・・・ 2011年5月31日〜6月2日十和田・盛岡、2011年7月10日〜13日札幌、2011年8月2日〜6日ジュネーブ(スイス)、2011年9月5日〜6日軽井沢、2011年11月10日〜12日札幌、2012年1月14日〜15日盛岡・新花巻、2013年4月20日下田、2013年7月アメリカ(ボストン、ボルティモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)、カナダ(バンクーバー、ビクトリア)、2015年3月台湾、2015年7-8月チューリッヒ(スイス)/ロンドン(英国)、2015年10月花巻・盛岡、そのほか鎌倉・東京・京都・下田・沼津・松山など ・・・

2013/10/31

田中舘愛橘博士 南部藩出身のもう一人の偉人

2013年10月20日(日)13:00〜 国際文化会館(東京・六本木)401室
田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)研究会

田中舘愛橘博士の令曾孫、松浦明会長と新渡戸基金の藤井茂事務局長の
対談を聴かせていただきました。
松浦様は、田中舘博士と約14年間、生活を共にされています。
日本航空協会ホームページに掲載されている松浦様の記事は、こちら

田中舘愛橘博士(1856年〜1952年)は、現在の岩手県二戸市の出身で、
世界的に活躍した地球物理学者。
東京帝国大学教授、帝国学士院会員、文化勲章受章者。
地震研究の先駆者であり、日本の航空学の祖、日本式ローマ字の考案者としても
知られています。

田中舘愛橘研究会会誌 2013年8月第3号 没後60年記念号
田中舘博士は、南部盛岡藩の藩校で学んだ後、
新渡戸博士も学んだ東京の共慣義塾に入学しています。

今回の対談では、藤井氏が、田中舘博士と新渡戸博士の関わりを中心に紹介
してくださいました。
同郷の田中舘と新渡戸は、子どものころ、郷里を離れた東京で出会っています。

「私は新渡戸博士とは同郷でありまして、子どものときから同窓であります。
 明治七年ごろであります。英語学校という所に通いまして・・・
 国訛りのずーずーで、気がねなくものを言う・・・お互い晩年に至るまで
 二人顔を合わせますとずーずー丸出しでしゃべった」
 (『実業之日本』昭和九年十一月号)上記、田中舘愛橘研究会会報誌p234より

新渡戸博士は、9歳になるころ、親元を離れて上京していますが、言葉に訛りが
あることで少なからず肩身の狭い思いをしていたようすを後年書いています。
同郷の友人たちとのずーずー弁での会話はさぞ心許すひとときだったことでしょう。

その後、別の道を歩んだ二人でしたが、およそ30年ぶりに再会。
新渡戸博士は、田中舘博士らが始めた「ローマ字ひろめ会」で講演をしたり、
新渡戸が一高(旧制第一高等学校)の校長時代、その校庭で、
田中舘博士(東京大学理学部教授)らは、グライダーの試験飛行をおこなっています。

新渡戸博士は、「国内で有名になるだけで満足せず、広く世界を見て、なにごとも
判断しなければならない」といつも説いていました。彼は、
世界の医学界で知られていた北里柴三郎、
物理学では、世界的に高名な田中舘愛橘を、高く評価していたのです。

1927(昭和2)年2月、南部同郷会は、「新渡戸博士歓迎・田中舘博士送別」の会を
開いています。新渡戸は、国際連盟事務次長の任期を終えて帰国、一方、田中舘は、
これからジュネーブに出発して、国際連盟の知的協力委員会(新渡戸が、キュリー
夫人やアインシュタインらをメンバーに発足、現在のユネスコの前身)の委員に
就任しました。

二人は、新渡戸博士が亡くなる1933年の春、最後の再会をしたと思われる記録が
残っています。藤井氏は、「この二人の巨人は、まさに心友(心の友)であった」
と話されました。

この日の会では、お茶の先生でいらっしゃる松浦夫人がお弟子さんと共に、
一人一人にお茶を立ててくださいました。台風の余波で雨模様だったこの日、
お茶碗も持参され、朝4時からお菓子職人が作った特注の和菓子も大変おいしく
心温まるひとときでした。

松浦様ご夫妻、藤井様、そして研究会の皆様に心より御礼申し上げます。
 




0 件のコメント:

コメントを投稿