えられていますが、その後、
高知の坂本家が、北海道に転居し開拓に関わっていたとは、館長さんの話で初めて
知りました。また、坂本直行氏は、北海道大学農学実科で学んでいます。

新渡戸博士は、札幌を「魂のふるさと」と考え、大切に思っていらっしゃいました。
十代の多感な時を過ごし(札幌農学校=いまの北大)、生涯の友人たちに出会い、
のちには教師として戻り、妻メアリーと新婚生活を始め、我が子が眠る地でした。

坂本直行氏と新渡戸博士の接点があったとしたら、新渡戸博士の最後の札幌訪問の
時かもしれません。

1931(昭和6)年、亡くなる二年前に、博士は二十二年ぶりに札幌を訪問しました。
「北海道帝国大学(母校の札幌農学校)では、有名な国際人となった稲造の講演を
 学生たちが心待ちにしていて、中央講堂は早くから大勢の学生たちであふれました。」
 『新渡戸稲造ものがたり』p.197より



八ヶ岳南麓の地で、思いがけず、北海道の話を伺うことができました。
ありがとうございました。





2014/03/14

シンポジウム「新渡戸稲造とこれからのグローバル化」

国際シンポジウム:
 新渡戸稲造とこれからのグローバル化
 ー『武士道』と国際人ー

 日時:2014年3月21日(金・祝)
    13:00〜18:00 開場:12:30
 会場:ステーションコンファレンス東京 605室
    東京都千代田区丸の内1-7-12 サピアタワー6階
 定員:約200名
    (参加費無料、事前予約不要、途中入退室可)
 使用言語:日本語

 主催:北海道大学文学研究科・文学部
 お問い合わせ:文学研究科・研究推進室(011-706-4083)

プログラム

司会:佐々木 啓(北海道大学大学院文学研究科教授)

開会挨拶(13:00~13:10):𢎭 和順(北海道大学大学院文学研究科長) 

第1部 講演: 国際人 新渡戸稲造
(13:10~16:00) 
→各講演の要旨はこちらです

  ①「新渡戸稲造と札幌農学校の国際人」(13:10~14:00)
  ミシェル・ラフェイ(北海道教育大学准教授)

  ②「二十一世紀に読む『武士道』」(14:10~15:00)
  トレント・マクシ(米国アマースト大学准教授)   

  ③「新渡戸稲造の光と影」(15:10~16:00)
  権 錫永(北海道大学大学院文学研究科教授) 

第2部 パネルディスカッション: 人文学研究のグローバル化とその可能性(16:20~17:50) 

コーディネーター
     曽根 優 
(NHKアナウンサー/北海道大学文学部出身) 
・パネリスト
     トレント・マクシ (米国アマースト大学准教授) 

     ミシェル・ラフェイ (北海道教育大学准教授) 
     権 錫永 (北海道大学大学院文学研究科教授)
     日野 峰子 (会議通訳者/北海道大学文学部出身) 

     白木沢 旭児 (北海道大学大学院文学研究科教授) 

閉会挨拶(17:50~18:00) 新田 孝彦(北海道大学理事・副学長)


2013/12/16

藤田正一著 『日本のオールターナティブ』

このたび、北大の元副学長、藤田正一先生の新著、
『日本のオールターナティブ ---クラーク博士が種を蒔き、
 北大の前身・札幌農学校で育まれた清き精神---』(銀の鈴社刊)が
刊行されることになりました。

『日本のオールターナティブ 
 ---クラーク博士が種を蒔き、
  北大の前身・札幌農学校で育まれた清き精神---』
 
藤田 正一 著

 A5判、並製、360ページ / 本体価格2,400円+税
    2013年12月25日 発行

日本の進む道はこれで良いのか、他に道は無いのか。
日本の進むべきもう一つの道への道標がここにあった。

「明治の初年、当時の日本の北辺の地、人口2千人足らずの街、札幌に
アメリカ流の自由と民主主義を基調とした教育を行う学校、札幌農学校が設立された。
一方、首都東京には東京帝国大学が国の国家主義政策のもとに設立された
主流となったのは国家主義教育であった。が、オールターナティブ(もう一つの選択肢)
として札幌農学校の教育が圧力を受けながらも札幌の地に存続し続けた。
そこに植え付けられたピューリタン精神の理想主義は、伝統的な武士道精神と融和して
一つの精神となり、以降、この農学校精神が近代日本の国のあり方や人の生き方に、
常に、清きオールターナティブを提案し続けた。」(本文より)


表紙(北大のポプラ並木/撮影 藤田正一)





2013/11/23

『新渡戸稲造博士と安井てつ先生の出会い』

2013年11月22日(金) 東京 学士会館

東京女子大学同窓会 山田純子会長講演会
『新渡戸稲造博士と安井てつ先生の出会い』
ー東京女子大学卒業生が語るおふたりの精神ー

主催:武士道講演会
後援:北海道大学東京同窓会、東京女子大学同窓会、(社)札幌農学同窓会東京支部
協賛:エルム27会東京

講演会
1 開会 18時 司会 武士道購読会      三原晃一 氏
  主催者挨拶    武士道購読会主宰    齊藤昇三 氏
  講師紹介     東京女子大学前学長   湊 晶子 氏

2 ご講演

3 懇親会   司会 武士道購読会      桜庭慎吾 氏
  ご挨拶      東京女子大学前学長   湊 晶子 氏
           東京女子大学名誉教授  鳥山英雄 氏
  乾杯       北大東京同窓会副理事長
           国立保健医療科学院院長 松谷有希雄 氏
4 歓談
  スピーチ     恵泉女学園短期大学元学長 
           今井館教友会理事長   大山綱夫 氏
           東京女子大学同窓会理事 小尾充子 氏
           新渡戸稲造と遠友夜学校
           を考える会(札幌)   三上節子 氏
           同           中川厚雄 氏
           東京女子大学同窓会元理事
           日本翻訳家協会常務理事 叶谷渥子 氏

5 両校の校歌・寮歌斉唱



このたび、新渡戸先生と関わりの深い両大学の同窓会合同の催しに、
出席させていただくことができました。

東京女子大学同窓会会長の山田純子様より、新渡戸先生と安井先生の出会いに
ついてのご講演がありました。
お二人の生涯の共通点・相違点、信仰、職業・活動歴、そして、
1900年、パリでの出会い(新渡戸37歳、安井30歳)、
1918年、東京にて東京女子大学創立時の出会い(新渡戸55歳、安井48歳)。
さらに、東京女子大学の卒業生が語るお二人の人物像の分析など、
大変興味深いご講演内容でした。

その後の懇親会では、両大学同窓会の方々のご挨拶と乾杯、スピーチが
続き、「新渡戸稲造と遠友夜学校を考える会」の活動報告がありました。
札幌の遠友夜学校跡は、現在、その土地利用の方法について活動が始まって
います。(会長 秋山孝二 氏)

最後に、両大学の校歌・寮歌が披露されました。
東京女子大学の校歌は、同大学の同窓生の方々(女性)によって、
まるで賛美歌のような美しい歌声。
続いて、北大の「都ぞ弥生」(明治45年寮歌)を、北大の同窓生
の皆様(男性)が肩を組んで勇ましく歌いました。

「都ぞ弥生」を歌う北大組/聞き入る東女大組

対照的な二大学の校歌・寮歌を思いがけず楽しませていただきました。
ただ一人の傍観者となった私ですが、「新渡戸先生がここにいらしたら、
さぞ感慨深いことでしょう」と思いました。

このたびの講演会・懇親会に出席させていただきまして、ありがとう
ございました。関係者の皆様に御礼申し上げます。



2013/11/07

少年よ大志を抱け!クラーク博士と教え子たちの北海道物語

NHK 歴史秘話ヒストリア(2013年10月30日放送)
「少年よ大志を抱け!クラーク博士と教え子たちの北海道物語」

【番組の内容(抜粋)】


クラーク博士は、1926年、マサチューセッツ州の裕福な医師の家に生まれる。
エリート校である、アマースト大学へ進学。その後、26歳で教授に抜擢され、
化学、植物学、動物学を教えた。
1867年(40歳)、マサチューセッツ農科大学を設立して学長に就任。
牛を育て、酪農に力を注ぐ。酪農は、このころ欧米でも最先端の分野だった。

1876年、日本から使者がやってきて「日本で酪農を教えていただきたい」と頼まれる。
当時の日本は戊辰戦争後で、多くの若者が傷つき、復興には、若者を教育することが
必要だった。しかし、学長が2年間留守にすることはできないと反対の声があがる。
クラークは、日本の置かれた状況に同情した。南北戦争で多くの教え子を
失った経験から(戦死者はアメリカ全土で62万人)、ぜひ未来ある若者たちに農業を
教えたいと考えたからである。
クラークは、「私は日本に行く。2年分の仕事を1年で終わらせて戻ってきます」
と宣言。愛する妻子を残し、日本の復興のために、遠く日本へ渡った。

1876(明治9)年、横浜に到着。24人の第一期生が札幌農学校に入学。
クラークは、「将来の日本を支える立派な技術者にしてみせる」と誓った。

当時、札幌農学校の入学生は、元武士の次男や三男。戊辰戦争の敗戦組が
ほとんど。農民と同じ仕事をすることに抵抗を感じていた子どももいた。
中には、連日のように酒を飲んで荒れる生徒もいて、授業もままならなかった。
開校から一ヵ月で5人が退学処分。多くの規則が作られた。

さらに、
アメリカの牧草を育てることに対し、酪農の経験のない農家の賛同を得られない。

クラークは生徒を集めると、大好きなワインを投げ捨て、禁酒を宣言したので、
生徒たちにも酒を禁止した。
クラークは、「Be gentleman!」だけを規則とした。

生徒たちは、「イエスを信ずるものの誓約書」に署名。

クラークの体当たりの熱血指導
野外学習で、めずらしい苔を発見すると、クラークは、自ら四つん這いになり、
「自分の背に乗って、苔を取れ」と主張し、日本人生徒たちを驚かせた。
次第に、教師と生徒という立場を越えて、強い絆で結ばれるようになった。
「教師と生徒との距離が近いこと」がクラークの魅力。

クラークが構想したモデルバーン(現在も北大構内に残る)は、
北海道全域で建設された。

現在の札幌市時計台は、もともと札幌農学校の「演武場」。
1877(明治10)年、クラーク博士の帰国が近づいたころ、西南戦争が始まる。
生徒たちのために、演武場を作り、自ら身を守る術を学ばせたかったのである。
南北戦争で、多くの学生たちを戦場で死なせてしまった後悔があったからだった。

別れの日。生徒たちは父を失うような思いだった。
馬上のクラークは、
「Boys, be ambitious, like this old man」
少年を大志を抱け、この老人(クラーク)のごとく。
と言い残して去っていった。教え子たちに残した最後のメッセージである。
(ここで、藤田先生が登場されていました)

アメリカに帰国後も文通を続け、教え子たちの教師であり続けた。

1885(明治18)年、58歳。体調をくずしていたクラークを新島襄が訪問。
(新島襄は、クラークの最初の日本人学生)
新島は、「先生は日本を深く愛していた」と書き残している。

翌年、クラークは亡くなった。(59歳)
「日本で生徒たちと過ごした日々が、私の人生において最良の時間だった」と
クラークは書き残している。札幌農学校ではその日の授業を取りやめ、
演武場で、教え子たちは、次々にクラークに感謝の言葉を述べた。
生徒たちは、「毎晩先生のところを訪ね、人生のさまざまなことを語った」
などと回想している。

その後、北海道の酪農は大きく発展した。
「少年よ、大志を抱け」のメッセージもいまに続いている。
(終わり)

新渡戸稲造は、札幌農学校第二期生。
クラークの指導は直接受けていませんが、クラークの後継者として来日した
アメリカ人教師たちによって、英語で教育を受けました。
「教師と生徒との距離が近いこと」。新渡戸博士は、これを札幌農学校で経験し、
その後、欧米の留学で実感し、その恩恵を受けたからこそ、自らの教育姿勢と
なっていったのではないでしょうか。





マサチューセッツ大学創立150年記念シンポジウム

このほど、藤田正一先生(北海道大学 元副学長、同名誉教授)が、
マサチューセッツ大学の創立150年記念シンポジウムで基調講演をおこない、
帰国されました。

マサチューセッツ大学The University of Massachusetts)

1863年創立のマサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agriculture College)は、
現在のマサチューセッツ大学アマースト校の前身で、
第三代学長を務めたのが、ウィリアム・クラーク博士です。

クラーク博士は、マサチューセッツ農科大学の学長の時、日本政府からの要請を受け、

札幌に約8ヵ月滞在し、札幌農学校(現在の北海道大学)の基礎を築きました。
クラーク博士から直接指導を受けた札幌農学校第一期生(新渡戸博士と同郷の先輩、
佐藤昌介ら)そして、クラークのアメリカ人の教え子たちから教育を受けた、
第二期生(内村鑑三、宮部金吾、新渡戸稲造ら)以降の学生たちに、
その教育精神が受け継がれていきました。

マサチューセッツ大学のホームページは、こちらへ。(英語)

創立150年記念サイトは、こちら。(英語)

以下、藤田先生からの報告文をご本人の許可を得て掲載します。



演題は「Dr. W. S. Clark: Influence of His Educational Philosophy on Japanese Education
(クラーク博士の教育精神が日本の教育に及ぼした影響)」。
クラーク博士が日本を去った後、クラーク博士の精神がどのように札幌農学校に
受け入れられ、継承され、新渡戸稲造や内村鑑三を生み、
戦後、彼らの教え子たちが制定した教育基本法に影響を与えたかについて述べた。
これらはマサチュセッツ大学の人々にとって,初めて聞く話で、
非常に興味深かったようで、「論文に纏めてくれ」と言う申し出が何人からかあった。


2011/11/15

北海道大学文書館

地下鉄南北線、中島公園駅から、地下鉄に乗って北海道大学へ。

今回の訪問先、北海道大学文書館(図書館4階)へ行く前に、晩秋のキャンパスを
散策しました。北国の紅葉は、目が覚めるような美しさです。





晩秋のポプラ並木。


そして、ポプラ並木のすぐ横の稲造博士像




北海道大学文書館には、さまざまなオリジナル文書が保管されています。


新渡戸稲造博士がアメリカで出版した 'Bushido'(『武士道』)のタイトルが
赤字で印刷されている出版社の封筒で、新渡戸博士が宮部博士に宛てた手紙、
新渡戸夫人メアリーさんの直筆などもあります。


『書簡集からみた宮部金吾』(北海道大学出版会)にリストアップしてある書簡の実物も
見せていただきました。

そのほか、多くの文書、写真が整理され保管されています。
資料を用意しておいていただき、ありがとうございました。

北海道大学博物館も再訪し、札幌農学校の歴史、新渡戸稲造先生関連の展示を見ました。

2011/07/17

北大キャンパスめぐり

札幌農学校一期生、新渡戸稲造と同郷の佐藤昌介
クラーク博士から直接薫陶を受けた一人

後に同校校長、
1907年(明治40年)東北帝国農科大学になり学長、
1918年(大正40年)北海道帝国大学となり学長就任
帝国大学昇格に尽力し、「北大の育ての親」といわれている


古河講堂


1909年に古河財閥により建設された講堂
アメリカ・ヴィクトリア様式



芝生の美しいキャンパス



旧札幌農学校昆虫学及養蚕室(重要文化財)
1901年、札幌農学校が、現在のキャンパスに移転した際に建てられた、
現存する最も古い建物



美しいキャンパスを維持するために、あちらこちらで作業しています。芝の匂いが香ります。


北海道大学・総合博物館

北大キャンパスにある総合博物館


正面玄関


一階の展示室では、大学の歴史が紹介されています
かなり詳しく充実した展示内容です


佐藤昌介、新渡戸稲造など、多くの関係者の展示



新渡戸稲造夫妻が札幌に創設した遠友夜学校についての展示も



一階のミュージアムショップも充実しています