飯島正久様のお宅を訪問して、お話を伺いました。
飯島様は、1921(大正10)年のお生まれ。
長年、キリスト教の伝道者として活動されていらっしゃいました。
1975(昭和50)年、八ヶ岳南麓大泉町に転居され、週末に、
横浜の港キリスト教会(単立)に通われていましたが、現在では、大泉町で
聖書研究と著作活動に専念されています。
飯島様は、『武士道』(新渡戸稲造・著)を日本語に翻訳され、
教会の会報誌「家庭の聖書月刊誌・牧歌」に連載(1990年3月号〜1992年6月号)。
その内容を、キリスト教関係者以外の一般読者にもわかりやすいよう手を入れて
一冊の本としてまとめて、出版されました。
(月刊「牧歌」の発行は、500回を数え、400〜500人の読者がいらしたそうです)
『武士道 【日本人の魂】』
新渡戸稲造・著 飯島正久・訳/解説
築地書館 1998年10月1日
このたび、ご縁をいただき、飯島様のお嫁さんにあたる飯島恵美子様のご厚意で、
訪問の機会に恵まれました。
飯島様は、北海道の帯広在住時、弁護士だった父親の勧めで、札幌に移り、
遠友夜学校(新渡戸稲造夫妻が創立)で、およそ1年半ほど学ばれたそうです。
キリスト教の伝道者になった理由は、
慶応大学経済学部卒業後、商社丸紅に就職が決まっていたそうですが、
太平洋戦争の学徒出陣で、多くの学友を失い、
(フィリピンへの輸送船が撃沈され、268名中、たまたま帰省許可が出ていた
自分ともう一人の2名のみが難を逃れた)
とても普通に会社勤めをする気持ちになれなかったからです。
飯島正久 様 |
飯島様は、内村鑑三門下の山本泰次郎氏を恩師とされ、尊敬していらっしゃいました。
また、ご自身の伯母様から、新渡戸博士直筆サイン入りの英語の『武士道』を
贈られています。
以下、飯島様の本の「訳者まえがき」の冒頭を引用します。
「私の手元に百七十ページ余りの小さな英語の本がある。一九一五年(大正四年)に
日本で発行された古い本だか、私にとっては、大切な蔵書の一つである。
著者は新渡戸稲造といい、題名は、BUSHIDO(武士道)、なお副題として
THE SOUL OF JAPAN(日本の魂)とある。この本の扉には、新渡戸稲造の
雄渾な英文のサインがあり、一九九〇年一月二日にこの世を去った私の伯母、
飯島さと(旧姓上野)にあてて、「from her school uncle 一九一六年 東京」とある。
新渡戸稲造にかわいがっていただいた若き日の伯母が愛蔵し、後にその伯母から
直接私に贈られたものである。」
(『武士道 【日本人の魂】』p.1より)
飯島様の伯母さと様は、津田塾大学を卒業され、のちには、同校の教師もされていた
そうです。「from her school uncle」という新渡戸博士の表現に、津田塾と博士の関係が
よく表れています。
「アンクル・ニトベ(Uncle Nitobe)女子英学塾(津田塾大学)
一九〇〇(明治三十三)年、稲造がアメリカで『武士道』を出版した年の夏、
津田梅子は、東京に女子英学塾(津田塾大学)を設立しました。
もともと女子教育に深い関心があった稲造は、アナ・C・ハーツホーンたちと
ともに女子英学塾の理事になりました。稲造は、女子英学塾の学生のために、
武士道や日米関係などについての講演を長年にわたりおこないました。
分厚い眼鏡の奥で、やさしくいたずらっぽくほほえむ稲造を、学生たちは、
親しみをこめて「Uncle Nitobe(新渡戸おじさん)」と呼びました。
(『新渡戸稲造ものがたり』p.113より)
直筆サイン入りのご著書をいただいていることからは、伯母様が、新渡戸博士に
大変かわいがられていらしたと想像できます。
飯島様の『武士道 【日本人の魂】』は、翻訳のみならず、随所に飯島様の
解説が入り、とても理解しやすい内容になっています。
また、飯島様は、ご出版まもなく、新渡戸博士のお孫様(加藤武子様と思われます)
にお目にかかる機会があり、
「一番(原文に)忠実に訳していただいて」と喜んでいただいた、
と話されていました。
このたび、飯島正久様と恵美子様には、貴重なお話を伺うことができ、
後ろ髪を引かれる思いで、お宅を後にしました。
晴天の八ヶ岳が美しく、青空の青色、新緑の緑がまぶしく輝いていました。
飯島様、ご紹介いただきました山本様ご夫妻に感謝申し上げます。
左から 飯島恵美子様 飯島正久様 筆者 |