・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2018/04/04

鈴木貫太郎と妻タカ夫人

『武士道』のその後
(『新渡戸稲造ものがたり』p.225より下記を引用)

第二次世界大戦中、アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト
大統領が亡くなると、鈴木貫太郎首相は、アメリカと戦争中にも
かかわらず、偉大な指導者を失ったアメリカ国民に対し、
日本を代表してすぐにお悔やみの電報を送り、
その全文がアメリカの新聞に載りました。
ドイツの作家で、当時アメリカに亡命していたトーマス・マンは、
「ドイツでは、みんなが万歳、万歳と叫んでいるのに、
 日本はお悔やみの言葉を送ってきた。
 やはり、日本はサムライの国だ」
と語ったと言われています。敵の国に対するこのような態度に
よって、「武士道」の精神が国境を越えて、世界の人々に
感動を与えました。

(『新渡戸稲造ものがたり』第十三章 没後 稲造が遺したもの)
(引用終わり)

終戦時の難しい時期に首相を務めた鈴木貫太郎の妻たか夫人の父は、
新渡戸稲造と札幌農学校で同期生の足立元太郎です。

・鈴木たか
1883(明治16)年、札幌生まれ。戸籍名は「たか」。
(鈴木貫太郎は、「孝子」などと記述している場合がある)
父、足立元太郎は、札幌農学校卒業、農商務省横浜生糸研究所技師。
東京女子高等師範(いまのお茶の水女子大学)で幼児保育を学び、
同附属幼稚園の教師。
明治38年から大正4年までの10年間、裕仁(昭和天皇 4歳〜)、
秩父宮(3歳〜)の養育係。
1915(大正4)年、海軍次官鈴木貫太郎と結婚。

たかが、幼稚園の教師だった時の教え子の祖父に菊池大麓(だいろく)
がいました。
菊池は、学習院院長、東京帝国大学総長、文部大臣、
枢密顧問官などを歴任、皇室と強いつながりがあり、その推薦で、
たかは、皇室の養育係となりました。

子どもの頃の昭和天皇と一緒に遊び、昭和天皇の誕生日には、
毎年呼ばれました。

1978(昭和53)年十二月、昭和天皇は、須崎御用邸での記者会見で、
「たかとは、本当に私の母親と同じように親しくしました。・・・」
と話されています。

鈴木貫太郎は、太平洋戦争の始まる前の1936(昭和11)年2月に起きた
二・二六事件で襲撃され、最後の一撃を制止させたのが、
たか夫人です。(当時、鈴木貫太郎は侍従長)
(この事件の前夜、鈴木貫太郎夫妻や斎藤實夫妻らは、アメリカのグルー大使に
招かれ、外出していました)
事件が起こったのは、その翌日の早朝のことでした。
鈴木貫太郎がピストルで何発か撃たれて倒れ、「トドメ、トドメ」の声が上がると、
銃剣とピストルを突きつけられていた夫人が、
「とどめはどうかやめていただきたい」
と叫び、入ってきた指揮官の安藤輝三(歩兵第三連隊の将校)が、
「トドメは残酷だからやめろ」
と命じました。かつて、秩父宮の直接の部下だった安藤は、
皇子たちの養育係だった、たか夫人の存在を知っていたようです。
指揮官は、たか夫人に、
「奥さんのことは、かねてお話に聞いておりました。
 まことにお気の毒なことをいたしました。
 ・・・ひまが(時間が)ありませんからこれで引き揚げます」
と言い残して、立ち去りました。
出血多量の重症を救った医師の一人、塩田広重東大教授を呼んだと
されているのが、町村金五(宮内大臣秘書官)。
町村の父、町村金弥もまた、足立元太郎(たか夫人の父)と札幌農学校で
同期でした。

鈴木首相夫妻は、二人とも昭和天皇に近い存在で、陛下から信頼されて
いました。
1945(昭和20)年、首相に任命された鈴木は、辞退すると、天皇陛下から
「鈴木の心境はよくわかる。しかしこの重大な時にあたってもう他に人は
いない。頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
と直接言われたことから、高齢(77歳)にもかかわらず
引き受けました。たか夫人は、夫の覚悟を知ります。

たか夫人は、嫁入りの時、日本刀を持参、
そして、戦後、鈴木首相の故郷の関町に隠居して、地域の農業振興を
支援しました。たか自身も酪農の知識があったようです。
札幌農学校で学んだ父、そして出身地北海道の影響でしょうか・・・。

鈴木貫太郎記念館の入り口にある「為萬世開太平」

鈴木貫太郎 肖像画

記念館の内部

鈴木貫太郎記念館 入り口付近

鈴木の父、由哲の教えは、
「人間は怒るものではないよ、怒るのは、自分の根性がたりないからだ。
 怒ってすることは、成功しない」。
母、きよの教えは、
「絶えず心を磨き、学問に精励して立派な人間にならねばならぬ。
 これが親に対するなによりの孝行である」。

鈴木の教訓は、
『正直に 腹を立てずに たゆまず励め』

鈴木没後も、たか夫人は度々この教訓を書き残しました。
二・二六事件で命を狙われ、終戦に反対する勢力に家を焼かれた
鈴木夫妻が、それでも自らの境遇を受け入れ、祖国や天皇陛下への
忠誠心を常に強く持ち続けた生涯を思うと、
両親の教えと、この教訓が重く響きます。

参考資料:『妻と家族のみが知る宰相』保阪正康 毎日新聞社
     『昭和天皇の親代わり 鈴木貫太郎とたか夫人』若林滋 中西出版
      カルチャーラジオ NHKラジオ アーカイブス
      「声でつづる昭和人物史 鈴木貫太郎の妻たか夫人」

鈴木貫太郎記念館 訪問日 2018年1月7日(写真撮影)

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