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2015/04/02

台湾 八田輿一技師と恩師の広井勇博士

2015年3月10日 八田輿一(はった よいち)記念公園(台湾)

台南の奇美博物館をあとにして、
八田輿一記念公園(台南市官田区)に向かいました。


八田輿一技師(1886年〜1942年)は、日本が台湾を統治していた時代
(1895年〜1945年の50年間)、台湾の発展に貢献した日本人の一人。

八田輿一夫妻

八田輿一技師は、東京帝国大学工学科土木科を卒業すると同時に
台湾に渡り、台湾総督府の土木技師として勤務されました。
当時の台湾は、現在のようなインフラが整備されていない時代でした。
数々の水利事業を手がけた八田技師は、後に烏山頭(うざんとう)ダムの
建設地点となる土地を発見します。
ここに大規模な灌漑/排水工事をおこない、灌漑/塩害の問題を解決する
ことを提案。工事が決まると、業務全般の責任者となりました。

この堰堤工事は、当時、東洋一の大規模なもので、官僚によって
計画されましたが、施行/運営は、民間形式が取られ、
八田技師は、建設工事に専念するため、総督府の職員を辞任しました。
それだけ真摯にこの事業にかける強い思いがあったのです。

堰堤の建造は、「セミ・ハイドロック工法」により、コンクリートを
中芯部の一部に使うだけで、大部分は、玉石、砂利などを混合した
土壌を使用するなど、特別な工法によるものでした。

途中、関東大震災による補助金の削減など、大変な苦労を乗り越え、
見事なダムが完成し、現在に続く、農業の発展につながったのです。

現在も美しく広大な貯水湖(2015年3月10日 撮影)
十年の歳月と巨額の工事費(当時の約五千四百万円)をかけて、1930(昭和5)年、
大規模な烏山頭ダム(通称:八田ダム)の貯水湖が完成しました。

ほかに建設された同時代の大規模ダムが、土砂の堆積で使えなくなっている中、
この貯水湖は、砂防対策が取られていたため、現在も、豊かな水量を保って
いるのだそうです。
烏山頭ダムの建設で、嘉南平原は台湾最大の穀倉地帯になりました。

やがて戦争が始まり、八田技師は、大洋丸に乗船中の1942(昭和17)年
5月8日、アメリカの潜水艦に撃沈され、亡くなりました。
57歳でした。

遺骸は、付近で操業中だった山口県からの漁船の網にかかり収容され、
故郷で火葬された後、遺骨は、台湾に残されていた遺族の元に送られました。

戦争が激化すると、夫人の外代樹さんは烏山頭を疎開地に選んで、
子どもたちと疎開。
敗戦後、台湾の日本人は台湾から去らなければならなくなり、
ご子息が学徒動員から戻ると、夫人は、夫が築いた烏山頭ダムの
送水口から身を投げて、自らの生涯を閉じたのです。45歳でした。


送水口
現在、送水口の近くに「八田技師記念室」があり、展示によって、
その功績が紹介されています。



八田技師の銅像が、記念公園内の高台にあります。
ダム完成後、1931(昭和6)年7月に設置されました。
第二次世界大戦の末期に、金属回収されましたが、終戦直後、
倉庫で発見され、1981(昭和56)年1月1日、再び元の位置に戻されました。

八田輿一技師の銅像と八田夫妻のお墓(後方)



八田技師が亡くなった命日には追悼式、そして、
この大事業がおこなわれた十年間に事故や病気で命を落とした
従業員やその家族の慰霊祭が、いまでもおこなわれているそうです。

記念公園内では、八田宅(復元)も公開されています。




八田技師の家族写真


八田技師は、広井勇博士の教え子の一人です。
広井勇博士(1962年〜1928年)は、
新渡戸稲造博士と札幌農学校で同期生、同じ歳です。
幼い時に父が亡くなり、その後、「東京に出て勉強したい」と
わずか10歳で家族に懇願、札幌農学校を卒業すると、
私費でアメリカに留学するなど、新渡戸博士と境遇が似ています。

新渡戸と広井の両博士は、アメリカ留学中に、先輩 佐藤昌介の計らいで、
札幌農学校の助教に任命され、ドイツへ官費留学しています。
アメリカでもドイツでも交流は続き、新渡戸稲造青年が、
アメリカ人女性メアリーとの結婚に悩み相談した時、
広井は、佐伯理一郎とともに、その国際結婚に賛成しています。
新渡戸博士は農学、広井博士は工学の専門家になり、
留学後は、母校 札幌農学校の教育にも尽力しました。

広井勇博士は、小樽港の築港に従事し、いまでも使われている
長大なコンクリート製の防波堤を完成させました。

その後、東京帝国大学の教授になり、八田輿一、
青山士(あおやまあきら=パナマ運河建設に関わった唯一の日本人技師)ら
優秀な人材を育てました。

学生時代の八田輿一と当時の東京帝国大学工学部(展示資料より)

「高潔無私」の人、広井勇。その愛弟子、八田技師もまた、
人々のためにその生涯を捧げたのです。

尚、八田輿一技師は、映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」にも
登場しています。映画についての記事は、こちらへ。

参考:
八田記念公園配布資料/展示
『日本のオールターナティブ』藤田正一 著 (銀の鈴社 2013年)
『新渡戸稲造事典』佐藤全弘・藤井茂 共著 (教文館 2013年)
『新渡戸稲造ものがたり』 (銀の鈴社 2012 年)



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