1899年、新渡戸稲造博士は、アメリカで『Bushido(武士道)』を
英語で出版しました。
のちに多言語で翻訳出版され、世界中で今日でも販売されている
世界的なロングセラーです。
この書籍については、その後、新渡戸博士の弟子、矢内原忠雄博士の
日本語訳が岩波書店から出版され、その後も数々の訳書や解説書の
刊行が続いています。当時も多くの書評が発表になりました。
太田愛人様が、ご著書『『武士道』を読む 新渡戸稲造と「敗者」の精神史』
の中で、新渡戸博士自身の最も意にかなった書評として、
台湾でのエピソードを書かれていますので、その一部を抜粋し紹介します。
「床間の武士道」という批判(同書 p.168)
(当時、台湾総督府の土木事業責任者に長尾半平(1865年〜1935年)氏がいた。
クリスチャンの長尾は、これを機会に新渡戸との交際が始まる。
長尾が台湾に在任中、植村正久が台湾伝道のため訪れたので、
長尾は、後藤、新渡戸に植村を紹介するため席を準備した。)
その座談は、民政長官後藤新平、同夫人の招待で長官邸でおこなわれた。
新渡戸稲造
「自分は日本の『武士道』を書いたが、之に対して、英文と邦文の批評が
たくさんあった。けれどもその中で植村先生の批評こそ、最も自分の意を
得たものである」。(中略)
「その中にこんな事が書いてありました。
西洋人のところへ客に行くと、ここはあなたの寝室、ここは居室、
ここは台所と皆家中の座敷を示して自由にお使いなさいという。
ところが、日本人のところに行くと、床間以外に客に来られては
困る。それと同様に新渡戸君の武士道は床間付きの部屋を外国人に
紹介したものだ」。
植村正久
「どうです。日本の台所も書いては」。
後藤新平
「一体、表より裏のいいのは羽織よりないですね」。
といって、一座大笑におちた。
(『植村正久と其の時代』第一巻)
富士見町教会の月報『路之光』に掲載