・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2020/09/30

2020年 国際連盟100年

 2020年9月30日

アジア歴史資料センターのニュースレターで、

今年は、1920年に創設された国際連盟の創設100年であることが

報告されています。

新渡戸稲造博士が、常任理事国の日本から事務次長として選出され、

はじめは、ロンドンで、のちにジュネーブに渡り、発足当初から、

日本の代表者としてではなく、国際機関の代表者の一人として、

世界平和のために尽くしました。

当時、新渡戸博士は、すでに57歳。年長者としても尊敬を集めましたが、

他にも日本人の若い外交官たちが連盟の活動を支え、活躍していたことが

わかります。

ニュースレターの記事は、こちら

2020/03/07

新渡戸夫人と鈴木大拙夫人の動物愛護運動

新渡戸夫人のメアリーさんが、日本で動物愛護運動をおこなったことは、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』でも紹介しました。

以下、同書からの引用ーーーーーー

p.147
日本人道会(Japan Humane Society)動物愛護運動
1915(大正4)年、日本で動物愛護運動の先駆けとなった日本人同会が
生まれました。稲造とメアリーは発起人になり、小日向の自宅で
会合を開きました。動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、
当時の皇后陛下から活動資金が下賜されました。
活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど
日本に住む外国人が中心で、欧米式の動物愛護精神を日本に広める
という大きな役割がありました。(中略)
当時の日本には、動物を生きものとして扱うという考え方が
まだ広くゆきわたっていなかったからです。
「動物愛は、人類愛の延長である。・・・・・」
と稲造は書いています。

p.148 注
日本人道会(大正五年十一月〜大正六年十月)の幹事
名誉会長  鍋島直人
名誉副会長 後藤新平
理事長   新渡戸萬里子(新渡戸夫人)
専務理事  廣井辰太郎
理事    田島道治
理事    前田多門
理事    鶴見祐輔 ほか

ーーーーー以上、引用終わり

一方、鈴木大拙夫人のビアトリス(Beatrice Lane Suzuki)も
動物の保護活動に精力を注いでいたことがわかっています。
ビアトリス夫人は、北鎌倉の円覚寺正伝庵に、犬猫のための保護施設を
設けていたこと、鎌倉には、新渡戸夫妻も別荘を構えていたことから、
この二人のアメリカ人女性に接点はなかったのでしょうか。

この疑問の答えを探して、数年前に東慶寺で井上住職様(故人)に
相談したことがありました。
井上住職様は、ビアトリス夫人と動物の世話にあたっていた
「関口この」さんという方のご関係者にも照会してくださいましたが、
残念ながら、詳細についてはわかりませんでした。

このたび、松ヶ岡文庫年報の最新刊で、
「鈴木ビアトリスと動物たち 〜松ヶ岡文庫所蔵資料に見る〜」
(日沖直子)が掲載されました。

その論文の中で、次のように書かれています。



円覚寺の敷地内に場所を借り、バーネット夫人や日本人道会の
援助を受けて、捨てられた犬や猫を保護する「バーネット記念動物保護
慈悲園」(Barnett Mercy Animal Shelter、以下慈悲園)が開設されたのである。

(中略)

一般に、日本の動物愛護運動の黎明期においては、日本人男性主導の
動物愛護会と、外国人女性主導の日本人道会の2つの流れがあったことが
先行研究によって指摘されている。前者のメンバーには、牧師出身の
リーダー、広井辰太郎とともに、ユニテリアンや仏教改革派の論者が
多く含まれていた。後者は、形の上では鍋島侯爵などを会長に据えつつ、
実際にはバーネット夫人や新渡戸夫人などアメリカ人女性が中心となって
活動したグループであり、キリスト教的背景を伴っていた。

(ビアトリスは、日本人同会に援助を受けながらも、両者にとらわれない
 自由な活動を展開、関口このと二人三脚で実務をこなし、慈善家として
 知られていた九条男爵夫人武子や国際的人道家のアルベルト・シュバイツアー
 の行き方を鑑み、やがて仏教的な自然観と生物観を模索)
(慈悲園は、特定の団体に属さない独立した施設であり、それゆえ
 資金面での問題が深刻であったようだ)

以上、引用、抜粋ーーーー

慈悲園を支援した寄付者リストには、新渡戸夫人の名前もあるようで、
この両夫人の接点、そして、日本における動物愛護にかける共通の
思いがあったことが伺えます。
鈴木大拙や新渡戸稲造を含んだ個人的な関わりがあったかどうかは
わかりませんが、これまで気になっていたことが少し判明しました。
また、当時の国内外の動物愛護運動のこともわかりました。

鈴木大拙は、動物愛護がビアトリスの業績の重要な一部分を占めていたと
考えていたようです。『青蓮仏教小観』の「はしがきと思ひ出」ほか







2020/02/01

新渡戸稲造と「安全保障」

2020年1月28日(火曜日)

交詢社「安全保障研究会」新年会

真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」

上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。

ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・

まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。

最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」

そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)

新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。

山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、

過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。

このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。



2020/01/14

ハヴァフォード大学の新渡戸奨学基金

2020年1月14日

以前、ハヴァフォード大学に「新渡戸」の名前を冠した
日本人留学生のための奨学金制度があると聞いたことがあり、
調べてみたことがありました。

「Haverford College Bulletins, 1969-70」
(この印刷物は、Internet Archiveで閲覧することができます)

上記のp.183に、Inazo Nitobe Scholarship Fund(新渡戸奨学基金)として、
次のような説明が掲載されています。

Established in November, 1955, under the will of Anna H. Chace, 
the income to be used and applied for the education at Haverford College 
of a Japanese student who shall be a resident of Japan and 
the time of his appointment to such scholarship and for his traveling expenses 
from and to Japan and his living expenses during the period he shall hold such scholarship.

実際にその基金を提供したAnna H. Chaceという人物について、
Rhode Island Historical Societyによる説明では、
Chace Family Papers Of Philadelphia and Rhode Islandとして、
次のように記されています。

Historical note:

            Jonathan Chace (1829-1917) was born into a prominent Quaker family in Valley Falls, R.I. His father was textile manufacturer Harvey Chace (b.1797), and his mother was Hannah Wood Chace (1800-1833). Harvey Chace was a nephew of famous abolitionist Elizabeth Buffum Chace and had himself been active in the Underground Railroad. Jonathan settled in Pennsylvania, where he established a dry goods business, and met and married Jane C. Moon (1831-1914). They had two daughters: Anna H. Chace (1856-1945) and Elizabeth M. Chace (1868-1955). Neither of the daughters ever married.
            Jonathan eventually returned to Rhode Island, and served as U.S. Representative from 1881 to 1885. He was elected U.S. Senator in 1885, and resigned in 1889. In 1910, he and his family moved from their residence in Central Falls to 190 Hope Street on the east side of Providence.
            Both the daughters, Anna and Elizabeth, led active interesting lives, and seem to have generally acted together, with Anna perhaps the more frequent traveler while Elizabeth tended to stay in Rhode Island. According to their obituaries, they were both active in the international peace movement, and traveled frequently to Geneva as observers at League of Nations sessions. They both also remained devout Quakers.