駐日大使を務めたエドウィン・O・ライシャワー氏(Edwin O. Reischauer)の
父は、アメリカ人宣教師で、新渡戸稲造や安井てつと共に、
東京女子大学を設立しました。
エドウィン・O・ライシャワーたち三人の子どもたちは、
いわゆるBIJ(Born in Japan=日本生まれ)。
エドウィンの伝記「My Life Between Japan and America(『ライシャワー自伝』)」には、次のように書かれています。
『ライシャワー自伝』
エドウィン・O・ライシャワー 著 徳岡孝夫 訳 文藝春秋 1987年
〈 キリスト教徒で現在は五千円札の顔になっている新渡戸稲造、女子教育家の
安井てつらの協力を得て、父は一九一八年に東京女子大学の創立に成功した。
英語名をTokyo Woman's Christian Collegeというこの学校は、今日では学問的にも
社会的にも日本の一流大学になったが、父はいつも非常な満足をもってその創設を
語ったものである。
母のほうは一貫して婦人矯風運動と貧しい人のためのセツルメント活動に熱心
だったが、最大の業績は聾者を口話法(口の形で音を読み取る)で教える
日本最初の学校を作ったことだろう。〉
『ライシャワー自伝』p.43-44
エドウィンの父オーガスト・カール・ライシャワーについて、伝記『新渡戸稲造
ものがたり』には、次のように書きました。(p.154 注)
〈 A・K・ライシャワー August Karl Reischauer 1879年〜1971年
東京女子大学の設立に大きく関わり、常務理事として財政を担当。夫人とともに
日本聾話学校を(聴力に困難がある子のための学校)を設立。次男のE・O・
ライシャワーは、のちに駐日大使。〉
ライシャワー家は、軽井沢でよく夏を過ごしていたことが知られています。
当時の外国人たちの多くも、そして新渡戸夫妻もまた軽井沢に別荘をもっていた
ので、軽井沢で両家の交流もあったかもしれません。
新渡戸夫妻の軽井沢の別荘については、こちら。
『ライシャワー自伝』の中では、軽井沢で交流した中に、新渡戸博士の教え子
(第一高等学校)三谷隆信氏の姉で女子学院院長の三谷民子、軽井沢でテニスを
したカナダ人E・ハーバート・ノーマンが登場しています。
エドウィンは、後年、三谷隆信氏を侍従長として知ることになります。
三谷は、新渡戸の書生だった友人の田島道治(初代宮内庁長官)とともに
戦後の宮内庁改革に尽力することになるのです。