・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2021/09/17

HAPPINESS CREATOR 新渡戸文化高等学校

2021年9月9日(木)17:30~  外国人特派員協会にて

一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)の記者発表

CCF代表と登壇者のお一人が知人でしたので、出席させていただきました。

教育現場を代表して、登壇されていらしたのが、新渡戸文化学園の山藤旅聞(さんとうりょぶん)先生。

新渡戸文化高等学校の総括校長補佐、高等学校教育チーフデザイナーをされています。

山藤先生は、

「新渡戸文化学園は、創立者の森本厚吉先生、初代校長の新渡戸稲造先生が

 社会の変革をめざして、開校」

「新渡戸文化学園は、学校と社会をブリッジ(橋渡し)する」

とお話しされ、建学の精神を大切にし、いまの時代に合った変革を推し進められていること

がわかり、感動しました。

会場には、山藤先生の教え子(新渡戸文化学園のOGお二人)も登場、

「最近、『一枚500円のTシャツを購入し、ひと夏が終わると捨てる』という友人たちの言動に

違和感を抱いていた。使われない/使われなくなったコットンが、紙としてよみがえり、

再利用されることは素晴らしい取り組み」という率直な声を聞くことができました。

同校では、「国際人としての人格教育」をはじめ、

学園の7つの強みを掲げた教育をおこなっています。

未来に向かって変革を続ける新渡戸文化学園に大きなエールを送ります。

新渡戸文化学園のホームページは、こちら

同校にお招きいただいた時の報告は、こちら


一般社団法人サーキュラーコットンファクトリー(CCF)とは、

綺麗な地球を子どもたちに引き継ぐために、洋服の廃棄物をゴミにせず、廃棄物から紙を再生し、

活用することを始めた一般社団法人。

繊維業界にとどまらず、製紙会社、出版社、日本郵便株式会社様、さらに、

お菓子メーカー(今回の登壇者は、榮太棲総本舗の細田将己副社長様)、学校など、

社会全体の大きな連帯により実現可能な、循環型社会をめざす壮大な取り組み。

(日本における繊維リサイクル率は、17.5%。毎年137万トンの繊維廃棄物が捨てられ、燃やされている。

2019年、28.5億枚の洋服が作られ、14.8億枚は、新品のまま破棄。配布資料より抜粋)

CCFのホームページは、こちら


 

2021/06/28

軽井沢の新渡戸別荘跡地

 2021年6月25日(土曜日)

軽井沢の旧軽井沢近く、新渡戸通り沿いにある新渡戸別荘跡地。

長年、空き地になっていましたが、近年、トラスコ中山株式会社様の保養地に

なったと聞いていましたので、行ってみました。


新渡戸通りから新しくできた建物を見ると、そこには、新渡戸博士の記念碑が

設置されています。






軽井沢らしい趣のある界隈で、苔むした低い石垣、通り沿いの木々はそのまま。




10年前の様子は、こちら

2021/06/21

最短の在任、最大の業績 『石橋湛山の65日』保阪正康・著

2021年6月21日

ノンフィクション作家で「昭和史を語り継ぐ会」を主宰されている

保阪正康氏の近刊を拝読しました。

戦後の一時期、首相を務めた石橋湛山は、新渡戸稲造の母校・札幌農学校

(いまの北海道大学)の第一期生・大島正健先生から影響を受けました。

山梨の第一中学校(いまの県立甲府第一高等学校)在学中、

校長先生として赴任してきたのが大島先生。

札幌農学校の流れは、 大島校長から石橋湛山にも受け継がれたのではないか。

山梨には、石橋湛山による書「Boys, be ambitious!」が残っています。

石橋湛山と大島正健についての過去の記事は、こちら


著者は、『石橋湛山の65日』の中で、現在のコロナ禍を生きる私たちの状況を、

「民主主義の体制が崩壊して、自由が制限された社会で生きていることを

想像しただけでも息が詰まる。こういう時代が来ないように、日々、

現在のコロナ禍の社会から何がしかの教訓を学ばなければならないと、私は思う」。

と述べ、関東大震災後の石橋首相の記事を引用している。↓


(ここからは『石橋湛山の65日』p.295~ 引用)   


『東洋経済新報』(大正12年10月1日号)の社説

「此経験を科学化せよ」

とにかく日本の組織は、こういう大きな災難に驚くほど状況判断を間違えてしまう

と指摘した上で、次のように書くのである。

「我輩の見る所に依れば、今の我国民は、全体として、

斯かる場合に甚だ頼もしからざる国民である。(中略)畢竟(ひっきょう=結局)、

日本国民は、わっと騒ぎ立てることは得意だが、落ち着いて善く考え、

共同して静かに秩序を立て、地味の仕事をすることには不適任である。(中略)

我国は、今回の災害に依り、あらゆる方面に人為の更に大に改良すべきものを発見する。

と同時に此災害は、随分苦き経験であったが、併し之を善用すれば、所謂、

禍を転じて福となすの道は多いのである」

 この経験を「科学化(データの整理や予防策など)」して将来に残さなければ

ならない、とも強調している。さらに「亡びゆく国民なら知らぬこと、いやしくも

伸びる力を持つ国民が、これくらいの災害で意気阻喪しては貯まるものではない」

とも断言している。

・・・(中略)

国家がコロナ禍に対応し、個人が人生観を懸けてコロナ禍と向き合っている時、

石橋の思想や言論がもっとも価値があり、頼りがいがあると私は考えている。


本書でも繰り返しているが、石橋は首相としての在任がわずか六十五日である。

近代日本史の上では最短に近い。しかし私は、「最短の在任、最大の業績」

思っている。

・・・(中略)

石橋は、首相という存在は日頃から思想や哲学を明確にしておくことの重要性

教えた。首相が何を目指し、どのような方向に、この国を率いていくのか、

そのことを国民は知る権利がある。それは首相を目指す政治家が日頃から信念を

発信する姿勢を持たなければならないということだ。

石橋を範とせよ、と強調しておきたいのである。


(巻末の石橋湛山略年譜より主に鎌倉関連を抜粋)

明治17(1884)年、東京都生まれ

明治34(1901)年、大島生健が山梨県立第一中学校の校長として赴任

明治35,36年、旧制第一高等学校の受験に不合格

      <筆者注:新渡戸は、のちに同校校長を務める。

           岩波茂雄は、明治34~37年、旧制一高に在学>

明治37(1904)年、早稲田大学文学部哲学科に入学

大正8(1919)年、鎌倉町海岸通りに転居

大正11(1922)年、鎌倉町大町蔵屋敷705番地に転居

        <筆者注:現在の御成町20番地。御成小学校とその付近>

大正12(1923)年、関東大震災により居宅被災

         鎌倉臨時復興委員会委員を委嘱

大正13(1924)年、湘南倶楽部(信用購買利用組合)の設立に参画し、

         常務理事に選任。

         鎌倉町長会議員選挙において第三位で当選。

昭和3(1928)年、任期満了で辞任。

昭和16(1941)年、東洋経済新社の代表取締社長に就任

昭和21(1946)年、衆議院選挙で落選、第一次吉田内閣で大蔵大臣に就任

昭和22(1947)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

         公職追放令、新宿区下落合4-1712に転居

昭和26(1951)年、公職追放解除

昭和27(1952)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

昭和29(1954)年、第一次鳩山内閣で通商産業大臣

昭和31(1956)年、石橋湛山内閣成立

昭和32(1957)年、石橋湛山内閣総辞職

昭和33(1958)年、衆議院選挙で当選(静岡県第二区)

昭和36(1961)年、日中米ソ平和同盟案を発表

昭和48(1973)年、自宅にて死去。88歳

(引用終わり)


このほか、『石橋湛山の65日』には、興味深い、政治の舞台裏も描かれています。

著者の保阪氏も繰り返し述べていますが、もし石橋首相が病に倒れることなく

続投していたら・・・。

いまにつながる政治体制、さらには、国民の政治に対する姿勢までもが

違っていたのではないだろうか。そんなことも考えさせられました。




2021/03/30

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

 2021月3月 30日

例年になく早く満開を迎えた東京の桜が、いまは盛んに散っていきます。

後藤新平伯は、昭和4年4月13日に亡くなりました。

手元の資料の中に、昭和四年に雑誌「朝日」に掲載された、

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

の記事があります。その記事の冒頭には、

「惜しみなく散る桜とともに」逝ったとあります。享年74歳。

後藤の逝去を受けて、新渡戸が語った話によると、

後藤新平が新渡戸稲造に台湾での仕事を要請したのは、

「当時の農商務大臣であった曽根さんを通じて・・・」とありますが、

「いまだに私にわからないのは、あの遠いアメリカにいた私をどうしてわざわざ

呼んだかである。これだけはいまだにわからないのである」としています。

本多静六博士の自伝によれば、本多が推薦したとあります。詳しくはこちらへ

新渡戸は、本多の推薦があったことを、ご存知だったのでしょうか。

いまとなっては、確かめようがありません。


この記事によると、後藤新平の思い出話は、尽きることがなかったようです。

新渡戸によると、後藤伯は、「よく眠り、よく食った人」のようです。

最後の二人の会食は、貴族院の食堂でした。同じ料理を注文して「実にうまそうに

食べた」後、後藤さんは、いつの間にか追加注文して、二人前の料理をペロリと

平らげて平気だったそうです。

「あの時の後藤さんの顔が、いまでもはっきりと眼の前にちらつく。親しみのある、

あのくすぐったそうな、温情のある、あの顔が」

4月13日 麻布桜田町にて 大澤 栄一

雑誌「朝日」第1号第6号(昭和4年6月)博文館


2021/03/16

新渡戸稲造を後藤新平に引き合わせた人物

 2021年3月16日

新渡戸稲造博士は、アメリカで『武士道』を出版した翌年、

後藤新平伯の熱心な説得を受けて、台湾に赴任しました。

1901(明治34)年、後藤新平が台湾総督府の民政長官だった時のことです。

共に岩手出身の二人ですが、それまで面識はなかったようです。

(その後、後藤、新渡戸の二人は親しくなります)

今回、本多静六博士の自伝を読んでいて、本多がドイツ留学時代から

後藤新平を知っていて交流があったこと、そして、新渡戸もまた、

本多の友人であったことがわかりました。さらに、その自伝には

次のように書かれています。

「後藤は、台湾の民政長官となるや、私に顧問として台湾へ出掛け、

いろいろ行政を手伝ってくれぬかと持ち込んで来た。

当時、私は多少の金もでき、仕事も忙しく、また学者としてそうした方面に

手をのばすのもいたずらに妬みの敵を多くするばかり、いわゆる明哲保身の術

ではないと考えたので、友人の新渡戸稲造、河合鈰太郎(かわいしたろう)

両君を推薦して、自分は両君にできない公園計画だけを引き受けることにした」

『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六 実業之日本社 2016年 P.216


新渡戸は、台湾総督府の糖務局長として台湾の砂糖産業の発展を担い、

本多は、台湾の北投や亀山一帯の温泉、台北や台南などの公園を設計、

河合は、阿里山鉄道の建設に尽力、「阿里山開発の父」と呼ばれました。





2021/03/02

安倍能成(あべよししげ)先生のこと

 2021年3月1日

安倍能成先生は、新渡戸先生の一高の教え子で、のちに一高校長や

学習院院長を歴任しています。

一高のリベラルな思想が戦中、戦後にも引き継がれていたことがわかる

エピソードとして、宇沢弘文先生のご著書より抜粋して紹介します。

↓ 

『人間の経済』宇沢弘文 著 新潮新書 2017年4月

p.84

三 教育とリベラリズム

安倍能成先生のこと

社会的共通資本としての教育について考えるとき、

私にとって忘れられない光景があります。

東京大空襲後の1945年、旧制一高に入学した年の出来事でした。

・・・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つと同時に、

過酷な占領政策が始まります。あたり一面は焼け野原と化していて、

占領軍は、めぼしい建物はみな接収して占領のために使うことにしたのです。

たしか9月半ば、軍隊の施設とみなされていた一高にもジープに乗った占領軍の

将校団が接収にやってきました。当時の一高にも校長は安倍能成先生で、

戦前の日本では最も優れたカント哲学者で、すぐれたリベラリストでも

ありました。ずっと後になって知ったことですが、安倍先生は、戦争中から、

近衛文麿を中心とした敗戦処理を考えるグループの一員だったそうです。

(筆者注:近衛文麿も新渡戸校長時代の一高の生徒)

その安倍先生は占領軍の将校たちを前にして、英語できっぱりとおっしゃいました。

「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。

ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的の

ためには使わせない」

リベラルアーツというのは、教育の仕上げの段階で重要な役割を果たすものです。

つまり、学問や芸術、知識であれ文学であれ、専門を問わず、先祖が残した貴重な

遺産をひたすら学び吸収し、同時にそれらを次の世代へ受け渡すという営為を

する場所だということです。一人ひとりの学生の人間的な成長を図るとともに、

それを時代へと継承する役割がある。安倍先生はそのことを繰り返し、それを聞いた

占領軍の将校たちは、黙ってそのまま帰っていきました。

占領軍に楯突くなど逮捕されて当たり前、という時代にきわめて珍しい

エピソードのはずなのに、新聞はもちろん一高の記録にもいっさい残っていません。

しかし、その場に居合わせた私は心の奥底で、われわれは先祖が残した貴重な遺産を

できる限り吸収して次世代に残すという仕事をしている、

それが大学あるいは学校なのだという思いを強くしました。いまになって考えると

私の心の中で「社会的共通資本としての教育」という考え方が芽生えた原点

だったように思うのです。