『はりす夫人 伝記F L B ハリス』 Life of Mrs. Flora Best Harris
明治四十四年十一月二十日発行 山鹿 旗之進 編 教文館
伝記叢書182
1995年10月22日発行
山鹿 旗之進 編
大空社
上記の書籍をみつけました。
新渡戸博士は、札幌農学校の学生だった1878(明治11)年6月2日、
宣教師ハリスから洗礼を受けています。
(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.47)
思い悩んでいたころの稲造青年が出会ったのが、イギリスのトーマス・カーライル
(Thomas Carlyle)の書いた言葉です。
そして、宣教師ハリスのおかげで、生涯の愛読書を手にするのです。
〈 稲造は、故郷から札幌へ戻る前に、東京へ行きました。ちょうど、宣教師
ハリスが帰国を前に本を処分しようとしていると聞き、お別れのあいさつに
行ってみると、たくさんの本の中から一冊だけカーライルの著書『サーター・
リザーダス(衣服哲学)』をみつけました。・・・「衣服哲学」という題名が
ついていますが、洋服や洋裁について書いた本ではありません。
「人間の身体は、その内にひそむ霊を包む衣服である」とする、
ユニークな哲学の本だったのです。・・・この一冊こそ、稲造が探し求めていた
ものでした。稲造はこの本を、「飢えた男が何日もしてやっと手に入れた最初の
食べものをむさぶり食うように」読みました。そして、ずっと心にあった悩みが
あたかも氷が解けるように消えていったのです。〉
(『新渡戸稲造ものがたり』p.53-54)
また、アメリカ留学のため渡米した際、最初はハリス夫人の親族を頼って、
アレゲニー大学に入学しました。
そのハリス夫人は、実は大の親日家で、日本文化と日本語に詳しく、
日本に非常な愛着をもっていたことが、この本によってわかりました。
ある時、偶然、新渡戸博士はハリス夫人に会いました。
稲造「はちす葉の濁りにしまぬ心もて・・・」
と口ずさむと、ハリス夫人はすかさず返しました。
ハリス夫人「・・・なにかは露を玉とあざむく」
大隈重信 明治四十四年九月
新渡戸稲造 明治四十四年八月十五日 信州軽井沢にて
病弱な夫人は、アメリカなら10年生きるところを、6,7年となっても日本に行きたい
(実家の父は医者)、ただ一人の愛児が眠る日本で骨を埋めたい、
と実家にて家事を終える。
明治三十八年の初秋、「美はしの大和の国」に上陸を果たす
明治三十七、八年 日露戦争 p.120
桑港 母国の一大事と帰国する日本の若者3000人
病身で、医者からなるべく外出を控えるように言われていたのにもかかわらず、
日本への船があると聞くと、雨が降っても、風が吹いてもほとんど毎船のように
見送り激励。そのつど、小さな日章旗をもって。
「天の神様はもともと戦争を好みません。けれども、今度の日露戦争は、
日本が国家の存在のためにやむを得ず剣をぬいて起きたのであるから、
神さまは、きっと日本をお助けなさるに違いないと信じます。
しかし、戦争とあれば負傷することもあろうし、また討ち死にすることもありましょう。されば、病院にあって眠る時、海のかなたにある米国の一婦人が『あなたのために
真心こめて神さまに祈っていることを記憶しておいてください。』
わが愛する若き友よ、行けよ。勇ましく行けよ」と小さき国旗を降りかざして、
その行をさかんならしめた。
明治三十九年、東北の飢饉。
赤十字社員のハリス夫人は、詳細を調べ、太平洋沿岸の赤十字社に訴えたところが、
本部のあるワシントンにハリス夫人の投書が届けられ、大統領はこれを読み
大いに感動し、これでは一刻も待ってられないと、あらためて、本部からハリス夫人の
陳情書を合衆国全体の赤十字社に回文した。こうして、ついに数十万円の義捐金が
寄贈された。
病中でも喜んで日本人には面会した。
明治四十年四月、皇后陛下に拝謁
明治四十一年春頃、久しく鎌倉で静養
日本語堪能
「ありが十匹に、さる五匹」→「ありがとうござる」
明治十四年十月〜翌年三月、『土佐日記』の翻訳
九月十日青山学院講堂における葬儀
友人総代 内村鑑三「理想の友人 故ハリス夫人」
佐藤昌介
新渡戸稲造(十月一日 実業之日本)