・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2013/07/08

ボルティモアのミーティングハウス 

2013年7月7日(日曜日)
ボルティモアのミーティングハウスで、クエーカーの礼拝に出席しました。
このミーティングハウスは、ジョンズ・ホプキンズ大学のすぐ横にあります。
http://homewoodfriends.org/




新渡戸博士は、1886(明治19)年12月、日本人として初めて、
「フレンド派ボルティモア月会会員」として認められ、正式にクエーカー
(友会徒)になりました。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.64〜66)

当時は、このミーティングハウスもジョンズ・ホプキンズ大学も別の場所に
ありました。(今回、その地も訪ねる予定です)

日本を出発する前、普連土学園の大津先生に、
「ホームウッド(homewood)のミーティングハウスですよ。
 ぜひ行ってみてごらんなさい」
と教えていただいていたので、7日の朝、ミーティングハウスにでかけてみました。

ホームページによると、その日は、朝7時15分から座禅があると出ていたので、
海外では初めての座禅に参加しました。
この座禅会では、鈴木大拙先生の著書を学ぶこともあるそうです。
葉山の座禅の会でお世話になっている藤田一照先生も、ここで指導されたこともあり、
来月もまたいらっしゃると聞き、うれしくなりました。



座禅会の方々がお帰りになり、建物の中で待っていると、クエーカーの礼拝に
一人、また一人と集まってきました。
一階には、広い会堂があります。



新渡戸博士は、かつて、クエーカーの人々に初めて出会った時のこと、
その「質素な服装」について書いていますので、
どのような服装で参加すればよいのか迷っていました。
座禅の後、様子によっては着替えようと、一応、紺色のズボンに紺色のシャツを
バッグに入れていましたが、まったく心配ありませんでした。
Tシャツに短パン姿も多く、みなさん、まったく普通の服装です。

今日の礼拝は、地下でおこなわれました。
一階の広い会堂は、冷房の設備がなく、暑いので、夏の数ヶ月間は、
地下を使っているそうです。


最初の一時間ほどは、円になって、黙って椅子に座っています。
後半になると、数人の方が、立って話をします。
内容は、さまざま。
自分の病気のこと、家族の不幸なできごと、または、
「今日のような素晴らしい日に感謝したい」というようなコメントなど。
最後に、全員が一人ずつ自分の名前を言います。
礼拝の前に何人かの人と話をしていたので、ぜひ自己紹介をと言われ、
今回のボルティモア訪問の目的、新渡戸稲造博士のことなどを説明しました。
礼拝の後は、みんなで軽いランチを食べます。
いろいろな人が話しかけてくださり、ほとんど食べられませんでしたが、
楽しいひとときでした。

その後は、一人でミーティングハウスの一階にある図書室で過ごしました。
本棚に賀川豊彦氏(キリスト教社会事業家)の本が2冊並んでいました。
賀川豊彦と新渡戸は、1932 (昭和7)年、日本で初めての協同組合の病院の
設立に尽力しました。現在の保険医療につながる尊い事業でした。
たしか賀川豊彦はクエーカーではないと思いますが、どのような経緯で
著書がここに並んでいるのでしょうか。





今日は、ボルティモアで座禅と礼拝に参加させていただき、多くの出会いがありました。
また、「座禅」と「沈黙の礼拝」を両方経験するという貴重な機会を得て、
「仏教とクエーカー」について学ぶきっかけになりました。

その後、すぐ近くのボルティモア美術館に寄り、ホテルに帰ろうと、
まだ日射しの強いジョンズ・ホプキンズ大学のキャンパスを歩き始めると、
大学パトロールの車がやってきて、ホテルまで送ってくれました。
ありがとうございました!






オールド・サウス教会と新島襄

2013年7月4日 アメリカの独立記念日(祝日)

この日の夕方、オールド・サウス教会(Old South Church in Boston)へ。
この教会は、アメリカで最も古い宗教コミュニティの一つです。
1630年にイングランドから渡ってきたピューリタン初代開拓者たちの
ボストン第一教会から別れ、第三教会を設立して、この教会は始まりました。
1875年、現在の場所に建てられた教会です。

ボストン公共図書館の横、ボストンマラソンのゴール(FINISH Line)を
はさんですぐ隣にあります。
内部は、とても荘厳で歴史を感じます。




「この教会の指導的会員であったアルフエス・ハーディー夫妻は、新島襄
(ジョセフ・ハーディー・ニイシマ)を1865年から1874年まで、
会衆組合派フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、アンドバー神学大学院で
学ばせて、1875年に、京都に同志社を開校、設立するのを助けました。
アルフエス・ハーディーは、これらの学校の理事でした。」(教会資料より)

アーモスト大学(アマースト大学、Amherst College)で、新島は、後に
札幌農学校に赴くクラーク博士の最初の日本人学生でした。

新渡戸博士は、アメリカで新島襄と出会っています。
苦学をしていた新渡戸を見て、新島襄は、同志社の先生になるよう誘いました。
結局、実現はしませんでしたが、後年、新渡戸は、同志社の理事に就任して、
協力しています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.64、p.124、p.208)

オールド・サウス教会(Old South Church in Boston)で、独立記念日の夕方に
おこなわれた野外礼拝に列席しました。




Celebrating America's Ideals in Worship & Song
Thursday, July 4, 6:00 PM

歴代の有名なスピーチの朗読や歌の合唱がありました。
独立記念日に「God Bless America」を歌うことになるとは・・・
しかも、すぐ近くでボストンマラソンの爆発テロが起こった場所です。
あの「キング牧師の名スピーチ、I have a dream」の録音を、
皆で静かに聞ました。
心に残る、忘れられない独立記念日になりました。
お招きくださった関係者の方々にとても親切にしていただきました。
ありがとうございました。

21時半から、ボストンでは、独立記念日の花火が盛大に上がりました。




ボストン公共図書館

ボストン公共図書館(The Boston Public Library)は、1848年創設、
アメリカで最古の公共図書館です。(1895年、現在の場所にて開設)
http://www.bpl.org/

スケールの大きさに圧倒されます。
ここでは、展覧会や読書会、求職者のためのワークショップがおこなわれ、
広く開放されています。





「公共」図書館は、ボストン市民だけではなく、外国人の私に対しても門戸を
開いていることに驚きました。
入館に際しても、まったく手続きは必要ありませんでした。
自由に本を手に取って見ることができます。
閉架資料の閲覧するためには、入館者カードを取得する必要がありましたが、
パスポートさえあれば、2,3分ほどで発行してもらえました。
二年間有効なのだそうです。




館内のコンピューターで「nitobe」を検索したら、閲覧可能な蔵書として、
15件の書籍がヒットしました。




『武士道』のフランス語版の閲覧を申し込みました。
15分以内に用意できるということでしたが、10分ほどですでに窓口に届きました。



「uchimura」(内村鑑三)の著書は、1冊、「okakura」(岡倉天心)は、18冊、
「league of nations」(国際連盟)は、467冊の検索結果が出てきました。


ボストン公共図書館のすぐ横が、ボストンマラソンのゴールラインです。
今年4月の爆発テロは、この近くで起きました。








2013/07/04

ボストン美術館 天心園

伝記『新渡戸稲造ものがたり』の中でも紹介している、岡倉天心(1863年〜1913年)は、
ボストン美術館のキュレーターとして、所蔵品を充実させ、また、
中国・日本美術部長にも就任しました。
美術館には、天心園(日本庭園)があります。





岡倉天心は、美術館のボランティア募集のために、富裕層のご婦人方を前に、
名スピーチをおこなって、その獲得に成功したそうですが、
今回、私を案内してくださったご婦人も上品で素敵な方でした。
ボストン美術館では、案内役とお花のアレンジメントは、ボランティアによる
ものだそうです。





ボストン美術館 SAMURAI!展

2013年7月3日(水)
ボストン美術館で開催中のSAMURAI!展に大勢の人が来ています。
日本では、見たことがないような甲冑など。







SAMURAI!展のミュージアムショップで、
新渡戸稲造著、BUSHIDO The Spirit of the Samuraiを発見!
岡倉天心著、The Book of Teaと一緒に並べられていました。



2013/06/10

祝 受賞! テレビ番組「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」


制作に協力させていただきましたテレビ番組、
「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」(岩手めんこいテレビ)が、
東北映像フェア2013という今年から始まった映像コンテストの番組部門で
見事、大賞に選ばれました。
審査員全員が高評価をつけたそうです。

担当されました工藤さん、ディレクターの鎌田さんをはじめ、関係者のみなさま、
おめでとうございます!
下記でニュース映像を見ることができます。
http://www.youtube.com/watch?v=yNqYcCpLGkQ

受賞を受けて、
岩手エリアでの再放送が決定しました。

6月29日(土)14:55-15:55

放送から半年近く経つ番組が再放送になることは滅多にないそうです。

2013/06/09

京都 竹内栖鳳邸跡

2013年6月4日 京都 東山

新渡戸博士と親交があった日本画の巨匠、竹内栖鳳邸跡を訪ねました。



趣きのある門を入り、石畳のなだらかな坂のアプローチを進むと、
本宅(本館)があります。1929(昭和4)年、新築のこの邸宅に竹内画伯は
移り住んだと館内の資料に書かれています。
(同年、新渡戸博士は、太平洋問題調査会の京都会議で議長を務めています)

本館 入り口
本館内は、昔のたたずまいを残しながら、モダンなレストランになっています。

玄関を入り内部へ

バーカウンターの横にある欄間 竹内画伯のデザインでしょうか?
中庭の緑が美しい部屋で食事をした後、レストランの方が本館内を案内して
くださいました。

二階から吹き抜けの階下を望む
二階の和室(個室)

床の間に掛けられた松魚(かつお)の絵
竹内栖鳳 画 「松魚」 昭和初期
松魚(かつお)は、その語呂合わせから、「勝つ魚」とも解され、古来より
縁起の良い魚とされてきた。昭和十年以降、晩年を迎えた栖鳳は当時の世相を
意識してか、本作をはじめ鯛や鯉など吉祥の意味をもつ魚を多く描いている。
栖鳳は「ふだん十分良く写生してあるものほど筆を省けますが、写生を怠った
ものはとかく筆致が多くなります」と語っているが、本作はその言葉通り、
少ない筆致の中できりりとした輪郭、青々とした背などの要点をおさえ、
穫れたての松魚の新鮮さを表現している」
(床の間に示してある説明文より)

そのほか、数カ所に作品が展示されているので、作品を拝見しながら、
お食事を楽しむことができる、素敵なレストランです。

そして、竹内画伯のコレクションなのでしょうか、お庭を巡ると楽しいです。




現在は、「The Sodoh Higashiyama Kyoto」というイタリアンレストランに
なっています。結婚披露パーティーなどもできるそうです。
ホームページは、こちら


1933(昭和8)年、新渡戸博士と竹内画伯は、京都の飄亭にて最後の再会を
果たしています。その時についての記事は、こちら



2013/05/15

『河井道と一色ゆりの物語』

新渡戸稲造博士の教え子の一人で、恵泉女学園の創立者である
河井道(かわい みち)先生と、その河井と家族のような親交があった
一色ゆり(旧姓 渡辺)さんについて、一色ゆりのご長女、一色義子さんが
書かれた書籍が、昨年12月に刊行されました。
河井道とゆりの師弟関係を、「恵みのシスターフッド」として紹介。
また、クエーカーで軍人のボナ・F・フェラーズ(Bonner F. Fellers)との
関わりについても書かれています。

『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』
一色 義子 著
キリスト新聞社
2012年12月25日

河井道は、新渡戸夫妻と渡米し(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.103〜)、
かつて津田梅子(津田塾大学創立者)も学んだ、アメリカ東部の
ブリンマー大学を卒業して、帰国後、津田塾大学の教師になりました。
そこに入学してきたゆりは、津田塾を卒業すると、河井の導きで、
アメリカの共学アーラム大学(新渡戸稲造の信仰したクエーカーの学校)に留学。
1914年、アーラム大学の上級生になったゆりは、あるクエーカーの入学生の
指導を担当することになります。
アーラム大学では、上級生が一年生の指導責任をそれぞれもたされたからです。
(『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』p.64)

その入学生こそが、イリノイ州の農家からやってきた、ボナ・フェラーズ。
後年、終戦後の日本にマッカーサーと共に副官として来日することになる
人物です。

さて、アーラム大学を優等賞で卒業したゆりは、日本に帰国。
一方、フェラーズは、アーラム大学を二年で修了して米国陸軍士官学校の
ウエストポイントに入り軍人になります。
1922年、フェラーズは、初来日。

〈ゆりは、河井と二人で、この若い青年フェラースをすき焼屋でご馳走します。
河井道は、そのころ既に、YWCAだけでなく、・・・
世界学生連盟の副議長も務めており、世界的青年指導者の一人になっていました。
もっとも軍人らしくない、卒業任官で陸軍中尉の青年フェラースは、
河井道のキリスト教の国際的な姉妹兄弟観にすっかり共鳴しました。
この時からフェラースはゆりとともに河井道を尊敬し、敬愛する親しい友人に
なりました。「日本をもっと知りたい」というフェラースに、ゆりは英語で
書かれた日本が分かるような本といえば、当時はラフカディオ・ハーンのもの
ぐらいしか思いつかなかったのです。英語で読む日本の風物といえばやはり
ハーンかと思い「私はハーンの思想は好きではないけれど」と言いながら
「確かに私がフェラースにハーンを紹介した」と。ゆりは後々までそのことを
語って苦笑していました。後に日本に来たフェラースはハーンの著作を全部読了し
ハーンの大愛読者になりましたが、ゆりはそのきっかけを作ったのです。〉
(『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』p.79-80)


その後も、1925年に結婚したばかりのドロシー夫人をともなって再来日するなど、
フェラーズは、河井、ゆり、そして、ゆりの家族との親交を深めます。

「太平洋の架け橋になりたい」という志を生涯貫いた新渡戸稲造博士は、
晩年、両国の関係修復と、戦争回避のために、命を惜しまず尽くしましたが、
没後、太平洋戦争が勃発。
新渡戸の教え子だった河井、その弟子ゆり、そして、ボナーズは、
祖国同士が戦うという苦悩の日々を送ることになったのです。

〈日本は敗戦し、・・・GHQの最高司令官マッカーサーとともに、
軍事秘書官のボナー・F・フェラーズが来日しました。フェラーズは、
カーライルを学び、稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神を
よく理解しているクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の
一色ゆりの友人でもありました。
フェラーズは、二人を、1945(昭和20)年9月、アメリカ大使館に招きました。
昭和天皇とマッカーサーが初めて会見する四日前のことです。連合国が
昭和天皇を戦犯として裁くべきかといく問題について、フェラーズは二人に
意見を聞きました。(続く)〉
(伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.223)

さまざまな局面を経て、結果的に、アメリカは方針を大きく転換し、
日本の天皇制存続を決定しました。

同書『河井道と一色ゆりの物語 恵みのシスターフッド』は、
一色ゆりの娘、そして、家族のように河井道と共に生活した著者による、
シスターフッド(姉妹性)の恵みを著した本です。

人と人のつながり、人と人の信頼関係、そして、そこから生まれる人間の叡智。
河井道の師だった新渡戸稲造博士の生涯、新渡戸と関わった多くの人々、そして、
教え子らに引き継がれた精神と、通じるものがあると感じます。

フェラーズのことが映画になり、2013年7月、封切りになりました。
この映画「終戦のエンペラー」については、こちら


2013/05/02

唐人お吉と新渡戸稲造博士 お吉地蔵

2013年4月20日 下田の「お吉地蔵」

古奈温泉「東府や」さん、下田の宝福寺さんを訪問後、新渡戸博士がお吉さんを
慰めるために、お吉さんが身を投げたお吉ヶ淵に建立した「お吉地蔵」を訪ねました。

昭和8年、新渡戸博士が建立した「お吉地蔵」
新渡戸稲造博士は、カナダで亡くなる年、1933(昭和8)7月16日、下田を訪れ、
日米関係のために尽くしたお吉さんを偲んでいます。
その時、地蔵を石屋に注文し、お吉ヶ淵に建てるよう頼みました。
その地蔵尊の背面には、自身の最愛の母の命日にあたる「七月十七日」と刻むように
依頼したとされていますが、いまでは、摩滅して確認することができません。

「お吉地蔵」の背面
新渡戸博士は、結局、自ら建てたこの地蔵を見ることはありませんでした。
帰京後、カナダのバンフでおこなわれた第五回太平洋問題調査会の会議に
日本団を率いて出席。その後、カナダのヴィクトリアで静養していましたが、
ヴィクトリアの病院に入院、手術後、
同年10月15日(日本時間16日)、その生涯を閉じたのです。

今回訪問しました、下田の宝福寺さんについては、こちら
古奈温泉「東府や」さんについては、こちらをご覧ください。




唐人お吉と新渡戸稲造博士 宝福寺(下田)

2013年4月20日(土) 下田 宝福寺(下田開港時の仮奉行所)

アメリカ初代総領事ハリスのもとで奉仕することを命じられ、
恋人とも引き離されたお吉(斎藤きち)さんでしたが、大金の契約金を得たこともあり、
下田の人々から嫉妬と偏見の目で見られてしまいます。

斎藤きち(17歳のころ)
幕末の動乱に巻き込まれ、その後、1882(明治15)年、下田で小料理屋
「安直楼」(建物は現存)を開きましたが、数年で店をたたみました。
(お吉さんの没後、寿司屋として三代108年続き、現在は下田市歴史建造物)

史蹟 安直楼
1890(明治23)年3月25日(過去帳の記録では27日)の豪雨の夜、
お吉さんは下田川(稲生沢川)の上流で投身し、はかない生涯を閉じました。
どこも引き取りを拒んでいたところ、宝福寺住職の竹岡大乗師が快く引き受け、
お墓に葬りました。

宝福寺 入り口


宝福寺さんには、お吉さんのお墓と記念館があります。
記念館には、前田青邨画伯(1885年〜1977年、鎌倉にて没)が描いた「お吉の生涯」、
お吉の着物などが展示されています。

前田青邨画伯「お吉の生涯」の中の一枚

1933(昭和8)年7月、新渡戸稲造博士は、下田を訪れ、当時旅館だった
平野屋さんに宿泊し、次のように書き残しています。



さかりをふ
見る人多し
散る花の
あとを訪(と)うこそ
情なりけれ

稲造

宝福寺さんの竹岡宏子様から貴重なお話を伺いました。
ありがとうございました。

宝福寺ホームページは、こちら




2013/05/01

唐人お吉と新渡戸稲造博士 東府や

2013年4月20日(土)早朝、東京の自宅から伊豆下田へ向かいました。

新渡戸稲造博士は、亡くなる年、1933(昭和8)年の夏、太平洋問題調査会の
バンフ会議(カナダ)に日本代表として出席するために、
健康の不安をかかえながら、最後の旅に出ます。

その直前、多忙の中、7月にわざわざ下田を訪れています。
「唐人お吉」と呼ばれた日本人女性「お吉さん(斎藤きち)」を偲ぶためでした。

多忙なこの時期に、新渡戸博士はなぜ下田まで足を延ばしたのでしょうか、
それがずっと気になっていました。

途中、まず訪れたのは、伊豆古奈温泉「東府や(とうふや)」さんの中にある、
「唐人お吉館」です。


東府や「唐人お吉館」内の展示(一階)
「唐人お吉館」内に展示されている新渡戸博士の詠んだ歌
かつて、アメリカ総領事館初代領事タウンゼント・ハリスに仕え、
その後、不幸な人生を歩んだお吉さんに新渡戸博士は深く同情していたのです。

唐くさ(からくさ)(から竹)の
浮き名の下に枯れはてし
君が心は大和撫子

新渡戸稲造

お吉さんは、47歳の時に、伊豆最古の温泉、古奈温泉にて療養します。
心身ともに癒されたお吉さんを、東府やは、駕篭で下田まで送り届けます。
その時、天城越えで使った駕篭が、「唐人お吉館」二階に展示されています。


ここ古奈温泉は、徳川家康の側室「お万の方」が滞在したところです。
それまで子宝に恵まれませんでしたが、二人の子を授かりました。
(徳川頼宣・・・紀州徳川家の祖、および、徳川頼房・・・水戸徳川家の祖)

そのことから、古奈温泉は子宝の湯として広く知られています。




2013/04/03

テレビ番組「スーツを着たサムライ」岡山・香川で放映決定

制作に協力しましたテレビ番組
「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」(岩手めんこいテレビ制作)があらたに岡山県・香川県で放映されることになりました!
岡山放送OHK 4月22日(月)深夜25:15-26:15
※OHKのエリアは岡山・香川の2県です。

2013/03/22

テレビ番組「スーツを着たサムライ」長野で放映

制作に協力しましたテレビ番組、
「スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~」(岩手めんこいテレビ制作)が
あらたに長野放送(NBS)さんで放映されることになりました!

NBS 3月25日(月)深夜25:40〜(厳密には26日火の1:40〜)


深夜になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

2013/03/18

成城学園と新渡戸稲造博士 その2

先日、教文館(銀座)でお目にかかりました太田愛人氏のご著書
『神谷美恵子 若きこころの旅』(河出書房新社 2003年)から、
母校 成城学園と新渡戸博士のご縁について、追記します。

新渡戸稲造博士は、1906(明治三十九)〜1913(大正二)年、
旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長を務めました。
その間、のちに政財界で活躍する多くの優秀な人材を育てました。
「専門センスよりコモンセンス(常識)を」と、
学生たち一人一人との触れ合いを大切にし、学生たちに実に大きな影響を
及ぼしました。

その教え子の中には、田島道治氏(のちの宮内庁長官)、前田多門氏
(ユネスコ日本委員会委員長)たちがいます。
新渡戸博士が、国際連盟事務次長としてジュネーブに滞在中の1923年、
前田多門は、ILO(国際労働機関、国際連盟の外郭組織)の日本代表に就任し、
4人の子どもを連れて、家族でジュネーブに暮らし、新渡戸一家と親しく
交際しました。
長男の前田陽一氏、長女の美恵子氏(のちの神谷美恵子)は、両親が尊敬していた
新渡戸博士を祖父のように慕い、大きな影響を受けます。
(次女には、新渡戸博士の母の名前「せき」から、勢喜子と命名。
 勢喜子氏は、のちに、ソニー創業者の一人、井深大の妻となる)

スイスから帰国後、陽一と美恵子は成城学園で学びました。
前田陽一(桜組、藤組、3文甲)、前田美恵子(1白百合)
「成城学園同窓会 会員名簿」より

陽一氏は、のちに、新渡戸博士とのご縁も深い国際文化会館(東京・六本木)の
専務理事にも就任しています。

美恵子氏は、精神医学を学び、ハンセン病救済活動、戦後は、GHQとの
折衝などで父・多門を補佐、また、著作『生きがいについて』(初版1966年)は
長く読み継がれています。

また、美智子妃(現皇后)の相談役を務め、精神的に支えました。
新渡戸博士の教え子で書生だった、宮内庁長官 田島道治の尽力によるものです。
美智子妃にお会いする日には、長官みずから、東京駅にて美恵子氏を出迎えた
こともあったようです。