・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2015/04/08

台湾 日本人学校を訪問

2015年3月16日(月)13時 台湾の日本人学校

台北市内や近郊に住む日本人の子どもたちが多く通っている
日本人学校(Taipei Japanese School)を訪ねました。
台北の中心からMRT(電車)淡水信義線で15分程度、
「芝山(Zinshan)」駅から歩いて20分ほどのところです。
通りを隔てた隣には、アメリカン・スクールがあります。


表札は、李登輝元総統の筆を元にしたもの。
守衛の方に、面会の約束があることを伝え、校内に入れていただきました。




応接室で、校長先生と教頭先生にお目にかかりました。
この日本人学校には、台北在住の日本人の子どものうち約80%が
通っているそうです。
(残りの約20%は、現地校やアメリカン・スクールに登校。)

小学生と中学生の9学年、820名もの生徒が在校しています。
在校期間は、平均して3年から5,6年間。
保護者の転勤による転入があるそうです。

日本の文部科学省から派遣されている教職員は現在27名、
3年周期で異動します。
台湾で現地採用されている職員は、28名。




校長先生、教頭先生のお話によりますと、
子どもたちは、文部科学省で定められている教育課程に加え、
英語、中国語を学びます。
台湾については、「台湾を学ぶ」という総合学習の中で学ぶことに
なっているそうです。
小学校6年生で、八田輿一博士について学び、
修学旅行で八田記念公園を訪れます。

2013年5月24日には、李登輝元総統が、同校にて講演をされました。
後藤新平伯についてなどを話されたようです。
この時の揮毫を元に正門の表札が作成されました。





『新渡戸稲造ものがたり 真の国際人 江戸、明治、大正、昭和を
かけぬける』を同校に寄贈させていただきました。
日本の先人たちが台湾でどのような功績を残されたのか、
台湾にご縁のある日本の子どもたちが、その一端を知り、また、
先人の生き方から、「真の国際人」について考えるきっかけにして
いただければ、と願っています。

同書は、図書室に置いてくださるそうです。
お役に立てていただければ幸いです。

台北日本人学校 図書室

ちょうど春休み中で、子どもたちの姿を見ることはできませんでしたが、
教頭先生が、図書室など校内をご案内くださいました。




春休み期間中にもかかわらず、お迎えくださりありがとうございました。
亀山佳久校長先生、居原田晃教頭先生、
両先生にあらためて御礼を申し上げます。

2015/04/03

台湾 磯永吉と末永仁 二人の日本人農業技師

2015年3月14日(土) 国立台湾大学 農業試験場「磯 永吉 小屋」

台湾のお米は、大変おいしいのですが、
そのお米「蓬萊米(ほうらいまい)」について、
台湾大学の農業試験場内にある「磯 永吉(いそ えいきち) 小屋」
で紹介されています。





それまでの在来米を改良し、日本人の好みに合った「蓬萊米」
の栽培を可能にしたのが、磯 永吉博士(1886年〜1972年)と、
末永 仁(すえなが めぐむ)博士(1885年〜1939年)です。

二期作が可能な台湾で、良質なお米が取れるようになり、
内地(日本の本土)向けの生産が増えて、台湾の経済発展に
つながりました。

磯博士は、北海道帝国大学(旧札幌農学校、現在の北海道大学)の
農学博士。新渡戸稲造博士の後輩にあたります。

「磯 永吉 小屋」には、蓬萊米の父、磯 永吉博士と
蓬萊米の母、末永 仁博士の銅像とともに、
当時の実験器具や資料などが展示され、二人の功績が顕彰されています。










このお二人の胸像を制作されたのは、許文龍氏です。
収集した写真を元に、自ら粘土で制作し、鋳型を起こして、
銅像に仕上げたそうです。
その思いについて、許文龍氏は、次のように述べています。
(館内の展示資料より)

〈 磯 永吉、末永 仁、両人の胸像を造るに想うこと

台湾における稲作の発展において、磯永吉博士は「蓬萊米の父」、
末永仁農事試験場長は「蓬萊米の母」と尊敬をもってこう呼ばれています。

昔、まだ貧しい時代には食卓で蓬萊米を口にすることは本当に贅沢なこと
でした。私たちは、今の幸せの根源を忘れず、お米を口にするたびに
その恩徳に感謝すべきではないでしょうか。

以前、私はシンガポールに住んでいたことがありますが、
シンガポールでは、その土地に功績を残した英国人を讃え、
その名を通りの名前として残し、あるいは、銅像を建てて
後世にその功績を伝えています。インドにおいてでさえも
英国人の銅像をきちんと残しています。私は、その土地に功績のあった
人々に対し、国籍を問わず敬意をもってその功績を讃え、記念すべきだと
思っています。(以下、略) 許文龍 2012.4.19 〉

許文龍氏は、日本の統治時代の台南に生まれ、日本の教育を受けて
育ちました。
許氏は、常に公平な視点で日本の統治について評価されています。
また、台湾を代表する実業家であり、病院や博物館を設立するなど
積極的に社会貢献をおこなっていらっしゃいます。

許文龍氏訪問についての記事は、こちらへ。

台湾ビールにも、蓬萊米が原料として使われています。

すっきりおいしい台湾ビール
現在の国立台湾大学は、
1928(昭和3)年、日本の第七番目の帝国大学として、設立されました。
現在の大阪大学や名古屋大学よりも前のことです。
1945年、日本の敗戦により、日本の統治時代が終わると、
中華民国政府によって、国立台湾大学となり、現在にいたっています。









2015/04/02

台湾 児玉源太郎と後藤新平の銅像

2015年3月14日(土)国立台湾博物館(台北)

台北の国立台湾博物館(National Taiwan Museum)を訪問しました。
この博物館は、1905年、「児玉総督 後藤民政長官 記念博物館」として
建設されました。
新渡戸稲造博士が、児玉源太郎総督と後藤新平民政長官の依頼で
台湾の糖業発展に尽くしたのが、1901年〜1903年ごろですので、
ちょうど同時代です。
現在の建物は、1915年の建造で、台湾国内で最も歴史ある建物の一つです。
完成当時の建物の写真は、こちら


正面玄関を入ると、大きなエントランスロビーがあり、天井には、
美しいステンドグラスが見えます。
児玉家と後藤家の家紋をデザインしたステンドグラスとのことでした。







このエントランスロビーの両側には、かつて、児玉総督と後藤民政長官の像が
それぞれ設置されていたそうです。
現在は、代わりに大壺が飾られています。



日本の統治時代が終わると、この二人の像は、ここから撤去されました。
長い年月を経て、現在、同館の三階に再び展示されています。
通常は非公開の銅像を特別に見学させていただきました。

向かって左に児玉総督、右に後藤民政長官の像

児玉源太郎の像



後藤新平の像

制作は、彫刻家の新海竹太郎(1868年〜1927年)。
忠実に表現された作品で、後藤新平伯のトレードマーク「鼻眼鏡」の跡も
確認できます。

1900年1月、アメリカで『武士道』を出版したばかりの新渡戸博士は、
児玉総督と後藤新平民政長官の熱心な依頼を受け、
1901年、両氏の下で働き、台湾の農業発展に尽くす決意をし、
後藤新平と運命的な出会いをします。新渡戸博士、39歳。

(『新渡戸稲造ものがたり』p.114〜p.124 
  第八章 台湾の砂糖産業と植民地政策)

初めて海外勤務を経験し、児玉総督や後藤民政長官から多くを学び、
自分の専門とする農学の分野で大きな実績を残したことは、
まだ若かった新渡戸博士にとって、大きなステップになったと思われます。

同郷の後藤新平伯とは、このあと、生涯を通じて、師弟、または、
兄弟のような親しい関係が続き、後藤伯の外遊にも同行します。
そして、数年後、後藤伯とパリを訪れていた時に、国際連盟の事務次長の
就任が決まるのです。

この台湾時代が大きな転機になったといえるのではないでしょうか。


同館の初代館長、川上 瀧彌(かわかみ たきや 1971年〜1915年)も
札幌農学校の出身で、北海道のマリモ研究で知られる植物学者。
開館に向けて奔走し、開館の翌日に若くして病死しています。

同館の一階には、台湾の少数民族についての興味深い展示もあります。


台湾 八田輿一技師と恩師の広井勇博士

2015年3月10日 八田輿一(はった よいち)記念公園(台湾)

台南の奇美博物館をあとにして、
八田輿一記念公園(台南市官田区)に向かいました。


八田輿一技師(1886年〜1942年)は、日本が台湾を統治していた時代
(1895年〜1945年の50年間)、台湾の発展に貢献した日本人の一人。

八田輿一夫妻

八田輿一技師は、東京帝国大学工学科土木科を卒業すると同時に
台湾に渡り、台湾総督府の土木技師として勤務されました。
当時の台湾は、現在のようなインフラが整備されていない時代でした。
数々の水利事業を手がけた八田技師は、後に烏山頭(うざんとう)ダムの
建設地点となる土地を発見します。
ここに大規模な灌漑/排水工事をおこない、灌漑/塩害の問題を解決する
ことを提案。工事が決まると、業務全般の責任者となりました。

この堰堤工事は、当時、東洋一の大規模なもので、官僚によって
計画されましたが、施行/運営は、民間形式が取られ、
八田技師は、建設工事に専念するため、総督府の職員を辞任しました。
それだけ真摯にこの事業にかける強い思いがあったのです。

堰堤の建造は、「セミ・ハイドロック工法」により、コンクリートを
中芯部の一部に使うだけで、大部分は、玉石、砂利などを混合した
土壌を使用するなど、特別な工法によるものでした。

途中、関東大震災による補助金の削減など、大変な苦労を乗り越え、
見事なダムが完成し、現在に続く、農業の発展につながったのです。

現在も美しく広大な貯水湖(2015年3月10日 撮影)
十年の歳月と巨額の工事費(当時の約五千四百万円)をかけて、1930(昭和5)年、
大規模な烏山頭ダム(通称:八田ダム)の貯水湖が完成しました。

ほかに建設された同時代の大規模ダムが、土砂の堆積で使えなくなっている中、
この貯水湖は、砂防対策が取られていたため、現在も、豊かな水量を保って
いるのだそうです。
烏山頭ダムの建設で、嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯になりました。

やがて戦争が始まり、八田技師は、大洋丸に乗船中の1942(昭和17)年
5月8日、アメリカの潜水艦に撃沈され、亡くなりました。
57歳でした。

遺骸は、付近で操業中だった山口県からの漁船の網にかかり収容され、
故郷で火葬された後、遺骨は、台湾に残されていた遺族の元に送られました。

戦争が激化すると、夫人の外代樹さんは烏山頭を疎開地に選んで、
子どもたちと疎開。
敗戦後、台湾の日本人は台湾から去らなければならなくなり、
ご子息が学徒動員から戻ると、夫人は、夫が築いた烏山頭ダムの
送水口から身を投げて、自らの生涯を閉じたのです。45歳でした。


送水口
現在、送水口の近くに「八田技師記念室」があり、展示によって、
その功績が紹介されています。



八田技師の銅像が、記念公園内の高台にあります。
ダム完成後、1931(昭和6)年7月に設置されました。
第二次世界大戦の末期に、金属回収されましたが、終戦直後、
倉庫で発見され、1981(昭和56)年1月1日、再び元の位置に戻されました。

八田輿一技師の銅像と八田夫妻のお墓(後方)



八田技師が亡くなった命日には追悼式、そして、
この大事業がおこなわれた十年間に事故や病気で命を落とした
従業員やその家族の慰霊祭が、いまでもおこなわれているそうです。

記念公園内では、八田宅(復元)も公開されています。




八田技師の家族写真


八田技師は、広井勇博士の教え子の一人です。
広井勇博士(1962年〜1928年)は、
新渡戸稲造博士と札幌農学校で同期生、同じ歳です。
幼い時に父が亡くなり、その後、「東京に出て勉強したい」と
わずか10歳で家族に懇願、札幌農学校を卒業すると、
私費でアメリカに留学するなど、新渡戸博士と境遇が似ています。

新渡戸と広井の両博士は、アメリカ留学中に、先輩 佐藤昌介の計らいで、
札幌農学校の助教に任命され、ドイツへ官費留学しています。
アメリカでもドイツでも交流は続き、新渡戸稲造青年が、
アメリカ人女性メアリーとの結婚に悩み相談した時、
広井は、佐伯理一郎とともに、その国際結婚に賛成しています。
新渡戸博士は農学、広井博士は工学の専門家になり、
留学後は、母校 札幌農学校の教育にも尽力しました。

広井勇博士は、小樽港の築港に従事し、いまでも使われている
長大なコンクリート製の防波堤を完成させました。

その後、東京帝国大学の教授になり、八田輿一、
青山士(あおやまあきら=パナマ運河建設に関わった唯一の日本人技師)ら
優秀な人材を育てました。

学生時代の八田輿一と当時の東京帝国大学工学部(展示資料より)

「高潔無私」の人、広井勇。その愛弟子、八田技師もまた、
人々のためにその生涯を捧げたのです。

尚、八田輿一技師は、映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」にも
登場しています。映画についての記事は、こちらへ。

参考:
八田記念公園配布資料/展示
『日本のオールターナティブ』藤田正一 著 (銀の鈴社 2013年)
『新渡戸稲造事典』佐藤全弘・藤井茂 共著 (教文館 2013年)
『新渡戸稲造ものがたり』 (銀の鈴社 2012 年)



2015/03/31

台湾 許文龍氏を訪ねて

2015年3月10日(火) 奇美博物館(台南)を訪問

3月8日(日)に羽田空港から台北(松山空港)に飛行機で移動し、
新幹線で嘉義(かぎ)、映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」の
舞台となった地、にやってきました。

そして、3月10日(火)、さらに南下して台南の奇美博物館に車で
向かいました。高速道路が台南に近づくと、右手に大きな建物が
見えてきました。「CHIMEI」と大きく表示されています。
許文龍氏が起業された奇美実業です。

しばらくすると、広大な敷地の中に欧米風の大きな建物、
今年一月に開館した奇美博物館が見えてきました。
やっと駐車場に到着しましたが、建物ははるか向こう。
博物館前は、まるでタージマハール(インド)の前庭のようです。

奇美博物館の正面。博物館の建物がはるか向こうに見える

誘導に従って、さらにぐるっと敷地の外をまわり、
やっと建物の側に車を横付けすることができました。
顧問、副館長、元館長の皆様が外までお出迎えくださり、
ホッとしました。

とにかく大きな博物館で、とても私設の博物館とは思えないほどの
充実したコレクションに圧倒されました。

一時間ほど館内をご案内いただき、その後、
許文龍氏とお会いすることができました。

許文龍氏は、1928(昭和3)年のお生まれ。
日本の統治時代、台南で生まれ育ちました。
1959(昭和34)年、奇美実業を創業、世界有数の化学工業グループに
発展させました。ユニークな経営手法でも知られています。
そして、ご自身のお言葉によれば、創業以来「50年」もの時をかけて、
実現したのが、この博物館の創設です。

大志を抱き、そしてついに実現させたのです。

館内で一時間ほど、許氏とお話させていただき、大変光栄でした。
許氏からは、「なぜ新渡戸稲造の伝記を書いたのですか」などの
質問を受けました。
そして、部屋に飾られている「旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)」
(平成二十五年)、「拓殖大学名誉博士号」(平成二十七年)、
ご自身の作品(絵など)、写真を拝見しました。

許文龍氏は、日本の統治時代に台湾の発展に尽くした日本人たちの
功績に光をあてる活動もされています。

新渡戸稲造博士たちの胸像を、ご自身で制作、またはご発注され、
各地に寄贈していらっしゃいます。




許文龍氏からいただいた本『日本人、台湾を拓く。』(まどか出版)には、
これらの胸像について、書かれていらっしゃいます。

その後、ミュージアムレストランで昼食をいただき、
名残惜しい中、次の目的地、八田記念公園に向かいました。

このような素晴らしい機会を本当にありがとうございました。
許文龍氏、奇美実業と奇美博物館のご関係者のみなさまに
心より御礼を申し上げます。

奇美博物館(Chimei Museum)のホームページ(英語)は、
こちらへ。

2015/02/19

『李登輝より日本へ 贈る言葉』

台湾訪問を前に、李登輝(り・とうき、Lee Teng-hui)氏のご著書、
『李登輝より日本へ 贈る言葉』(2014年 ウェッジ)を読みました。



李登輝氏には、『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』など
多くのご著書があります。
ご自身の人生がそのまま祖国台湾の現代史に重なり、台湾総統として
長期にわたり祖国に尽くし、いまなお台湾、日本、アジアについて、
幅広いご見識とご経験から論じておられます。

『李登輝より日本へ 贈る言葉』の中では、
後藤新平伯、新渡戸稲造博士、八田輿一技師など、
台湾における日本人の功績についても触れています。

いままであまり知ることのなかった台湾の歴史と、いまなお続く
困難な状況、そして、日本に対する進言など、大変勉強になる内容
です。

日本の若者や子どもたちにぜひ新渡戸稲造博士の生涯を紹介したいと
伝記『新渡戸稲造ものがたり』を出版した自分の思いを
あらためて確認しました。
今後の台湾と日本の関係、そして、日本のあるべき姿について
次世代に向けて自分ができることを一つ一つ実現していきたいと
考えています。




2015/02/13

『武士道』をめぐる書評エピソード

1899年、新渡戸稲造博士は、アメリカで『Bushido(武士道)』を
英語で出版しました。
のちに多言語で翻訳出版され、世界中で今日でも販売されている
世界的なロングセラーです。

この書籍については、その後、新渡戸博士の弟子、矢内原忠雄博士の
日本語訳が岩波書店から出版され、その後も数々の訳書や解説書の
刊行が続いています。当時も多くの書評が発表になりました。

太田愛人様が、ご著書『『武士道』を読む 新渡戸稲造と「敗者」の精神史』
の中で、新渡戸博士自身の最も意にかなった書評として、
台湾でのエピソードを書かれていますので、その一部を抜粋し紹介します。

「床間の武士道」という批判(同書 p.168)
(当時、台湾総督府の土木事業責任者に長尾半平(1865年〜1935年)氏がいた。
 クリスチャンの長尾は、これを機会に新渡戸との交際が始まる。
 長尾が台湾に在任中、植村正久が台湾伝道のため訪れたので、
 長尾は、後藤、新渡戸に植村を紹介するため席を準備した。)

その座談は、民政長官後藤新平、同夫人の招待で長官邸でおこなわれた。

新渡戸稲造
「自分は日本の『武士道』を書いたが、之に対して、英文と邦文の批評が
 たくさんあった。けれどもその中で植村先生の批評こそ、最も自分の意を
 得たものである」。(中略)
「その中にこんな事が書いてありました。
 西洋人のところへ客に行くと、ここはあなたの寝室、ここは居室、
 ここは台所と皆家中の座敷を示して自由にお使いなさいという。
 ところが、日本人のところに行くと、床間以外に客に来られては
 困る。それと同様に新渡戸君の武士道は床間付きの部屋を外国人に
 紹介したものだ」。

植村正久
「どうです。日本の台所も書いては」。

後藤新平
「一体、表より裏のいいのは羽織よりないですね」。

といって、一座大笑におちた。

(『植村正久と其の時代』第一巻)
富士見町教会の月報『路之光』に掲載





2015/02/12

展示「日本統治期の台湾」

2015年2月10日(火)日比谷図書文化館(東京都千代田区)4階 特別研究室
内田嘉吉文庫が伝える「日本統治期の台湾」

内田嘉吉(1866年〜1933年)は、新渡戸と同年代で、
時期は少し異なりますが、台湾総督府民政長官および総督を歴任しました。
新渡戸博士との関わりなどについて、過去の記事は、こちら

このたび、内田嘉吉文庫(日比谷図書文化館4階)にて開催中の
「日本統治期の台湾」を訪問しました。

特別研究室企画展の案内

当時の台湾を知る貴重な蔵書が展示され、自由に閲覧することができます。

内田嘉吉文庫内の展示



台湾総督官邸(左)と民政長官官邸(右)
『台湾拓殖書帖』大正7年1月発行より


児玉総督 後藤民政長官 記念博物館
『児玉総督 後藤民政長官 記念博物館 写真帖』1915年より

台湾総督時代の児玉総督(右)と後藤民政長官
『児玉藤園将軍』より

児玉総督と後藤民政長官は、長期にわたり台湾の発展に貢献したことにより
台湾でも恩人として慕われ、二人を顕彰して記念博物館建立が計画されました。

現在(2015年3月)の記念博物館(国立台湾博物館)については、こちらへ。

新渡戸稲造博士は、『武士道』執筆後、児玉総督と後藤長官の二人の依頼を受け、
1901年から1903年、農学の専門家として台湾の糖業発展に尽くしました。

新渡戸博士は、また、のちの内田民政長官の著書の序文を著しています。



この展示は、3月15日(日)まで。
千代田区立日比谷図書文化館のホームページは、こちら

2015/02/09

映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」

2015年2月8日(日)

2014年、台湾で空前の大ヒットを記録した映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』を
見ました。
KANO(カノ)とは、台湾の嘉義(かぎ)農林高校のこと。
日本統治時代の台湾で、一勝もしたことがなかった野球部が、ついに、
台湾全島の代表校になり、甲子園で旋風を巻き起こす感動物語。
実話に基づいたストーリーで、当時、台湾で東洋最大のダム建築を実現した
八田與一(はったよいち)氏も登場します。
八田氏は、台湾の教科書でも掲載されているそうで、台湾ではよく知られた
日本人の一人です。
八田技師についての記事は、こちら

当時の台湾の様子、日本人と台湾の人々との交流など、
新渡戸博士が台湾で農業専門家として後藤新平民政長官に呼ばれて
尽力した期間(1901年〜1903年)より、少し後の時代になりますが、
大変興味深く、統治時代の一端を垣間みることができました。

180分(3時間)の長編ですが、あっという間の、オススメ映画です!

映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』公式サイトは、こちら
http://kano1931.com

偶然ですが、来月、嘉義や八田記念公園を訪問する予定です。

2015/01/16

「愛の家」(東京都豊島区)

2015年1月6日(火曜日)
少し荒れ気味のお天気の中、太田愛人様と池袋でお目にかかりました。
太田様は、「愛の家」の理事長でいらっしゃいます。

社会福祉法人「愛の家」(東京都豊島区)は、池袋から西武池袋線ですぐの
東長崎駅近くにて、「母子生活支援施設愛の家ファミリーホーム」、
「愛の家保育園」を運営しています。

「愛の家」は、1923(大正12)年の関東大震災の後、
三人の女性有志によって、始まりました。その一人が、
新渡戸稲造博士の養女、新渡戸コトさんです(加藤武子様のお母様)。

太田様ご所蔵の資料によりますと、
財政的な援助については、新渡戸稲造博士のご縁を通じて、
渋沢栄一氏のご尽力によるものが大きかったようです。
そのほか、財閥の各団体や皇室からの下賜金など、
多くの方々の善意により、現在まで実に90年以上も運営を継続しています。

以下、『続々 社会事業に生きた女性たち』(太田氏所蔵)から引用

〈 たとえば、宮内省からの御下賜金は、(昭和)12年から19年まで
 続いたが、それは、宮内省に新渡戸稲造の知人(書生の兄)がいて、
 その人のはからいであったというように(太田愛人談)、
 秀れた人脈に囲まれていたからであったろう。
 それでもお金の苦労は絶えなかった。
 「ただ、ただ、お金をいただきに歩いたものです」と、現理事長
 新渡戸コトは、現寮長に語っている。「渋沢さんのところへは、
 よく行きました」とも。そこには、万感の想いが込められている。〉

同書 p.45〜46より

資料によると、新渡戸コトさんは、「愛の家」創始後まもなくご病気に
なり、その後、国際連盟(スイス・ジュネーブ)事務次長に在任中の
新渡戸博士と共にジュネーブに暮らし、一時「愛の家」を離れましたが、
帰国後、理事や理事長を歴任。「愛の家 五十年史」(1973年)の冒頭には、
理事長として序文が掲載されています。

なお、「愛の家」発起人の三人は、
煙山八重、塚原ハマ、新渡戸コト(新渡戸稲造の養女/新渡戸稲造の姉の孫)、
さらに、顧問の一人、羽仁もと子(自由学園創始者、煙山八重の師)は、
盛岡ゆかりの女性たちでした。

参考資料(すべて太田愛人様所蔵):
「愛の家 五十年史」
『天に宝を積んだ人びと 明治キリスト者の気骨』太田愛人/著
(キリスト新聞社 2005年)
『続々 社会事業に生きた女性たちーーーその生涯としごと』
五味百合子/編著 (ドメス出版 1985年)
そのほか、「愛の家保育園」案内書など

当日、久しぶりにお会いした太田様は、午前中、「愛の家」の
大切な行事に理事長としてご出席。面接などもされた後、
三時間もの間、たくさんのお話をお聞かせくださいました。
「田園生活」を大切にされている太田様のお元気ぶりには、
いつも驚かされます。

ご多用の中、本当にありがとうございました。






2014/12/30

月刊誌「東京人」

2014年12月
月刊誌「東京人」の巻頭記事寄稿のご依頼をいただき、
新渡戸博士に関連することを少し書きました。
版元の都市出版様の許可をいただきましたので、
表紙と記事のページを掲載いたします。

2015年1月号「東京人」
特集は、「東京駅とまちの100年」



巻頭記事「時空を超えて出会う。」


挿絵の新渡戸博士がかわいらしい・・・
また、プロフィールでこのブログ「新渡戸稲造博士の足跡を訪ねて」も
ご紹介いただきました。

編集長の高橋様、副編集長の田中様には大変お世話になりました。
貴重な機会をいただきまして、ありがとうございました。

2014/12/20

番組再放送のお知らせ

以前に番組制作に協力させていただきました、
岩手めんこいテレビ様の二番組の再放送が決まり、
ご案内をいただきましたので、紹介いたします。

スーツを着たサムライ~新渡戸稲造「武士道」伝説~


岩手めんこいテレビ 12日(木)午前600

ジュネーヴの星 

石川テレビ(石川県)1222日(月)深夜045
テレビ西日本(福岡県)1224日(水)深夜245
テレビ大分(大分県)1225日(木)午後500
鹿児島テレビ(鹿児島県)1227日(土)深夜135

めんこいテレビ(岩手県)1228日(日)午後445

2014/12/15

特別シンポジウム「第一次世界大戦と現代世界の誕生」

2014年12月12日(金)
午後1時〜5時30分
国際文化会館(東京・六本木)岩崎小彌太記念ホール

特別シンポジウム「第一次世界大戦と現代世界の誕生」
主催:公益財団法人 国際文化会館
   公益財団法人 サントリー文化財団
   公益財団法人 渋沢栄一記念財団
   
新渡戸博士とも関係の深い国際文化会館でおこなわれた、
特別シンポジウムを聴講しました。
2014年は、第一次世界大戦の勃発から百年。
日本から遠いヨーロッパの地で起こった戦争でしたが、
世界全体が大きく揺れ動き、また日本のその後にも大きな影響を
与えました。
1919年、新渡戸博士は、後藤新平伯に誘われ、第一次世界大戦の
後を視察にヨーロッパを訪問しています。
そして、そのまま国際連盟の事務次長に抜擢されることになります。

今回のシンポでは、二人の基調講演に続き、三人の先生による報告、
そして、全員参加のパネルディスカッションと、大変興味深い内容でした。

基調講演1
「第一次世界大戦が今日に与える教訓」
 デイビッド・A・ウェルチ(ウォータルー大学)

基調講演2
「刻印された歴史意識:長い20世紀と第一次世界大戦」
 中西 寛(京都大学)

「第一次世界大戦は日本に何をもたらしたか」
 井上 寿一(学習院大学)

「日本・ドイツと第一次世界大戦におけるアジア太平洋」
 岩間 陽子(政策研究大学院大学)

「第一次世界大戦は不可避だったか 東アジアの将来への教訓」
 細谷 雄一(慶應義塾大学)

総括 五百旗頭 真(熊本県立大学)

それぞれの視点からの第一次世界大戦の分析、そして、今日までの
影響や教訓まで、とても勉強になる内容でした。

上記の中、学習院大学の井上寿一学長のご講演で、
主に、新渡戸博士がジュネーブで活躍した第一次世界大戦後の
国際政治と日本、そして、新渡戸博士が設立に関わった世界で初めての
国際平和組織「国際連盟(現在の国際連合)」についてのお話が
ありました。(井上先生のレジュメから抜粋)

【第一次世界大戦は日本になにをもたらしたのか】

ヨーロッパで起こった「欧州動乱」は日本に波及、日本の体制を変革した。
この戦争の後、日本の軍事費はピーク時から半減し、国際連盟の原加盟国・
常任理事国となり、「平和とデモクラシー」の時代が到来する。

I パリ講和会議
A 講和会議の諸問題
  旧ドイツ権益/国際連盟/人種平等条項
  (日本は「個別利益の確保」「普遍的な価値の受容」の均衡保持に努めた)
B 4人の「国際会議屋」
  石井菊次郎(国際連盟日本代表)/安達峰一郎(常設国際司法裁判所所長) 
  佐藤尚武(国際連盟帝国事務局長)/杉村陽太郎(国際連盟事務次長)
  (筆者注:杉村は、新渡戸の後任)
C 国際協調の精神
  少数民族問題/常設国際司法裁判所/軍縮

1920年代の日本の国際協調外交は、うまく機能していたが、海外で活躍した
「国際会議屋」たちは、国内に政治的な基盤がなかった。

II 政党政治
A 大正デモクラシー
B 東アジアの脱植民地化要求
C 国際労働機関(ILO)と労働者保護の社会政策
  (社会政策の立案をとおして、官僚と政党が結びつきながら台頭)

III 成金経済と大衆消費社会
A 大衆消費社会の光と影
B 反動不況から長期経済停滞へ

IV 新しい国の〈かたち〉
  皇太子訪欧(1921年3月〜9月)
  新しい時代の新しい皇太子像(背広姿、立憲君主)

おわりに
A 国際協調外交の限界
B 二大政党制の問題
C 大衆消費社会

以上。

新渡戸稲造博士がその設立に関わり、事務次長として尽力した、
国際連盟。
新渡戸博士は、在任中に一時帰国して、日本国内で平和主義と
国際連盟の精神の普及のため、数多くの講演をおこなったが、
難しかった。日本では、第一次世界大戦の戦争認識は浅く、
共有認識されなかったことが、後の大きな問題として残った。

共通の認識基盤を持ち損ねた日本

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五百旗頭先生は、「第一次世界大戦後の講和会議のまずさ」を指摘。
敗戦国ドイツに厳しすぎたことが、ヨーロッパの新しい出発を妨げ、
ヒットラー台頭を招いてしまったと解説。

私は、第二次世界大戦後のサンフランシスコ平和会議で、
スリランカのジャヤワルデナ大統領(当時は蔵相)が、
敗戦国日本に対し、寛容を示すスピーチをされたこと、
その後の日本が平和に復興できたことに思いを馳せました。

最後に、五百旗頭先生の「有利な立場の側が自制し、相手に自制を
強いることが、平和につながる」というコメントが印象的でした。

1914年のヨーロッパと2014年現在のアジア。
「相手の状況を考え、追いつめない」など、多くの教訓が
現在に活かせることを実感できたように思います。