・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・
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2021/09/17

HAPPINESS CREATOR 新渡戸文化高等学校

2021年9月9日(木)17:30~  外国人特派員協会にて

一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)の記者発表

CCF代表と登壇者のお一人が知人でしたので、出席させていただきました。

教育現場を代表して、登壇されていらしたのが、新渡戸文化学園の山藤旅聞(さんとうりょぶん)先生。

新渡戸文化高等学校の総括校長補佐、高等学校教育チーフデザイナーをされています。

山藤先生は、

「新渡戸文化学園は、創立者の森本厚吉先生、初代校長の新渡戸稲造先生が

 社会の変革をめざして、開校」

「新渡戸文化学園は、学校と社会をブリッジ(橋渡し)する」

とお話しされ、建学の精神を大切にし、いまの時代に合った変革を推し進められていること

がわかり、感動しました。

会場には、山藤先生の教え子(新渡戸文化学園のOGお二人)も登場、

「最近、『一枚500円のTシャツを購入し、ひと夏が終わると捨てる』という友人たちの言動に

違和感を抱いていた。使われない/使われなくなったコットンが、紙としてよみがえり、

再利用されることは素晴らしい取り組み」という率直な声を聞くことができました。

同校では、「国際人としての人格教育」をはじめ、

学園の7つの強みを掲げた教育をおこなっています。

未来に向かって変革を続ける新渡戸文化学園に大きなエールを送ります。

新渡戸文化学園のホームページは、こちら

同校にお招きいただいた時の報告は、こちら


一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)とは、

綺麗な地球を子どもたちに引き継ぐために、洋服の廃棄物をゴミにせず、廃棄物から紙を再生し、

活用することを始めた一般社団法人。

繊維業界にとどまらず、製紙会社、出版社、日本郵便株式会社様、さらに、

お菓子メーカー(今回の登壇者は、榮太棲総本舗の細田将己副社長様)、学校など、

社会全体の大きな連帯により実現可能な、循環型社会をめざす壮大な取り組み。

(日本における繊維リサイクル率は、17.5%。毎年137万トンの繊維廃棄物が捨てられ、燃やされている。

2019年、28.5億枚の洋服が作られ、14.8億枚は、新品のまま破棄。配布資料より抜粋)

CCFのホームページは、こちら


 

2021/03/02

安倍能成(あべよししげ)先生のこと

 2021年3月1日

安倍能成先生は、新渡戸先生の一高の教え子で、のちに一高校長や

学習院院長を歴任しています。

一高のリベラルな思想が戦中、戦後にも引き継がれていたことがわかる

エピソードとして、宇沢弘文先生のご著書より抜粋して紹介します。

↓ 

『人間の経済』宇沢弘文 著 新潮新書 2017年4月

p.84

三 教育とリベラリズム

安倍能成先生のこと

社会的共通資本としての教育について考えるとき、

私にとって忘れられない光景があります。

東京大空襲後の1945年、旧制一高に入学した年の出来事でした。

・・・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つと同時に、

過酷な占領政策が始まります。あたり一面は焼け野原と化していて、

占領軍は、めぼしい建物はみな接収して占領のために使うことにしたのです。

たしか9月半ば、軍隊の施設とみなされていた一高にもジープに乗った占領軍の

将校団が接収にやってきました。当時の一高にも校長は安倍能成先生で、

戦前の日本では最も優れたカント哲学者で、すぐれたリベラリストでも

ありました。ずっと後になって知ったことですが、安倍先生は、戦争中から、

近衛文麿を中心とした敗戦処理を考えるグループの一員だったそうです。

(筆者注:近衛文麿も新渡戸校長時代の一高の生徒)

その安倍先生は占領軍の将校たちを前にして、英語できっぱりとおっしゃいました。

「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。

ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的の

ためには使わせない」

リベラルアーツというのは、教育の仕上げの段階で重要な役割を果たすものです。

つまり、学問や芸術、知識であれ文学であれ、専門を問わず、先祖が残した貴重な

遺産をひたすら学び吸収し、同時にそれらを次の世代へ受け渡すという営為を

する場所だということです。一人ひとりの学生の人間的な成長を図るとともに、

それを時代へと継承する役割がある。安倍先生はそのことを繰り返し、それを聞いた

占領軍の将校たちは、黙ってそのまま帰っていきました。

占領軍に楯突くなど逮捕されて当たり前、という時代にきわめて珍しい

エピソードのはずなのに、新聞はもちろん一高の記録にもいっさい残っていません。

しかし、その場に居合わせた私は心の奥底で、われわれは先祖が残した貴重な遺産を

できる限り吸収して次世代に残すという仕事をしている、

それが大学あるいは学校なのだという思いを強くしました。いまになって考えると

私の心の中で「社会的共通資本としての教育」という考え方が芽生えた原点

だったように思うのです。


2020/03/07

新渡戸夫人と鈴木大拙夫人の動物愛護運動

新渡戸夫人のメアリーさんが、日本で動物愛護運動をおこなったことは、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』でも紹介しました。

以下、同書からの引用ーーーーーー

p.147
日本人道会(Japan Humane Society)動物愛護運動
1915(大正4)年、日本で動物愛護運動の先駆けとなった日本人同会が
生まれました。稲造とメアリーは発起人になり、小日向の自宅で
会合を開きました。動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、
当時の皇后陛下から活動資金が下賜されました。
活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど
日本に住む外国人が中心で、欧米式の動物愛護精神を日本に広める
という大きな役割がありました。(中略)
当時の日本には、動物を生きものとして扱うという考え方が
まだ広くゆきわたっていなかったからです。
「動物愛は、人類愛の延長である。・・・・・」
と稲造は書いています。

p.148 注
日本人道会(大正五年十一月〜大正六年十月)の幹事
名誉会長  鍋島直人
名誉副会長 後藤新平
理事長   新渡戸萬里子(新渡戸夫人)
専務理事  廣井辰太郎
理事    田島道治
理事    前田多門
理事    鶴見祐輔 ほか

ーーーーー以上、引用終わり

一方、鈴木大拙夫人のビアトリス(Beatrice Lane Suzuki)も
動物の保護活動に精力を注いでいたことがわかっています。
ビアトリス夫人は、北鎌倉の円覚寺正伝庵に、犬猫のための保護施設を
設けていたこと、鎌倉には、新渡戸夫妻も別荘を構えていたことから、
この二人のアメリカ人女性に接点はなかったのでしょうか。

この疑問の答えを探して、数年前に東慶寺で井上住職様(故人)に
相談したことがありました。
井上住職様は、ビアトリス夫人と動物の世話にあたっていた
「関口この」さんという方のご関係者にも照会してくださいましたが、
残念ながら、詳細についてはわかりませんでした。

このたび、松ヶ岡文庫年報の最新刊で、
「鈴木ビアトリスと動物たち 〜松ヶ岡文庫所蔵資料に見る〜」
(日沖直子)が掲載されました。

その論文の中で、次のように書かれています。



円覚寺の敷地内に場所を借り、バーネット夫人や日本人道会の
援助を受けて、捨てられた犬や猫を保護する「バーネット記念動物保護
慈悲園」(Barnett Mercy Animal Shelter、以下慈悲園)が開設されたのである。

(中略)

一般に、日本の動物愛護運動の黎明期においては、日本人男性主導の
動物愛護会と、外国人女性主導の日本人道会の2つの流れがあったことが
先行研究によって指摘されている。前者のメンバーには、牧師出身の
リーダー、広井辰太郎とともに、ユニテリアンや仏教改革派の論者が
多く含まれていた。後者は、形の上では鍋島侯爵などを会長に据えつつ、
実際にはバーネット夫人や新渡戸夫人などアメリカ人女性が中心となって
活動したグループであり、キリスト教的背景を伴っていた。

(ビアトリスは、日本人同会に援助を受けながらも、両者にとらわれない
 自由な活動を展開、関口このと二人三脚で実務をこなし、慈善家として
 知られていた九条男爵夫人武子や国際的人道家のアルベルト・シュバイツアー
 の行き方を鑑み、やがて仏教的な自然観と生物観を模索)
(慈悲園は、特定の団体に属さない独立した施設であり、それゆえ
 資金面での問題が深刻であったようだ)

以上、引用、抜粋ーーーー

慈悲園を支援した寄付者リストには、新渡戸夫人の名前もあるようで、
この両夫人の接点、そして、日本における動物愛護にかける共通の
思いがあったことが伺えます。
鈴木大拙や新渡戸稲造を含んだ個人的な関わりがあったかどうかは
わかりませんが、これまで気になっていたことが少し判明しました。
また、当時の国内外の動物愛護運動のこともわかりました。

鈴木大拙は、動物愛護がビアトリスの業績の重要な一部分を占めていたと
考えていたようです。『青蓮仏教小観』の「はしがきと思ひ出」ほか







2019/03/04

サンフランシスコの金門学園

2019年初春

知人の加藤シオー様・睦子様ご夫妻(サンフランシスコ在住)より、
金門学園と、毎年恒例の行事について、お知らせいただきました。
新渡戸稲造博士は、設立時の金門学園と深いご縁があります。
以前の記事ついては、こちらへ。


書き初めの審査員、書家・加藤シオー氏と子どもたち

鏡会(サンフランシスコ餅つき保存会)による餅つきパフォーマンス
    鏡の文字も加藤シオー氏

最近、歴史ある金門学園の取り壊しの動きが出ているようです。
金門学園の付近には、日本や日系人ゆかりの地や建物が多くあります。
日米の友好の証ともいえる、大切な歴史的建造物が大切に保存され、
両国の交流、文化継承や紹介の伝統が末長く引き継がれ、
先人たちの思いが、将来も語り継がれるよう、切に願います。

加藤シオー様・睦子様ご夫妻
サンフランシスコアジア美術館、大書パフォーマンスにて


下記、加藤睦子様がお書きになった記事を、ご本人の許可をいただきましたので
紹介します。


書・習字・書き初め、餅つきと金門学園
         アーティスト・書家・加藤シオー、童話作家・加藤睦子

  金門学園が、年初に毎年取り組まれている書道、「書き初め」の審査の依頼を、
私が初めて受けて、書道の審査と、大きな筆を使っての書のデモンストレーション
、そして鏡会の餅つきパフォーマンスを行って来て、早、15年ほどが経ちました。
その時初めて体験する「書き初め」と、大書パフォーマンスと、生徒も先生も両親
も一緒の餅つきは、毎年、子どもたちが生き生きと目を輝かせ、歓声を上げて喜ん
でくれる、大変活気ある場となります。
その最初の書き初め大会で金賞を取ったK君は、日本語に目覚め、言語学に興味
を持ち、今も現場での研究に励んでいること、また、金門学園の生徒たちが、それ
ぞれに家族を持ち、2019年は、S君、R君の子どもたちが、書き初めと餅つきに参加
していることに、驚きで一杯となり、嬉しい限りでした。

私たち夫婦が、サンフランシスコへやってきたのは、1971年でしたが、金門学園
は、今年110年の歴史を持ち、あまたの子供たちが社会に貢献する社会人として育ち
、金門学園が日系社会の記念碑的な大きな存在となっていること、そこに「書き初
め」の審査員として関わってきたことに、大きな喜びを感じています。

かの「武士道」の著書で、欧米の日本研究者や、トルーマン大統領に多大な感銘
を与えたことで著名な新渡戸稲造博士が、1911年、金門学園の創設時に関わり、何
度も訪問していたことを知った時は、その愛深き生き様に尊敬の念を抱いていただ
けに、不思議な縁と感動を覚えたものです。

また、昭和天皇は1933年及び35年 に、1960年9月25日には、現在の天皇(当時は
皇太子)皇后両陛下も金門学園を訪ねられ、200人の生徒たちが出迎え、ブッシュ
街に1,000人の人々が溢れたと聞いています。その時、陛下は「どうか日本語と日本
文化をしっかり勉強してください。そして、米国の立派な市民となれるよう望みま
す」という、温かいお言葉を残されています。

 日本は平成から新しい元号へと、そして世界中の国々が変化の嵐に見舞われ、一発
触発さえ危惧する時代の流れの中で、子を持つ親御さんたちの想いは、如何なるも
のだろうかと思わずにはおれません。金門学園のお正月イベント、書き初め、競書
、鏡会による餅つきイベントなどの日本文化を、生徒、父兄、教師の皆さんと共に
体験し伝承していくことは、私たちの魂の中に宿る人間本来の精神性、日本人の精
神性が、子どもたちの心の中心軸に直結する、大切な機会になると確信しています

金門学園は110年の歴史と共に、今後も、日系日本人の子弟になくてはならない優
れた教育機関であることを確証し、今後の発展を祈り、見守り続けて行きたく思い
ます。

2018/10/28

キリスト友会 フレンズセンターの公開

2018年10月27日(土曜日)12:00〜

東京都港区三田に、「キリスト友会 フレンズセンター」があります。
新渡戸博士は、終生、クエーカーでしたが、ここは、古くから、
日本/東京のクエーカーの拠点です。

この日、東京都の文化財として、一日のみ公開されるということで、
訪ねてみました。

「米国から派遣された宣教師の住居として、ヴォーリス建築事務所の
設計で建てられました。戦後は、ララ物資の拠点や、
E・バイニング夫人をはじめ多くの人々の交流の場や宿泊施設となり、
現在も宿泊施設として利用されています」
「2018年 東京文化財ウィーク」冊子p.7より
(主催 東京都教育委員会/ 後援 文化庁)












以前、同じ敷地内の会堂は訪問したことがありましたが、今回、
こちらの文化財の建物の中は初めて見学させていただくことができました。
1920年代の建築なので、新渡戸博士ご夫妻も訪問されたことがあるはずです。
戦火も生き延びた貴重な文化財で、一日限りの公開日に
多くの方々が訪問されていました。
ヴォーリズ建築らしい造りが感じられました。
外壁は、新しくなっていますが、内部の造りはほとんど当初のままと
いうことです。
思いがけず、大津先生(普連土学園財務理事)にも久しぶりに
お目にかかることができ、嬉しい一日になりました。

大津先生が来訪者たちのいろいろな質問に答えていらっしゃいました。
ありがとうございました!

このすぐ近くに普連土学園があります。
若き留学生だった新渡戸博士たちの熱心な意見を聴いて、
設立された女子教育のためのフレンド派の学校です。


2018/10/10

小泉八雲の文学とその背景

カルチャーラジオ 文学の世界
NHKラジオ第2毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時

文化講演会「小泉八雲の文学とその背景」

小泉八雲記念館館長、島根県立大学短期大学部名誉教授…小泉凡

小泉八雲さんのひ孫さん・小泉凡さんのお話が放送されている中、
第11回では、ボナ・フェラーズが取り上げられています。

『新渡戸稲造ものがたり』p.222~

新渡戸稲造博士の「精神的子孫(spiritual descendants)より

 日本は敗戦し、連合国の占領下になりました。連合国最高司令官
総司令部の最高司令官マッカーサーとともに、軍事秘書官ボナー・
F・フェラーズが来日しました。フェラーズはカーライルを学び、
稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神をよく理解して
いるクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の一色ゆり
(旧姓・渡辺)の友人でもありました。(引用終わり)

フェラーズは、河井道と一色ゆりの二人からの意見も参考にして、
報告書を作成し、天皇陛下を裁くのではなく、
日本国民の天皇陛下への尊敬心を、むしろ日本統治にいかすことを
提案したのです。
フェラーズは、戦前から、小泉八雲の著書を読み、日本人の精神性を
理解していました。そして、小泉家とも親交がありました。

小泉凡さんの「ボン」という名前は、ボナー・フェラーズの名前から
付けられています。
凡さんは、この回の最後に、
「人との出会い、書物との出会いが、歴史を作るときがある」
と述べています。

NHKラジオのホームページ(聞き逃しが聴けます)は、こちら

2018/06/25

渋沢栄一の孫「鮫島純子」様と新渡戸博士

2018年6月25日

最近の読書記録メモ

鮫島純子(渋沢栄一 孫)著
『祖父・渋沢栄一に学んだこと』
2010年10月15日 文藝春秋

P.86〜88「新渡戸稲造先生」より抜粋

あれは、私が小学校低学年の頃でした。
その日は記者で名古屋に向かいましたが、・・・
父(渋沢栄一の四男 正雄)は、車内に落ち着くやいなや
向かい合わせの席に書類を広げ、社用を片付けていました。
列車が浜松にさしかかる頃、さすがに飽きた私は、
背中合わせに座っておられる上品な白髪のご老人と目が合い、
ニコッと笑いかけました。
これがきっかけで、このご老人との車内文通が始まりました。
はじめ彼はノートの切れ端に
「お名前は何といわれますか?」と書いて渡されました。
「純子と申します」
「どこまでゆかれますか?」
「名古屋でございます」
「お年はいくつですか?」
飽きもせず、背中合わせのたどたどしい文字のやりとりは
エスカレートし、ご老人のボックス席に入り込んでお話を
うかがうことになりました。

「ご家族と一緒に楽しい旅ができるということは、
 なんとお幸せなことでしょうね」
と言われ、それにはたくさんの方々のご恩を受けてこそですね
と説明されてから、私の指をとって一本一本折り曲げながら、
誰のお陰でこうして旅に出られたかを考えるように促されました。
「お父様、それから?」というように、留守番の人々から、
旅に出る服を調(ととの)えた人、列車を運転している運転手さん
に至るまで・・・。

そしてそれも種が尽きる頃、「お天道様や空気や雨もなくては
なりませんね。それはどなたがくださったのでしょう?」と
誘導して、神の大いなる恵みの中にわれわれは生きているので、
誰ひとりとして自分だけの力や働きで生きていられるのではないことを
話されました。

そろそろ名古屋に着くので、降りる支度を始めるようにと、
立ち上がって私たちのほうを見た父が、
「おや、先生じゃいらっしゃいませんか」と進み出て、
丁寧にご挨拶しました。

このご老人こそは、一高時代の恩師でもあった新渡戸稲造博士だったのです。
新渡戸先生は、栄一とご一緒の写真がいくつか残っています。
日米交流に尽くした御両者ですので、交流も深かったことでしょう。
私はあの優しいご老人が、読書の邪魔をした見知らぬ少女の心にさえ、
神の恩寵に気づくよう促されたのを折に触れ思い出し、
感激しつつ、心に蘇らせています。

(以上、抜粋終わり)

〈補記〉 同書 「鈴木貫太郎大将」p.117より
昭和17年4月、鮫島員重氏と結婚
帝国ホテルと華族会館で披露宴
仲人は、鈴木貫太郎・たか夫妻


2016/10/10

『20世紀における女性の平和運動』

2016年10月 読書メモ

『日本女子大学叢書1 
 20世紀における女性の平和運動
 ーーー婦人国際平和自由連盟と日本の女性』
中嶌 邦 ・ 杉森 長子 編
2006年5月 ドメス出版

「婦人平和協会」という平和の文字を全面に掲げて
最も早く始まった女性団体の活動を中心にとりあげた論文集。
協会成立へ大きな影響を与えた成瀬仁蔵および新渡戸稲造と
その夫人メアリーの動向、協会の結成と活動の展開など。
(千代田区立図書館のHPより)

1910年代、新渡戸稲造博士および成瀬仁蔵先生(日本女子大学
創設者)やそのまわりの人脈から始まった日本における女性の平和運動が
アメリカや世界の動きに呼応するように発展、新渡戸博士の
教え子たち(上代タノ先生や河井道先生)によって、継承されて
いったこと、そして、新渡戸博士が、国際連盟事務次長を務めた
国際連盟とともに、国際組織の一つとして活動してきたことなど、
女性平和活動の活発な展開が興味深い。

目次
第一部
女性の平和運動への触発 成瀬仁蔵の平和思想と活動 / 中嶌/邦‖著
婦人平和協会へ向けて 新渡戸稲造夫妻と成瀬仁蔵 / 小塩/和人‖著
婦人平和協会の結成と活動の展開 / 杉森/長子‖著
婦人平和協会と第二次世界大戦 / 杉森/長子‖著
日本における婦人国際平和自由連盟の国際総会開催 / 蟻川/芳子‖著
WILPFと国連 / 秋林/こずえ‖著

第二部 年表より

1919(大正8)年1月
国際問題研究会発足(新渡戸稲造邸)
目賀田逸子(目賀田種太郎夫人、勝海舟三女)、
新渡戸萬里子(新渡戸稲造夫人)、
津田梅子(新渡戸博士の友人、津田塾大学創設者)らの呼びかけにより、
井上秀子、上代タノ、羽仁もと子(自由学園創設者)、
塚本はま子など数十人参加。

1920(大正9)年1月
国際連盟発足

1921(大正10)年7月10日〜14日
第三回国際会議(ウィーン、参加21カ国222人)
日本から新渡戸萬里子らが参加。
第一次世界大戦で敵味方だった諸国の婦人たちが、
平和のための努力を誓い合う

1923(大正23)年6月
国際会長ジェーン・アダムス来日

1924(大正24)年5月17日
第4回国内総会(門野重九郎邸)
講演「ジュネーブ湖畔に開く世界市民の集まり」
新渡戸萬里子

1926(大正15)年5月8日
第6回国内総会
講演「太平洋問題について」
鶴見祐輔

同年7月8日〜15日
第五回国際会議(ダブリン、参加20カ国151人参加)
日本支部代表として上代タノが出席、初めて支部報告をおこなう
「平和へのつぎの段階」
上代タノ

1927(昭和2)年5月21日
第7回国内総会(ドイツ大使館)
講演「平和を将来する人々」
河井道

1928(昭和3)年5月18日
第8回国内総会(大阪ビルディング講堂)
講演「世界の平和と婦人」
新渡戸稲造

1930(昭和5)年6月6日
第10回国内総会
第二代理事長 河井道

1931(昭和6)年
懸賞論文発表「拓け国際協力への進路を」
日米児童画交換開始
満州問題メッセージカード2500枚配布
世界軍縮誓願者署名運動など

(以上、新渡戸博士関連を抜粋、1932年以降は省略)

新渡戸稲造博士の教え子の一人、河井道先生(恵泉女学園創設者)は、
理想とする女子教育の柱に「国際」を掲げていらっしゃいました。
「少女たちが、外国のことを知るようになれば、戦争はなくなると
考えていました。」(『新渡戸稲造ものがたり』より)

やがて母親になる少女たちが、海外のことにも目を向け、平和の尊さを
知ることで、そして、その思いが世界中の女性たちからも芽生え、
響き合い、一つになれば、戦争の悲劇はいつかなくなるのではないでしょうか。
そんな共通の思いを強く感じられる先人たちの活動を知る機会になりました。

2016/10/04

『明治大正昭和の人々』佐佐木信綱

『明治大正昭和の人々』佐佐木 信綱 著
 図書出版株式会社/新樹社 昭和36年1月30日 発行

この本には、佐佐木信綱先生が関わった実に多くの著名人について
紹介されています。

以下、読書メモ

p.80 新渡戸稲造

明治42年の春の竹柏会では、新渡戸博士にご講演を依頼。
新渡戸博士は、「ファウスト物語について」という題で話され、
「敷島の道に心得のない私が、こういう会で出ますことは、忠臣蔵の芝居に
 弁慶でも出るように、あまりに釣り合いのわるいことで・・・」と
おもしろく前置きをされ、話を進められた、と書かれています。

しかし、博士は、敷島の道を心得られないのではなく、学生の会合とか
結婚式などには、たびたび、訓誡(くんかい=物事の善悪、是非を教え諭すこと)
の古歌を引用された。

注・竹柏会(ちくはくかい)=歌誌「心の花」を発行する短歌結社(佐佐木信綱主宰)

(中略)

三村起一氏の結婚披露宴(上野の精養軒)では、
(佐佐木先生は)媒酌人 新渡戸博士の前の席に座られた。


注・三村起一(1887年〜1972年)は、一高から東京帝国大学法科卒の実業家。
  住友鋼業初代社長、日経連、経団連の理事なども歴任。

(中略)

軽井沢にいたある夏の夕べ、霧の深い山荘に、博士を訪ねたことがある。
喜んでお迎えくださり、歌語りに時を過ごし、さて帰ろうとして玄関に出た
ところへ、夫人が帰って来られた。
博士は、自分を、歌の道に何十年をささげた人であるというふうに夫人に
紹介され、夫人の答えを訳して聞かせてくださった。
それは、短い言葉であったが、意味の深い言葉であった。

///
新渡戸稲造先生についての部分のみ、抜粋(一部書き直し)。注などは筆者。



2016/09/07

シンポジウム「新渡戸稲造の精神をどう活かすか」

2016年9月4日(日曜日)

地域博物館シンポジウム
新渡戸稲造の精神をどう活かすか
〜新渡戸記念館の現状と未来への挑戦〜

東京文化財研究所セミナー室(東京都台東区)

開会 日髙 真吾 国立民族学博物館文化資源研究センター准教授
主催者 あいさつ
来賓  あいさつ 安倍昭恵 首相夫人
         コシノジュンコ ファッションデザイナー

第一部 基調講演
1 新渡戸稲造と文化の力 〈キャンセル〉 青柳正規 前文化庁長官 
2 新渡戸記念館を活かした歴史まちづくりについて考える
             三井所清典 芝浦工業大学名誉教授

第二部 パネルディスカッション
新渡戸記念館の価値をどう地域の未来に活かすか
コーディネーター 半田昌之 公益財団法人日本博物館協会専務理事
パネリスト    世界の中の新渡戸記念館
         前田耕作 アフガニスタン文化研究所 所長
         生田勉 建築としての価値
         笠覚曉 金沢工業大学教授
         地域博物館としての価値
         矢島國雄 明治大学教授
         外国人の視点から見た価値
         マンリオ・カデロ サンマリノ共和国特命全権大使
         十和田市民の視点から見た新渡戸記念館問題
         保土沢道是 新渡戸記念館を守る会
         新渡戸記念館の所蔵資料の特長
         角田美恵子 新渡戸記念館ボランティア(学芸員)
(敬称略)

会場にて、
パネル展示「新渡戸稲造が残した小さな博物館「新渡戸記念館」の魅力 
〜資料・建物・地域〜


建築物として、地域博物館として、また、所蔵資料の継承と活用について、
それぞれのご専門、視点からの広範で多角的なご発表で、大変勉強になりました。

今後、新渡戸稲造博士の志に沿う方向で、保存・活用されるよう願っています。
会場で、また懇親会では、さまざまなお話を伺う貴重な機会になりました。
ありがとうございました。


2016/08/31

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者を偲ぶ会

2016年8月28日(日曜日)

「山室機恵子の生涯」を論じ、著者安原みどり氏を偲ぶ会


日本女子大学(東京都豊島区)桜楓会館2号館にて

開会のあいさつ 牧野田 恵美子 元日本女子大学教授

第一部「山室機恵子の生涯」を論じる
論者 太田 愛人  社会福祉法人「愛の家」理事長
   柴崎 由紀  銀の鈴社 『新渡戸稲造ものがたり』著者
   坂井 興一  弁護士 著者の盛岡一高の先輩
   岩田 正美  日本女子大学名誉教授  (敬称略)

休憩
二胡演奏(著者友人の鈴木道子様)

第二部 安原みどり氏の思い出を語る
    献杯
    参加者のみなさまから一言
    ご遺族のあいさつ 

主催者様、および、安原様ご家族の方々のご尽力で、
安原みどり様の命日のこの日、上記のような会が催されました。
昨年の夏、安原みどり様は最後の校正を終え、すべてを編集長に託され、
永遠の眠りにつかれました。
翌月、できあがった待望のご著書を本人に手にしていただけなかったことは
本当に悔やまれます。

関連記事は、こちら

私も、第一部で安原みどり様との出会い、そして出版の経緯について
報告させていただきました。

新渡戸博士ご夫妻は、山室軍平・機恵子様ご夫妻の活動に賛同され、
協力を惜しみませんでした。
また、新渡戸博士は、日本女子大学さんともいろいろなご縁があります。
創立者 成瀬仁蔵先生とは、女子教育に対する思いを共有され、
ずっと親交がありました。
実際、新渡戸先生は、何度か日本女子大学で講演をおこなっています。
国際連盟事務局長を退任後の1927521日には、新渡戸先生の呼びかけで、
国際連盟協会学生支部が日本女子大学内に発足しています。
また、上代(じょうだい)タノ先生は、日本女子大学在学中より、
新渡戸先生と親交があり、新渡戸の尽力によりアメリカ留学を果たしています。
また、新渡戸先生が国際連盟の事務次長としてジュネーブ滞在中の最後の半年間、
新渡戸家に滞在し、新渡戸夫妻と一緒に帰国しています。


『新渡戸稲造ものがたり』と同シリーズの一冊『奥むめお ものがたり』を
今回の会の記念に日本女子大学に寄贈させていただきました。
奥むめおさんも日本女子大学の卒業生です。
奥むめおさんも、山室機恵子さんも、結婚し、子どもを育てながら
ご自分の社会的使命を自覚され、活動されました。
時には、子どもを背負って陳情に行くなどのご苦労もされています。
当時の女子教育の重要性を説いていらした新渡戸先生、
その教え子で恵泉女子大学を創立した河井みち先生は、
「子どもに最も身近な存在である女性こそが、社会や世界の見識を深めることで
戦争がなくなる」というお考えをおもちでした。
地にしっかりと足をつけて、日々、家族のためを思って生きている女性の姿は、
安原みどりさんの生き方にも通じるものがあると思います。


第二部では、安原みどり様の高校、大学時代の友人のみなさん、日本女子大学の
福祉科の方々がそれぞれに思い出を語られ、和やかな心あたたまる会でした。
(司会進行 増野肇様、黒岩亮子様)

ご企画いただきました主催者様、安原様に心より御礼を申し上げます。

私自身、安原みどり様、そしてご研究から多くのことを学ばせていただきました。
みどりさん、本当にありがとうございました。

2016/08/06

神谷美恵子さんのこと

2016年8月

読書メモ

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』
大谷 美和子 著 くもん出版 2012年12月

神谷美恵子氏(1914年〜1979年)は、皇后美智子様を精神的に
お支えした方として知られています。(旧姓は、前田)
新渡戸稲造博士の教え子の一人、前田多門氏のご長女です。

ご両親(前田多門・房子)のご縁をとりもったのも新渡戸博士です。
お母様は、普連土学園のご出身。

新渡戸博士が、国際連盟の事務次長としてジュネーブに在住していた
1923年、父・前田多門氏が国際労働機関(ILO)の日本代表として
ジュネーブに赴任。
幼かった子どもたちを連れて、ジュネーブにやってきました。
美恵子氏は、両親が慕う新渡戸博士にかわいがられ、
『武士道』のフランス語版をプレゼントされています。

伝記『新渡戸稲造ものがたり』では、
文字数(全体の文量)を少なくするために、やむを得ず、
神谷美恵子氏についての記述も、当初の原稿から削らなければ
なりませんでした。
けれども、『新渡戸稲造ものがたり』を読んでくださった知人の中に
神谷美恵子氏の教え子や、大きな影響を受けた方がいらっしゃること
がわかり、嬉しい驚きでした。

『ハンセン病と歩んだ命の道程 神谷美恵子』は、
神谷美恵子氏の生涯がわかりやすくまとめられた一冊。
神谷美恵子氏が、結婚前にペンドル・ヒル(アメリカ・ペンシルベニア州)
で過ごしたことを知りました。
ペンドル・ヒルは、クエーカーの人々が学ぶ学寮。
ここで、彼女は世界中からやってきた人々から感化を受け、
将来の自分の歩む道を模索した時期を過ごしたようです。
彼女もまた、クエーカーの信仰に影響を受けた一人といえるかもしれません。

彼女の代表的な著書『生きがいについて』を
あらためてじっくりと読んでみたいと思っています。

2016/07/20

テレビ番組「フィンランドで見つけたBUSHIDO」

2016年7月

岩手めんこいテレビさんが、開局25周年記念番組として、
「フィンランドで見つけたBUSHIDO 〜新渡戸稲造と平和の島〜」を
制作されました。

約100年前、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造博士が解決に導いた
国境問題。その時の「新渡戸裁定」は、成功事例として、現在も
語られています。

◆放送日
2016年7月30日(土)14:00〜14:55 めんこいテレビ
2016年8月20日(土)14:00〜14:55 BSフジ

2016/06/07

日本両親再教育協会

「日本両親再教育協会」は、
1928(昭和3)年、新渡戸博士の東京帝国大学教授時代の教え子の一人、


上村哲彌(かみむらてつや)氏が中心になって創立された民間組織。
後藤新平伯と新渡戸稲造博士は、顧問に就任しています。
会長は、松本亦太郎(まつもとまたたろう)。


同会によって出版された「子供研究講座」第十巻(昭和4年7月11日発行)に、
新渡戸博士は、「親の道」を寄稿しています。

冒頭、新渡戸博士は、東西の二聖人、釈尊とキリストの話を引用しています。
そして、「親子の関係が真にその素質通りにまっすぐにのび、まさにあるべき
境地まで到るには、まず親子の関係の土台である夫婦の関係がその真面目を
発揮せなばならぬ」と書いています。

成瀬仁蔵著『新婦人訓』からテニソンの詩の訳を紹介。
「子のために、親はまず生きがいある生活を営め」としています。

「・・・親子の間に常に感応があり、親の生命が子を育て、
子の成長が親をさらに発展せしむるという親子本来の関係を
どこまでも続けることは、
親の幸福であり、子の健全なる発達の基である。
 それがために親はなにをますべきかといえば、
子の信頼と敬愛を続け得るため、その人格を常に向上させ、
子の進歩と共にますます彼の光たり得るよう生活することである。」
(同書 p.14より)



2016/05/25

『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』

2016年5月22日(日曜日)午後6時〜

『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』出版記念会

アルカディア市ヶ谷(私学会館)東京・市ヶ谷

このたび、藤井茂氏(新渡戸基金事務局長)と
長本裕子氏(新渡戸文化中学校高等学校 元校長)の共著、
『すべての日本人へ 新渡戸稲造の至言』が出版されました。
同書は、昨年、お二人が盛岡市の新聞「盛岡タイムズ」に
一年にわたり毎日連載した新渡戸博士の言葉とその解説を掲載しています。

出版記念会には、新渡戸文化学園の先生方や新渡戸研究に関わって
いらっしゃる多くの方々がご参集されました。

あらためまして、著者のお二人に心よりお祝いを申し上げます。






草原先生による祝辞




発行:一般財団法人 新渡戸基金
   2016年5月28日



2016/05/21

『田中館愛橘ものがたり』

2016年5月21日(土曜日)

このたび、『田中館愛橘ものがたり ひ孫が語る「日本物理学の祖」』
を刊行いたしました。
田中館愛橘(たなかだて あいきつ)博士は、新渡戸博士と同じ、
南部藩の出身です。現在の岩手県二戸市に生まれました。
世界的に活躍された学者です。
地球物理学のほか、地震の研究、航空学、またローマ字の普及にも
取り組まれました。

田中館博士(1856年〜1952年)は、長年、新渡戸博士とも親交がありました。
また、新渡戸博士が主導した国際連盟の知的協力委員会(いまのユネスコの前身)
の委員も務めました。

同書『田中館愛橘ものがたり』では、
晩年に博士と共に生活された、ひ孫の松浦明様が、家族ならではの逸話なども
紹介され、子どもたちに優しく語りかける内容になっています。

松浦様の労作になりました。
このたびのご出版に心よりお祝いを申し上げます。
また、奥様の郁子様をはじめ、ご協力いただきました関係者の皆様に厚く御礼を
申し上げます。



発行:銀の鈴社
   2016年5月21日

田中館博士の出身地、二戸訪問については、こちら

2015/12/31

藤田正一著『札幌遠友夜学校』

2015年12月

札幌の藤田正一先生が、ご著書『札幌遠友夜学校』を
お送りくださいました。
この冊子のご発行については、先ごろ閉室になった遠友夜学校記念室
の再開、そして、遠友夜学校の貴重な資料を国の文化遺産に、
という強い気持ちが込められています。

遠友夜学校記念室(2011年に訪問)については、こちら



藤田先生は、北海道大学の元副学長/名誉教授でいらっしゃいます。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』執筆のため同大学を訪問した際に
初めてお目にかかりました。
平成遠友夜学校」の校長先生でもいらっしゃいます。
その後、『日本のオールターナティブ 〜クラークが種を蒔き、北大の
前身、札幌農学校が育んだ清き精神〜』(2013年12月)の出版の
お手伝いをさせていただきました。
同書については、こちら


2015/12/30

NHKラジオ「いま生きる 武士道」

2015年10月〜12月
NHK ラジオ第2放送「こころをよむ」

「いま生きる 武士道  その精神と歴史」
笠谷 和比古

日曜日 午前6:45〜7:25 (再放送 翌日曜日 午後1:20〜2:00)

「武士道」という言葉は、よく見かけることがありますが、
筆者または話者が、なにを差しているのかわかりにくいことが多いと
思います。
私はすぐに新渡戸博士の著書『武士道』を思い浮かべますが、
『葉隠』を考える人、漠然と「日本人に昔から引き継がれている精神」
と捉える人・・・

今回の笠谷先生の講義では、さまざまな角度から「武士道」を考えることが
できました。
また、今日的な意義を示されていて大変勉強になりました。

2016年1月は、NHK Eテレ「100分de名著」に、
再び、内村鑑三の著書が登場です。こちらも楽しみ!

武士の娘「杉本鉞子」(すぎもとえつこ)

2015年12月29日 10:00〜11:49
BS1 スペシャル「武士の娘 鉞子とフローレンス
〜奇跡のベストセラーを生んだ日米の絆〜」

以前、ある方から、
「新渡戸稲造や武士道を研究しているのなら、ぜひこの人のことも・・・」
と紹介していただいたのが、杉本鉞子(えつこ)という人物です。

長岡出身の杉本鉞子さん(1873年〜1950年)は、元武士の娘でしたが、
アメリカ在住の日本人と結婚するために、渡米しました。
1925年、英語で「A Daughter of the Samurai(『武士の娘』」を書き、
当時、欧米で注目されました。
新渡戸稲造が、英語で『武士道』を出版(1900年)したちょうど25年後、
新渡戸博士が国際連盟の事務次長としてスイスのジュネーブに滞在して
いたころです。
杉本鉞子さんが、渡米後からずっとお世話になったのが、
新渡戸のアメリカ留学時代の学友(ジョンズホプキンズ大学)で、
アメリカの大統領になったウッドロー・ウイルソンの一族の方々です。
特に、ウィルソン一族のフローレンスさんとは生涯の友になり、
この本『武士の娘』の刊行には、彼女の大きな尽力がありました。

杉本鉞子さんは、コロンビア大学で講師も務めましたが、
日本では、新渡戸博士ご夫妻と深いご縁もある普連土学園でも
教えたそうです。


2015/12/18

聖路加国際病院と新渡戸稲造博士

2015年12月

聖路加国際病院は、歴史のある都内有数の総合病院です。
104歳の日野原重明先生が、名誉病院長をされていることでも
よく知られています。


聖路加病院旧館(現在の聖路加国際大学)



新渡戸稲造博士は、この病院の設立にも関わっており、
病院と看護大学の評議員を務めました。
現在も旧館の正面玄関にその足跡を確認することができます。
この写真は、設立当時に建てられた石碑。
12ある穴(釘跡)は、戦時中に「神の栄光」と刻まれた礎石を
憲兵隊によって隠すよう命令され、御影石で覆っていた跡と
説明されています。



「この基礎石は、建物(旧館)が、1928年(昭和3年)1月に着工し、
 その後、1930年(昭和5年)3月28日に行われた定礎式で披露され、
 約67年間、旧館東口玄関に設置されていました。
 ・・・中略
 定礎式には、秩父宮両殿下を始め、各大臣、東京府知事、
 警視総監、各国大公使、新渡戸稲造の署名士たち400名が出席
 されました。
 ・・・後略」

 定礎式の当日は、内村鑑三が亡くなった日でもありました。

新渡戸博士の鎌倉の別荘は、新渡戸の没後、メアリー夫人によって
聖路加看護大学(現在の聖路加国際大学)に売却されています。
鎌倉の別荘跡の訪問については、こちら

今回、大学史編纂資料室のご厚意で、関連資料を閲覧させて
いただくことができました。
松山事件の後、新渡戸博士がこの病院に入院されていたことなども
確認できました。

旧館内部

旧館内部


この病院のある明石町(東京都中央区)は、かつて外国人居留地
でした。


中庭には、設立者トイスラー博士(Dr. Teusler)の旧宅(洋館)も保存されています。

また、同地には、「芥川龍之介生誕の地」と書かれた案内版も。


芥川もまた、新渡戸校長時代の旧制一高の生徒でした。
(このあたりで幼少時代を過ごした谷崎潤一郎については、こちら。)