・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2019/09/12

東京女子大学第一期生 斎藤百合

2019年9月12日(木曜日)

先月、東京女子大学の茂里学長様がお話しされた、
東京女子大学(初代学長新渡戸稲造)第一期生の斎藤百合さんについて、
下記の本から、紹介します。

『光に向かって咲け 斎藤百合の生涯』 粟津 キヨ 著 岩波新書342

茂里学長のご講演については、こちら


いまよりさらに困難な状況であったと考えられる当時の障害者が、
特別生とはいえ、第一期生として入学が許可されたことに驚かされます。
学友たちともあたたかい交流があったようです。

・・・ここより、同書から引用(抜粋)・・・

p.53〜54(抜粋)

大正七年の春まだ浅いある朝、武弥(斎藤百合の夫、弱視者)は
新聞に発表された東京女子大学設立の記事を見つけて読んでくれた。
そこには設立の意図として、
「いままでのような家政科でなく、教員養成でもなく、キリスト教精神により
女性を一人一人の人間として伸ばすための高等教育を行う」
という意味のことが書かれていた。百合は感激して、
「これこそ、私の求めていた学校だ。そして、私の住むべき世界だ」
と思った。夢は際限なく大きくふくらんでゆき、百合にはもう、
自分の現実を深く考える余裕はなくなってしまっていた。

・・・百合は、盲女子であり、その上、主婦であり、大正五年八月には
長女久美が生まれていたから幼児をもつ母でもあった。年は、二十八歳
になっていた。経済的にも決して裕福とはいえない。

・・・夫は「やれるだけやってみるんだね」といって、百合の無謀としか
言いようのない女子大学入学への望みに理解を示し励ましてくれた。

・・・入学試験は口頭で行われた。面接の時、学長代理の安井てつ学監は、
いきなり言った。
「ここは、勉学の意気に燃えているお嬢さんたちの集まる所です。
結婚しているめくらの女が大きなお腹にでもなったらどんな勉強が
できるというのですか」
 覚悟はしてきたのだったが、こんな言い方をされようとは思わなかった。

・・・盲女子の置かれている社会的地位がいかに低いか、
それを高めるために、一人でも二人でも高等教育を受けなければ
ならないのです、と百合はしゃべるだけしゃべって帰ってきた。

それから一週間後、東京女子大から「特別生として入学を許可する」
という文面の速達便が届いた。すでにあきらめていた百合は、
その手紙を胸に抱いて、声をあげて泣いた。

・・・元東京女子大学教授平野雪枝は、「・・・新渡戸先生(学長)や
ライシャワー先生(理事)がお決めになったのでしょう」と
言っている。・・・ライシャワー夫妻が聾唖の娘をもっていたこと、
また、若いころ重い眼病にかかって、いったんは失明の宣告まで受けた
新渡戸の、障害者に対する深い理解が、百合の入学を大きく左右した
ことが考えられる。
のちに学長となった安井てつは、面接の時は冷酷ともとれる言葉を向けて
百合の決意を確かめたが、入学後は特に百合に心をとめて指導し、
卒業後も百合の主催する「陽光会」の後援会長になるなど、
援助を惜しまなかった。

p.56(抜粋)

斎藤百合は、大正七年春、東京女子大学予科に入学、人文科を経て、
高等学部三年に編入し、卒業すると、つづいて大学部英文科に
一年半在籍し、十二年の秋に退学している。
(その間に、三人の子どもを出産。長男は生後まもなく死亡)
(十二年九月の関東大震災で夫の勤務先が焼けて一時失業、
 また町の混乱した状況が通学を難しくしてやむなく退学)
(百合が優秀であったこと、学友たちと楽しく交流したエピソードが
 残されている。学友たちは卒業後も百合の活動を支援した)
(視力を補う、素晴らしい勘の持ち主でもあったらしい)

p.102〜(要約)

第一回のヘレン・ケラーの来日時に、さまざまな困難を経て、
講演会を企画、実現した。
講演会では、百合の作詞、宮城道雄の作曲による、
「ヘレン・ケラー女史に捧ぐる歌」を自ら歌った。
(琴の演奏は、宮城道雄)

1946(昭和21)年、夫(武弥)死去 53歳
1947(昭和22)年、百合 死去 55歳

2019/09/10

ニトベ・フレンズセミナー「一人の女」

2019年9月6日(金曜日)

久しぶりの盛岡です。(新渡戸稲造博士 生誕地)
新渡戸基金、藤井 茂 理事長による読書会に
出席させていただきました。

テキストは、『新渡戸稲造全集』(教文館発行)第11巻収載の
「一人の女」。
新渡戸基金様で読みやすい小冊子にしてあります。

・何事にも慌てぬ強い婦人

・男子を感動させた婦人

など、新渡戸博士が実際に会ったり、話を聞いたりしたことのある
婦人たちのさまざまな境遇や出来事が紹介されています。
新渡戸博士本人が、これらの実話から、婦人に対する考え方や
人生観にまで影響したと、その序文で述べています。
少し道を踏み外した女性、同情に値する経験をした女性に、
あたたかい眼差しを向けています。

新渡戸博士は、自宅に多くの相談者を招き入れて話を聞いたり、
世話をしたことが、わかっていますが、こうした名も無い、
縁もなかった人々の話に耳を傾け、多忙の中、多くの時間をさいていらした
ことに、あらためて驚かされます。

このたびの読書会は、さまざまな専門分野の方々がともに集うことで、
新たな見地が開かれる、貴重な場になっていることもわかりました。

ありがとうございました。








2019/08/22

田島道治(初代宮内庁長官)と新渡戸稲造博士

2019年8月21日(水)

今回、「拝謁記」が公表された田島道治 初代宮内庁長官は、
学生時代、新渡戸稲造博士の書生でした。

伝記『田島道治』をお書きになった恩師加藤恭子先生によると、
新渡戸夫妻は、田島氏に終生大変な信頼をおいていらしたそうです。
新渡戸博士がカナダで亡くなり、遺骨を抱いて帰国したメアリー夫人が、
真っ先に遺骨を手渡したのが、田島氏だったということです。

新渡戸博士のお墓がある多摩墓地の新渡戸像も、田島氏が中心になって
建てられました。詳細は、こちら

加藤恭子先生は、上記の伝記以外に、これまで、

『昭和天皇 「謝罪詔勅草稿」の発見』
昭和天皇と田島道治と吉田茂 初代宮内庁長官の「日記」と「文書」から』
『昭和天皇と美智子妃 その危機に 「田島道治日記」を読む』

などをご執筆されています。

2019/08/19

第2回新渡戸稲造シンポジウム

2019年8月18日(日)14:00~ 中野サンプラザ(東京都・中野区)

第2回新渡戸稲造シンポジウム
〜「新渡戸稲造記念センター」開設記念〜

2019年4月、東京医療生活協同組合に「新渡戸稲造記念センター」が
開設になりました。
新渡戸博士は、1932年に設立された医療生活協同組合病院
(現 新渡戸記念中野総合病院)の初代理事長です。

新渡戸記念中野総合病院についての過去のブログは、こちらへ





最初に、入江徹也理事長様よりごあいさつがありました。
病院の理念は、
「新渡戸稲造博士の精神(誠意と思いやりの心)を基にした医療を
誠実に実践し、疾病を抱えた人を真心で支援する」です。





講演 I  新渡戸稲造が遺したもの 
茂里 一紘 先生(東京女子大学 学長)

1 いと小さきもの

東京女子大学は、新渡戸博士を初代学長に迎え、1918年に開校。
1918年4月30日におこなわれた開校式について、翌日の萬朝報に
よりますと、渋沢栄一はじめ来賓500名(およそ半数は外国人)、
新入生は84名。その中には、斉藤百合さんがいました。
斉藤百合さんは、盲目の28歳、既婚で一児の母でした。
断られてもともとと思って志願すると、なんと特別生として入学が
許可されました。
茂里先生は、新渡戸学長とライシャワー氏(常務理事・財政担当)が
相談し、この異例な許可にいたったのでは、とおっしゃいました。

「いと小さきもの」を、神の子として平等に受け入れ、
知識よりも見識、学問より人格を尊び、人材より人物の養成を
主とした教育をおこないました。

注:ライシャワー家の長女は、聾唖(ろうあ)者で、日本聾話(ろうわ)学校を
夫人とともに設立。次男は、のちの駐日大使 E.O. ライシャワー。
『新渡戸稲造ものがたり』p.154


2 犠牲と奉仕 (Service and Sacrifice)

己を犠牲にしても、国、社会、人道のために貢献する精神。
この二つの頭文字(SS)をデザインした校章


3 リベラル エデュケーション(高等なる常識)

「リベラル・エデュケーションは、無知からの解放」
D. キーン

東京女子大学では、開校時から「文明史」の授業
「人文科」=一女性として高等なる常識を学ぶ
カリキュラムは、リベラル・アーツ教育の源流

卒業生たちが語る東京女子大学(『旅人われら』2007年)の
キーワードは、
「自由」=枠にはまらない考え方=リベラル・アーツ教育

「学び」は、建物の「耐震化」のようなもの
=予期せぬことに対応できるような強靭さを育むこと
特に女性は人生の変化が大きい人がいる

「挑戦する知性 未来につなぐリベラル・アーツ」


講演 II 新渡戸稲造先生の贈り物
宗雪 雅幸 先生(恵泉女学園 理事長)

恵泉女学園の創立者 河井 道先生と新渡戸稲造博士は、
「神の見えざる手」(アダム・スミス)によって導かれた出会い

河井 道先生(1877年〜1953年)は、伊勢神宮の神職の家の出身。
(「祈り」のある家)
明治4年、神職の世襲が禁じられると、河井家は函館へ。
ある日、お使いに出たところ、伊勢山田出身の親戚(キリスト教の
伝道者)に会う。スミス女学校で、新渡戸稲造先生から歴史を学ぶ。
新渡戸博士のアドバイスに従い、米国の名門ブリンマー大学に留学
(津田梅子も同学に留学)

新渡戸夫妻に同行して渡米した際の「渡航証票」が恵泉女学園史料室に
残っている。
雇い主 ↓
新渡戸稲造 東京市四ツ谷區北伊賀町廿五(25)番地
河野 孝忠 方

河井 道 先生は、「恵泉」11号(1933年10月)「恩師新渡戸稲造博士」で、
新渡戸先生口添えで1000円(当時)の寄付をいただいたエピソードを
書いています。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.187)

1929年、世界恐慌などの状況にもかかわらず、恵泉女学園を創立。
当初、新渡戸夫妻は、河井の苦労を心配して反対したが、
生涯に一度だけ、新渡戸博士の意見に反して行動しました。
1929年1月、申請。3月、許可。7名の後援者、9名の入学者。

新渡戸先生=優しさ、知性、行動
新渡戸博士のユーモア=心のあたたかさ


講演 III 21世紀の新渡戸稲造 〜がん哲学外来の心得〜
樋野 興夫 先生(東京医療生活協同組合 新渡戸稲造記念センター長)

日頃の講演活動のご報告とご著書の紹介



新渡戸稲造記念センター開設、誠におめでとうございます。
お招きくださいました入江理事長様に感謝を申し上げます。

新渡戸記念中野総合病院のホームページは、こちら


2019/07/30

「友愛・互助・平和」鳴門市賀川豊彦記念館

2019年7月14日(日曜日)
鳴門市 賀川豊彦記念館を訪問

鳴門市に滞在中のこの日、この地で育った賀川豊彦の記念館を
初めて訪問しました。
神戸で生まれた賀川は、幼くして両親と離れ、父の故郷である徳島で
4歳から16歳まで過ごしました。



同館の一階展示室は、大変充実しており、賀川豊彦の生い立ち、
賀川夫妻の功績をじっくり学ぶことができました。

賀川は、その生涯で多くの社会活動をおこないました。
その一つが、協同組合運動。日本初の医療利用組合の病院を
新渡戸博士と協力して設立しています。
伝記『新渡戸稲造ものがたり』p.194~

東京医療生協中野総合病院(いまの新渡戸記念中野総合病院)です。
ウェブサイトは、こちら

鳴門市賀川豊彦記念館の展示より

また、これまであまり知られていない「国際友和会」についての解説も。

鳴門市賀川豊彦記念館の展示より


展示解説によりますと、賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて』は、
当時、三部作合計で400万部を超えるベストセラーになり、
いまの価値にして10億円とも言われる印税収入も、
社会運動に当てられたそうです。

 三部作: 
 『死線を越えて』上巻 改造社(1920)
 「死線を越えて」中巻 『太陽を射るもの』 改造社(1921)
 「死線を越えて」下巻『壁の声きく時』改造社(1924)
そして、戦後は、世界平和を訴え、ガンジーやシュバイツアーと
並んで世界の三大偉人と呼ばれ、その活動はいまもさまざまな組織で
引き継がれています。

突然の訪問にも関わらず、お話をお聞かせくださいました副理事長の
武知忠義様に御礼を申し上げます。

賀川豊彦 1888年〜1960年

「友愛・互助・平和のために生涯を捧げ、
 ノーベル平和賞候補に4度、
 ノーベル文学賞候補に2度ノミネートされた偉人」
(同館 パンフレットより)

鳴門市賀川豊彦記念館のウェブサイトは、こちら




2019/06/20

田中舘愛橘顕彰会

2019年6月16日(日曜日)国際文化会館(東京)にて

新渡戸博士と田中舘愛橘博士は、同郷(新渡戸は盛岡、田中舘は二戸)、
「心の友」だったそうです。
盛岡ではなく、東京英語学校で初めて出会いましたが、その後の
約30年間は特に付き合いのあった痕跡がないそうです。
新渡戸より歳上の田中舘ですが、新渡戸よりも二十年近く長く生き、
太平洋戦争、日本の敗戦を見届けています。

新渡戸稲造(1862年〜1933年)
田中館愛橘(1856年〜1952年)終戦は、1945年





両者とも自らの専門をもちつつ、後進の指導によって
多くの優秀な弟子を育て、さらに、国際的に活躍しました。

この日、田中舘博士のひ孫(松浦明氏)主催の顕彰会がおこなわれ、
1 松浦氏による「愛橘顕彰会の最近の動向」のご発表、その後、
2 盛岡の新渡戸基金代表の藤井茂氏が、
  「田中舘愛橘とノーベル賞」の演題でお話になりました。

藤井茂氏(左)と松浦明氏(右)
冒頭に、松浦さんは、田中舘博士のご臨終の日についての思い出を
話してくださいました。
まさにご臨終の時、弟子の中村清二博士は、大きな声で、
「みなさん、田中舘先生にお礼を言おうではありませんか」と
告げ、みんなでお礼の言葉を言ったこと、誰も泣いていなかったこと、
自分だけはどうしても涙が出てきたこと・・・。
松浦氏は、経堂(東京都世田谷区)で、晩年の曽祖父(愛橘)と
数年ご一緒に暮らしています。

田中舘愛橘(曽祖父)とともに 右端が松浦氏


松浦氏ご所蔵の田中館愛橘資料


1 愛橘顕彰会の最近の動向

(1)シルビアシジミ(蝶)の本に登場した田中館愛橘

『シルビア物語』中村 和夫 著 2018年12月20日 発行 随想舎
この本の中で、明治初めに英国から来日した、
モンタギュー・アーサー・フェントン(Fenton)の蝶の採集旅行に、
若き学生だった田中舘が同行したことが書かれているそうです。
フェントン27歳、田中舘17歳。

(2)海上保安庁からの公文書の紹介

このたび、太平洋のある海底海山群に「田中舘海山群」と
命名されたそうです。
(ニュージーランドの海底地形名称委員会による)





そのほか、経堂での愛橘展について(2019年秋の開催予定)などの
報告がありました。




2 田中舘愛橘とノーベル賞

田中舘博士は、日本人で一番数多くのノーベル賞クラスの学者と
交流した一人、1910年にノーベル賞推薦人になっています。
(日本人で第2号の推薦人。第3号は、長岡半太郎で、長岡の推薦で
 後年、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞している)

新渡戸博士は、国際連盟の事務次長(国際部長)として、知的協力委員会
(いまのユネスコの前身)を招集し、キュリー夫人、アインシュタイン、
ベルグソンなどノーベル賞クラスの学者が集いました。
新渡戸が帰国すると、田中舘が、委員に選ばれ(昭和2年〜8年)、
その後、新渡戸が委員に任命されたが、惜しくもカナダで亡くなり、
委員として活動することはありませんでした。





いずれにしても、田中舘、新渡戸の両名は、世界的な学者たちと
交流した日本人。

さらに、新渡戸は、平和賞受賞に値する活躍をしました。
・オーランド問題の解決
・知的協力委員会の招集(学者が交流することによる平和の追求)
(当時は、国境を超えた学術交流が少なかった)

当時の国際連盟の職員による人気投票で、
全員一致の第1位が新渡戸稲造。
第2位は、フリチョフ・ナンセン(1922年にノーベル平和賞受賞)、
第3位は、ロバート・セシル(1937年にノーベル平和賞を受賞)。


藤井氏による二人の共通点は、
・分け隔てなく人と付き合う
・偉ぶらない
・国際社会で、日本人の良き見本となった
(日本の評判を高くした)



貴重なお話と資料をありがとうございました。





2019/03/22

寒川神社(神奈川県)の神苑

2019年3月21日(祝)春分の日

朝早く、寒川神社に向かいました。
この日は、春分の日(二至二分の日)。
日本を横断するレイライン(光の道)、日の出・日の入の位置を
直線で結ぶと、相模国一之宮寒川神社・富士山・竹生島・
元伊勢(皇大神社)・出雲大社が線上にあります。



本殿の真裏にある泉(御神水)の湧水は、相模川の伏流水で、
山中湖(富士山の湧水)が源流だそうです。

祈祷の後、神苑を訪れました。
ここは、カナダの新渡戸記念庭園の改修デザインをされた、
枡野俊明氏のデザインによる、素晴らしい庭園です。
ご本人からお話を伺っていましたので、ずっと訪問したかったお庭を
やっと拝見できました!




カナダの新渡戸記念庭園は、こちら

2019/03/04

サンフランシスコの金門学園

2019年初春

知人の加藤シオー様・睦子様ご夫妻(サンフランシスコ在住)より、
金門学園と、毎年恒例の行事について、お知らせいただきました。
新渡戸稲造博士は、設立時の金門学園と深いご縁があります。
以前の記事ついては、こちらへ。


書き初めの審査員、書家・加藤シオー氏と子どもたち

鏡会(サンフランシスコ餅つき保存会)による餅つきパフォーマンス
    鏡の文字も加藤シオー氏

最近、歴史ある金門学園の取り壊しの動きが出ているようです。
金門学園の付近には、日本や日系人ゆかりの地や建物が多くあります。
日米の友好の証ともいえる、大切な歴史的建造物が大切に保存され、
両国の交流、文化継承や紹介の伝統が末長く引き継がれ、
先人たちの思いが、将来も語り継がれるよう、切に願います。

加藤シオー様・睦子様ご夫妻
サンフランシスコアジア美術館、大書パフォーマンスにて


下記、加藤睦子様がお書きになった記事を、ご本人の許可をいただきましたので
紹介します。


書・習字・書き初め、餅つきと金門学園
         アーティスト・書家・加藤シオー、童話作家・加藤睦子

  金門学園が、年初に毎年取り組まれている書道、「書き初め」の審査の依頼を、
私が初めて受けて、書道の審査と、大きな筆を使っての書のデモンストレーション
、そして鏡会の餅つきパフォーマンスを行って来て、早、15年ほどが経ちました。
その時初めて体験する「書き初め」と、大書パフォーマンスと、生徒も先生も両親
も一緒の餅つきは、毎年、子どもたちが生き生きと目を輝かせ、歓声を上げて喜ん
でくれる、大変活気ある場となります。
その最初の書き初め大会で金賞を取ったK君は、日本語に目覚め、言語学に興味
を持ち、今も現場での研究に励んでいること、また、金門学園の生徒たちが、それ
ぞれに家族を持ち、2019年は、S君、R君の子どもたちが、書き初めと餅つきに参加
していることに、驚きで一杯となり、嬉しい限りでした。

私たち夫婦が、サンフランシスコへやってきたのは、1971年でしたが、金門学園
は、今年110年の歴史を持ち、あまたの子供たちが社会に貢献する社会人として育ち
、金門学園が日系社会の記念碑的な大きな存在となっていること、そこに「書き初
め」の審査員として関わってきたことに、大きな喜びを感じています。

かの「武士道」の著書で、欧米の日本研究者や、トルーマン大統領に多大な感銘
を与えたことで著名な新渡戸稲造博士が、1911年、金門学園の創設時に関わり、何
度も訪問していたことを知った時は、その愛深き生き様に尊敬の念を抱いていただ
けに、不思議な縁と感動を覚えたものです。

また、昭和天皇は1933年及び35年 に、1960年9月25日には、現在の天皇(当時は
皇太子)皇后両陛下も金門学園を訪ねられ、200人の生徒たちが出迎え、ブッシュ
街に1,000人の人々が溢れたと聞いています。その時、陛下は「どうか日本語と日本
文化をしっかり勉強してください。そして、米国の立派な市民となれるよう望みま
す」という、温かいお言葉を残されています。

 日本は平成から新しい元号へと、そして世界中の国々が変化の嵐に見舞われ、一発
触発さえ危惧する時代の流れの中で、子を持つ親御さんたちの想いは、如何なるも
のだろうかと思わずにはおれません。金門学園のお正月イベント、書き初め、競書
、鏡会による餅つきイベントなどの日本文化を、生徒、父兄、教師の皆さんと共に
体験し伝承していくことは、私たちの魂の中に宿る人間本来の精神性、日本人の精
神性が、子どもたちの心の中心軸に直結する、大切な機会になると確信しています

金門学園は110年の歴史と共に、今後も、日系日本人の子弟になくてはならない優
れた教育機関であることを確証し、今後の発展を祈り、見守り続けて行きたく思い
ます。

2018/10/28

キリスト友会 フレンズセンターの公開

2018年10月27日(土曜日)12:00〜

東京都港区三田に、「キリスト友会 フレンズセンター」があります。
新渡戸博士は、終生、クエーカーでしたが、ここは、古くから、
日本/東京のクエーカーの拠点です。

この日、東京都の文化財として、一日のみ公開されるということで、
訪ねてみました。

「米国から派遣された宣教師の住居として、ヴォーリス建築事務所の
設計で建てられました。戦後は、ララ物資の拠点や、
E・バイニング夫人をはじめ多くの人々の交流の場や宿泊施設となり、
現在も宿泊施設として利用されています」
「2018年 東京文化財ウィーク」冊子p.7より
(主催 東京都教育委員会/ 後援 文化庁)












以前、同じ敷地内の会堂は訪問したことがありましたが、今回、
こちらの文化財の建物の中は初めて見学させていただくことができました。
1920年代の建築なので、新渡戸博士ご夫妻も訪問されたことがあるはずです。
戦火も生き延びた貴重な文化財で、一日限りの公開日に
多くの方々が訪問されていました。
ヴォーリズ建築らしい造りが感じられました。
外壁は、新しくなっていますが、内部の造りはほとんど当初のままと
いうことです。
思いがけず、大津先生(普連土学園財務理事)にも久しぶりに
お目にかかることができ、嬉しい一日になりました。

大津先生が来訪者たちのいろいろな質問に答えていらっしゃいました。
ありがとうございました!

このすぐ近くに普連土学園があります。
若き留学生だった新渡戸博士たちの熱心な意見を聴いて、
設立された女子教育のためのフレンド派の学校です。


2018/10/10

小泉八雲の文学とその背景

カルチャーラジオ 文学の世界
NHKラジオ第2毎週木曜 午後8時30分 | 再放送 毎週木曜 午前10時

文化講演会「小泉八雲の文学とその背景」

小泉八雲記念館館長、島根県立大学短期大学部名誉教授…小泉凡

小泉八雲さんのひ孫さん・小泉凡さんのお話が放送されている中、
第11回では、ボナ・フェラーズが取り上げられています。

『新渡戸稲造ものがたり』p.222~

新渡戸稲造博士の「精神的子孫(spiritual descendants)より

 日本は敗戦し、連合国の占領下になりました。連合国最高司令官
総司令部の最高司令官マッカーサーとともに、軍事秘書官ボナー・
F・フェラーズが来日しました。フェラーズはカーライルを学び、
稲造の『武士道』を読んで日本人の名誉を重んじる精神をよく理解して
いるクエーカーで、稲造の教え子である河井道と、その弟子の一色ゆり
(旧姓・渡辺)の友人でもありました。(引用終わり)

フェラーズは、河井道と一色ゆりの二人からの意見も参考にして、
報告書を作成し、天皇陛下を裁くのではなく、
日本国民の天皇陛下への尊敬心を、むしろ日本統治にいかすことを
提案したのです。
フェラーズは、戦前から、小泉八雲の著書を読み、日本人の精神性を
理解していました。そして、小泉家とも親交がありました。

小泉凡さんの「ボン」という名前は、ボナー・フェラーズの名前から
付けられています。
凡さんは、この回の最後に、
「人との出会い、書物との出会いが、歴史を作るときがある」
と述べています。

NHKラジオのホームページ(聞き逃しが聴けます)は、こちら

2018/06/25

渋沢栄一の孫「鮫島純子」様と新渡戸博士

2018年6月25日

最近の読書記録メモ

鮫島純子(渋沢栄一 孫)著
『祖父・渋沢栄一に学んだこと』
2010年10月15日 文藝春秋

P.86〜88「新渡戸稲造先生」より抜粋

あれは、私が小学校低学年の頃でした。
その日は記者で名古屋に向かいましたが、・・・
父(渋沢栄一の四男 正雄)は、車内に落ち着くやいなや
向かい合わせの席に書類を広げ、社用を片付けていました。
列車が浜松にさしかかる頃、さすがに飽きた私は、
背中合わせに座っておられる上品な白髪のご老人と目が合い、
ニコッと笑いかけました。
これがきっかけで、このご老人との車内文通が始まりました。
はじめ彼はノートの切れ端に
「お名前は何といわれますか?」と書いて渡されました。
「純子と申します」
「どこまでゆかれますか?」
「名古屋でございます」
「お年はいくつですか?」
飽きもせず、背中合わせのたどたどしい文字のやりとりは
エスカレートし、ご老人のボックス席に入り込んでお話を
うかがうことになりました。

「ご家族と一緒に楽しい旅ができるということは、
 なんとお幸せなことでしょうね」
と言われ、それにはたくさんの方々のご恩を受けてこそですね
と説明されてから、私の指をとって一本一本折り曲げながら、
誰のお陰でこうして旅に出られたかを考えるように促されました。
「お父様、それから?」というように、留守番の人々から、
旅に出る服を調(ととの)えた人、列車を運転している運転手さん
に至るまで・・・。

そしてそれも種が尽きる頃、「お天道様や空気や雨もなくては
なりませんね。それはどなたがくださったのでしょう?」と
誘導して、神の大いなる恵みの中にわれわれは生きているので、
誰ひとりとして自分だけの力や働きで生きていられるのではないことを
話されました。

そろそろ名古屋に着くので、降りる支度を始めるようにと、
立ち上がって私たちのほうを見た父が、
「おや、先生じゃいらっしゃいませんか」と進み出て、
丁寧にご挨拶しました。

このご老人こそは、一高時代の恩師でもあった新渡戸稲造博士だったのです。
新渡戸先生は、栄一とご一緒の写真がいくつか残っています。
日米交流に尽くした御両者ですので、交流も深かったことでしょう。
私はあの優しいご老人が、読書の邪魔をした見知らぬ少女の心にさえ、
神の恩寵に気づくよう促されたのを折に触れ思い出し、
感激しつつ、心に蘇らせています。

(以上、抜粋終わり)

〈補記〉 同書 「鈴木貫太郎大将」p.117より
昭和17年4月、鮫島員重氏と結婚
帝国ホテルと華族会館で披露宴
仲人は、鈴木貫太郎・たか夫妻


2018/06/20

『ハーバード白熱日本史教室』の「武士道」

2018年6月

『ハーバード白熱日本史教室』北川 智子 著 新潮新書

同書で説明されている(著者がハーバード大学の授業で
学生たちに講義した)「武士道」は、下記のような内容です。

同書のp.62より抜粋

武士道は「創造された日本らしさの象徴」

武士道という言葉が世界中に広まるのは、1900年、
新渡戸稲造が『Bushido: The Soul of Japan』を出版して以来のことで、
それほど昔もことではないのです。
・・・広い意味でサムライまたは武士は古くから存在し、彼らが
したためた書物は多数存在していました。
しかし、ここで重要なのは、彼らが共通してあがめる、
いわばバイブル的な武士道があったわけではない、ということです。
武士道という言葉が長く使われていたわけではなく、サムライが、
武士道を貫くために生きていたわけでもない、という点です。
つまり、新渡戸稲造が日本人の倫理を語る概念として作った
「武士道」が、20世紀初頭に世界に向けて発信され、
それがあたかも以前から存在していたものであるかのように
受け入れられてしまったのです。
(中略)
つまり、新渡戸の武士道は、歴史史料を引用した歴史事実ではなく、
時代が新渡戸に想像させた新しいコンセプトだったのです。
そして、この史実とかけ離れた、強すぎる武士道は一人歩きを
はじめます。

2018/05/31

『海の武士道』'The Bushido over the Sea'

2018年5月

『海の武士道』 惠 隆之介 著 産経新聞社 平成20年12月

p.11より

元英国海軍中尉サムエル・フォール卿
「太平洋戦争中の1942年3月2日、ジャワ海で、英国海軍将兵400人以上が
 漂流中に、偶然この海域を通りがかった日本海軍の駆逐艦に発見された。
 その直前、英海軍将兵たちは約24時間近く漂流していたため、
 生存の限界に達していた。軍医はすでに自決用の劇薬を全員に配布し
 終えており、仲間のうち数人はそれを服用しようとしてフォール卿から
 制止されていた。
 自決をためらうフォール少尉は、眼前に突然現れた日本海軍の駆逐艦を
 見た時、『日本人は野蛮』という先入観から、いよいよ機銃掃射を受けて
 最期を迎えると覚悟した。
 ところがその駆逐艦『雷』(1680トン)は、直ちに救助活動に入り、
 終日を費やして漂流中の英国海軍将兵全員を救助した」。
///

 艦長は、工藤俊作である。

同書によると、工藤が学んだ海軍兵学校の好調だった鈴木貫太郎の教育方針は、
「武士道」であったという。生徒の歴史の知識が不足していると感じた
鈴木校長は、文学士の教授に頼んで、講義をしてもらった。
艦長となった工藤もまた「鉄拳制裁(こらしめるために殴ること)」を
禁止し、民主的なリーダーシップを発揮して乗員たちに慕われた。

上記、フォール卿は、日本海軍による友情あふれる救助活動に対し、
次のように語ったそうである。
「日本の武士道とは、勝者は驕ることなく敗者を労り、その健闘を称える
ことだと思います」。

「鈴木貫太郎とたか夫人」は、こちらへ。

2018/05/05

㊗️東京女子大学創立100周年

2018年4月30日(月曜日・祝日) 晴れ

素晴らしい春晴れになりました。
本日、東京女子大学創立100周年の式典に参列しました。
講堂での式典に続き、懇親会がおこなわれました。
新渡戸稲造博士は、同大学の初代学長です。
新渡戸記念室では、100周年記念展も開催されています。

心よりお祝いを申し上げます。






2018/04/04

鈴木貫太郎と妻タカ夫人

『武士道』のその後
(『新渡戸稲造ものがたり』p.225より下記を引用)

第二次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト
大統領が亡くなると、鈴木貫太郎首相は、アメリカと戦争中にも
かかわらず、偉大な指導者を失ったアメリカ国民に対し、
日本を代表してすぐにお悔やみの電報を送り、
その全文がアメリカの新聞に載りました。
ドイツの作家で、当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは、
「ドイツでは、みんなが万歳、万歳と叫んでいるのに、
 日本はお悔やみの言葉を送ってきた。
 やはり、日本はサムライの国だ」
と語ったと言われています。敵の国に対するこのような態度に
よって、「武士道」の精神が国境を越えて、世界の人々に
感動を与えました。

(『新渡戸稲造ものがたり』第十三章 没後 稲造が遺したもの)
(引用終わり)

終戦時の難しい時期に首相を務めた鈴木貫太郎の妻たか夫人の父は、
新渡戸稲造と札幌農学校で同期生の足立元太郎です。

・鈴木たか
1883(明治16)年、札幌生まれ。戸籍名は「たか」。
(鈴木貫太郎は、「孝子」などと記述している場合がある)
父、足立元太郎は、札幌農学校卒業、農商務省横浜生糸研究所技師。
東京女子高等師範(いまのお茶の水女子大学)で幼児保育を学び、
同附属幼稚園の教師。
明治38年から大正4年までの10年間、裕仁(昭和天皇 4歳〜)、
秩父宮(3歳〜)の養育係。
1915(大正4)年、海軍次官鈴木貫太郎と結婚。

たか夫人が、幼稚園の教師だった時の教え子の祖父に菊池大麓(だいろく)
がいました。
菊池は、学習院院長、東京帝国大学総長、文部大臣、
枢密顧問官などを歴任、皇室と強いつながりがあり、その推薦で、
たかは、皇室の養育係となりました。

子どもの頃の昭和天皇と一緒に遊び、昭和天皇の誕生日には、
毎年呼ばれました。

1978(昭和53)年十二月、昭和天皇は、須崎御用邸での記者会見で、
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくしました。・・・」
と話されています。

鈴木貫太郎は、太平洋戦争の始まる前の1936(昭和11)年2月に起きた
二・二六事件で襲撃され、最後の一撃を制止させたのが、
たか夫人です。(当時、鈴木貫太郎は侍従長)
(この事件の前夜、鈴木貫太郎夫妻や斎藤實夫妻らは、アメリカのグルー大使に
招かれ、外出していました)
事件が起こったのは、その翌日の早朝のことでした。
鈴木貫太郎がピストルで何発か撃たれて倒れ、「トドメ、トドメ」の声が上がると、
銃剣とピストルを突きつけられていた夫人が、
「とどめはどうかやめていただきたい」
と叫び、入ってきた指揮官の安藤輝三(歩兵第三連隊の将校)が、
「トドメは残酷だからやめろ」
と命じました。かつて、秩父宮の直接の部下だった安藤は、
皇子たちの養育係だった、たか夫人の存在を知っていたようです。
指揮官は、たか夫人に、
「奥さんのことは、かねてお話に聞いておりました。
 まことにお気の毒なことをいたしました。
 ・・・ひまが(時間が)ありませんからこれで引き揚げます」
と言い残して、立ち去りました。
出血多量の重症を救った医師の一人、塩田広重東大教授を呼んだと
されているのが、町村金五(宮内大臣秘書官)。
町村の父、町村金弥もまた、足立元太郎(たか夫人の父)と札幌農学校で
同期でした。

鈴木首相夫妻は、二人とも昭和天皇に近い存在で、陛下から信頼されて
いました。
1945(昭和20)年、首相に任命された鈴木は、辞退すると、天皇陛下から
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時にあたってもう他に人は
いない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
と直接言われたことから、高齢(77歳)にもかかわらず
引き受けました。たか夫人は、夫の覚悟を知ります。

たか夫人は、嫁入りの時、日本刀を持参、
そして、戦後、鈴木首相の故郷の関町に隠居して、地域の農業振興を
支援しました。たか自身も酪農の知識があったようです。
札幌農学校で学んだ父、そして出身地北海道の影響でしょうか・・・。

鈴木貫太郎記念館の入り口にある「為萬世開太平」

鈴木貫太郎 肖像画

記念館の内部

鈴木貫太郎記念館 入り口付近

鈴木の父、由哲の教えは、
「人間は怒るものではないよ、怒るのは、自分の根性がたりないからだ。
 怒ってすることは、成功しない」。
母、きよの教えは、
「絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。
 これが親に対するなによりの孝行である」。

鈴木の教訓は、
『正直に 腹を立てずに たゆまず励め』

鈴木没後も、たか夫人は度々この教訓を書き残しました。
二・二六事件で命を狙われ、終戦に反対する勢力に家を焼かれた
鈴木夫妻が、それでも自らの境遇を受け入れ、祖国や天皇陛下への
忠誠心を常に強く持ち続けた生涯を思うと、
両親の教えと、この教訓が重く響きます。

参考資料:『妻と家族のみが知る宰相』保阪正康 毎日新聞社
     『昭和天皇の親代わり 鈴木貫太郎とたか夫人』若林滋 中西出版
      カルチャーラジオ NHKラジオ アーカイブス
      「声でつづる昭和人物史 鈴木貫太郎の妻たか夫人」

鈴木貫太郎記念館 訪問日 2018年1月7日(写真撮影)

2018/01/19

新しいテレビ番組

2018年1月18日

盛岡の新渡戸基金さんからお知らせがありました。
以前、テレビ番組制作に協力しました「岩手めんこいテレビ」さんが
新渡戸シリーズの新番組を放映するようです。
東京でも視聴できるといいのですが・・・



1月21日(日)午後1時から
岩手めんこいテレビ
「新渡戸稲造の青春~ドイツ留学と武士道~」


2017/05/23

京都看護婦学校と佐伯理一郎

「同志社と看護学教育」
岡山 寧子(おかやま やすこ)
同志社女子大学看護部長
同志社女子大学看護学部教授

出典:下記(p.72-91)
『良心之全身ニ充満シタル丈夫(ますらお)ノ起リ来ラン事ヲ』
Doshisha Spirit Week 講演集 2015
2017年3月15日
同志社大学キリスト教文化センター 発行

=====講演記録より、以下に抜粋、要約。

○「看護」という言葉=看る(みて)+ 護る(まもる)
=人類がこの世に誕生した時からあるもの

○看護専門職の登場=ナイチンゲールの看護教育

「看護は、患者の生命力の消耗を最小限にすること」
ナイチンゲール著『看護覚え書』

19世紀中頃、F.ナイチンゲールは、看護学校を設立
(いまのセント・トーマス病院、ロンドンの国会議事堂のテムズ川を
はさんで向かい側)
卒業生たちが世界各地で看護教育、看護の実践。
日本でも明治の初めに『看護覚え書』(当時は『看護の栞』)が紹介される。
1886年、京都看護婦学校で、ナイチンゲールに直接指導を受けたL.リチャーズに
よる看護教育が開始。
ナイチンゲールの看護思想は、看護の原点、つまり、医療の発展の中で、
なにを看護の対象にするか、「病気」を見るのではなく、「人」を見る。

○この新島襄の医療への志を継いだのが、(新渡戸博士の友人)佐伯理一郎医師。
『京都看護婦学校五十年史』(佐伯理一郎 著 1936年)

同志社主導の病院、学校は、新島没後、佐伯医師が管理者となる。
産科医でもあった佐伯医師は、産婆学校も設立。
佐伯医師の息子たちも医師になり、学校の運営に携わる。
両校は「佐伯の学校」と呼ばれ、戦後まで続く。

現在、同志社女子大学の看護学部において、京都看護婦学校の志が
引き継がれている。

=====以上で、抜粋終わり。

新渡戸博士は、アメリカ留学時、新島襄と出会っています。
新島先生は、新渡戸に同志社の教員になるよう誘いますが、
ついに実現しませんでした。
けれども、同志社の教育には協力し続けました。

また、佐伯理一郎医師とは、長年親交がありました。
新渡戸博士が亡くなる年に、新渡戸は同志社での講演のため京都に出向き、
また、新渡戸がカナダへ出発する二日前に佐伯は東京に訪ねてきています。
これが、45年間続いた親交の最後になるのです。
新渡戸が、生涯最後となる船旅へ出発した三日後、佐伯は長文の電報を
送っています。

その中にあった聖書の言葉の一節は、
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のような翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない」
(イザヤ書四十章三十一節より)
『新渡戸稲造ものがたり』p.210より

長年の二人の友情、そして、最後の力を振り絞って旅立つ友人に対する
佐伯医師の心情が伝わってくるようです。





2017/05/21

『津田仙と新島襄』津田道夫様のご講演

2017年5月18日(木)14:00〜16:00

東京新島研究会 5月例会
『津田仙と新島襄』
発表者 津田 道夫 様(津田仙様ご子孫)

同志社大学東京キャンパス(中央区京橋)にて

このたび、津田道夫様にご案内いただき、
ご発表を拝聴する機会に恵まれました。

また、当日は、津田仙氏と関わりのあった方々のご子孫、
研究者の方々とお目にかかることができました。

新渡戸博士ご夫妻は、津田仙、次女の津田梅子先生と、
深い関わりがありました。
新渡戸博士は、津田梅子が創立した津田塾大学、
また、新島襄が創立した同志社大学を支援しました。








2017/05/04

金門学園(サンフランシスコ)を訪問

2017年5月3日(水)

サンフランシスコの日本人街にある「金門学園」
(Golden Gate Institute)を訪ねました。
この学園は、日系人の子どもたちのために設立されました。
当時、日本人はアメリカの学校に通うことができなかったからです。




1911年1月18日、この地(2031 Bush Street)の建物を借りて
校舎にすることになり、
翌月、新渡戸博士は、鎌田政令(かまたまさよし)を
校長に推薦しました。
4月15日に開校式がおこなわれ、17日から授業が正式に
始まります。
生徒は、12人の幼稚園児、12人の幼児、そのほか21人。

学園の入り口近くの壁に当時の写真が掲げられています。
日付は、設立の年、1911年の11月。




新渡戸博士とメアリー夫人の姿も

1960(昭和35)年9月25日、
この学園には、現在の天皇(当時は皇太子)皇后両陛下も訪れています。
前日、日航特別機でホノルルから到着された両陛下は、
午前9時15分、200人の生徒たちが出迎え、ブッシュ街には1000人の
人々であふれました。

「どうか日本語と日本文化をしっかり勉強してください。
そして、米国の立派な市民となれるよう望みます」
というお言葉を陛下は残されています。
授業参観後、9時55分に出発されました。
(同学園の掲示資料より)





平成25年、同学園は、外務大臣賞を、さらにサンフランシスコ市長賞を
受賞しています。



美しいタイルで縁取られた正面玄関