・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2019/12/10

『増田義一伝』藤井茂・著

2019年12月3日(火曜日)

盛岡の新渡戸基金理事長/事務局長の藤井茂様が
『一代の出版人 増田義一伝』を出版され、この日、
東京京橋の明治屋さんにて、出版を祝う会が催されました。

増田義一という人物は、実業之日本社の創業者で、
新渡戸稲造、大隈重信、渋沢栄一などから大きな信頼を得ていました。

新渡戸博士は、実業之日本社の編集顧問にも就任しています。

この日の祝う会には、実業之日本社の会長・増田義和様(ご令孫)、
同社の社長・岩野裕一様をはじめ、
北海道や青森、四国などの遠方から、新渡戸博士関係の方々も数多く
ご参集されました。

藤井様は、新渡戸基金の理事長としてのお役職のほか、
執筆、ご講演、編集など、幅広いお仕事を精力的にこなされ、
いつも頭が下がる思いがいたします。

藤井様、このたびは、本当におめでとうございました。

2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/06/13

新渡戸博士の農業思想

2016年6月 読書メモ


『現在に生きる日本の農業思想 安藤昌益から新渡戸稲造まで』
2016年1月30日 ミネルヴァ書房


第一章 グローバル化のなかの農業思想
    内村鑑三と新渡戸稲造     並松 信久

第二章 二宮尊徳思想の現代的意義
    幕末期の農村復興に学ぶ    並松 信久

(第三章 中国における尊徳研究の動向と可能性)
    
第四章 安藤昌益の人と思想
    直耕・互性・自然       三浦 忠司

2016/05/25

『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』

2016年5月22日(日曜日)午後6時〜

『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』出版記念会

アルカディア市ヶ谷(私学会館)東京・市ヶ谷

このたび、藤井茂氏(新渡戸基金事務局長)と
長本裕子氏(新渡戸文化中学校高等学校 元校長)の共著、
『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』が出版されました。
同書は、昨年、お二人が盛岡市の新聞「盛岡タイムズ」に
一年にわたり毎日連載した新渡戸博士の言葉とその解説を掲載しています。

出版記念会には、新渡戸文化学園の先生方や新渡戸研究に関わって
いらっしゃる多くの方々がご参集されました。

あらためまして、著者のお二人に心よりお祝いを申し上げます。






草原先生による祝辞




発行:一般財団法人 新渡戸基金
   2016年5月28日



2016/05/21

『田中館愛橘ものがたり』

2016年5月21日(土曜日)

このたび、『田中館愛橘ものがたり ひ孫が語る「日本物理学の祖」』
を刊行いたしました。
田中館愛橘(たなかだて あいきつ)博士は、新渡戸博士と同じ、
南部藩の出身です。現在の岩手県二戸市に生まれました。
世界的に活躍された学者です。
地球物理学のほか、地震の研究、航空学、またローマ字の普及にも
取り組まれました。

田中館博士(1856年〜1952年)は、長年、新渡戸博士とも親交がありました。
また、新渡戸博士が主導した国際連盟の知的協力委員会(いまのユネスコの前身)
の委員も務めました。

同書『田中館愛橘ものがたり』では、
晩年に博士と共に生活された、ひ孫の松浦明様が、家族ならではの逸話なども
紹介され、子どもたちに優しく語りかける内容になっています。

松浦様の労作になりました。
このたびのご出版に心よりお祝いを申し上げます。
また、奥様の郁子様をはじめ、ご協力いただきました関係者の皆様に厚く御礼を
申し上げます。



発行:銀の鈴社
   2016年5月21日

田中館博士の出身地、二戸訪問については、こちら

2015/12/31

藤田正一著『札幌遠友夜学校』

2015年12月

札幌の藤田正一先生が、ご著書『札幌遠友夜学校』を
お送りくださいました。
この冊子のご発行については、先ごろ閉室になった遠友夜学校記念室
の再開、そして、遠友夜学校の貴重な資料を国の文化遺産に、
という強い気持ちが込められています。

遠友夜学校記念室(2011年に訪問)については、こちら



藤田先生は、北海道大学の元副学長/名誉教授でいらっしゃいます。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』執筆のため同大学を訪問した際に
初めてお目にかかりました。
平成遠友夜学校」の校長先生でもいらっしゃいます。
その後、『日本のオールターナティブ 〜クラークが種を蒔き、北大の
前身、札幌農学校が育んだ清き精神〜』(2013年12月)の出版の
お手伝いをさせていただきました。
同書については、こちら


2015/12/30

武士の娘「杉本鉞子」(すぎもとえつこ)

2015年12月29日 10:00〜11:49
BS1 スペシャル「武士の娘 鉞子とフローレンス
〜奇跡のベストセラーを生んだ日米の絆〜」

以前、ある方から、
「新渡戸稲造や武士道を研究しているのなら、ぜひこの人のことも・・・」
と紹介していただいたのが、杉本鉞子(えつこ)という人物です。

長岡出身の杉本鉞子さん(1873年〜1950年)は、元武士の娘でしたが、
アメリカ在住の日本人と結婚するために、渡米しました。
1925年、英語で「A Daughter of the Samurai(『武士の娘』」を書き、
当時、欧米で注目されました。
新渡戸稲造が、英語で『武士道』を出版(1900年)したちょうど25年後、
新渡戸博士が国際連盟の事務次長としてスイスのジュネーブに滞在して
いたころです。
杉本鉞子さんが、渡米後からずっとお世話になったのが、
新渡戸のアメリカ留学時代の学友(ジョンズホプキンズ大学)で、
アメリカの大統領になったウッドロー・ウイルソンの一族の方々です。
特に、ウィルソン一族のフローレンスさんとは生涯の友になり、
この本『武士の娘』の刊行には、彼女の大きな尽力がありました。

杉本鉞子さんは、コロンビア大学で講師も務めましたが、
日本では、新渡戸博士ご夫妻と深いご縁もある普連土学園でも
教えたそうです。


2015/08/11

ロンドンだより「カーライルハウス」

2015年8月7日(土) 英国 ロンドン

ロンドンで滞在中の家から徒歩10分。
新渡戸博士の生涯の愛読書『サーター・リザータス
(Satrtor Resartus=衣装哲学)』を著した、
トーマス・カーライル(Thomas Carlyle)と妻ジェーンの旧宅を
訪ねました。
トーマス・カーライル(1795年〜1881年)は、スコットランド
出身の歴史家、作家で、内村鑑三ほか、日本人にも大きな影響を
与えた人物です。

現在はナショナルトラストが管理していて、
海外や国内からも多くの訪問者があります。

ここは、夏目漱石も留学中に訪ねていて、
訪問記「カーライル博物館」を執筆しています。

この日、事務所にて、過去の訪問帳を調査して、主に、
1919年〜1920年の日本人訪問者の記帳を探しました。
新渡戸博士のサインは、この期間では、二カ所で確認する
ことができました。
当時は、ヨーロッパを疲弊させた第一次大戦後で、
ちょうど後藤新平らと外遊中の新渡戸博士が、
国際連盟(The League of Nations)の事務次長就任の要請を
受け、事務所があったロンドンに滞在中でした。

新渡戸博士の教え子の一人、前田陽一氏の記帳もあり。

同行者のサインも残されており、大変興味深い。

そのほか、毎月のように日本人訪問者のサインが残されています。

写真撮影したデータを持ち帰り、帰国後、
詳しく調査するのが楽しみです。

カーライルハウスの方々には大変なご協力をいただきました。
カーライルと同時代を生きたご近所の画家ホイッスラーの
旧宅などもご案内くださり、楽しく充実した訪問になりました。
ありがとうございました。

当時を再現している庭(建物内部は撮影禁止)



2015/06/27

大島正満博士 没後50年 記念講演会

2015年6月26日(金)15:00〜17:00
海老名市交流館(厚木駅下車)

1 開会の辞

2 演題「動物学者としての大島正満と札幌農学校」
  大島 智夫 氏 (大島正満 八男/横浜市立大学名誉教授)

3 演題「大島正満の想い出」
  大島 久子 氏 (大島正満 五男の妻/音楽教育者)

4 演題「大島正満=台湾における動物学研究の先駆者」
  郭金泉(かくきんせん)氏 (台湾国立海洋大学 教授)

5 ピアノ演奏 大島 妙子 氏(大島正泰・久子 長女)

6 閉会の辞

(司会 大島富士子 氏)


大島正満博士は、大島正健博士(札幌農学校第一期生)のご長男。
台湾での功績を顕彰したいと、郭金泉教授が、ある日、台湾から
大島正満博士のご家族を探して訪ねて来られ、今回の記念講演会が
実現したと伺いました。

大島正満博士の生涯について、大島智夫氏のご講演、
博士の晩年15年間を一緒に暮らされた大島久子様からは
日常生活のエピソード、
郭教授からは、大島博士の学術的な研究や経歴についての
ご紹介がありました。

大島正満没後50年 記念冊子
「キリスト信徒としての動物学者 大島正満の生涯」
 大島 智夫 著
 発行:2015年6月26日(非売品)
 

新渡戸稲造博士は、終生、大島正健博士と親しくされ、
晩年には、札幌で共に洗礼を受けたハリス神父の墓参りに
でかけています。(1928年6月2日 東京の青山墓地)

その際の写真2枚は、『新渡戸稲造ものがたり』p.190に
掲載。


参考
『随筆 不定芽』大島正満 著 昭和九年 刀江書院
p.13〜21「新渡戸博士の書」


2015/06/11

『坂西志保さん』

2015年6月 国際文化会館

坂西志保さんについて、国際文化会館(東京都港区六本木)
の関係から興味を抱いて調べていたところ、
坂西志保さんご自身がお書きになった「私の遺言」
(追悼集『坂西志保さん』に掲載)の中で、
新渡戸博士とのエピソードがありました。
以下、引用して紹介します。

 ・・・そこで提案されたのは、短期間の海外留学ということ
 であった。相談を受けた新渡戸稲造先生は、それもよい
 だろうといわれたということであったが、私はそのことを
 全然知らなかった。本人は平然としているが家族のものは
 何時までもほったらかしにしておくにもいかず、先生のところへ
 駆けつけたのは窮余の一策ということだったのであろう。
  豪放らい落な先生は、一度小石川の自宅に呼んでくださった
 ことがある。学校から頼まれてお説教することになっていた
 のだそうであるが、そんな気配は少しも見せず、北海道の風物や
 初期の開拓民の心構えを、アメリカのそれらと比較し、興味深く
 語られた。同席された夫人は「新渡戸は、私よりもアメリカびいき
 なんですよ」とつけ加えられた。
  私はお説教を聞かされずに釈放された。これはまだアメリカが
 第一次欧州大戦に参加しない前のことで、先生は、ウィルソンの
 新しい民主主義の解釈とアメリカの国際的使命についての考え方に
 大きな期待をかけていられるようであった。しかし、大戦も終わり、
 ウィルソンも失意の人として世を去り、一九二〇年代の初頭に、
 アメリカが日本人排斥の方向に歩み出した時、先生はアメリカを
 許さなかったのである。
 (『坂西志保さん』p.51〜「私の遺言」鈍行列車の旅 p.63-64)


この時期、新渡戸博士は東京女子大学の初代学長。
文面からすると、おそらく家族かまわりの人間が、坂西さんの処遇に
ついて新渡戸学長に相談したことがうかがえます。
坂西さんのその後のアメリカ滞在とその功績、帰国してからの活動を
考えると、渡米前のこの時期に新渡戸博士と面会していることは
非常に興味深いことだと思います。

新渡戸学長はこの後まもなく後藤新平伯と外遊し、国際連盟事務次長に
就任することになります。

坂西さんは結局、「大学在籍(東京女子大学)四年を一年半で打ち切り、
資格をとるため、文部省の中等教員検定試験を受けてこれもパス」した後、
関東学院で英語を教え、一九二一年、アメリカに留学。学業終了後も
アメリカに残り、米国議会図書館などで要職を歴任されました。
そして、一九四二年、日米開戦により、帰国。
滞米は、二十余年に及びました。
帰国後も、翻訳/執筆のほか、ご実績と人脈から多くの仕事をされ、
一九七六(昭和51)年、大磯のご自宅で亡くなりました。79歳。

この「私の遺言」は、雑誌「暮らしの手帖」に1世紀97号(一九六八年秋)
から2世紀5号(一九七〇年春)まで掲載されたもの。
ご自身による伝記のように書かれていますが、途中、くも膜下出血で中断、
回復後に再開することなくご逝去されたそうです。

『坂西志保さん』
昭和五十二年十一月一日
『坂西志保さん』編集世話人会 代表 松本重治
発行 国際文化会館



2015/06/09

新渡戸博士が一高の生徒たちに教えた詩

新渡戸博士と親交のあった渋沢栄一氏の四男 渋沢秀雄氏が
旧制第一高等学校の生徒だった時、校長が新渡戸博士でした。
渋沢秀雄氏は、ご著書の中で次のような思い出を書いています。

(以下、渋沢氏の著書より引用 ↓ )


私は物静かな先生がよくロングフェローの詩を
愛誦された聲を今でも思い出す。

"Some day must be dark and dreary."

同時に何といふこともなく
「眞理が忍び足で世に現れた」
といふ中世紀の時代相が脳に浮かんでくる。

渋沢秀雄『通学日記』東宝書店 昭和16年
「新渡戸校長」p.19-20 より

(引用おわり)

作者のヘンリー・ロングフェロー(1807〜1882)は、
アメリカで広く愛された、著名な詩人でした。
裕福な家庭の娘を妻にし、多くの子どもにも恵まれましたが、
不慮の事故で最愛の妻を失うなど、その人生には
深い悲しみもありました。

多くの詩作品を残していますが、新渡戸校長がよく生徒たちに
愛誦されたという、この詩の全文は以下の通りです。
今年も梅雨の季節を迎えたので、新渡戸博士が愛した詩
「The Rainy Day」を紹介します。

The Rainy Day

The day is cold, and dark, and dreary;
It rains, and the wind is never weary;
The vine still clings to the mouldering wall,
But at every gust the dead leaves fall,
And the day is dark and dreary.

My life is cold, and dark, and dreary;
It rains, and the wind is never weary;
My thoughts still cling to the mouldering Past,
But the hopes of youth fall thick in the blast,
And the days are dark and dreary.

Be still, sad heart! and cease repining;
Behind the clouds is the sun still shining;
Thy fate is the common fate of all,
Into each life some rain must fall,
Some days must be dark and dreary.

Henry Wadsworth Longfellow
http://www.hwlongfellow.org


"Some day must be dark and dreary."

「(人生には)暗く、荒涼を感じる日があるもの」

人生には、喜びも悲しみもあるということを、
時には、深い悲しみを経験することがあることを
「雲の裏側では、それでも太陽が光り輝いていることを」
新渡戸校長は生徒たちに伝え、
励まそうとされたのかもしれません。

2015/05/19

新聞記事「今こそ」新渡戸稲造

2015年5月18日(月)朝日新聞(朝刊)文化・文芸 掲載記事

「今こそ」新渡戸稲造

百年前に「自己啓発本」を書いた元祖教養人。
もう一つの「教養」が、そこに。

かく語りき
「唯書物を読んだ、美術の批評が出来ると云ふだけが
 教育ではない。意志の力を養はなければならぬ」
(『読書と人生』から)

2015/04/17

タマシン・アレンさんと岩手

2015年3月30日(月)

今日は、太田愛人様と目黒安子様が、鎌倉のオフィスを
お訪ねくださいました。

太田愛人様は、新渡戸博士についても大変詳しく、これまでも
多くをご執筆されています。
新渡戸博士の一高での教え子、野村胡堂(岩手出身、
『銭形平次』作者、松田 瓊子の父)の研究家でもあります。
太田様は多くのご著書もあり、ご出身の岩手の人脈についてのお話は
いつも興味深く、勉強になります。
また、新渡戸博士の養女コト様らが設立した「愛の家」(東京都豊島区)
理事長でもいらっしゃいます。「愛の家」については、こちら

目黒安子様は、『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』
(2012年 教文館)のご著者です。
アレン先生が設立したアレン短期大学の学長をされました。

ご著書『みちのくの道の先 タマシン・アレンの生涯』より、
アレンさんと新渡戸博士の親交について、その一部を紹介します。

 ミス・アレンが岩手県を知ったのは新渡戸稲造との夕食の席
 だった。岩手県出身の新渡戸博士が流暢な英語で話す岩手農村の
 惨状は忘れられない印象をミス・アレンに与えた。
(同書 p.34)

 賀川(豊彦)は貧窮した人を救済するには「協同組合」を
 立ち上げなければならないと新渡戸稲造の協力を得る。
 産業組合のすこやかな運営だけが東北農村の貧しさを救い
 農村発展させる。新渡戸はこれに同意し帰国後、
 盛岡産業組合中央会岩手支会長と岩手県産業組合青年連盟総裁に
 就任したが、カナダで急逝する。新渡戸の「支え合う精神」に
 ついて語られることは少ない。一九三三年十一月十八日、
 新渡戸稲造の追悼式が盛岡で行われた。ミス・アレンは
 盛岡公会堂の壇上で葬送の曲をピアノで演奏し、その急逝を
 悼んだ。
 (同書 p.38)

その後、アレンさんはアメリカに帰国し、シカゴ大学大学院で学んだ後、
再び来日され、盛岡、そして、久慈へと移住し、久慈幼稚園を設立。
(ヴォーリス事務所の建築)
太平洋戦争が始まるとアメリカに強制送還されます。
戦争中も日本人収容所で働くなど日本人を支え続けました。
戦後、再来日すると、アレン短期大学など次々に学校の設立に関わりました。
勲五等瑞宝章などを受章されました。1976年、八十五歳で没。

今年(2015年)は、アレン先生の初来日100年にあたります。
目黒安子様は、このご著書を英訳出版されました。

' Build up, Build up, Prepare the Road!
 The life of Miss Thomasine Allen'
 Yasuko Meguro  2015 Kyo Bun Kwan

太田愛人様、目黒安子様のお話は、尽きることがないほどで、
私にとっても学び多き、光栄な日になりました。
ありがとうございました。






2015/03/31

台湾 許文龍氏を訪ねて

2015年3月10日(火) 奇美博物館(台南)を訪問

3月8日(日)に羽田空港から台北(松山空港)に飛行機で移動し、
新幹線で嘉義(かぎ)、映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」の
舞台となった地、にやってきました。

そして、3月10日(火)、さらに南下して台南の奇美博物館に車で
向かいました。高速道路が台南に近づくと、右手に大きな建物が
見えてきました。「CHIMEI」と大きく表示されています。
許文龍氏が起業された奇美実業です。

しばらくすると、広大な敷地の中に欧米風の大きな建物、
今年一月に開館した奇美博物館が見えてきました。
やっと駐車場に到着しましたが、建物ははるか向こう。
博物館前は、まるでタージマハール(インド)の前庭のようです。

奇美博物館の正面。博物館の建物がはるか向こうに見える

誘導に従って、さらにぐるっと敷地の外をまわり、
やっと建物の側に車を横付けすることができました。
顧問、副館長、元館長の皆様が外までお出迎えくださり、
ホッとしました。

とにかく大きな博物館で、とても私設の博物館とは思えないほどの
充実したコレクションに圧倒されました。

一時間ほど館内をご案内いただき、その後、
許文龍氏とお会いすることができました。

許文龍氏は、1928(昭和3)年のお生まれ。
日本の統治時代、台南で生まれ育ちました。
1959(昭和34)年、奇美実業を創業、世界有数の化学工業グループに
発展させました。ユニークな経営手法でも知られています。
そして、ご自身のお言葉によれば、創業以来「50年」もの時をかけて、
実現したのが、この博物館の創設です。

大志を抱き、そしてついに実現させたのです。

館内で一時間ほど、許氏とお話させていただき、大変光栄でした。
許氏からは、「なぜ新渡戸稲造の伝記を書いたのですか」などの
質問を受けました。
そして、部屋に飾られている「旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)」
(平成二十五年)、「拓殖大学名誉博士号」(平成二十七年)、
ご自身の作品(絵など)、写真を拝見しました。

許文龍氏は、日本の統治時代に台湾の発展に尽くした日本人たちの
功績に光をあてる活動もされています。

新渡戸稲造博士たちの胸像を、ご自身で制作、またはご発注され、
各地に寄贈していらっしゃいます。




許文龍氏からいただいた本『日本人、台湾を拓く。』(まどか出版)には、
これらの胸像について、書かれていらっしゃいます。

その後、ミュージアムレストランで昼食をいただき、
名残惜しい中、次の目的地、八田記念公園に向かいました。

このような素晴らしい機会を本当にありがとうございました。
許文龍氏、奇美実業と奇美博物館のご関係者のみなさまに
心より御礼を申し上げます。

奇美博物館(Chimei Museum)のホームページ(英語)は、
こちらへ。

2015/02/19

『李登輝より日本へ 贈る言葉』

台湾訪問を前に、李登輝(り・とうき、Lee Teng-hui)氏のご著書、
『李登輝より日本へ 贈る言葉』(2014年 ウェッジ)を読みました。



李登輝氏には、『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』など
多くのご著書があります。
ご自身の人生がそのまま祖国台湾の現代史に重なり、台湾総統として
長期にわたり祖国に尽くし、いまなお台湾、日本、アジアについて、
幅広いご見識とご経験から論じておられます。

『李登輝より日本へ 贈る言葉』の中では、
後藤新平伯、新渡戸稲造博士、八田輿一技師など、
台湾における日本人の功績についても触れています。

いままであまり知ることのなかった台湾の歴史と、いまなお続く
困難な状況、そして、日本に対する進言など、大変勉強になる内容
です。

日本の若者や子どもたちにぜひ新渡戸稲造博士の生涯を紹介したいと
伝記『新渡戸稲造ものがたり』を出版した自分の思いを
あらためて確認しました。
今後の台湾と日本の関係、そして、日本のあるべき姿について
次世代に向けて自分ができることを一つ一つ実現していきたいと
考えています。




2015/01/16

「愛の家」(東京都豊島区)

2015年1月6日(火曜日)
少し荒れ気味のお天気の中、太田愛人様と池袋でお目にかかりました。
太田様は、「愛の家」の理事長でいらっしゃいます。

社会福祉法人「愛の家」(東京都豊島区)は、池袋から西武池袋線ですぐの
東長崎駅近くにて、「母子生活支援施設愛の家ファミリーホーム」、
「愛の家保育園」を運営しています。

「愛の家」は、1923(大正12)年の関東大震災の後、
三人の女性有志によって、始まりました。その一人が、
新渡戸稲造博士の養女、新渡戸コトさんです(加藤武子様のお母様)。

太田様ご所蔵の資料によりますと、
財政的な援助については、新渡戸稲造博士のご縁を通じて、
渋沢栄一氏のご尽力によるものが大きかったようです。
そのほか、財閥の各団体や皇室からの下賜金など、
多くの方々の善意により、現在まで実に90年以上も運営を継続しています。

以下、『続々 社会事業に生きた女性たち』(太田氏所蔵)から引用

〈 たとえば、宮内省からの御下賜金は、(昭和)12年から19年まで
 続いたが、それは、宮内省に新渡戸稲造の知人(書生の兄)がいて、
 その人のはからいであったというように(太田愛人談)、
 秀れた人脈に囲まれていたからであったろう。
 それでもお金の苦労は絶えなかった。
 「ただ、ただ、お金をいただきに歩いたものです」と、現理事長
 新渡戸コトは、現寮長に語っている。「渋沢さんのところへは、
 よく行きました」とも。そこには、万感の想いが込められている。〉

同書 p.45〜46より

資料によると、新渡戸コトさんは、「愛の家」創始後まもなくご病気に
なり、その後、国際連盟(スイス・ジュネーブ)事務次長に在任中の
新渡戸博士と共にジュネーブに暮らし、一時「愛の家」を離れましたが、
帰国後、理事や理事長を歴任。「愛の家 五十年史」(1973年)の冒頭には、
理事長として序文が掲載されています。

なお、「愛の家」発起人の三人は、
煙山八重、塚原ハマ、新渡戸コト(新渡戸稲造の養女/新渡戸稲造の姉の孫)、
さらに、顧問の一人、羽仁もと子(自由学園創始者、煙山八重の師)は、
盛岡ゆかりの女性たちでした。

参考資料(すべて太田愛人様所蔵):
「愛の家 五十年史」
『天に宝を積んだ人びと 明治キリスト者の気骨』太田愛人/著
(キリスト新聞社 2005年)
『続々 社会事業に生きた女性たちーーーその生涯としごと』
五味百合子/編著 (ドメス出版 1985年)
そのほか、「愛の家保育園」案内書など

当日、久しぶりにお会いした太田様は、午前中、「愛の家」の
大切な行事に理事長としてご出席。面接などもされた後、
三時間もの間、たくさんのお話をお聞かせくださいました。
「田園生活」を大切にされている太田様のお元気ぶりには、
いつも驚かされます。

ご多用の中、本当にありがとうございました。






2014/05/11

『日本人の知らない武士道』

『日本人の知らない武士道』
 アレキサンダー・ベネット 著
 2013年7月 文春新書

1970年ニュージーランド生まれの武道家によって
「武士道」について書かれた本です。
実際の武道の実践、また、『甲陽軍鑑』『葉隠』『武道初心集』『兵法家伝書』などを
読み取りつつ、日本人の精神性について語られていて、とても勉強になる内容でした。

・印象に残った「残心」=武士道の真髄
・「常に死を問うことで、武士道はその生を問うている」(p.145)

著者は、新渡戸稲造博士の『武士道』についても、言及。

〈 維新の文明開化からわずか三十数年。なぜ日本はこんなに軍事大国になれたのか?
 西洋人は各方面から日本人を研究し、武士道の精神性に注目した。やがて、
 「武士道の精神が、日本人のDNAに刻まれている」と解釈されるようになる。〉
(p.23 序章より)

そのきっかけになったのが、新渡戸の『武士道』だったと著者は書いています。

〈 新渡戸は、・・・日本の美点や西欧と共通する道徳観があることをアピールする
 ために『武士道』を書いた。そのため、日本が過去から受け継いできた道徳・倫理を
 近代日本に適合するかたちに再解釈した。〉
(p.25 序章より)

『アジアを救った近代日本史講義』

『アジアを救った近代日本史講義 戦前のグローバリズムと拓殖大学』
 渡辺 利夫(拓殖大学総長)著
 PHP新書(903) 2013年12月

内容紹介(前袖)・・・
反省と批判の言葉に溢れたわが国の近代史。
だが著者はいう。国家の歴史を肯定的に受けとめずして、
充実した人生を送ることはできないーーーーー。
明治維新から異例の速度で近代主権国家の枠組みをつくりあげ、
台湾・韓国の発展に尽力し、大陸の泥沼に嵌(はま)って敗戦へと至った日本。
しかしアジアの解放を信じ、世界に雄飛した人々の信念は心を揺さぶってやまない。
そうした「戦前のグローバリズム」を体現する拓殖大学の草創期を担った桂太郎、
後藤新平、そして新渡戸稲造。
稀代の人物たちの思想と行動を読み解きながら、日本人としての自信と誇りを
呼び覚ます迫真の学び直し講義録。
・・・・・

渡辺総長が学生たちにわかりやすいように語りかけているような内容の著書です。

「国家の歴史を肯定的に受けとめずして、
充実した人生を送ることはできないーーーーー。」
というお言葉に、大変共感しました。

最近のニュースに断片的に接していると、個々の事項をどう理解してよいのか
困るような時が少なくありません。

戦前、日本がどのような状況にあり、どのような方針や考えをもち、
戦争に突き進んでしまったのか。
学生の時にこそ、学びたい近代史。

日本とアジアの関わりについて、
歴史、特に近代の出来事の知識、史実に対するそれぞれの国の解釈など、
これからの日本の国際関係、アジアでの役割を考える上で
近代史を学ぶことの大切さを、あらためて考えさせられました。

新渡戸稲造博士に関することは、第10講 大正時代の拓殖大学「植民学」の時代、
に、主に登場します。
新渡戸博士は、1917(大正6)年4月に拓殖大学の学監に就任。(大正11年に辞任)
後藤新平伯は、その2年後に学長に就任し、終生、同大学の学長、さらに、
政府の要職も兼務しました。

(新渡戸博士の拓殖大学植民学の後継者は、
 大川周明(しゅうめい)/植民学、満川(みつかわ)亀太郎/東洋事情、
 安岡正篤(まさひろ)/東洋民族心理研究など、
 日本の思想史上の大人物で、「興亜思想」の指導者的存在。)

拓殖大学は、海外で活躍することになる人材を育成するために設立された学校
でしたから、台湾の植民地において共に大きな仕事を担ったこの二人が
同大学のリーダーに就任したことも自然の流れでした。

これからの新しい時代に向けて、グローバル人材の育成など、
拓殖大学の建学の精神が一層発揮されることと期待が集まっています。

拓殖大学 創立百周年記念式典における天皇陛下のお言葉より(p.308)

「第二次世界大戦後、日本と日本を取り巻く環境は大きく変わりました。
 しかし、『積極進取の気概とあらゆる民族から敬慕されるに値する
 教養と品格を具えた有為な人材の育成』という建学の精神は、
 今日に生きるものであり、日本が今後ますます国際社会の平和と繁栄に
 貢献していくためにも、この大学から、国内はもとより、開発協力を
 始めとする様々な分野で世界を舞台に活躍する人々が
 数多く送り出されることを期待しております」

拓殖大学本館(東京都文京区)
拓殖大学本館前に建つ 桂太郎(初代学長)像
拓殖大学のホームページは、こちら

昨秋、渡辺総長のお話「人間は文章を書くことによって成長する」
拝聴する機会をいただきました。詳細は、こちら

新渡戸博士の自宅は、拓殖大学から歩いてすぐのところにありました。
旧居跡については、こちら



 

2013/12/16

藤田正一著 『日本のオールターナティブ』

このたび、北大の元副学長、藤田正一先生の新著、
『日本のオールターナティブ ---クラーク博士が種を蒔き、
 北大の前身・札幌農学校で育まれた清き精神---』(銀の鈴社刊)が
刊行されることになりました。

『日本のオールターナティブ 
 ---クラーク博士が種を蒔き、
  北大の前身・札幌農学校で育まれた清き精神---』
 
藤田 正一 著

 A5判、並製、360ページ / 本体価格2,400円+税
    2013年12月25日 発行

日本の進む道はこれで良いのか、他に道は無いのか。
日本の進むべきもう一つの道への道標がここにあった。

「明治の初年、当時の日本の北辺の地、人口2千人足らずの街、札幌に
アメリカ流の自由と民主主義を基調とした教育を行う学校、札幌農学校が設立された。
一方、首都東京には東京帝国大学が国の国家主義政策のもとに設立された
主流となったのは国家主義教育であった。が、オールターナティブ(もう一つの選択肢)
として札幌農学校の教育が圧力を受けながらも札幌の地に存続し続けた。
そこに植え付けられたピューリタン精神の理想主義は、伝統的な武士道精神と融和して
一つの精神となり、以降、この農学校精神が近代日本の国のあり方や人の生き方に、
常に、清きオールターナティブを提案し続けた。」(本文より)


表紙(北大のポプラ並木/撮影 藤田正一)





2013/10/31

『新渡戸稲造事典』出版記念祝賀会

2013年10月22日(火)18:00〜20:00 
『新渡戸稲造事典』出版記念祝賀会
教文館9F ウェンライトホール

佐藤全弘先生のご講演、サイン会の後、同じ会場で、
『新渡戸稲造事典』(教文館発行)の出版記年会がおこなわれました。
このたびの祝賀会の発起人は、秋山孝二様、内川頴一郎様、湊晶子様、森本晴生様の
四人の方々です。



開会のごあいさつ
秋山孝二様(公益財団法人秋山記念生命科学振興財団 理事長)

乾杯のごあいさつ
内川頴一郎様(財団法人新渡戸基金 理事長)

ご祝辞
湊 晶子様(東京女子大学 前学長)
草原克豪様(拓殖大学 名誉教授)
大津光男様(普連土学園 財務理事)

花束贈呈
藤井花穂様(藤井茂様ご令嬢)より、佐藤全弘様へ
中野美帆様(佐藤全弘様ご令孫)より、藤井茂様へ

新渡戸稲造博士ご遺族・加藤武子様(新渡戸稲造ご令孫)からのメッセージ
(柴崎由紀 代読)

著者お二人のスピーチ
佐藤全弘様(大阪市立大学 名誉教授)
藤井茂様(新渡戸基金 事務局長)

おわりのごあいさつ
森本晴生様(新渡戸文化学園 学園長)



多くの関係者の皆様がご参集され、なごやかな会になりました。
皆様のお気遣いをいただき、慣れない進行役を務めさせていただきました。

小著、伝記『新渡戸稲造ものがたり』は、
佐藤全弘様の長年のご研究と著作、藤井茂様の励ましとご協力があり、
出版することができました。
あらためて、お二人に感謝とお祝いを申し上げます。