・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2021/03/30

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

 2021月3月 30日

例年になく早く満開を迎えた東京の桜が、いまは盛んに散っていきます。

後藤新平伯は、昭和4年4月13日に亡くなりました。

手元の資料の中に、昭和四年に雑誌「朝日」に掲載された、

「情の人 後藤新平」新渡戸稲造博士は語る

の記事があります。その記事の冒頭には、

「惜しみなく散る桜とともに」逝ったとあります。享年74歳。

後藤の逝去を受けて、新渡戸が語った話によると、

後藤新平が新渡戸稲造に台湾での仕事を要請したのは、

「当時の農商務大臣であった曽根さんを通じて・・・」とありますが、

「いまだに私にわからないのは、あの遠いアメリカにいた私をどうしてわざわざ

呼んだかである。これだけはいまだにわからないのである」としています。

本多静六博士の自伝によれば、本多が推薦したとあります。詳しくはこちらへ

新渡戸は、本多の推薦があったことを、ご存知だったのでしょうか。

いまとなっては、確かめようがありません。


この記事によると、後藤新平の思い出話は、尽きることがなかったようです。

新渡戸によると、後藤伯は、「よく眠り、よく食った人」のようです。

最後の二人の会食は、貴族院の食堂でした。同じ料理を注文して「実にうまそうに

食べた」後、後藤さんは、いつの間にか追加注文して、二人前の料理をペロリと

平らげて平気だったそうです。

「あの時の後藤さんの顔が、いまでもはっきりと眼の前にちらつく。親しみのある、

あのくすぐったそうな、温情のある、あの顔が」

4月13日 麻布桜田町にて 大澤 栄一

雑誌「朝日」第1号第6号(昭和4年6月)博文館


2021/03/16

新渡戸稲造を後藤新平に引き合わせた人物

 2021年3月16日

新渡戸稲造博士は、アメリカで『武士道』を出版した翌年、

後藤新平伯の熱心な説得を受けて、台湾に赴任しました。

1901(明治34)年、後藤新平が台湾総督府の民政長官だった時のことです。

共に岩手出身の二人ですが、それまで面識はなかったようです。

(その後、後藤、新渡戸の二人は親しくなります)

今回、本多静六博士の自伝を読んでいて、本多がドイツ留学時代から

後藤新平を知っていて交流があったこと、そして、新渡戸もまた、

本多の友人であったことがわかりました。さらに、その自伝には

次のように書かれています。

「後藤は、台湾の民政長官となるや、私に顧問として台湾へ出掛け、

いろいろ行政を手伝ってくれぬかと持ち込んで来た。

当時、私は多少の金もでき、仕事も忙しく、また学者としてそうした方面に

手をのばすのもいたずらに妬みの敵を多くするばかり、いわゆる明哲保身の術

ではないと考えたので、友人の新渡戸稲造、河合鈰太郎(かわいしたろう)

両君を推薦して、自分は両君にできない公園計画だけを引き受けることにした」

『本多静六自伝 体験八十五年』本多静六 実業之日本社 2016年 P.216


新渡戸は、台湾総督府の糖務局長として台湾の砂糖産業の発展を担い、

本多は、台湾の北投や亀山一帯の温泉、台北や台南などの公園を設計、

河合は、阿里山鉄道の建設に尽力、「阿里山開発の父」と呼ばれました。





2021/03/02

安倍能成(あべよししげ)先生のこと

 2021年3月1日

安倍能成先生は、新渡戸先生の一高の教え子で、のちに一高校長や

学習院院長を歴任しています。

一高のリベラルな思想が戦中、戦後にも引き継がれていたことがわかる

エピソードとして、宇沢弘文先生のご著書より抜粋して紹介します。

↓ 

『人間の経済』宇沢弘文 著 新潮新書 2017年4月

p.84

三 教育とリベラリズム

安倍能成先生のこと

社会的共通資本としての教育について考えるとき、

私にとって忘れられない光景があります。

東京大空襲後の1945年、旧制一高に入学した年の出来事でした。

・・・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つと同時に、

過酷な占領政策が始まります。あたり一面は焼け野原と化していて、

占領軍は、めぼしい建物はみな接収して占領のために使うことにしたのです。

たしか9月半ば、軍隊の施設とみなされていた一高にもジープに乗った占領軍の

将校団が接収にやってきました。当時の一高にも校長は安倍能成先生で、

戦前の日本では最も優れたカント哲学者で、すぐれたリベラリストでも

ありました。ずっと後になって知ったことですが、安倍先生は、戦争中から、

近衛文麿を中心とした敗戦処理を考えるグループの一員だったそうです。

(筆者注:近衛文麿も新渡戸校長時代の一高の生徒)

その安倍先生は占領軍の将校たちを前にして、英語できっぱりとおっしゃいました。

「この一高は、Liberal Arts(リベラルアーツ)のCollege(カレッジ)です。

ここはsacred place(聖なる場所)であり、占領というvulgar(世俗的)な目的の

ためには使わせない」

リベラルアーツというのは、教育の仕上げの段階で重要な役割を果たすものです。

つまり、学問や芸術、知識であれ文学であれ、専門を問わず、先祖が残した貴重な

遺産をひたすら学び吸収し、同時にそれらを次の世代へ受け渡すという営為を

する場所だということです。一人ひとりの学生の人間的な成長を図るとともに、

それを時代へと継承する役割がある。安倍先生はそのことを繰り返し、それを聞いた

占領軍の将校たちは、黙ってそのまま帰っていきました。

占領軍に楯突くなど逮捕されて当たり前、という時代にきわめて珍しい

エピソードのはずなのに、新聞はもちろん一高の記録にもいっさい残っていません。

しかし、その場に居合わせた私は心の奥底で、われわれは先祖が残した貴重な遺産を

できる限り吸収して次世代に残すという仕事をしている、

それが大学あるいは学校なのだという思いを強くしました。いまになって考えると

私の心の中で「社会的共通資本としての教育」という考え方が芽生えた原点

だったように思うのです。