学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
2022/06/01
拓殖大学に「拓殖アーカイブズ事業室」新設
2021/09/17
HAPPINESS CREATOR 新渡戸文化高等学校
2021年9月9日(木)17:30~ 外国人特派員協会にて
一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)の記者発表
CCF代表と登壇者のお一人が知人でしたので、出席させていただきました。
教育現場を代表して、登壇されていらしたのが、新渡戸文化学園の山藤旅聞(さんとうりょぶん)先生。
新渡戸文化高等学校の総括校長補佐、高等学校教育チーフデザイナーをされています。
山藤先生は、
「新渡戸文化学園は、創立者の森本厚吉先生、初代校長の新渡戸稲造先生が
社会の変革をめざして、開校」
「新渡戸文化学園は、学校と社会をブリッジ(橋渡し)する」
とお話しされ、建学の精神を大切にし、いまの時代に合った変革を推し進められていること
がわかり、感動しました。
会場には、山藤先生の教え子(新渡戸文化学園のOGお二人)も登場、
「最近、『一枚500円のTシャツを購入し、ひと夏が終わると捨てる』という友人たちの言動に
違和感を抱いていた。使われない/使われなくなったコットンが、紙としてよみがえり、
再利用されることは素晴らしい取り組み」という率直な声を聞くことができました。
同校では、「国際人としての人格教育」をはじめ、
学園の7つの強みを掲げた教育をおこなっています。
未来に向かって変革を続ける新渡戸文化学園に大きなエールを送ります。
新渡戸文化学園のホームページは、こちら。
同校にお招きいただいた時の報告は、こちら。
一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)とは、
綺麗な地球を子どもたちに引き継ぐために、洋服の廃棄物をゴミにせず、廃棄物から紙を再生し、
活用することを始めた一般社団法人。
繊維業界にとどまらず、製紙会社、出版社、日本郵便株式会社様、さらに、
お菓子メーカー(今回の登壇者は、榮太棲総本舗の細田将己副社長様)、学校など、
社会全体の大きな連帯により実現可能な、循環型社会をめざす壮大な取り組み。
(日本における繊維リサイクル率は、17.5%。毎年137万トンの繊維廃棄物が捨てられ、燃やされている。
2019年、28.5億枚の洋服が作られ、14.8億枚は、新品のまま破棄。配布資料より抜粋)
CCFのホームページは、こちら。
2021/06/21
最短の在任、最大の業績 『石橋湛山の65日』保阪正康・著
2021年6月21日
ノンフィクション作家で「昭和史を語り継ぐ会」を主宰されている
保阪正康氏の近刊を拝読しました。
戦後の一時期、首相を務めた石橋湛山は、新渡戸稲造の母校・札幌農学校
(いまの北海道大学)の第一期生・大島正健先生から影響を受けました。
山梨の第一中学校(いまの県立甲府第一高等学校)在学中、
校長先生として赴任してきたのが大島先生。
札幌農学校の流れは、 大島校長から石橋湛山にも受け継がれたのではないか。
山梨には、石橋湛山による書「Boys, be ambitious!」が残っています。
石橋湛山と大島正健についての過去の記事は、こちら。
著者は、『石橋湛山の65日』の中で、現在のコロナ禍を生きる私たちの状況を、
「民主主義の体制が崩壊して、自由が制限された社会で生きていることを
想像しただけでも息が詰まる。こういう時代が来ないように、日々、
現在のコロナ禍の社会から何がしかの教訓を学ばなければならないと、私は思う」。
と述べ、関東大震災後の石橋首相の記事を引用している。↓
(ここからは『石橋湛山の65日』p.295~ 引用)
『東洋経済新報』(大正12年10月1日号)の社説
「此経験を科学化せよ」
とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまう
と指摘した上で、次のように書くのである。
「我輩の見る所に依れば、今の我国民は、全体として、
斯かる場合に甚だ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(ひっきょう=結局)、
日本国民は、わっと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いて善く考え、
共同して静かに秩序を立て、地味の仕事をすることには不適任である。(中略)
我国は、今回の災害に依り、あらゆる方面に人為の更に大に改良すべきものを発見する。
と同時に此災害は、随分苦き経験であったが、併し之を善用すれば、所謂、
禍を転じて福となすの道は多いのである」
この経験を「科学化(データの整理や予防策など)」して将来に残さなければ
ならない、とも強調している。さらに「亡びゆく国民なら知らぬこと、いやしくも
伸びる力を持つ国民が、これくらいの災害で意気阻喪しては貯まるものではない」
とも断言している。
・・・(中略)
国家がコロナ禍に対応し、個人が人生観を懸けてコロナ禍と向き合っている時、
石橋の思想や言論がもっとも価値があり、頼りがいがあると私は考えている。
本書でも繰り返しているが、石橋は首相としての在任がわずか六十五日である。
近代日本史の上では最短に近い。しかし私は、「最短の在任、最大の業績」と
思っている。
・・・(中略)
石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性を
教えた。首相が何を目指し、どのような方向に、この国を率いていくのか、
そのことを国民は知る権利がある。それは首相を目指す政治家が日頃から信念を
発信する姿勢を持たなければならないということだ。
石橋を範とせよ、と強調しておきたいのである。
(巻末の石橋湛山略年譜より主に鎌倉関連を抜粋)
明治17(1884)年、東京都生まれ
明治34(1901)年、大島生健が山梨県立第一中学校の校長として赴任
明治35,36年、旧制第一高等学校の受験に不合格
<筆者注:新渡戸は、のちに同校校長を務める。
岩波茂雄は、明治34~37年、旧制一高に在学>
明治37(1904)年、早稲田大学文学部哲学科に入学
大正8(1919)年、鎌倉町海岸通りに転居
大正11(1922)年、鎌倉町大町蔵屋敷705番地に転居
<筆者注:現在の御成町20番地。御成小学校とその付近>
大正12(1923)年、関東大震災により居宅被災
鎌倉臨時復興委員会委員を委嘱
大正13(1924)年、湘南倶楽部(信用購買利用組合)の設立に参画し、
常務理事に選任。
鎌倉町長会議員選挙において第三位で当選。
昭和3(1928)年、任期満了で辞任。
昭和16(1941)年、東洋経済新社の代表取締社長に就任
昭和21(1946)年、衆議院選挙で落選、第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任
昭和22(1947)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
公職追放令、新宿区下落合4-1712に転居
昭和26(1951)年、公職追放解除
昭和27(1952)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
昭和29(1954)年、第一次鳩山内閣で通商産業大臣
昭和31(1956)年、石橋湛山内閣成立
昭和32(1957)年、石橋湛山内閣総辞職
昭和33(1958)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
昭和36(1961)年、日中米ソ平和同盟案を発表
昭和48(1973)年、自宅にて死去。88歳
(引用終わり)
このほか、『石橋湛山の65日』には、興味深い、政治の舞台裏も描かれています。
著者の保阪氏も繰り返し述べていますが、もし石橋首相が病に倒れることなく
続投していたら・・・。
いまにつながる政治体制、さらには、国民の政治に対する姿勢までもが
違っていたのではないだろうか。そんなことも考えさせられました。
2021/03/02
安倍能成(あべよししげ)先生のこと
2021年3月1日
安倍能成先生は、新渡戸先生の一高の教え子で、のちに一高校長や
学習院院長を歴任しています。
一高のリベラルな思想が戦中、戦後にも引き継がれていたことがわかる
エピソードとして、宇沢弘文先生のご著書より抜粋して紹介します。
↓
『人間の経済』宇沢弘文 著 新潮新書 2017年4月
p.84
三 教育とリベラリズム
安倍能成先生のこと
社会的共通資本としての教育について考えるとき、
私にとって忘れられない光景があります。
東京大空襲後の1945年、旧制一高に入学した年の出来事でした。
・・・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つと同時に、
過酷な占領政策が始まります。あたり一面は焼け野原と化していて、
占領軍は、めぼしい建物はみな接収して占領のために使うことにしたのです。
たしか9月半ば、軍隊の施設とみなされていた一高にもジープに乗った占領軍の
将校団が接収にやってきました。当時の一高にも校長は安倍能成先生で、
戦前の日本では最も優れたカント哲学者で、すぐれたリベラリストでも
ありました。ずっと後になって知ったことですが、安倍先生は、戦争中から、
近衛文麿を中心とした敗戦処理を考えるグループの一員だったそうです。
(筆者注:近衛文麿も新渡戸校長時代の一高の生徒)
その安倍先生は占領軍の将校たちを前にして、英語できっぱりとおっしゃいました。
「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。
ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的の
ためには使わせない」
リベラルアーツというのは、教育の仕上げの段階で重要な役割を果たすものです。
つまり、学問や芸術、知識であれ文学であれ、専門を問わず、先祖が残した貴重な
遺産をひたすら学び吸収し、同時にそれらを次の世代へ受け渡すという営為を
する場所だということです。一人ひとりの学生の人間的な成長を図るとともに、
それを時代へと継承する役割がある。安倍先生はそのことを繰り返し、それを聞いた
占領軍の将校たちは、黙ってそのまま帰っていきました。
占領軍に楯突くなど逮捕されて当たり前、という時代にきわめて珍しい
エピソードのはずなのに、新聞はもちろん一高の記録にもいっさい残っていません。
しかし、その場に居合わせた私は心の奥底で、われわれは先祖が残した貴重な遺産を
できる限り吸収して次世代に残すという仕事をしている、
それが大学あるいは学校なのだという思いを強くしました。いまになって考えると
私の心の中で「社会的共通資本としての教育」という考え方が芽生えた原点
だったように思うのです。
2020/02/01
新渡戸稲造と「安全保障」
交詢社「安全保障研究会」新年会
真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」
上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。
ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・
まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。
最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」
そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)
新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。
山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、
過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。
このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。
2020/01/14
ハヴァフォード大学の新渡戸奨学基金
以前、ハヴァフォード大学に「新渡戸」の名前を冠した
日本人留学生のための奨学金制度があると聞いたことがあり、
調べてみたことがありました。
「Haverford College Bulletins, 1969-70」
(この印刷物は、Internet Archiveで閲覧することができます)
上記のp.183に、Inazo Nitobe Scholarship Fund(新渡戸奨学基金)として、
2019/12/28
上皇陛下とハヴァフォード大学
この秋、上皇陛下のご学友のお一人、ロバート・東ケ崎氏が
亡くなりました。
東ケ崎氏は、上皇陛下と共に、ヴァイニング夫人の教えを受けた生徒の
一人です。
ヴァイニング夫人は、新渡戸稲造博士ご夫妻と同様、クエーカーです。
上皇陛下は、皇太子時代に、アメリカ、および、クエーカーの思想に
触れていることになります。
ハヴァフォード大学は、クエーカーの学校の一つで、
クエーカーに関する資料館もあります。
数年前に、同大学を訪問した時の紹介は、こちらへ。
1953年、上皇陛下(当時は皇太子19歳)は、ハヴァフォード大学の学生だった
東ケ崎氏を同大学のキャンパスにお訪ねになり、ヴァイニング夫人とも再会しています。
再会の写真(左から、ヴァイニング夫人、陛下、東ケ崎氏)、および、
出典のウェブページ(ハヴァフォード大学ブログ)は、こちら。
また、新渡戸博士ご夫妻のご養子(孝夫)は、同大学で学んでおり、
新渡戸博士もかつてここを訪ねています。
なお、ローバート・東ケ崎氏のお父様は、東ケ崎潔氏。
1961(昭和36)年、アジアで初めてロータリークラブの国際大会が
開催された時、昭和天皇と皇后陛下(上皇陛下のご両親)は、初日に
出席され、昭和天皇は、お言葉を述べています。
続く1967年、東ケ崎潔氏は、全世界のロータリークラブの会長(アジア人で初めて)
に就任したほか、ジャパンタイムズの社長、国際基督教大学の初代理事長などを
歴任されています。
2019/09/12
東京女子大学第一期生 斎藤百合
先月、東京女子大学の茂里学長様がお話しされた、
東京女子大学(初代学長新渡戸稲造)第一期生の斎藤百合さんについて、
下記の本から、紹介します。
『光に向かって咲け 斎藤百合の生涯』 粟津 キヨ 著 岩波新書342
茂里学長のご講演については、こちら。
いまよりさらに困難な状況であったと考えられる当時の障害者が、
特別生とはいえ、第一期生として入学が許可されたことに驚かされます。
学友たちともあたたかい交流があったようです。
・・・ここより、同書から引用(抜粋)・・・
p.53〜54(抜粋)
大正七年の春まだ浅いある朝、武弥(斎藤百合の夫、弱視者)は
新聞に発表された東京女子大学設立の記事を見つけて読んでくれた。
そこには設立の意図として、
「いままでのような家政科でなく、教員養成でもなく、キリスト教精神により
女性を一人一人の人間として伸ばすための高等教育を行う」
という意味のことが書かれていた。百合は感激して、
「これこそ、私の求めていた学校だ。そして、私の住むべき世界だ」
と思った。夢は際限なく大きくふくらんでゆき、百合にはもう、
自分の現実を深く考える余裕はなくなってしまっていた。
・・・百合は、盲女子であり、その上、主婦であり、大正五年八月には
長女久美が生まれていたから幼児をもつ母でもあった。年は、二十八歳
になっていた。経済的にも決して裕福とはいえない。
・・・夫は「やれるだけやってみるんだね」といって、百合の無謀としか
言いようのない女子大学入学への望みに理解を示し励ましてくれた。
・・・入学試験は口頭で行われた。面接の時、学長代理の安井てつ学監は、
いきなり言った。
「ここは、勉学の意気に燃えているお嬢さんたちの集まる所です。
結婚しているめくらの女が大きなお腹にでもなったらどんな勉強が
できるというのですか」
覚悟はしてきたのだったが、こんな言い方をされようとは思わなかった。
・・・盲女子の置かれている社会的地位がいかに低いか、
それを高めるために、一人でも二人でも高等教育を受けなければ
ならないのです、と百合はしゃべるだけしゃべって帰ってきた。
それから一週間後、東京女子大から「特別生として入学を許可する」
という文面の速達便が届いた。すでにあきらめていた百合は、
その手紙を胸に抱いて、声をあげて泣いた。
・・・元東京女子大学教授平野雪枝は、「・・・新渡戸先生(学長)や
ライシャワー先生(理事)がお決めになったのでしょう」と
言っている。・・・ライシャワー夫妻が聾唖の娘をもっていたこと、
また、若いころ重い眼病にかかって、いったんは失明の宣告まで受けた
新渡戸の、障害者に対する深い理解が、百合の入学を大きく左右した
ことが考えられる。
のちに学長となった安井てつは、面接の時は冷酷ともとれる言葉を向けて
百合の決意を確かめたが、入学後は特に百合に心をとめて指導し、
卒業後も百合の主催する「陽光会」の後援会長になるなど、
援助を惜しまなかった。
p.56(抜粋)
斎藤百合は、大正七年春、東京女子大学予科に入学、人文科を経て、
高等学部三年に編入し、卒業すると、つづいて大学部英文科に
一年半在籍し、十二年の秋に退学している。
(その間に、三人の子どもを出産。長男は生後まもなく死亡)
(十二年九月の関東大震災で夫の勤務先が焼けて一時失業、
また町の混乱した状況が通学を難しくしてやむなく退学)
(百合が優秀であったこと、学友たちと楽しく交流したエピソードが
残されている。学友たちは卒業後も百合の活動を支援した)
(視力を補う、素晴らしい勘の持ち主でもあったらしい)
p.102〜(要約)
第一回のヘレン・ケラーの来日時に、さまざまな困難を経て、
講演会を企画、実現した。
講演会では、百合の作詞、宮城道雄の作曲による、
「ヘレン・ケラー女史に捧ぐる歌」を自ら歌った。
(琴の演奏は、宮城道雄)
1946(昭和21)年、夫(武弥)死去 53歳
1947(昭和22)年、百合 死去 55歳
2019/08/19
第2回新渡戸稲造シンポジウム
第2回新渡戸稲造シンポジウム
〜「新渡戸稲造記念センター」開設記念〜
2019年4月、東京医療生活協同組合に「新渡戸稲造記念センター」が
開設になりました。
新渡戸博士は、1932年に設立された医療生活協同組合病院
(現 新渡戸記念中野総合病院)の初代理事長です。
新渡戸記念中野総合病院についての過去のブログは、こちらへ。
最初に、入江徹也理事長様よりごあいさつがありました。
病院の理念は、
「新渡戸稲造博士の精神(誠意と思いやりの心)を基にした医療を
誠実に実践し、疾病を抱えた人を真心で支援する」です。
講演 I 新渡戸稲造が遺したもの
茂里 一紘 先生(東京女子大学 学長)
1 いと小さきもの
東京女子大学は、新渡戸博士を初代学長に迎え、1918年に開校。
1918年4月30日におこなわれた開校式について、翌日の萬朝報に
よりますと、渋沢栄一はじめ来賓500名(およそ半数は外国人)、
新入生は84名。その中には、斉藤百合さんがいました。
斉藤百合さんは、盲目の28歳、既婚で一児の母でした。
断られてもともとと思って志願すると、なんと特別生として入学が
許可されました。
茂里先生は、新渡戸学長とライシャワー氏(常務理事・財政担当)が
相談し、この異例な許可にいたったのでは、とおっしゃいました。
「いと小さきもの」を、神の子として平等に受け入れ、
知識よりも見識、学問より人格を尊び、人材より人物の養成を
主とした教育をおこないました。
注:ライシャワー家の長女は、聾唖(ろうあ)者で、日本聾話(ろうわ)学校を
夫人とともに設立。次男は、のちの駐日大使 E.O. ライシャワー。
『新渡戸稲造ものがたり』p.154
2 犠牲と奉仕 (Service and Sacrifice)
己を犠牲にしても、国、社会、人道のために貢献する精神。
この二つの頭文字(SS)をデザインした校章
3 リベラル エデュケーション(高等なる常識)
「リベラル・エデュケーションは、無知からの解放」
D. キーン
東京女子大学では、開校時から「文明史」の授業
「人文科」=一女性として高等なる常識を学ぶ
カリキュラムは、リベラル・アーツ教育の源流
卒業生たちが語る東京女子大学(『旅人われら』2007年)の
キーワードは、
「自由」=枠にはまらない考え方=リベラル・アーツ教育
「学び」は、建物の「耐震化」のようなもの
=予期せぬことに対応できるような強靭さを育むこと
特に女性は人生の変化が大きい人がいる
「挑戦する知性 未来につなぐリベラル・アーツ」
講演 II 新渡戸稲造先生の贈り物
宗雪 雅幸 先生(恵泉女学園 理事長)
恵泉女学園の創立者 河井 道先生と新渡戸稲造博士は、
「神の見えざる手」(アダム・スミス)によって導かれた出会い
河井 道先生(1877年〜1953年)は、伊勢神宮の神職の家の出身。
(「祈り」のある家)
明治4年、神職の世襲が禁じられると、河井家は函館へ。
ある日、お使いに出たところ、伊勢山田出身の親戚(キリスト教の
伝道者)に会う。スミス女学校で、新渡戸稲造先生から歴史を学ぶ。
新渡戸博士のアドバイスに従い、米国の名門ブリンマー大学に留学
(津田梅子も同学に留学)
新渡戸夫妻に同行して渡米した際の「渡航証票」が恵泉女学園史料室に
残っている。
雇い主 ↓
新渡戸稲造 東京市四ツ谷區北伊賀町廿五(25)番地
河野 孝忠 方
河井 道 先生は、「恵泉」11号(1933年10月)「恩師新渡戸稲造博士」で、
新渡戸先生口添えで1000円(当時)の寄付をいただいたエピソードを
書いています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.187)
1929年、世界恐慌などの状況にもかかわらず、恵泉女学園を創立。
当初、新渡戸夫妻は、河井の苦労を心配して反対したが、
生涯に一度だけ、新渡戸博士の意見に反して行動しました。
1929年1月、申請。3月、許可。7名の後援者、9名の入学者。
新渡戸先生=優しさ、知性、行動
新渡戸博士のユーモア=心のあたたかさ
講演 III 21世紀の新渡戸稲造 〜がん哲学外来の心得〜
樋野 興夫 先生(東京医療生活協同組合 新渡戸稲造記念センター長)
日頃の講演活動のご報告とご著書の紹介
新渡戸稲造記念センター開設、誠におめでとうございます。
お招きくださいました入江理事長様に感謝を申し上げます。
新渡戸記念中野総合病院のホームページは、こちら。
2019/03/04
サンフランシスコの金門学園
知人の加藤シオー様・睦子様ご夫妻(サンフランシスコ在住)より、
金門学園と、毎年恒例の行事について、お知らせいただきました。
新渡戸稲造博士は、設立時の金門学園と深いご縁があります。
以前の記事ついては、こちらへ。
![]() |
| 書き初めの審査員、書家・加藤シオー氏と子どもたち |
![]() |
鏡会(サンフランシスコ餅つき保存会)
鏡の文字も加藤シオー氏
|
最近、歴史ある金門学園の取り壊しの動きが出ているようです。
金門学園の付近には、日本や日系人ゆかりの地や建物が多くあります。
日米の友好の証ともいえる、大切な歴史的建造物が大切に保存され、
両国の交流、文化継承や紹介の伝統が末長く引き継がれ、
先人たちの思いが、将来も語り継がれるよう、切に願います。
![]() |
| 加藤シオー様・睦子様ご夫妻 サンフランシスコアジア美術館、 |
下記、加藤睦子様がお書きになった記事を、ご本人の許可をいただきましたので
紹介します。
書・習字・書き初め、餅つきと金門学園
アーティスト・書家・加藤シオー、童話作家・加藤睦子
金門学園が、年初に毎年取り組まれている書道、「書き初め」の審査の依頼を、
私が初めて受けて、書道の審査と、大きな筆を使っての書のデモンストレーション
、そして鏡会の餅つきパフォーマンスを行って来て、早、15年ほどが経ちました。
その時初めて体験する「書き初め」と、大書パフォーマンスと、生徒も先生も両親
も一緒の餅つきは、毎年、子どもたちが生き生きと目を輝かせ、歓声を上げて喜ん
でくれる、大変活気ある場となります。
その最初の書き初め大会で金賞を取ったK君は、日本語に目覚め、言語学に興味
を持ち、今も現場での研究に励んでいること、また、金門学園の生徒たちが、それ
ぞれに家族を持ち、2019年は、S君、R君の子どもたちが、書き初めと餅つきに参加
していることに、驚きで一杯となり、嬉しい限りでした。
私たち夫婦が、サンフランシスコへやってきたのは、1971年でしたが、金門学園
は、今年110年の歴史を持ち、あまたの子供たちが社会に貢献する社会人として育ち
、金門学園が日系社会の記念碑的な大きな存在となっていること、そこに「書き初
め」の審査員として関わってきたことに、大きな喜びを感じています。
かの「武士道」の著書で、欧米の日本研究者や、トルーマン大統領に多大な感銘
を与えたことで著名な新渡戸稲造博士が、1911年、金門学園の創設時に関わり、何
度も訪問していたことを知った時は、その愛深き生き様に尊敬の念を抱いていただ
けに、不思議な縁と感動を覚えたものです。
また、昭和天皇は1933年及び35年 に、1960年9月25日には、現在の天皇(当時は
皇太子)皇后両陛下も金門学園を訪ねられ、200人の生徒たちが出迎え、ブッシュ
街に1,000人の人々が溢れたと聞いています。その時、陛下は「どうか日本語と日本
文化をしっかり勉強してください。そして、米国の立派な市民となれるよう望みま
す」という、温かいお言葉を残されています。
日本は平成から新しい元号へと、そして世界中の国々が変化の嵐に見舞われ、一発
触発さえ危惧する時代の流れの中で、子を持つ親御さんたちの想いは、如何なるも
のだろうかと思わずにはおれません。金門学園のお正月イベント、書き初め、競書
、鏡会による餅つきイベントなどの日本文化を、生徒、父兄、教師の皆さんと共に
体験し伝承していくことは、私たちの魂の中に宿る人間本来の精神性、日本人の精
神性が、子どもたちの心の中心軸に直結する、大切な機会になると確信しています
。
金門学園は110年の歴史と共に、今後も、日系日本人の子弟になくてはならない優
れた教育機関であることを確証し、今後の発展を祈り、見守り続けて行きたく思い
ます。
2018/10/28
キリスト友会 フレンズセンターの公開
東京都港区三田に、「キリスト友会 フレンズセンター」があります。
新渡戸博士は、終生、クエーカーでしたが、ここは、古くから、
日本/東京のクエーカーの拠点です。
この日、東京都の文化財として、一日のみ公開されるということで、
訪ねてみました。
「米国から派遣された宣教師の住居として、ヴォーリス建築事務所の
設計で建てられました。戦後は、ララ物資の拠点や、
E・バイニング夫人をはじめ多くの人々の交流の場や宿泊施設となり、
現在も宿泊施設として利用されています」
「2018年 東京文化財ウィーク」冊子p.7より
(主催 東京都教育委員会/ 後援 文化庁)
以前、同じ敷地内の会堂は訪問したことがありましたが、今回、
こちらの文化財の建物の中は初めて見学させていただくことができました。
1920年代の建築なので、新渡戸博士ご夫妻も訪問されたことがあるはずです。
戦火も生き延びた貴重な文化財で、一日限りの公開日に
多くの方々が訪問されていました。
ヴォーリズ建築らしい造りが感じられました。
外壁は、新しくなっていますが、内部の造りはほとんど当初のままと
いうことです。
思いがけず、大津先生(普連土学園財務理事)にも久しぶりに
お目にかかることができ、嬉しい一日になりました。
大津先生が来訪者たちのいろいろな質問に答えていらっしゃいました。
ありがとうございました!
このすぐ近くに普連土学園があります。
若き留学生だった新渡戸博士たちの熱心な意見を聴いて、
設立された女子教育のためのフレンド派の学校です。
2018/06/25
渋沢栄一の孫「鮫島純子」様と新渡戸博士
最近の読書記録メモ
鮫島純子(渋沢栄一 孫)著
『祖父・渋沢栄一に学んだこと』
2010年10月15日 文藝春秋
P.86〜88「新渡戸稲造先生」より抜粋
あれは、私が小学校低学年の頃でした。
その日は記者で名古屋に向かいましたが、・・・
父(渋沢栄一の四男 正雄)は、車内に落ち着くやいなや
向かい合わせの席に書類を広げ、社用を片付けていました。
列車が浜松にさしかかる頃、さすがに飽きた私は、
背中合わせに座っておられる上品な白髪のご老人と目が合い、
ニコッと笑いかけました。
これがきっかけで、このご老人との車内文通が始まりました。
はじめ彼はノートの切れ端に
「お名前は何といわれますか?」と書いて渡されました。
「純子と申します」
「どこまでゆかれますか?」
「名古屋でございます」
「お年はいくつですか?」
飽きもせず、背中合わせのたどたどしい文字のやりとりは
エスカレートし、ご老人のボックス席に入り込んでお話を
うかがうことになりました。
「ご家族と一緒に楽しい旅ができるということは、
なんとお幸せなことでしょうね」
と言われ、それにはたくさんの方々のご恩を受けてこそですね
と説明されてから、私の指をとって一本一本折り曲げながら、
誰のお陰でこうして旅に出られたかを考えるように促されました。
「お父様、それから?」というように、留守番の人々から、
旅に出る服を調(ととの)えた人、列車を運転している運転手さん
に至るまで・・・。
そしてそれも種が尽きる頃、「お天道様や空気や雨もなくては
なりませんね。それはどなたがくださったのでしょう?」と
誘導して、神の大いなる恵みの中にわれわれは生きているので、
誰ひとりとして自分だけの力や働きで生きていられるのではないことを
話されました。
そろそろ名古屋に着くので、降りる支度を始めるようにと、
立ち上がって私たちのほうを見た父が、
「おや、先生じゃいらっしゃいませんか」と進み出て、
丁寧にご挨拶しました。
このご老人こそは、一高時代の恩師でもあった新渡戸稲造博士だったのです。
新渡戸先生は、栄一とご一緒の写真がいくつか残っています。
日米交流に尽くした御両者ですので、交流も深かったことでしょう。
私はあの優しいご老人が、読書の邪魔をした見知らぬ少女の心にさえ、
神の恩寵に気づくよう促されたのを折に触れ思い出し、
感激しつつ、心に蘇らせています。
(以上、抜粋終わり)
〈補記〉 同書 「鈴木貫太郎大将」p.117より
昭和17年4月、鮫島員重氏と結婚
帝国ホテルと華族会館で披露宴
仲人は、鈴木貫太郎・たか夫妻
2018/05/05
㊗️東京女子大学創立100周年
素晴らしい春晴れになりました。
本日、東京女子大学創立100周年の式典に参列しました。
講堂での式典に続き、懇親会がおこなわれました。
新渡戸稲造博士は、同大学の初代学長です。
新渡戸記念室では、100周年記念展も開催されています。
心よりお祝いを申し上げます。
2018/01/19
新しいテレビ番組
盛岡の新渡戸基金さんからお知らせがありました。
以前、テレビ番組制作に協力しました「岩手めんこいテレビ」さんが
新渡戸シリーズの新番組を放映するようです。
東京でも視聴できるといいのですが・・・
↓
2017/05/23
京都看護婦学校と佐伯理一郎
岡山 寧子(おかやま やすこ)
同志社女子大学看護部長
同志社女子大学看護学部教授
出典:下記(p.72-91)
『良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ起リ来ラン事ヲ』
Doshisha Spirit Week 講演集 2015
2017年3月15日
同志社大学キリスト教文化センター 発行
=====講演記録より、以下に抜粋、要約。
○「看護」という言葉=看る(みて)+ 護る(まもる)
=人類がこの世に誕生した時からあるもの
○看護専門職の登場=ナイチンゲールの看護教育
「看護は、患者の生命力の消耗を最小限にすること」
ナイチンゲール著『看護覚え書』
19世紀中頃、F.ナイチンゲールは、看護学校を設立
(いまのセント・トーマス病院、ロンドンの国会議事堂のテムズ川を
はさんで向かい側)
卒業生たちが世界各地で看護教育、看護の実践。
日本でも明治の初めに『看護覚え書』(当時は『看護の栞』)が紹介される。
1886年、京都看護婦学校で、ナイチンゲールに直接指導を受けたL.リチャーズに
よる看護教育が開始。
ナイチンゲールの看護思想は、看護の原点、つまり、医療の発展の中で、
なにを看護の対象にするか、「病気」を見るのではなく、「人」を見る。
○この新島襄の医療への志を継いだのが、(新渡戸博士の友人)佐伯理一郎医師。
『京都看護婦学校五十年史』(佐伯理一郎 著 1936年)
同志社主導の病院、学校は、新島没後、佐伯医師が管理者となる。
産科医でもあった佐伯医師は、産婆学校も設立。
佐伯医師の息子たちも医師になり、学校の運営に携わる。
両校は「佐伯の学校」と呼ばれ、戦後まで続く。
現在、同志社女子大学の看護学部において、京都看護婦学校の志が
引き継がれている。
=====以上で、抜粋終わり。
新渡戸博士は、アメリカ留学時、新島襄と出会っています。
新島先生は、新渡戸に同志社の教員になるよう誘いますが、
ついに実現しませんでした。
けれども、同志社の教育には協力し続けました。
また、佐伯理一郎医師とは、長年親交がありました。
新渡戸博士が亡くなる年に、新渡戸は同志社での講演のため京都に出向き、
また、新渡戸がカナダへ出発する二日前に佐伯は東京に訪ねてきています。
これが、45年間続いた親交の最後になるのです。
新渡戸が、生涯最後となる船旅へ出発した三日後、佐伯は長文の電報を
送っています。
その中にあった聖書の言葉の一節は、
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のような翼を張って上る。
走っても弱ることなく、歩いても疲れない」
(イザヤ書四十章三十一節より)
『新渡戸稲造ものがたり』p.210より
長年の二人の友情、そして、最後の力を振り絞って旅立つ友人に対する
佐伯医師の心情が伝わってくるようです。
2017/05/21
『津田仙と新島襄』津田道夫様のご講演
東京新島研究会 5月例会
『津田仙と新島襄』
発表者 津田 道夫 様(津田仙様ご子孫)
同志社大学東京キャンパス(中央区京橋)にて
このたび、津田道夫様にご案内いただき、
ご発表を拝聴する機会に恵まれました。
また、当日は、津田仙氏と関わりのあった方々のご子孫、
研究者の方々とお目にかかることができました。
新渡戸博士ご夫妻は、津田仙、次女の津田梅子先生と、
深い関わりがありました。
新渡戸博士は、津田梅子が創立した津田塾大学、
また、新島襄が創立した同志社大学を支援しました。
2017/05/04
金門学園(サンフランシスコ)を訪問
サンフランシスコの日本人街にある「金門学園」
(Golden Gate Institute)を訪ねました。
この学園は、日系人の子どもたちのために設立されました。
当時、日本人はアメリカの学校に通うことができなかったからです。
1911年1月18日、この地(2031 Bush Street)の建物を借りて
校舎にすることになり、
翌月、新渡戸博士は、鎌田政令(かまたまさよし)を
校長に推薦しました。
4月15日に開校式がおこなわれ、17日から授業が正式に
始まります。
生徒は、12人の幼稚園児、12人の幼児、そのほか21人。
学園の入り口近くの壁に当時の写真が掲げられています。
日付は、設立の年、1911年の11月。
| 新渡戸博士とメアリー夫人の姿も |
東京女子大学の園遊会
東京女子大学で毎春おこなわれている園遊会に伺いました。
当日は、とてもよいお天気に恵まれ、
「日本一美しい」(と紹介の中にありました!)キャンパスツアーにも
参加しました。
現在、創立100周年(2018年)の展示がおこなわれています。
2017/01/26
東京帝国大学図書館の復興
1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こった時、
新渡戸博士は、国際連盟事務次長として在任中で、
スイスのジュネーブにいらっしゃいました。
当時、海外にいた人々は、この悲惨なニュースの
詳細がなかなかわからず不安な日々を過ごしましたが、
新渡戸博士もそんなお一人でした。
以下、『團琢磨伝 下』p.155〜 抜粋
東京帝国大学は、教室の一部と、附属図書館をすべて
失い、蔵書80万冊以上が跡形もなくなりました。
直ちに図書館復興委員会が組織され、数名の教授を
欧米各国に派遣して、大学や学界、名士らに協力を呼びかけました。
ニューヨークでは、ロックフェラー第二世が四百万円の寄付を
決心し、その資金の保管管理に著名な銀行家を要求したことから、
團琢磨が着任しました。
鉄骨鉄筋、地下地上八階の立派な図書館が完成しました。
(抜粋おわり)
上記の話から、ジュネーブの国際連合アーカイブに保存されている
東京帝国大学図書館復興に関する書類を思い出しました。
新渡戸博士は母校でもあり、また、教授を務めた同大学の復興に
大変関心を寄せて、欧米にある数多くの大学などに協力依頼の手紙を
書き送っています。
同図書館は「一つの図書館に過ぎず、ここは、日本の知の集積地」と、
その救済に遠くスイスで尽力しました。
同アーカイブには、復興後の図書館の絵などが含まれた報告書が
残されています。
2016/10/31
作文コンクール表彰式
第18回 後藤新平・新渡戸稲造 記念
拓殖大学 高校生・留学生 作文コンクール
表彰式
拓殖大学 文京キャンパス(東京都文京区)
後藤新平・新渡戸稲造記念講堂
10:30 〜
今年もさらに応募数が増え、総応募数1538作品の中から、
高校生の部(後藤新平賞)入賞は42、留学生の部(新渡戸稲造賞)19作品
と伺いました。
受賞者のみなさま、おめでとうございました。
学生のみなさまの作品、スピーチは、感動的でいつも勉強になります。
今年も授賞式、記念パーティーにお招きいただき、ありがとうございました。



