学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
2024/07/01
2023/12/08
2022/10/20
衆議院予算委員会にて『武士道』
2022/10/01
安部元首相の国葬にて
2022/06/10
フィンランドのオーランド諸島 自治100周年
2022年6月9日
今日発信されましたフィンランド大使館からのニュースです。
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新渡戸博士は、発足したばかりの国際連盟の事務次官に選出され、世界で初めての
国際機関の代表メンバーの一人として活躍されました。
2022/06/01
拓殖大学に「拓殖アーカイブズ事業室」新設
2021/09/17
HAPPINESS CREATOR 新渡戸文化高等学校
2021年9月9日(木)17:30~ 外国人特派員協会にて
一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)の記者発表
CCF代表と登壇者のお一人が知人でしたので、出席させていただきました。
教育現場を代表して、登壇されていらしたのが、新渡戸文化学園の山藤旅聞(さんとうりょぶん)先生。
新渡戸文化高等学校の総括校長補佐、高等学校教育チーフデザイナーをされています。
山藤先生は、
「新渡戸文化学園は、創立者の森本厚吉先生、初代校長の新渡戸稲造先生が
社会の変革をめざして、開校」
「新渡戸文化学園は、学校と社会をブリッジ(橋渡し)する」
とお話しされ、建学の精神を大切にし、いまの時代に合った変革を推し進められていること
がわかり、感動しました。
会場には、山藤先生の教え子(新渡戸文化学園のOGお二人)も登場、
「最近、『一枚500円のTシャツを購入し、ひと夏が終わると捨てる』という友人たちの言動に
違和感を抱いていた。使われない/使われなくなったコットンが、紙としてよみがえり、
再利用されることは素晴らしい取り組み」という率直な声を聞くことができました。
同校では、「国際人としての人格教育」をはじめ、
学園の7つの強みを掲げた教育をおこなっています。
未来に向かって変革を続ける新渡戸文化学園に大きなエールを送ります。
新渡戸文化学園のホームページは、こちら。
同校にお招きいただいた時の報告は、こちら。
一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)とは、
綺麗な地球を子どもたちに引き継ぐために、洋服の廃棄物をゴミにせず、廃棄物から紙を再生し、
活用することを始めた一般社団法人。
繊維業界にとどまらず、製紙会社、出版社、日本郵便株式会社様、さらに、
お菓子メーカー(今回の登壇者は、榮太棲総本舗の細田将己副社長様)、学校など、
社会全体の大きな連帯により実現可能な、循環型社会をめざす壮大な取り組み。
(日本における繊維リサイクル率は、17.5%。毎年137万トンの繊維廃棄物が捨てられ、燃やされている。
2019年、28.5億枚の洋服が作られ、14.8億枚は、新品のまま破棄。配布資料より抜粋)
CCFのホームページは、こちら。
2021/06/28
軽井沢の新渡戸別荘跡地
2021年6月25日(土曜日)
軽井沢の旧軽井沢近く、新渡戸通り沿いにある新渡戸別荘跡地。
長年、空き地になっていましたが、近年、トラスコ中山株式会社様の保養地に
なったと聞いていましたので、行ってみました。
新渡戸通りから新しくできた建物を見ると、そこには、新渡戸博士の記念碑が
設置されています。
軽井沢らしい趣のある界隈で、苔むした低い石垣、通り沿いの木々はそのまま。
10年前の様子は、こちら。
2021/06/21
最短の在任、最大の業績 『石橋湛山の65日』保阪正康・著
2021年6月21日
ノンフィクション作家で「昭和史を語り継ぐ会」を主宰されている
保阪正康氏の近刊を拝読しました。
戦後の一時期、首相を務めた石橋湛山は、新渡戸稲造の母校・札幌農学校
(いまの北海道大学)の第一期生・大島正健先生から影響を受けました。
山梨の第一中学校(いまの県立甲府第一高等学校)在学中、
校長先生として赴任してきたのが大島先生。
札幌農学校の流れは、 大島校長から石橋湛山にも受け継がれたのではないか。
山梨には、石橋湛山による書「Boys, be ambitious!」が残っています。
石橋湛山と大島正健についての過去の記事は、こちら。
著者は、『石橋湛山の65日』の中で、現在のコロナ禍を生きる私たちの状況を、
「民主主義の体制が崩壊して、自由が制限された社会で生きていることを
想像しただけでも息が詰まる。こういう時代が来ないように、日々、
現在のコロナ禍の社会から何がしかの教訓を学ばなければならないと、私は思う」。
と述べ、関東大震災後の石橋首相の記事を引用している。↓
(ここからは『石橋湛山の65日』p.295~ 引用)
『東洋経済新報』(大正12年10月1日号)の社説
「此経験を科学化せよ」
とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまう
と指摘した上で、次のように書くのである。
「我輩の見る所に依れば、今の我国民は、全体として、
斯かる場合に甚だ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(ひっきょう=結局)、
日本国民は、わっと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いて善く考え、
共同して静かに秩序を立て、地味の仕事をすることには不適任である。(中略)
我国は、今回の災害に依り、あらゆる方面に人為の更に大に改良すべきものを発見する。
と同時に此災害は、随分苦き経験であったが、併し之を善用すれば、所謂、
禍を転じて福となすの道は多いのである」
この経験を「科学化(データの整理や予防策など)」して将来に残さなければ
ならない、とも強調している。さらに「亡びゆく国民なら知らぬこと、いやしくも
伸びる力を持つ国民が、これくらいの災害で意気阻喪しては貯まるものではない」
とも断言している。
・・・(中略)
国家がコロナ禍に対応し、個人が人生観を懸けてコロナ禍と向き合っている時、
石橋の思想や言論がもっとも価値があり、頼りがいがあると私は考えている。
本書でも繰り返しているが、石橋は首相としての在任がわずか六十五日である。
近代日本史の上では最短に近い。しかし私は、「最短の在任、最大の業績」と
思っている。
・・・(中略)
石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性を
教えた。首相が何を目指し、どのような方向に、この国を率いていくのか、
そのことを国民は知る権利がある。それは首相を目指す政治家が日頃から信念を
発信する姿勢を持たなければならないということだ。
石橋を範とせよ、と強調しておきたいのである。
(巻末の石橋湛山略年譜より主に鎌倉関連を抜粋)
明治17(1884)年、東京都生まれ
明治34(1901)年、大島生健が山梨県立第一中学校の校長として赴任
明治35,36年、旧制第一高等学校の受験に不合格
<筆者注:新渡戸は、のちに同校校長を務める。
岩波茂雄は、明治34~37年、旧制一高に在学>
明治37(1904)年、早稲田大学文学部哲学科に入学
大正8(1919)年、鎌倉町海岸通りに転居
大正11(1922)年、鎌倉町大町蔵屋敷705番地に転居
<筆者注:現在の御成町20番地。御成小学校とその付近>
大正12(1923)年、関東大震災により居宅被災
鎌倉臨時復興委員会委員を委嘱
大正13(1924)年、湘南倶楽部(信用購買利用組合)の設立に参画し、
常務理事に選任。
鎌倉町長会議員選挙において第三位で当選。
昭和3(1928)年、任期満了で辞任。
昭和16(1941)年、東洋経済新社の代表取締社長に就任
昭和21(1946)年、衆議院選挙で落選、第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任
昭和22(1947)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
公職追放令、新宿区下落合4-1712に転居
昭和26(1951)年、公職追放解除
昭和27(1952)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
昭和29(1954)年、第一次鳩山内閣で通商産業大臣
昭和31(1956)年、石橋湛山内閣成立
昭和32(1957)年、石橋湛山内閣総辞職
昭和33(1958)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)
昭和36(1961)年、日中米ソ平和同盟案を発表
昭和48(1973)年、自宅にて死去。88歳
(引用終わり)
このほか、『石橋湛山の65日』には、興味深い、政治の舞台裏も描かれています。
著者の保阪氏も繰り返し述べていますが、もし石橋首相が病に倒れることなく
続投していたら・・・。
いまにつながる政治体制、さらには、国民の政治に対する姿勢までもが
違っていたのではないだろうか。そんなことも考えさせられました。
2021/03/30
「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る
2021月3月 30日
例年になく早く満開を迎えた東京の桜が、いまは盛んに散っていきます。
後藤新平伯は、昭和4年4月13日に亡くなりました。
手元の資料の中に、昭和四年に雑誌「朝日」に掲載された、
「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る
の記事があります。その記事の冒頭には、
「惜しみなく散る桜とともに」逝ったとあります。享年74歳。
後藤の逝去を受けて、新渡戸が語った話によると、
後藤新平が新渡戸稲造に台湾での仕事を要請したのは、
「当時の農商務大臣であった曽根さんを通じて・・・」とありますが、
「いまだに私にわからないのは、あの遠いアメリカにいた私をどうしてわざわざ
呼んだかである。これだけはいまだにわからないのである」としています。
本多静六博士の自伝によれば、本多が推薦したとあります。詳しくはこちらへ。
新渡戸は、本多の推薦があったことを、ご存知だったのでしょうか。
いまとなっては、確かめようがありません。
この記事によると、後藤新平の思い出話は、尽きることがなかったようです。
新渡戸によると、後藤伯は、「よく眠り、よく食った人」のようです。
最後の二人の会食は、貴族院の食堂でした。同じ料理を注文して「実にうまそうに
食べた」後、後藤さんは、いつの間にか追加注文して、二人前の料理をペロリと
平らげて平気だったそうです。
「あの時の後藤さんの顔が、いまでもはっきりと眼の前にちらつく。親しみのある、
あのくすぐったそうな、温情のある、あの顔が」
4月13日 麻布桜田町にて 大澤 栄一
雑誌「朝日」第1号第6号(昭和4年6月)博文館
2021/03/16
新渡戸稲造を後藤新平に引き合わせた人物
2021年3月16日
新渡戸稲造博士は、アメリカで『武士道』を出版した翌年、
後藤新平伯の熱心な説得を受けて、台湾に赴任しました。
1901(明治34)年、後藤新平が台湾総督府の民政長官だった時のことです。
共に岩手出身の二人ですが、それまで面識はなかったようです。
(その後、後藤、新渡戸の二人は親しくなります)
今回、本多静六博士の自伝を読んでいて、本多がドイツ留学時代から
後藤新平を知っていて交流があったこと、そして、新渡戸もまた、
本多の友人であったことがわかりました。さらに、その自伝には
次のように書かれています。
「後藤は、台湾の民政長官となるや、私に顧問として台湾へ出掛け、
いろいろ行政を手伝ってくれぬかと持ち込んで来た。
当時、私は多少の金もでき、仕事も忙しく、また学者としてそうした方面に
手をのばすのもいたずらに妬みの敵を多くするばかり、いわゆる明哲保身の術
ではないと考えたので、友人の新渡戸稲造、河合鈰太郎(かわいしたろう)
両君を推薦して、自分は両君にできない公園計画だけを引き受けることにした」
『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六 実業之日本社 2016年 P.216
新渡戸は、台湾総督府の糖務局長として台湾の砂糖産業の発展を担い、
本多は、台湾の北投や亀山一帯の温泉、台北や台南などの公園を設計、
河合は、阿里山鉄道の建設に尽力、「阿里山開発の父」と呼ばれました。
2021/03/02
安倍能成(あべよししげ)先生のこと
2021年3月1日
安倍能成先生は、新渡戸先生の一高の教え子で、のちに一高校長や
学習院院長を歴任しています。
一高のリベラルな思想が戦中、戦後にも引き継がれていたことがわかる
エピソードとして、宇沢弘文先生のご著書より抜粋して紹介します。
↓
『人間の経済』宇沢弘文 著 新潮新書 2017年4月
p.84
三 教育とリベラリズム
安倍能成先生のこと
社会的共通資本としての教育について考えるとき、
私にとって忘れられない光景があります。
東京大空襲後の1945年、旧制一高に入学した年の出来事でした。
・・・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つと同時に、
過酷な占領政策が始まります。あたり一面は焼け野原と化していて、
占領軍は、めぼしい建物はみな接収して占領のために使うことにしたのです。
たしか9月半ば、軍隊の施設とみなされていた一高にもジープに乗った占領軍の
将校団が接収にやってきました。当時の一高にも校長は安倍能成先生で、
戦前の日本では最も優れたカント哲学者で、すぐれたリベラリストでも
ありました。ずっと後になって知ったことですが、安倍先生は、戦争中から、
近衛文麿を中心とした敗戦処理を考えるグループの一員だったそうです。
(筆者注:近衛文麿も新渡戸校長時代の一高の生徒)
その安倍先生は占領軍の将校たちを前にして、英語できっぱりとおっしゃいました。
「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。
ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的の
ためには使わせない」
リベラルアーツというのは、教育の仕上げの段階で重要な役割を果たすものです。
つまり、学問や芸術、知識であれ文学であれ、専門を問わず、先祖が残した貴重な
遺産をひたすら学び吸収し、同時にそれらを次の世代へ受け渡すという営為を
する場所だということです。一人ひとりの学生の人間的な成長を図るとともに、
それを時代へと継承する役割がある。安倍先生はそのことを繰り返し、それを聞いた
占領軍の将校たちは、黙ってそのまま帰っていきました。
占領軍に楯突くなど逮捕されて当たり前、という時代にきわめて珍しい
エピソードのはずなのに、新聞はもちろん一高の記録にもいっさい残っていません。
しかし、その場に居合わせた私は心の奥底で、われわれは先祖が残した貴重な遺産を
できる限り吸収して次世代に残すという仕事をしている、
それが大学あるいは学校なのだという思いを強くしました。いまになって考えると
私の心の中で「社会的共通資本としての教育」という考え方が芽生えた原点
だったように思うのです。
2020/09/30
2020年 国際連盟100年
2020年9月30日
アジア歴史資料センターのニュースレターで、
今年は、1920年に創設された国際連盟の創設100年であることが
報告されています。
新渡戸稲造博士が、常任理事国の日本から事務次長として選出され、
はじめは、ロンドンで、のちにジュネーブに渡り、発足当初から、
日本の代表者としてではなく、国際機関の代表者の一人として、
世界平和のために尽くしました。
当時、新渡戸博士は、すでに57歳。年長者としても尊敬を集めましたが、
他にも日本人の若い外交官たちが連盟の活動を支え、活躍していたことが
わかります。
ニュースレターの記事は、こちら。
2020/03/07
新渡戸夫人と鈴木大拙夫人の動物愛護運動
伝記『新渡戸稲造ものがたり』でも紹介しました。
以下、同書からの引用ーーーーーー
p.147
日本人道会(Japan Humane Society)動物愛護運動
1915(大正4)年、日本で動物愛護運動の先駆けとなった日本人同会が
生まれました。稲造とメアリーは発起人になり、小日向の自宅で
会合を開きました。動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、
当時の皇后陛下から活動資金が下賜されました。
活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど
日本に住む外国人が中心で、欧米式の動物愛護精神を日本に広める
という大きな役割がありました。(中略)
当時の日本には、動物を生きものとして扱うという考え方が
まだ広くゆきわたっていなかったからです。
「動物愛は、人類愛の延長である。・・・・・」
と稲造は書いています。
p.148 注
日本人道会(大正五年十一月〜大正六年十月)の幹事
名誉会長 鍋島直人
名誉副会長 後藤新平
理事長 新渡戸萬里子(新渡戸夫人)
専務理事 廣井辰太郎
理事 田島道治
理事 前田多門
理事 鶴見祐輔 ほか
ーーーーー以上、引用終わり
一方、鈴木大拙夫人のビアトリス(Beatrice Lane Suzuki)も
動物の保護活動に精力を注いでいたことがわかっています。
ビアトリス夫人は、北鎌倉の円覚寺正伝庵に、犬猫のための保護施設を
設けていたこと、鎌倉には、新渡戸夫妻も別荘を構えていたことから、
この二人のアメリカ人女性に接点はなかったのでしょうか。
この疑問の答えを探して、数年前に東慶寺で井上住職様(故人)に
相談したことがありました。
井上住職様は、ビアトリス夫人と動物の世話にあたっていた
「関口この」さんという方のご関係者にも照会してくださいましたが、
残念ながら、詳細についてはわかりませんでした。
このたび、松ヶ岡文庫年報の最新刊で、
「鈴木ビアトリスと動物たち 〜松ヶ岡文庫所蔵資料に見る〜」
(日沖直子)が掲載されました。
その論文の中で、次のように書かれています。
↓
円覚寺の敷地内に場所を借り、バーネット夫人や日本人道会の
援助を受けて、捨てられた犬や猫を保護する「バーネット記念動物保護
慈悲園」(Barnett Mercy Animal Shelter、以下慈悲園)が開設されたのである。
(中略)
一般に、日本の動物愛護運動の黎明期においては、日本人男性主導の
動物愛護会と、外国人女性主導の日本人道会の2つの流れがあったことが
先行研究によって指摘されている。前者のメンバーには、牧師出身の
リーダー、広井辰太郎とともに、ユニテリアンや仏教改革派の論者が
多く含まれていた。後者は、形の上では鍋島侯爵などを会長に据えつつ、
実際にはバーネット夫人や新渡戸夫人などアメリカ人女性が中心となって
活動したグループであり、キリスト教的背景を伴っていた。
(ビアトリスは、日本人同会に援助を受けながらも、両者にとらわれない
自由な活動を展開、関口このと二人三脚で実務をこなし、慈善家として
知られていた九条男爵夫人武子や国際的人道家のアルベルト・シュバイツアー
の行き方を鑑み、やがて仏教的な自然観と生物観を模索)
(慈悲園は、特定の団体に属さない独立した施設であり、それゆえ
資金面での問題が深刻であったようだ)
以上、引用、抜粋ーーーー
慈悲園を支援した寄付者リストには、新渡戸夫人の名前もあるようで、
この両夫人の接点、そして、日本における動物愛護にかける共通の
思いがあったことが伺えます。
鈴木大拙や新渡戸稲造を含んだ個人的な関わりがあったかどうかは
わかりませんが、これまで気になっていたことが少し判明しました。
また、当時の国内外の動物愛護運動のこともわかりました。
鈴木大拙は、動物愛護がビアトリスの業績の重要な一部分を占めていたと
考えていたようです。『青蓮仏教小観』の「はしがきと思ひ出」ほか
2020/02/01
新渡戸稲造と「安全保障」
交詢社「安全保障研究会」新年会
真の国際人が遺した平和へのメッセージ
新渡戸稲造と「安全保障」
上記の新年会にお招きいただきまして、お話をいたしました。
ちょうど、60年前の今月(1月)19日、ワシントンで日米安全保障条約に
署名がおこなわれ、外務省飯倉公館で記念のレセプションが開催された
ばかりというタイミングでしたが、今回は別のテーマで・・・
まずはじめに、日本で初めての社交クラブ、交詢社の創設者 福澤諭吉先生と
新渡戸稲造先生の接点について、伝記『新渡戸稲造ものがたり』からご紹介。
最近の自分のテーマであり、若い世代にも伝えたいこととして、
「歴史や先人に学び、ビジョンをもとう」
そして、本題 新渡戸稲造と「安全保障」として、
1 国際連盟 オーランド諸島の問題
2 国際連盟 国際知的協力委員会(ユネスコの前身)
3 IPR(太平洋問題調査会)
新渡戸博士の平和に向けた思いを継いだ事業として国際文化会館の設立、
新渡戸家の書生であった田島道治氏(初代宮内庁長官)の皇室への貢献。
山中伸弥先生の「ビジョンの話」など、
過去や現在のジュネーブの写真などもご覧いただきながら、約一時間。
その後、30分ほどの質疑応答でした。
このたびは、貴重な機会をいただきまして、本当にありがとうございました。
おかげさまで、オーランド諸島問題についての最近の論文を勉強する機会にも
なりました。
歴史ある交詢社(明治13年創設の会員制クラブ)にお招きいただき、
大変光栄でした。
関係者の皆様に心より御礼を申し上げます。
2020/01/14
ハヴァフォード大学の新渡戸奨学基金
以前、ハヴァフォード大学に「新渡戸」の名前を冠した
日本人留学生のための奨学金制度があると聞いたことがあり、
調べてみたことがありました。
「Haverford College Bulletins, 1969-70」
(この印刷物は、Internet Archiveで閲覧することができます)
上記のp.183に、Inazo Nitobe Scholarship Fund(新渡戸奨学基金)として、
2019/12/28
上皇陛下とハヴァフォード大学
この秋、上皇陛下のご学友のお一人、ロバート・東ケ崎氏が
亡くなりました。
東ケ崎氏は、上皇陛下と共に、ヴァイニング夫人の教えを受けた生徒の
一人です。
ヴァイニング夫人は、新渡戸稲造博士ご夫妻と同様、クエーカーです。
上皇陛下は、皇太子時代に、アメリカ、および、クエーカーの思想に
触れていることになります。
ハヴァフォード大学は、クエーカーの学校の一つで、
クエーカーに関する資料館もあります。
数年前に、同大学を訪問した時の紹介は、こちらへ。
1953年、上皇陛下(当時は皇太子19歳)は、ハヴァフォード大学の学生だった
東ケ崎氏を同大学のキャンパスにお訪ねになり、ヴァイニング夫人とも再会しています。
再会の写真(左から、ヴァイニング夫人、陛下、東ケ崎氏)、および、
出典のウェブページ(ハヴァフォード大学ブログ)は、こちら。
また、新渡戸博士ご夫妻のご養子(孝夫)は、同大学で学んでおり、
新渡戸博士もかつてここを訪ねています。
なお、ローバート・東ケ崎氏のお父様は、東ケ崎潔氏。
1961(昭和36)年、アジアで初めてロータリークラブの国際大会が
開催された時、昭和天皇と皇后陛下(上皇陛下のご両親)は、初日に
出席され、昭和天皇は、お言葉を述べています。
続く1967年、東ケ崎潔氏は、全世界のロータリークラブの会長(アジア人で初めて)
に就任したほか、ジャパンタイムズの社長、国際基督教大学の初代理事長などを
歴任されています。
2019/12/10
『増田義一伝』藤井茂・著
同社の社長・岩野裕一様をはじめ、
2019/09/12
東京女子大学第一期生 斎藤百合
先月、東京女子大学の茂里学長様がお話しされた、
東京女子大学(初代学長新渡戸稲造)第一期生の斎藤百合さんについて、
下記の本から、紹介します。
『光に向かって咲け 斎藤百合の生涯』 粟津 キヨ 著 岩波新書342
茂里学長のご講演については、こちら。
いまよりさらに困難な状況であったと考えられる当時の障害者が、
特別生とはいえ、第一期生として入学が許可されたことに驚かされます。
学友たちともあたたかい交流があったようです。
・・・ここより、同書から引用(抜粋)・・・
p.53〜54(抜粋)
大正七年の春まだ浅いある朝、武弥(斎藤百合の夫、弱視者)は
新聞に発表された東京女子大学設立の記事を見つけて読んでくれた。
そこには設立の意図として、
「いままでのような家政科でなく、教員養成でもなく、キリスト教精神により
女性を一人一人の人間として伸ばすための高等教育を行う」
という意味のことが書かれていた。百合は感激して、
「これこそ、私の求めていた学校だ。そして、私の住むべき世界だ」
と思った。夢は際限なく大きくふくらんでゆき、百合にはもう、
自分の現実を深く考える余裕はなくなってしまっていた。
・・・百合は、盲女子であり、その上、主婦であり、大正五年八月には
長女久美が生まれていたから幼児をもつ母でもあった。年は、二十八歳
になっていた。経済的にも決して裕福とはいえない。
・・・夫は「やれるだけやってみるんだね」といって、百合の無謀としか
言いようのない女子大学入学への望みに理解を示し励ましてくれた。
・・・入学試験は口頭で行われた。面接の時、学長代理の安井てつ学監は、
いきなり言った。
「ここは、勉学の意気に燃えているお嬢さんたちの集まる所です。
結婚しているめくらの女が大きなお腹にでもなったらどんな勉強が
できるというのですか」
覚悟はしてきたのだったが、こんな言い方をされようとは思わなかった。
・・・盲女子の置かれている社会的地位がいかに低いか、
それを高めるために、一人でも二人でも高等教育を受けなければ
ならないのです、と百合はしゃべるだけしゃべって帰ってきた。
それから一週間後、東京女子大から「特別生として入学を許可する」
という文面の速達便が届いた。すでにあきらめていた百合は、
その手紙を胸に抱いて、声をあげて泣いた。
・・・元東京女子大学教授平野雪枝は、「・・・新渡戸先生(学長)や
ライシャワー先生(理事)がお決めになったのでしょう」と
言っている。・・・ライシャワー夫妻が聾唖の娘をもっていたこと、
また、若いころ重い眼病にかかって、いったんは失明の宣告まで受けた
新渡戸の、障害者に対する深い理解が、百合の入学を大きく左右した
ことが考えられる。
のちに学長となった安井てつは、面接の時は冷酷ともとれる言葉を向けて
百合の決意を確かめたが、入学後は特に百合に心をとめて指導し、
卒業後も百合の主催する「陽光会」の後援会長になるなど、
援助を惜しまなかった。
p.56(抜粋)
斎藤百合は、大正七年春、東京女子大学予科に入学、人文科を経て、
高等学部三年に編入し、卒業すると、つづいて大学部英文科に
一年半在籍し、十二年の秋に退学している。
(その間に、三人の子どもを出産。長男は生後まもなく死亡)
(十二年九月の関東大震災で夫の勤務先が焼けて一時失業、
また町の混乱した状況が通学を難しくしてやむなく退学)
(百合が優秀であったこと、学友たちと楽しく交流したエピソードが
残されている。学友たちは卒業後も百合の活動を支援した)
(視力を補う、素晴らしい勘の持ち主でもあったらしい)
p.102〜(要約)
第一回のヘレン・ケラーの来日時に、さまざまな困難を経て、
講演会を企画、実現した。
講演会では、百合の作詞、宮城道雄の作曲による、
「ヘレン・ケラー女史に捧ぐる歌」を自ら歌った。
(琴の演奏は、宮城道雄)
1946(昭和21)年、夫(武弥)死去 53歳
1947(昭和22)年、百合 死去 55歳
2019/09/10
ニトベ・フレンズセミナー「一人の女」
久しぶりの盛岡です。(新渡戸稲造博士 生誕地)
新渡戸基金、藤井 茂 理事長による読書会に
出席させていただきました。
テキストは、『新渡戸稲造全集』(教文館発行)第11巻収載の
「一人の女」。
新渡戸基金様で読みやすい小冊子にしてあります。
・何事にも慌てぬ強い婦人
・男子を感動させた婦人
など、新渡戸博士が実際に会ったり、話を聞いたりしたことのある
婦人たちのさまざまな境遇や出来事が紹介されています。
新渡戸博士本人が、これらの実話から、婦人に対する考え方や
人生観にまで影響したと、その序文で述べています。
少し道を踏み外した女性、同情に値する経験をした女性に、
あたたかい眼差しを向けています。
新渡戸博士は、自宅に多くの相談者を招き入れて話を聞いたり、
世話をしたことが、わかっていますが、こうした名も無い、
縁もなかった人々の話に耳を傾け、多忙の中、多くの時間をさいていらした
ことに、あらためて驚かされます。
このたびの読書会は、さまざまな専門分野の方々がともに集うことで、
新たな見地が開かれる、貴重な場になっていることもわかりました。
ありがとうございました。









