2016年6月5日(日)
日本では、あまりにも有名なキャラクター「ムーミン」。
その作者トーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)氏(1914〜2008)は、
スウェーデン系フィンランド人として、ヘルシンキに生まれた。
もともと画家として活躍し、当時に政治風刺雑誌「ガルム」にも
多くの絵を描いています。
20世紀前半のフィンランドが置かれた状況は、歴史、文化、地理などの
影響により複雑なものでした。
そんな中、1921年に国際連盟にその解決を委ねたのが、オーランド諸島の
帰属問題でした。当時、事務次長で国際部長だった新渡戸博士は、
その裁定をおこないました。
国際連盟がおこなった紛争解決の中で、成功事例として、
いまにも伝えられている「新渡戸裁定」です。
『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界 ムーミン・トロールの誕生』
(冨原眞弓 著 青土社 2009年5月)から、以下を引用します。
p.68〜「オーランド解放区」
フィンランドには一種の解放区がある。オーランド諸島である。
バルト海の多島海域に浮かぶ約6500の島嶼(とうしょ=大きな島や小さな島)
の総称で、スウェーデンの首都ストックホルムとフィンランドのトゥルク
(スウェーデン時代の首都オーボ)の中間に位置する。
1809年にフィンランド本土とともにロシアに割譲されるまでは、
歴史的にも文化的にもスウェーデン王国の一部であった。
住民のほとんどがスウェーデン語を話し、フィンランドではなく
スウェーデンへの帰属意識のほうが強い。ロシア領となってからも、
自分たちはスウェーデン人だと思っていた。本土のフィンランド人とはことなり、
フィンランド人かロシア人かというジレンマは存在しなかった。
フィンランドがソヴィエト=ロシアから独立したのちも、オーランドの
帰属をめぐって、フィンランドとスウェーデンは争った。この紛争の決着に
道筋をつけたのは、国際連盟事務次長だった新渡戸稲造である。
1921年、ジュネーブ本会議で「新渡戸裁定」が承認された。
オーランドはスウェーデン語の使用、スウェーデン文化や習慣の維持、
内政自治を手に入れた。
フィンランドは、オーランドを領有する権利とひきかえに、
オーランドに内政自治を保障する義務を課せられた。スウェーデンは
得るものがなかった。オーランドの非武装・中立化のほかには。
フィンランドとスウェーデン双方の痛み分けで、オーランドの希望が
ほぼ認められた。現在も、オーランドがフィンランドとスウェーデンを
つなぐ重要な中継地だ。今日、フィンランドからスウェーデンへの移住を
希望するものは、かならずといっていいほどオーランドに五年とどまる。
この通過儀礼をおこなうだけで、オーランド人にあたえられている特権、
すなわちスウェーデンへの自由な移住という特権が手に入るのである。
(以上、引用おわり)
とはいえ、この帰属問題は、フィンランド本土に住むフィンランド系と
スウェーデン系に大きな影響を及ぼしたようです。
同書の第七章「ひとつの国、ふたつの言語」では、当時の雑誌などに
掲載された記事から、双方の心情を読み取っています。
(以下、同書p.99〜「オーランド、どこへいく」から抜粋)
フィンランド本土が独立と内戦の混乱のただなかにあったとき、
オーランド諸島の住民たちは、いまこそスウェーデンへの帰属を
嘆願すべきと考えた。スウェーデン王も政府もこの表明を歓迎する。
ロシアに奪われた領土の一部を取り戻すチャンスでもあった。
1917年12月5日、フィンランド独立宣言の前日というタイミングに、
オーランドの嘆願書が提出された。フィンランドが国としての命運を
かけて戦っている時期であったので、大半のフィンランド系は憤慨し、
当惑したスウェーデン系も少なくなかった。本土におけるスウェーデン系の
立場を悪くすると心配するものも多かった。
当時、オーランドの人口は、27,000人程度。そのうち成人の7,097人が
復帰嘆願に署名した。
オーランドの「分離主義」あるいは、「母国復帰願望」は、
フィンランドを二分する階級とイデオロギーと言語の亀裂をあらためて
浮き上がらせた。
オーランド帰属問題で、割をくったのは、本土のスウェーデン系だった。
内心は同じ穴のムジナだろうと、フィンランド系の不信を買ってしまった。
純正なフィンランド系をとなえる学生たちは、公教育でのフィンランド語化を
訴えた。一般に、フィンランド系の学生は、両親もスウェーデン語を話さず、
学校の授業も友人もフィンランド語(スウェーデン語は一教科にすぎない)。
ところが、高等教育では、講義のほとんどがスウェーデン語になり、
フィンランド語が母国語であることがハンディになる。
政府も、どちらの言語でも選んで学ぶことができる制度を導入する案などを
出したが、なかなかうまくいかなかった。
それから数十年後、我が子の将来を考えて、多数派のフィンランド語教育を
選ぶスウェーデン系の親を「親心と打算がスウェーデン語を滅ぼす」と
雑誌「ガルム」は警鐘を鳴らした。
(以上、同書より抜粋)
隣国との国境問題は、いまでも世界各地で起こっています。その背景には
長年の両国の関係や、地理的要素、文化、言語にいたるまで、複雑な状況が
からんでいることを、今回は、雑誌から垣間みることができました。
(フィンランドが独立して数年後の1923年、雑誌「ガルム」は産声をあげた。
トーヴェ・ヤンソンは、四半世紀の間、「ガルム」ほか多くの新聞雑誌に
千枚以上の絵を描き、1940年代後半には、その絵の八割以上にムーミントロール
が姿を表わしているそうだ。風刺画の隅っこにちょこっと、その愛らしい姿が
見える。)
鎌倉 第81回 円覚寺夏期講座 円覚寺 大方丈にて
6月5日「ムーミンを哲学する」 冨原 眞弓 聖心女子大学 哲学科教授