・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2013/05/15

『河井道と一色ゆりの物語』

新渡戸稲造博士の教え子の一人で、恵泉女学園の創立者である
河井道(かわい みち)先生と、その河井と家族のような親交があった
一色ゆり(旧姓 渡辺)さんについて、一色ゆりのご長女、一色義子さんが
書かれた書籍が、昨年12月に刊行されました。
河井道とゆりの師弟関係を、「恵みのシスターフッド」として紹介。
また、クエーカーで軍人のボナ・F・フェラーズ(Bonner F. Fellers)との
関わりについても書かれています。

『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』
一色 義子 著
キリスト新聞社
2012年12月25日

河井道は、新渡戸夫妻と渡米し(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.103〜)、
かつて津田梅子(津田塾大学創立者)も学んだ、アメリカ東部の
ブリンマー大学を卒業して、帰国後、津田塾大学の教師になりました。
そこに入学してきたゆりは、津田塾を卒業すると、河井の導きで、
アメリカの共学アーラム大学(新渡戸稲造の信仰したクエーカーの学校)に留学。
1914年、アーラム大学の上級生になったゆりは、あるクエーカーの入学生の
指導を担当することになります。
アーラム大学では、上級生が一年生の指導責任をそれぞれもたされたからです。
(『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』p.64)

その入学生こそが、イリノイ州の農家からやってきた、ボナ・フェラーズ。
後年、終戦後の日本にマッカーサーと共に副官として来日することになる
人物です。

さて、アーラム大学を優等賞で卒業したゆりは、日本に帰国。
一方、フェラーズは、アーラム大学を二年で修了して米国陸軍士官学校の
ウエストポイントに入り軍人になります。
1922年、フェラーズは、初来日。

〈ゆりは、河井と二人で、この若い青年フェラースをすき焼屋でご馳走します。
河井道は、そのころ既に、YWCAだけでなく、・・・
世界学生連盟の副議長も務めており、世界的青年指導者の一人になっていました。
もっとも軍人らしくない、卒業任官で陸軍中尉の青年フェラースは、
河井道のキリスト教の国際的な姉妹兄弟観にすっかり共鳴しました。
この時からフェラースはゆりとともに河井道を尊敬し、敬愛する親しい友人に
なりました。「日本をもっと知りたい」というフェラースに、ゆりは英語で
書かれた日本が分かるような本といえば、当時はラフカディオ・ハーンのもの
ぐらいしか思いつかなかったのです。英語で読む日本の風物といえばやはり
ハーンかと思い「私はハーンの思想は好きではないけれど」と言いながら
「確かに私がフェラースにハーンを紹介した」と。ゆりは後々までそのことを
語って苦笑していました。後に日本に来たフェラースはハーンの著作を全部読了し
ハーンの大愛読者になりましたが、ゆりはそのきっかけを作ったのです。〉
(『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』p.79-80)


その後も、1925年に結婚したばかりのドロシー夫人をともなって再来日するなど、
フェラーズは、河井、ゆり、そして、ゆりの家族との親交を深めます。

「太平洋の架け橋になりたい」という志を生涯貫いた新渡戸稲造博士は、
晩年、両国の関係修復と、戦争回避のために、命を惜しまず尽くしましたが、
没後、太平洋戦争が勃発。
新渡戸の教え子だった河井、その弟子ゆり、そして、ボナーズは、
祖国同士が戦うという苦悩の日々を送ることになったのです。

〈日本は敗戦し、・・・GHQの最高司令官マッカーサーとともに、
軍事秘書官のボナー・F・フェラーズが来日しました。フェラーズは、
カーライルを学び、稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神を
よく理解しているクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の
一色ゆりの友人でもありました。
フェラーズは、二人を、1945(昭和20)年9月、アメリカ大使館に招きました。
昭和天皇とマッカーサーが初めて会見する四日前のことです。連合国が
昭和天皇を戦犯として裁くべきかといく問題について、フェラーズは二人に
意見を聞きました。(続く)〉
(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.223)

さまざまな局面を経て、結果的に、アメリカは方針を大きく転換し、
日本の天皇制存続を決定しました。

同書『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』は、
一色ゆりの娘、そして、家族のように河井道と共に生活した著者による、
シスターフッド(姉妹性)の恵みを著した本です。

人と人のつながり、人と人の信頼関係、そして、そこから生まれる人間の叡智。
河井道の師だった新渡戸稲造博士の生涯、新渡戸と関わった多くの人々、そして、
教え子らに引き継がれた精神と、通じるものがあると感じます。

フェラーズのことが映画になり、2013年7月、封切りになりました。
この映画「終戦のエンペラー」については、こちら


2013/05/02

唐人お吉と新渡戸稲造博士 お吉地蔵

2013年4月20日 下田の「お吉地蔵」

古奈温泉「東府や」さん、下田の宝福寺さんを訪問後、新渡戸博士がお吉さんを
慰めるために、お吉さんが身を投げたお吉ヶ淵に建立した「お吉地蔵」を訪ねました。

昭和8年、新渡戸博士が建立した「お吉地蔵」
新渡戸稲造博士は、カナダで亡くなる年、1933(昭和8)7月16日、下田を訪れ、
日米関係のために尽くしたお吉さんを偲んでいます。
その時、地蔵を石屋に注文し、お吉ヶ淵に建てるよう頼みました。
その地蔵尊の背面には、自身の最愛の母の命日にあたる「七月十七日」と刻むように
依頼したとされていますが、いまでは、摩滅して確認することができません。

「お吉地蔵」の背面
新渡戸博士は、結局、自ら建てたこの地蔵を見ることはありませんでした。
帰京後、カナダのバンフでおこなわれた第五回太平洋問題調査会の会議に
日本団を率いて出席。その後、カナダのヴィクトリアで静養していましたが、
ヴィクトリアの病院に入院、手術後、
同年10月15日(日本時間16日)、その生涯を閉じたのです。

今回訪問しました、下田の宝福寺さんについては、こちら
古奈温泉「東府や」さんについては、こちらをご覧ください。




唐人お吉と新渡戸稲造博士 宝福寺(下田)

2013年4月20日(土) 下田 宝福寺(下田開港時の仮奉行所)

アメリカ初代総領事ハリスのもとで奉仕することを命じられ、
恋人とも引き離されたお吉(斎藤きち)さんでしたが、大金の契約金を得たこともあり、
下田の人々から嫉妬と偏見の目で見られてしまいます。

斎藤きち(17歳のころ)
幕末の動乱に巻き込まれ、その後、1882(明治15)年、下田で小料理屋
「安直楼」(建物は現存)を開きましたが、数年で店をたたみました。
(お吉さんの没後、寿司屋として三代108年続き、現在は下田市歴史建造物)

史蹟 安直楼
1890(明治23)年3月25日(過去帳の記録では27日)の豪雨の夜、
お吉さんは下田川(稲生沢川)の上流で投身し、はかない生涯を閉じました。
どこも引き取りを拒んでいたところ、宝福寺住職の竹岡大乗師が快く引き受け、
お墓に葬りました。

宝福寺 入り口


宝福寺さんには、お吉さんのお墓と記念館があります。
記念館には、前田青邨画伯(1885年〜1977年、鎌倉にて没)が描いた「お吉の生涯」、
お吉の着物などが展示されています。

前田青邨画伯「お吉の生涯」の中の一枚

1933(昭和8)年7月、新渡戸稲造博士は、下田を訪れ、当時旅館だった
平野屋さんに宿泊し、次のように書き残しています。



さかりをふ
見る人多し
散る花の
あとを訪(と)うこそ
情なりけれ

稲造

宝福寺さんの竹岡宏子様から貴重なお話を伺いました。
ありがとうございました。

宝福寺ホームページは、こちら




2013/05/01

唐人お吉と新渡戸稲造博士 東府や

2013年4月20日(土)早朝、東京の自宅から伊豆下田へ向かいました。

新渡戸稲造博士は、亡くなる年、1933(昭和8)年の夏、太平洋問題調査会の
バンフ会議(カナダ)に日本代表として出席するために、
健康の不安をかかえながら、最後の旅に出ます。

その直前、多忙の中、7月にわざわざ下田を訪れています。
「唐人お吉」と呼ばれた日本人女性「お吉さん(斎藤きち)」を偲ぶためでした。

多忙なこの時期に、新渡戸博士はなぜ下田まで足を延ばしたのでしょうか、
それがずっと気になっていました。

途中、まず訪れたのは、伊豆古奈温泉「東府や(とうふや)」さんの中にある、
「唐人お吉館」です。


東府や「唐人お吉館」内の展示(一階)
「唐人お吉館」内に展示されている新渡戸博士の詠んだ歌
かつて、アメリカ総領事館初代領事タウンゼント・ハリスに仕え、
その後、不幸な人生を歩んだお吉さんに新渡戸博士は深く同情していたのです。

唐くさ(からくさ)(から竹)の
浮き名の下に枯れはてし
君が心は大和撫子

新渡戸稲造

お吉さんは、47歳の時に、伊豆最古の温泉、古奈温泉にて療養します。
心身ともに癒されたお吉さんを、東府やは、駕篭で下田まで送り届けます。
その時、天城越えで使った駕篭が、「唐人お吉館」二階に展示されています。


ここ古奈温泉は、徳川家康の側室「お万の方」が滞在したところです。
それまで子宝に恵まれませんでしたが、二人の子を授かりました。
(徳川頼宣・・・紀州徳川家の祖、および、徳川頼房・・・水戸徳川家の祖)

そのことから、古奈温泉は子宝の湯として広く知られています。




2013/04/03

テレビ番組「スーツを着たサムライ」岡山・香川で放映決定

制作に協力しましたテレビ番組
「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」(岩手めんこいテレビ制作)があらたに岡山県・香川県で放映されることになりました!
岡山放送OHK 4月22日(月)深夜25:15-26:15
※OHKのエリアは岡山・香川の2県です。

2013/03/22

テレビ番組「スーツを着たサムライ」長野で放映

制作に協力しましたテレビ番組、
「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」(岩手めんこいテレビ制作)が
あらたに長野放送(NBS)さんで放映されることになりました!

NBS 3月25日(月)深夜25:40〜(厳密には26日火の1:40〜)


深夜になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

2013/03/18

成城学園と新渡戸稲造博士 その2

先日、教文館(銀座)でお目にかかりました太田愛人氏のご著書
『神谷美恵子 若きこころの旅』(河出書房新社 2003年)から、
母校 成城学園と新渡戸博士のご縁について、追記します。

新渡戸稲造博士は、1906(明治三十九)〜1913(大正二)年、
旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長を務めました。
その間、のちに政財界で活躍する多くの優秀な人材を育てました。
「専門センスよりコモンセンス(常識)を」と、
学生たち一人一人との触れ合いを大切にし、学生たちに実に大きな影響を
及ぼしました。

その教え子の中には、田島道治氏(のちの宮内庁長官)、前田多門氏
(ユネスコ日本委員会委員長)たちがいます。
新渡戸博士が、国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中の1923年、
前田多門は、ILO(国際労働機関、国際連盟の外郭組織)の日本代表に就任し、
4人の子どもを連れて、家族でジュネーブに暮らし、新渡戸一家と親しく
交際しました。
長男の前田陽一氏、長女の美恵子氏(のちの神谷美恵子)は、両親が尊敬していた
新渡戸博士を祖父のように慕い、大きな影響を受けます。
(次女には、新渡戸博士の母の名前「せき」から、勢喜子と命名。
 勢喜子氏は、のちに、ソニー創業者の一人、井深大の妻となる)

スイスから帰国後、陽一と美恵子は成城学園で学びました。
前田陽一(桜組、藤組、3文甲)、前田美恵子(1白百合)
「成城学園同窓会 会員名簿」より

陽一氏は、のちに、新渡戸博士とのご縁も深い国際文化会館(東京・六本木)の
専務理事にも就任しています。

美恵子氏は、精神医学を学び、ハンセン病救済活動、戦後は、GHQとの
折衝などで父・多門を補佐、また、著作『生きがいについて』(初版1966年)は
長く読み継がれています。

また、美智子妃(現皇后)の相談役を務め、精神的に支えました。
新渡戸博士の教え子で書生だった、宮内庁長官 田島道治の尽力によるものです。
美智子妃にお会いする日には、長官みずから、東京駅にて美恵子氏を出迎えた
こともあったようです。





2013/03/16

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』



2013年3月13日 横浜開港資料館図書室にて

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』 Life of Mrs. Flora Best Harris
明治四十四年十一月二十日発行 山鹿 旗之進 編 教文館

伝記叢書182
19951022日発行
山鹿 旗之進 編
大空社

上記の書籍をみつけました。

新渡戸博士は、札幌農学校の学生だった1878(明治11)年6月2日、
宣教師ハリスから洗礼を受けています。
(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.47)

思い悩んでいたころの稲造青年が出会ったのが、イギリスのトーマス・カーライル
(Thomas Carlyle)の書いた言葉です。
そして、宣教師ハリスのおかげで、生涯の愛読書を手にするのです。

〈 稲造は、故郷から札幌へ戻る前に、東京へ行きました。ちょうど、宣教師
 ハリスが帰国を前に本を処分しようとしていると聞き、お別れのあいさつに
 行ってみると、たくさんの本の中から一冊だけカーライルの著書『サーター・
 リザーダス(衣服哲学)』をみつけました。・・・「衣服哲学」という題名が
 ついていますが、洋服や洋裁について書いた本ではありません。
 「人間の身体は、その内にひそむ霊を包む衣服である」とする、
 ユニークな哲学の本だったのです。・・・この一冊こそ、稲造が探し求めていた
 ものでした。稲造はこの本を、「飢えた男が何日もしてやっと手に入れた最初の
 食べものをむさぶり食うように」読みました。そして、ずっと心にあった悩みが
 あたかも氷が解けるように消えていったのです。〉
 (『新渡戸稲造ものがたり』p.53-54)

また、アメリカ留学のため渡米した際、最初はハリス夫人の親族を頼って、
アレゲニー大学に入学しました。

そのハリス夫人は、実は大の親日家で、日本文化と日本語に詳しく、
日本に非常な愛着をもっていたことが、この本によってわかりました。

ある時、偶然、新渡戸博士はハリス夫人に会いました。

稲造「はちす葉の濁りにしまぬ心もて・・・」

と口ずさむと、ハリス夫人はすかさず返しました。

ハリス夫人「・・・なにかは露を玉とあざむく」

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』の序文
大隈重信 明治四十四年九月
新渡戸稲造 明治四十四年八月十五日 信州軽井沢にて

病弱な夫人は、アメリカなら10年生きるところを、6,7年となっても日本に行きたい
(実家の父は医者)、ただ一人の愛児が眠る日本で骨を埋めたい、
と実家にて家事を終える。
明治三十八年の初秋、「美はしの大和の国」に上陸を果たす

明治三十七、八年 日露戦争 p.120
桑港 母国の一大事と帰国する日本の若者3000
病身で、医者からなるべく外出を控えるように言われていたのにもかかわらず、
日本への船があると聞くと、雨が降っても、風が吹いてもほとんど毎船のように
見送り激励。そのつど、小さな日章旗をもって。
「天の神様はもともと戦争を好みません。けれども、今度の日露戦争は、
日本が国家の存在のためにやむを得ず剣をぬいて起きたのであるから、
神さまは、きっと日本をお助けなさるに違いないと信じます。
しかし、戦争とあれば負傷することもあろうし、また討ち死にすることもありましょう。されば、病院にあって眠る時、海のかなたにある米国の一婦人が『あなたのために
真心こめて神さまに祈っていることを記憶しておいてください。』
わが愛する若き友よ、行けよ。勇ましく行けよ」と小さき国旗を降りかざして、
その行をさかんならしめた。


明治三十九年、東北の飢饉。
赤十字社員のハリス夫人は、詳細を調べ、太平洋沿岸の赤十字社に訴えたところが、
本部のあるワシントンにハリス夫人の投書が届けられ、大統領はこれを読み
大いに感動し、これでは一刻も待ってられないと、あらためて、本部からハリス夫人の
陳情書を合衆国全体の赤十字社に回文した。こうして、ついに数十万円の義捐金が
寄贈された。


病中でも喜んで日本人には面会した。

明治四十年四月、皇后陛下に拝謁
明治四十一年春頃、久しく鎌倉で静養
日本語堪能
「ありが十匹に、さる五匹」→「ありがとうござる」
明治十四年十月〜翌年三月、『土佐日記』の翻訳

九月十日青山学院講堂における葬儀
友人総代 内村鑑三「理想の友人 故ハリス夫人」
佐藤昌介
新渡戸稲造(十月一日 実業之日本)


2013/03/14

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』

2013年3月13日 横浜開港資料館図書室にて


『はりす夫人 伝記F L B ハリス』 Life of Mrs. Flora Best Harris
明治四十四年十一月二十日発行 山鹿 旗之進 編 教文館

伝記叢書182
19951022日発行
山鹿 旗之進 編
大空社

上記の書籍をみつけました。

新渡戸博士は、札幌農学校の学生だった1878(明治11)年6月2日、
宣教師ハリスから洗礼を受けています。
(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.47)

思い悩んでいたころの稲造青年が出会ったのが、イギリスのトーマス・カーライル
(Thomas Carlyle)の書いた言葉です。
そして、宣教師ハリスのおかげで、生涯の愛読書を手にするのです。

〈 稲造は、故郷から札幌へ戻る前に、東京へ行きました。ちょうど、宣教師
 ハリスが帰国を前に本を処分しようとしていると聞き、お別れのあいさつに
 行ってみると、たくさんの本の中から一冊だけカーライルの著書『サーター・
 リザーダス(衣服哲学)』をみつけました。・・・「衣服哲学」という題名が
 ついていますが、洋服や洋裁について書いた本ではありません。
 「人間の身体は、その内にひそむ霊を包む衣服である」とする、
 ユニークな哲学の本だったのです。・・・この一冊こそ、稲造が探し求めていた
 ものでした。稲造はこの本を、「飢えた男が何日もしてやっと手に入れた最初の
 食べものをむさぶり食うように」読みました。そして、ずっと心にあった悩みが
 あたかも氷が解けるように消えていったのです。〉
 (『新渡戸稲造ものがたり』p.53-54)

また、アメリカ留学のため渡米した際、最初はハリス夫人の親族を頼って、
アレゲニー大学に入学しました。

そのハリス夫人は、実は大の親日家で、日本文化と日本語に詳しく、
日本に非常な愛着をもっていたことが、この本によってわかりました。

ある時、偶然、新渡戸博士はハリス夫人に会いました。

稲造「はちす葉の濁りにしまぬ心もて・・・」

と口ずさむと、ハリス夫人はすかさず返しました。

ハリス夫人「・・・なにかは露を玉とあざむく」

『はりす夫人 伝記F L B ハリス』の序文
大隈重信 明治四十四年九月
新渡戸稲造 明治四十四年八月十五日 信州軽井沢にて

病弱な夫人は、アメリカなら10年生きるところを、6,7年となっても日本に行きたい
(実家の父は医者)、ただ一人の愛児が眠る日本で骨を埋めたい、
と実家にて家事を終える。
明治三十八年の初秋、「美はしの大和の国」に上陸を果たす

明治三十七、八年 日露戦争 p.120
桑港 母国の一大事と帰国する日本の若者3000
病身で、医者からなるべく外出を控えるように言われていたのにもかかわらず、
日本への船があると聞くと、雨が降っても、風が吹いてもほとんど毎船のように
見送り激励。そのつど、小さな日章旗をもって。
「天の神様はもともと戦争を好みません。けれども、今度の日露戦争は、
日本が国家の存在のためにやむを得ず剣をぬいて起きたのであるから、
神さまは、きっと日本をお助けなさるに違いないと信じます。
しかし、戦争とあれば負傷することもあろうし、また討ち死にすることもありましょう。されば、病院にあって眠る時、海のかなたにある米国の一婦人が『あなたのために
真心こめて神さまに祈っていることを記憶しておいてください。』
わが愛する若き友よ、行けよ。勇ましく行けよ」と小さき国旗を降りかざして、
その行をさかんならしめた。


明治三十九年、東北の飢饉。
赤十字社員のハリス夫人は、詳細を調べ、太平洋沿岸の赤十字社に訴えたところが、
本部のあるワシントンにハリス夫人の投書が届けられ、大統領はこれを読み
大いに感動し、これでは一刻も待ってられないと、あらためて、本部からハリス夫人の
陳情書を合衆国全体の赤十字社に回文した。こうして、ついに数十万円の義捐金が
寄贈された。


病中でも喜んで日本人には面会した。

明治四十年四月、皇后陛下に拝謁
明治四十一年春頃、久しく鎌倉で静養
日本語堪能
「ありが十匹に、さる五匹」→「ありがとうござる」
明治十四年十月〜翌年三月、『土佐日記』の翻訳

九月十日青山学院講堂における葬儀
友人総代 内村鑑三「理想の友人 故ハリス夫人」
佐藤昌介
新渡戸稲造(十月一日 実業之日本)





2013/03/08

近江 石山寺

1933(昭和8)年の春、新渡戸先生は、久しぶりに、そして、
最後の京都への旅に出ます。
亡くなる半年前のことです。
理事を務めていた同志社大学で講演をするためでしたが、
旧知の佐伯理一郎博士、日本画家 竹内栖鳳画伯との会食を
楽しんだりしました。
そして、石山寺に足を延ばしたとされています。



2013年3月、石山寺(滋賀県大津市)を訪ねました。
新渡戸先生の訪問から、ちょうど80年後にあたります。


多宝塔(国宝)
本堂(国宝)

石山寺から瀬田川、遠く琵琶湖を望む

新渡戸先生もこの風景をご覧になったでしょうか。



2013/02/20

テレビ番組「スーツを着たサムライ」追加放送


【 テレビ番組 】
スーツを着たサムライ 〜新渡戸稲造「武士道」伝説〜
(岩手めんこいテレビ 制作)


下記のように、追加放送が決まりました。

福島テレビ
2013年03月03日(日)25:10‐26:05(夜中1時10分〜)


ぜひご覧くださいますようご案内申し上げます。

2013/02/02

成城学園と新渡戸稲造博士 その1

母校・成城学園同窓会のホームページで、
著書『新渡戸稲造ものがたり』を紹介していただきました。
掲載ページは、こちら
関係者のみなさま、ありがとうございます。

成城学園と新渡戸稲造博士は、少なからずご縁があります。
以下、現在までにわかった関わりについて簡単に紹介いたします。


1 成城学園創立者 澤柳政太郎先生と新渡戸博士

澤柳政太郎先生(1865年〜1927年)は、文部官僚、教育者として、
大正自由主義教育運動の中心的な役割を果たしました。

1909(明治42)年、新渡戸博士の「実業之日本」編集顧問就任に際して、
澤柳先生は、次のように書いています。
〈その精神の純潔なる、その思想の穏健豊富なる、口を衝いて出づるものは、
金玉の論、適切の教訓でないものはなかろう(略)。
同君が熱心に尽力されるならば、「実業之日本」が新渡戸博士を得たのは、
天下の名士を網羅してその名前を賛助者として掲ぐるよりも満足すべきであると思う。
予は将来「実業之日本」は新渡戸流の思想を鼓吹する雑誌とならんことを希望する、
これやがて我国の青年に対する健全なる指導者たるを以て任ずるに外ならぬ〉。
(「実業之日本」明治42年1月15日号より抜粋)

1917(大正6)年、澤柳先生は、「本当の教育」をめざして、
私立成城小学校を設立。大正自由教育の中心として全国から注目され、
学園として成長していきます。
さらに、澤柳先生は、第一次世界大戦後の欧米教育を視察後、
のちに新渡戸博士が理事長を務める「太平洋問題調査会(IPR)」
日本支部の理事にも就任しています。


2 小林宗作先生のリトミックと新渡戸博士のご令孫

新渡戸博士がスイスのジュネーブで国際連盟事務次長として活躍していたころ、
スイス、ドイツ、アメリカでは、エミール・ジャック=ダルクローズ(Émile Jaques-Dalcrozeのリトミックrythmique=運動によって音楽を学び経験するという
音楽教育の方法)が高く評価されていました。
成城学園幼稚園創設時の主任だった小林宗作先生(1893年〜1962年)は、
1922(大正11)年7月、ジュネーブで新渡戸博士に勧められ、
初めてリトミックに出会います。
小林先生は、一年間、ジャック=ダルクローズに直接学んだ後に帰国。
1925(大正14)年、澤柳校長を説得して、成城学園幼稚園を創設し、
リトミックを幼児教育に導入して、従来の型にとらわれず、
自由・個性を重視した保育をおこないました。
新渡戸博士は、「音楽教育でなすべきことは、演奏技術や技巧の訓練ではなく、
心情の育成である」という教育観をもち、小林先生は、成城学園で「心で音を聴く」
という感性の教育を実践され、日本におけるリトミックの基礎を築きました。

小林先生は、黒柳徹子さんの「窓際のトットちゃん」の先生(トモエ学園校長)
です。

新渡戸博士には、成城学園に通われた二人のお孫さんがいらっしゃいます。
故 新渡戸誠さん(10文甲)と加藤武子さん(6百合)のごきょうだいです。
ジュネーブ郊外の邸宅で新渡戸博士夫妻と同居されていた二人は、夫妻の薦めで、
リトミックの教室に通われたそうです。
ジュネーブから帰国後、二人は成城学園に入ります。
その入学に際しては、新渡戸博士が直接学園にでかけて話をされたのであろう、
と加藤武子さんは回想しています。

3 柳田国男先生と新渡戸博士

日本民俗学の創始者 柳田国男先生(1875年〜1962年)は、
成城学園との関わりが深く、成城大学正門近くに住みました。
成城学園には、「日本民俗学の祖」柳田国男先生の柳田文庫、
民俗学研究所があります。

柳田先生は、日本の農政学の先駆者だった新渡戸博士の影響を強く受けています。
1903(明治43)年、東京・小日向の新渡戸稲造邸で、
新渡戸博士とともに「郷土会」を催します。
貧困に苦しむ農民の救済と自立という共通の問題意識をもった二人が中心となり、
日本の農村のありかたや地方の保護について広く話し合う場でした。

1920(大正10)年から1922(大正12)年、
柳田先生は、欧米を視察し、新渡戸博士の推薦によって、国際連盟委任統治委員に
就任してジュネーブに滞在しました。
柳田先生は、当時、国際連盟事務次長としてジュネーブに赴任中の新渡戸博士から、
大学での聴講やヨーロッパ各地への旅行、文献購入を促され、
後年の活動の基礎を築きました。
また、二人は、ジュネーブで、エスペラント(特定の民族が有利または不利にならない
ように考えられた世界共通語)の普及にも力を尽します。
柳田先生は、後年、日本エスペラント学会の理事に就任しています。

柳田先生のご長男、為正氏も成城学園の卒業生です。
お茶の水大学教授(生物学)。