学者、教育者として、また、国際的にも広く活躍した新渡戸稲造博士(1862年〜1933年)の足跡を訪ね、その原風景に出会う旅 【2022年9月1日 生誕160年 / 2023年10月15日(16日) 没後90年】
2022/06/01
拓殖大学に「拓殖アーカイブズ事業室」新設
2021/03/30
「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る
2021月3月 30日
例年になく早く満開を迎えた東京の桜が、いまは盛んに散っていきます。
後藤新平伯は、昭和4年4月13日に亡くなりました。
手元の資料の中に、昭和四年に雑誌「朝日」に掲載された、
「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る
の記事があります。その記事の冒頭には、
「惜しみなく散る桜とともに」逝ったとあります。享年74歳。
後藤の逝去を受けて、新渡戸が語った話によると、
後藤新平が新渡戸稲造に台湾での仕事を要請したのは、
「当時の農商務大臣であった曽根さんを通じて・・・」とありますが、
「いまだに私にわからないのは、あの遠いアメリカにいた私をどうしてわざわざ
呼んだかである。これだけはいまだにわからないのである」としています。
本多静六博士の自伝によれば、本多が推薦したとあります。詳しくはこちらへ。
新渡戸は、本多の推薦があったことを、ご存知だったのでしょうか。
いまとなっては、確かめようがありません。
この記事によると、後藤新平の思い出話は、尽きることがなかったようです。
新渡戸によると、後藤伯は、「よく眠り、よく食った人」のようです。
最後の二人の会食は、貴族院の食堂でした。同じ料理を注文して「実にうまそうに
食べた」後、後藤さんは、いつの間にか追加注文して、二人前の料理をペロリと
平らげて平気だったそうです。
「あの時の後藤さんの顔が、いまでもはっきりと眼の前にちらつく。親しみのある、
あのくすぐったそうな、温情のある、あの顔が」
4月13日 麻布桜田町にて 大澤 栄一
雑誌「朝日」第1号第6号(昭和4年6月)博文館
2021/03/16
新渡戸稲造を後藤新平に引き合わせた人物
2021年3月16日
新渡戸稲造博士は、アメリカで『武士道』を出版した翌年、
後藤新平伯の熱心な説得を受けて、台湾に赴任しました。
1901(明治34)年、後藤新平が台湾総督府の民政長官だった時のことです。
共に岩手出身の二人ですが、それまで面識はなかったようです。
(その後、後藤、新渡戸の二人は親しくなります)
今回、本多静六博士の自伝を読んでいて、本多がドイツ留学時代から
後藤新平を知っていて交流があったこと、そして、新渡戸もまた、
本多の友人であったことがわかりました。さらに、その自伝には
次のように書かれています。
「後藤は、台湾の民政長官となるや、私に顧問として台湾へ出掛け、
いろいろ行政を手伝ってくれぬかと持ち込んで来た。
当時、私は多少の金もでき、仕事も忙しく、また学者としてそうした方面に
手をのばすのもいたずらに妬みの敵を多くするばかり、いわゆる明哲保身の術
ではないと考えたので、友人の新渡戸稲造、河合鈰太郎(かわいしたろう)
両君を推薦して、自分は両君にできない公園計画だけを引き受けることにした」
『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六 実業之日本社 2016年 P.216
新渡戸は、台湾総督府の糖務局長として台湾の砂糖産業の発展を担い、
本多は、台湾の北投や亀山一帯の温泉、台北や台南などの公園を設計、
河合は、阿里山鉄道の建設に尽力、「阿里山開発の父」と呼ばれました。
2016/07/25
拓殖大学に「台湾研究センター」開設
このたび、拓殖大学様に「台湾研究センター」が開設になり、
その記念シンポジウムにお招きいただきました。
拓殖大学 文京キャンパス
後藤新平・新渡戸稲造記念講堂にて
主催:拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター
大変興味深い内容のご講演でした。
特に、羅福全氏のご生涯には、感慨深いものがありました。
日本の統治時代の台湾に生まれ、日本の教育を受け、その後、
アメリカで学び、国連で活躍されました。
現在は、何年間も帰ることができなかった台湾に戻り、ご夫妻で
幸せな日々を送っていらっしゃいます。
この日は、夫人もご一緒に会場に元気にお見えになりました。
第一部
記念講演「台湾と日本のはざまに生きて」
羅福全 (元 台北駐日経済文化代表処 代表)
第二部
基調講演
Ⅰ.
鶯歌庄文書研究の意義―同風会に関する文書から見る日本統治期台湾の基層社会
玉置充子(拓殖大学海外事情研究所附属台湾研究センター専任研究員)
Ⅱ.
日本統治時代に日本商人がもたらした台湾社会近代化の諸相
陳柔縉(コラムニスト)
今後の同センターのご発展を祈念いたします。
このたびは、貴重な機会をありがとうございました。
2015/07/07
速報! テレビ番組のお知らせ
決まりました!
「新渡戸稲造の台湾 〜スーツを着たサムライ2015〜」
岩手めんこいテレビ制作
8月7日 (金) 午後7時〜 岩手めんこいテレビ (岩手県内)
8月22日(土)午後2時〜 BSフジ
出演:城戸裕次(きどゆうじ)
2015/06/27
大島正満博士 没後50年 記念講演会
海老名市交流館(厚木駅下車)
1 開会の辞
2 演題「動物学者としての大島正満と札幌農学校」
大島 智夫 氏 (大島正満 八男/横浜市立大学名誉教授)
3 演題「大島正満の想い出」
大島 久子 氏 (大島正満 五男の妻/音楽教育者)
4 演題「大島正満=台湾における動物学研究の先駆者」
郭金泉(かくきんせん)氏 (台湾国立海洋大学 教授)
5 ピアノ演奏 大島 妙子 氏(大島正泰・久子 長女)
6 閉会の辞
(司会 大島富士子 氏)
大島正満博士は、大島正健博士(札幌農学校第一期生)のご長男。
台湾での功績を顕彰したいと、郭金泉教授が、ある日、台湾から
大島正満博士のご家族を探して訪ねて来られ、今回の記念講演会が
実現したと伺いました。
大島正満博士の生涯について、大島智夫氏のご講演、
博士の晩年15年間を一緒に暮らされた大島久子様からは
日常生活のエピソード、
郭教授からは、大島博士の学術的な研究や経歴についての
ご紹介がありました。
大島正満没後50年 記念冊子
「キリスト信徒としての動物学者 大島正満の生涯」
大島 智夫 著
発行:2015年6月26日(非売品)
新渡戸稲造博士は、終生、大島正健博士と親しくされ、
晩年には、札幌で共に洗礼を受けたハリス神父の墓参りに
でかけています。(1928年6月2日 東京の青山墓地)
その際の写真2枚は、『新渡戸稲造ものがたり』p.190に
掲載。
参考
『随筆 不定芽』大島正満 著 昭和九年 刀江書院
p.13〜21「新渡戸博士の書」
2015/06/21
台友会セミナー
台湾留学経験者の親睦団体「台友会」を主宰されていらっしゃる
長谷部茂様のご案内により、定例交流会(セミナー)に
参加させていただきました。
拓殖大学(文京キャンパス) A 館 3階 第3会議室にて
(新しいA館の中に保存されている、レトロな趣きの教室)
開会あいさつ 長谷部 茂 氏
講演1
郷土教育から見る台湾人アイデンティティの形成
林初梅 先生
(大阪大学大学院言語文化研究科・外国語学部准教授)
講演2
台湾に新渡戸稲造の足跡を訪ねて
ー ドキュメンタリー制作のための取材旅行を終えて ー
工藤 哲人 氏
(岩手めんこいテレビ 番組プロデューサー)
「台湾で将軍になり軍神になった零戦パイロット」
梶本 光義 氏
(公益財団法人 呉海軍基地顕彰保存会 代表理事)
論文「明治・大正期における拓殖大学
草創期の台湾語教育について」
長谷部 茂 氏
長谷部様をはじめ、関係者のみなさま、ありがとうございました。
大変興味深い、そして、楽しいセミナーでした。
2015/04/26
拓殖大学 後藤新平・新渡戸稲造記念講堂
拓殖大学 文京キャンパス
図書館・教室棟一階「後藤新平・新渡戸稲造記念講堂」
拓殖大学ルネサンス
文京キャンパス整備事業完成記念式典・祝賀会
にお招きいただきました。
このたびの完成に心よりお祝いを申し上げます。
このたび最終ステージが完了し、「図書館・教育棟(E館)」が
竣工。今年度から、商学部と政経学部は文京キャンパスで
4年間の一貫教育がおこなわれることになりました。
| 正門から入ると右に本部棟(A館) |
![]() |
| 今回竣工した図書館・教育棟(E館) |
落ち着いた色彩の図書館。最新の素晴らしい施設です。
| 図書館 |
| 図書館 |
俄然やる気が出そうな大きな「志」の書。
![]() |
| 望月暁云「志」(寄贈 吉村洋治) |
| 教室 |
| テラス(10時〜17時) |
後藤新平・新渡戸稲造記念講堂は、新しい図書館・教室棟の中にあります。
入口には、お二人の胸像があります。
台湾の許文龍氏からの寄贈です。
| 後藤新平・新渡戸稲造記念講堂前の胸像 |
| 左が後藤新平学長、右が新渡戸稲造学監 |
このたびは本当におめでとうございました。
拓殖大学のホームページは、こちら。
2015/04/16
台湾 国立台湾大学(旧台北帝国大学)
| 国立台湾大学(旧台北帝国大学)正門 |
| 正門から大学構内へ ヤシの並木が印象的 |
大学図書館で、データベース検索しました。
日本の統治時代に発行されていた「台湾日日新報」
キーワード検索
「新渡戸」 すべて 735件
『新渡戸』 タイトル 341件
「新渡戸」 作者 97件
新聞に「新渡戸」が作者として登場しているのが100件近く。
これはかなりの数に登ります。
なぜでしょうか。
たとえば、「糖業改良意見」というタイトルで連載記事が
12回にわたって掲載されています。
1901年11月19日(一)〜12月3日(十二)
また、1911年に赤十字台北病院でおこなわれた講演録も掲載
されたようです。
ちなみに、
「後藤」のキーワード検索は、58件。思いのほか少ないように
思いました。
記事については引き続き調査。
現在の国立台湾大学の前身は、日本の統治時代だった1928年に
設立された台北帝国大学。
帝国大学として、第七番目に開校。現在の大阪大学や名古屋大学よりも
前のことでした。
キャンパスは、帝国大学時代の建物も残り、いまも大切に使われて
います。
2015/04/08
台湾 李登輝 元総統を訪ねて
このたびの台湾訪問を機に、李登輝 元総統に、
伝記『新渡戸稲造ものがたり』を寄贈させていただきました。
李登輝氏は、日本でも多くの著書があります。
新渡戸博士からも大きな影響を受けていらっしゃることは、
ご著書の中などでも紹介されています。
ご著書『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージとは』では、
日本人の思想について、書かれています。
この日はちょうど、日本から岡山学芸館高等学校の生徒さんたちが
李登輝氏のご講演を聴くために来訪されました。
同校の参与 森美智子様はじめ、高校生39名(1〜3年生の希望者)の
みなさまと一緒に聴講させていただきました。
演題は、「日本と台湾のこれまでの歴史と私が受けた教育」
日本の若者たちのために、熱意あるお話をされました。
日本が台湾を統治していた(台湾が日本の一部であった)時代に
生まれ育った李登輝氏は、日本の教育から多くの知識を得て、
人格を形成されました。
新渡戸博士も大変な読書家で知られていますが、
「児童百科事典」(小学館)や800冊の岩波文庫を読破されるなど、
李登輝氏も若いころから本当に多くの本を読まれていることに
驚かされました。
生徒さんから、「グローバルな人材になるためには、
どうしたらいいでしょうか」という質問を受けると、すぐに、
「とにかく勉強する。聞いたこと、書いてあることではなく
自分で実際に本物を見ることが大切」とお答えになっていました。
私にとっても学び多いお話を聞かせていただきました。
このたびの貴重な機会をご提供くださいました関係者の皆様に
感謝申し上げます。
学校法人 森教育学園 岡山学芸館高校は、平成25年12月、
許文龍氏が制作された「新渡戸稲造博士の胸像」を、
同氏より寄贈されました。
同校では、新渡戸博士のご著書『武士道』を必読書に指定されて
いるそうです。国際教育にも大変熱心な学校です。
同校のホームページは、こちら。
台湾 日本人学校を訪問
台北市内や近郊に住む日本人の子どもたちが多く通っている
日本人学校(Taipei Japanese School)を訪ねました。
台北の中心からMRT(電車)淡水信義線で15分程度、
「芝山(Zinshan)」駅から歩いて20分ほどのところです。
通りを隔てた隣には、アメリカン・スクールがあります。
表札は、李登輝元総統の筆を元にしたもの。
守衛の方に、面会の約束があることを伝え、校内に入れていただきました。
応接室で、校長先生と教頭先生にお目にかかりました。
この日本人学校には、台北在住の日本人の子どものうち約80%が
通っているそうです。
(残りの約20%は、現地校やアメリカン・スクールに登校。)
小学生と中学生の9学年、820名もの生徒が在校しています。
在校期間は、平均して3年から5,6年間。
保護者の転勤による転入があるそうです。
日本の文部科学省から派遣されている教職員は現在27名、
3年周期で異動します。
台湾で現地採用されている職員は、28名。
校長先生、教頭先生のお話によりますと、
子どもたちは、文部科学省で定められている教育課程に加え、
英語、中国語を学びます。
台湾については、「台湾を学ぶ」という総合学習の中で学ぶことに
なっているそうです。
小学校6年生で、八田輿一博士について学び、
修学旅行で八田記念公園を訪れます。
2013年5月24日には、李登輝元総統が、同校にて講演をされました。
後藤新平伯についてなどを話されたようです。
この時の揮毫を元に正門の表札が作成されました。
『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、昭和を
かけぬける』を同校に寄贈させていただきました。
日本の先人たちが台湾でどのような功績を残されたのか、
台湾にご縁のある日本の子どもたちが、その一端を知り、また、
先人の生き方から、「真の国際人」について考えるきっかけにして
いただければ、と願っています。
同書は、図書室に置いてくださるそうです。
お役に立てていただければ幸いです。
| 台北日本人学校 図書室 |
ちょうど春休み中で、子どもたちの姿を見ることはできませんでしたが、
教頭先生が、図書室など校内をご案内くださいました。
春休み期間中にもかかわらず、お迎えくださりありがとうございました。
亀山佳久校長先生、居原田晃教頭先生、
両先生にあらためて御礼を申し上げます。
2015/04/03
台湾 磯永吉と末永仁 二人の日本人農業技師
台湾のお米は、大変おいしいのですが、
そのお米「蓬萊米(ほうらいまい)」について、
台湾大学の農業試験場内にある「磯 永吉(いそ えいきち) 小屋」
で紹介されています。
それまでの在来米を改良し、日本人の好みに合った「蓬萊米」
の栽培を可能にしたのが、磯 永吉博士(1886年〜1972年)と、
末永 仁(すえなが めぐむ)博士(1885年〜1939年)です。
二期作が可能な台湾で、良質なお米が取れるようになり、
内地(日本の本土)向けの生産が増えて、台湾の経済発展に
つながりました。
磯博士は、北海道帝国大学(旧札幌農学校、現在の北海道大学)の
農学博士。新渡戸稲造博士の後輩にあたります。
「磯 永吉 小屋」には、蓬萊米の父、磯 永吉博士と
蓬萊米の母、末永 仁博士の銅像とともに、
当時の実験器具や資料などが展示され、二人の功績が顕彰されています。
このお二人の胸像を制作されたのは、許文龍氏です。
収集した写真を元に、自ら粘土で制作し、鋳型を起こして、
銅像に仕上げたそうです。
その思いについて、許文龍氏は、次のように述べています。
(館内の展示資料より)
〈 磯 永吉、末永 仁、両人の胸像を造るに想うこと
台湾における稲作の発展において、磯永吉博士は「蓬萊米の父」、
末永仁農事試験場長は「蓬萊米の母」と尊敬をもってこう呼ばれています。
昔、まだ貧しい時代には食卓で蓬萊米を口にすることは本当に贅沢なこと
でした。私たちは、今の幸せの根源を忘れず、お米を口にするたびに
その恩徳に感謝すべきではないでしょうか。
以前、私はシンガポールに住んでいたことがありますが、
シンガポールでは、その土地に功績を残した英国人を讃え、
その名を通りの名前として残し、あるいは、銅像を建てて
後世にその功績を伝えています。インドにおいてでさえも
英国人の銅像をきちんと残しています。私は、その土地に功績のあった
人々に対し、国籍を問わず敬意をもってその功績を讃え、記念すべきだと
思っています。(以下、略) 許文龍 2012.4.19 〉
許文龍氏は、日本の統治時代の台南に生まれ、日本の教育を受けて
育ちました。
許氏は、常に公平な視点で日本の統治について評価されています。
また、台湾を代表する実業家であり、病院や博物館を設立するなど
積極的に社会貢献をおこなっていらっしゃいます。
許文龍氏訪問についての記事は、こちらへ。
台湾ビールにも、蓬萊米が原料として使われています。
![]() |
| すっきりおいしい台湾ビール |
1928(昭和3)年、日本の第七番目の帝国大学として、設立されました。
現在の大阪大学や名古屋大学よりも前のことです。
1945年、日本の敗戦により、日本の統治時代が終わると、
中華民国政府によって、国立台湾大学となり、現在にいたっています。
2015/04/02
台湾 児玉源太郎と後藤新平の銅像
建設されました。
新渡戸稲造博士が、児玉源太郎総督と後藤新平民政長官の依頼で
台湾の糖業発展に尽くしたのが、1901年〜1903年ごろですので、
ちょうど同時代です。
現在の建物は、1915年の建造で、台湾国内で最も歴史ある建物の一つです。
完成当時の建物の写真は、こちら。
このエントランスロビーの両側には、かつて、児玉総督と後藤民政長官の像が
それぞれ設置されていたそうです。
現在は、代わりに大壺が飾られています。
日本の統治時代が終わると、この二人の像は、ここから撤去されました。
長い年月を経て、現在、同館の三階に再び展示されています。
通常は非公開の銅像を特別に見学させていただきました。
| 向かって左に児玉総督、右に後藤民政長官の像 |
| 児玉源太郎の像 |
![]() |
| 後藤新平の像 |
制作は、彫刻家の新海竹太郎(1868年〜1927年)。
忠実に表現された作品で、後藤新平伯のトレードマーク「鼻眼鏡」の跡も
確認できます。
1900年1月、アメリカで『武士道』を出版したばかりの新渡戸博士は、
児玉総督と後藤新平民政長官の熱心な依頼を受け、
1901年、両氏の下で働き、台湾の農業発展に尽くす決意をし、
後藤新平と運命的な出会いをします。新渡戸博士、39歳。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.114〜p.124
第八章 台湾の砂糖産業と植民地政策)
初めて海外勤務を経験し、児玉総督や後藤民政長官から多くを学び、
自分の専門とする農学の分野で大きな実績を残したことは、
まだ若かった新渡戸博士にとって、大きなステップになったと思われます。
同郷の後藤新平伯とは、このあと、生涯を通じて、師弟、または、
兄弟のような親しい関係が続き、後藤伯の外遊にも同行します。
そして、数年後、後藤伯とパリを訪れていた時に、国際連盟の事務次長の
就任が決まるのです。
この台湾時代が大きな転機になったといえるのではないでしょうか。
同館の初代館長、川上 瀧彌(かわかみ たきや 1971年〜1915年)も
札幌農学校の出身で、北海道のマリモ研究で知られる植物学者。
開館に向けて奔走し、開館の翌日に若くして病死しています。
同館の一階には、台湾の少数民族についての興味深い展示もあります。
台湾 八田輿一技師と恩師の広井勇博士
台南の奇美博物館をあとにして、
八田輿一記念公園(台南市官田区)に向かいました。
八田輿一技師(1886年〜1942年)は、日本が台湾を統治していた時代
(1895年〜1945年の50年間)、台湾の発展に貢献した日本人の一人。
![]() |
| 八田輿一夫妻 |
台湾に渡り、台湾総督府の土木技師として勤務されました。
当時の台湾は、現在のようなインフラが整備されていない時代でした。
数々の水利事業を手がけた八田技師は、後に烏山頭(うざんとう)ダムの
建設地点となる土地を発見します。
ここに大規模な灌漑/排水工事をおこない、灌漑/塩害の問題を解決する
ことを提案。工事が決まると、業務全般の責任者となりました。
計画されましたが、施行/運営は、民間形式が取られ、
八田技師は、建設工事に専念するため、総督府の職員を辞任しました。
それだけ真摯にこの事業にかける強い思いがあったのです。
堰堤の建造は、「セミ・ハイドロック工法」により、コンクリートを
中芯部の一部に使うだけで、大部分は、玉石、砂利などを混合した
土壌を使用するなど、特別な工法によるものでした。
途中、関東大震災による補助金の削減など、大変な苦労を乗り越え、
見事なダムが完成し、現在に続く、農業の発展につながったのです。
| 現在も美しく広大な貯水湖(2015年3月10日 撮影) |
大規模な烏山頭ダム(通称:八田ダム)の貯水湖が完成しました。
ほかに建設された同時代の大規模ダムが、土砂の堆積で使えなくなっている中、
この貯水湖は、砂防対策が取られていたため、現在も、豊かな水量を保って
いるのだそうです。
烏山頭ダムの建設で、嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯になりました。
やがて戦争が始まり、八田技師は、大洋丸に乗船中の1942(昭和17)年
5月8日、アメリカの潜水艦に撃沈され、亡くなりました。
57歳でした。
遺骸は、付近で操業中だった山口県からの漁船の網にかかり収容され、
故郷で火葬された後、遺骨は、台湾に残されていた遺族の元に送られました。
戦争が激化すると、夫人の外代樹さんは烏山頭を疎開地に選んで、
子どもたちと疎開。
敗戦後、台湾の日本人は台湾から去らなければならなくなり、
ご子息が学徒動員から戻ると、夫人は、夫が築いた烏山頭ダムの
送水口から身を投げて、自らの生涯を閉じたのです。45歳でした。
| 送水口 |
その功績が紹介されています。
八田技師の銅像が、記念公園内の高台にあります。
ダム完成後、1931(昭和6)年7月に設置されました。
第二次世界大戦の末期に、金属回収されましたが、終戦直後、
倉庫で発見され、1981(昭和56)年1月1日、再び元の位置に戻されました。
![]() |
| 八田輿一技師の銅像と八田夫妻のお墓(後方) |
八田技師が亡くなった命日には追悼式、そして、
この大事業がおこなわれた十年間に事故や病気で命を落とした
従業員やその家族の慰霊祭が、いまでもおこなわれているそうです。
記念公園内では、八田宅(復元)も公開されています。
| 八田技師の家族写真 |
八田技師は、広井勇博士の教え子の一人です。
広井勇博士(1962年〜1928年)は、
新渡戸稲造博士と札幌農学校で同期生、同じ歳です。
幼い時に父が亡くなり、その後、「東京に出て勉強したい」と
わずか10歳で家族に懇願、札幌農学校を卒業すると、
私費でアメリカに留学するなど、新渡戸博士と境遇が似ています。
新渡戸と広井の両博士は、アメリカ留学中に、先輩 佐藤昌介の計らいで、
札幌農学校の助教に任命され、ドイツへ官費留学しています。
アメリカでもドイツでも交流は続き、新渡戸稲造青年が、
アメリカ人女性メアリーとの結婚に悩み相談した時、
広井は、佐伯理一郎とともに、その国際結婚に賛成しています。
新渡戸博士は農学、広井博士は工学の専門家になり、
留学後は、母校 札幌農学校の教育にも尽力しました。
広井勇博士は、小樽港の築港に従事し、いまでも使われている
長大なコンクリート製の防波堤を完成させました。
その後、東京帝国大学の教授になり、八田輿一、
青山士(あおやまあきら=パナマ運河建設に関わった唯一の日本人技師)ら
優秀な人材を育てました。
| 学生時代の八田輿一と当時の東京帝国大学工学部(展示資料より) |
「高潔無私」の人、広井勇。その愛弟子、八田技師もまた、
人々のためにその生涯を捧げたのです。
尚、八田輿一技師は、映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」にも
登場しています。映画についての記事は、こちらへ。
参考:
八田記念公園配布資料/展示
『日本のオールターナティブ』藤田正一 著 (銀の鈴社 2013年)
『新渡戸稲造事典』佐藤全弘・藤井茂 共著 (教文館 2013年)
『新渡戸稲造ものがたり』 (銀の鈴社 2012 年)





























